有島武郎 或る女⑲

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問題文

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(ようこのめはどきをふくんでてすりからしばらくのあいだかのわかものをみすえていた。わかものは)

葉子の目は怒気を含んで手欄からしばらくの間かの若者を見据えていた。若者は

(きょうきのようにりょうてをひろげてふねにかけよろうとするのを、きんじょにいあわせた)

狂気のように両手を広げて船に駆け寄ろうとするのを、近所に居合わせた

(さんよにんのひとがあわててひきとめる、それをまたすりぬけようとしてくみふせ)

三四人の人があわてて引き留める、それをまたすり抜けようとして組み伏せ

(られてしまった。わかものはくみふせられたままひだりのうでをくちにあてがっておもいきり)

られてしまった。若者は組み伏せられたまま左の腕を口にあてがって思いきり

(かみしばりながらなきしずんだ。そのうしのうめきごえのようななきごえが)

かみしばりながら泣き沈んだ。その牛のうめき声のような泣き声が

(けうとくふねのうえまできこえてきた。みおくりにんはおもわずなりをしずめてこの)

気疎(けうと)く船の上まで聞こえて来た。見送り人は思わず鳴りを静めてこの

(きょうぼうなわかものにめをそそいだ。ようこもようこで、すがたもかくさずてすりにかたてをかけたまま)

狂暴な若者に目を注いだ。葉子も葉子で、姿も隠さず手欄に片手をかけたまま

(つったって、おなじくこのわかものをみすえていた。といってようこはそのわかもののうえ)

突っ立って、同じくこの若者を見据えていた。といって葉子はその若者の上

(ばかりをおもっているのではなかった。じぶんでもふしぎだとおもうような、うつろな)

ばかりを思っているのではなかった。自分でも不思議だと思うような、うつろな

(よゆうがそこにはあった。ことうがわかもののほうにはめもくれずにじっとあしもとを)

余裕がそこにはあった。古藤が若者のほうには目もくれずにじっと足もとを

(みつめているのにもきがついていた。しんだあねのはれぎをかりぎしていいここちに)

見つめているのにも気が付いていた。死んだ姉の晴れ着を借り着していい心地に

(なっているようなおばのすがたもめにうつっていた。ふねのほうにうしろをむけて)

なっているような叔母の姿も目に映っていた。船のほうに後ろを向けて

((おそらくそれはかなしみからばかりではなかったろう。そのわかもののきょどうがおいた)

(おそらくそれは悲しみからばかりではなかったろう。その若者の挙動が老いた

(こころをひしいだにちがいない)てぬぐいをしっかりとりょうめにあてているうばも)

心をひしいだに違いない)手ぬぐいをしっかりと両眼にあてている乳母も

(みのがしてはいなかった。いつのまにうごいたともなくふねはさんばしからとおざかって)

見のがしてはいなかった。いつのまに動いたともなく船は桟橋から遠ざかって

(いた。ひとのむれがくろありのようにあつまったそこのこうけいは、ようこのめのまえにひらけて)

いた。人の群れが黒蟻のように集まったそこの光景は、葉子の目の前にひらけて

(いくおおきなみなとのけしきのちゅうけいになるまでにちいさくなっていった。ようこのめは)

行く大きな港の景色の中景になるまでに小さくなって行った。葉子の目は

(ようこじしんにもうたがわれるようなことをしていた。そのめはちいさくなったひとかげのなかから)

葉子自身にも疑われるような事をしていた。その目は小さくなった人影の中から

(うばのすがたをさぐりだそうとせず、いっしゅのなつかしみをもつよこはまのしがいをみおさめに)

乳母の姿を探り出そうとせず、一種のなつかしみを持つ横浜の市街を見納めに

(ながめようとせず、ぎょうぜんとしてちいさくうずくまるわかもののらしいこくてんをみつめて)

ながめようとせず、凝然として小さくうずくまる若者のらしい黒点を見つめて

など

(いた。わかもののさけぶこえが、さんばしのうえでうちふるはんけちのときどきぎらぎらとひかる)

いた。若者の叫ぶ声が、桟橋の上で打ち振るハンケチの時々ぎらぎらと光る

(ごとに、ようこのあたまのうえにはりわたされたあめよけのほぬののはしから)

ごとに、葉子の頭の上に張り渡された雨よけの帆布(ほぬの)の端から

(したたりがぽつりぽつりとようこのあたまをうつたびに、だんぞくして)

余滴(したたり)がぽつりぽつりと葉子の頭を打つたびに、断続して

(きこえてくるようにおもわれた。「ようこさん、あなたはわたしを)

聞こえて来るようにおもわれた。「葉子さん、あなたはわたしを

(みごろしにするんですか・・・みごろしにするん・・・」)

見殺しにするんですか・・・見殺しにするん・・・」

(じゅうはじめてのたびきゃくもものなれたたびきゃくも、ばつびょうしたばかりのふねのかんぱんに)

【一〇】 始めての旅客も物慣れた旅客も、抜錨したばかりの船の甲板に

(たっては、おちついたこころでいることができないようだった。あとしまつのためにせわしく)

立っては、落ち付いた心でいる事ができないようだった。跡始末のために忙しく

(うおうさおうするせんいんのじゃまになりながら、なにがなしのこうふんにじっとしてはいられ)

右往左往する船員の邪魔になりながら、何がなしの興奮にじっとしてはいられ

(ないようなかおつきをして、じょうきゃくはひとりのこらずかんぱんにあつまって、いままでじぶんたちが)

ないような顔つきをして、乗客は一人残らず甲板に集まって、今まで自分たちが

(そばちかくみていたさんばしのほうにめをむけていた。ようこもそのようすだけでいうと、)

そば近く見ていた桟橋のほうに目を向けていた。葉子もその様子だけでいうと、

(ほかのじょうきゃくとおなじようにみえた。ようこはほかのじょうきゃくとおなじようにてすりにより)

他の乗客と同じように見えた。葉子は他の乗客と同じように手欄により

(かかって、しずかなはるさめのようにふっているあめのしずくにかおをなぶらせながら、)

かかって、静かな春雨のように降っている雨のしずくに顔をなぶらせながら、

(はとばのほうをながめていたが、けれどもそのひとみにはなんにもうつっては)

波止場のほうをながめていたが、けれどもそのひとみにはなんにも映っては

(いなかった。そのかわりめとのうとのあいだとおぼしいあたりを、したしいひとやうといひとが、)

いなかった。その代わり目と脳との間と覚しいあたりを、親しい人や疎い人が、

(なにかわけもなくせわしそうにあらわれでて、めいめいいちばんふかいいんしょうをあたえるような)

何かわけもなくせわしそうに現われ出て、銘々いちばん深い印象を与えるような

(どうさをしてはきえていった。ようこのちかくははんぶんねむったようにぼんやりしてちゅうい)

動作をしては消えて行った。葉子の知覚は半分眠ったようにぼんやりして注意

(するともなくそのすがたにちゅういをしていた。そしてこのはんすいのじょうたいがやぶれでもしたら)

するともなくその姿に注意をしていた。そしてこの半睡の状態が破れでもしたら

(たいへんなことになると、こころのどこかのすみではかんがえていた。そのくせ、それを)

たいへんな事になると、心のどこかのすみでは考えていた。そのくせ、それを

(ものものしくおそれるでもなかった。からだまでがかんかくてきにしびれるようなものうさを)

物々しく恐れるでもなかった。からだまでが感覚的にしびれるような物うさを

(おぼえた。わかものがあらわれた。(どうしてあのおとこはそれほどのいんねんもないのに)

覚えた。若者が現われた。(どうしてあの男はそれほどの因縁もないのに

(しゅうねくつきまつわるのだろうとようこはひとごとの)

執念(しゅうね)く付きまつわるのだろうと葉子は他人事(ひとごと)の

(ようにおもった)そのみだれたうつくしいかみのけが、ゆうひとかがやくまぶしいひかりのなかで、)

ように思った)その乱れた美しい髪の毛が、夕日とかがやくまぶしい光の中で、

(ぶろんどのようにきらめいた。かみしめたそのひだりのうでからちがぽたぽたと)

ブロンドのようにきらめいた。かみしめたその左の腕から血がぽたぽたと

(したたっていた。そのしたたりがうでからはなれてちゅうにとぶごとに、にじいろにきらきら)

したたっていた。そのしたたりが腕から離れて宙に飛ぶごとに、虹色にきらきら

(とともえをえがいてとびおどった。「・・・わたしをみすてるん・・・」)

と巴を描いて飛び跳(おど)った。「・・・わたしを見捨てるん・・・」

(ようこはそのこえをまざまざときいたとおもったとき、めがさめたようにふっと)

葉子はその声をまざまざと聞いたと思った時、目がさめたようにふっと

(あらためてみなとをみわたした。そして、なんのかんじもおこさないうちに、じゅくすいから)

あらためて港を見渡した。そして、なんの感じも起こさないうちに、熟睡から

(ちょっとおどろかされたあかごが、またたわいなくねむりにおちていくように、ふたたび)

ちょっと驚かされた赤児が、またたわいなく眠りに落ちて行くように、再び

(ゆめともうつつともないこころにかえっていった。みなとのけしきはいつのまにかきえて)

夢ともうつつともない心に返って行った。港の景色はいつのまにか消えて

(しまって、じぶんでじぶんのうでにしがみついたわかもののすがたが、まざまざとあらわれでた。)

しまって、自分で自分の腕にしがみついた若者の姿が、まざまざと現われ出た。

(ようこはそれをみながらどうしてこんなへんなこころもちになるのだろう。ちのせいと)

葉子はそれを見ながらどうしてこんな変な心持ちになるのだろう。血のせいと

(でもいうのだろうか。ことによるとひすてりーにかかっているのではないかしらん)

でもいうのだろうか。事によるとヒステリーにかかっているのではないかしらん

(などとのんきにじぶんのみのうえをかんがえていた。いわばゆうゆうかんかんとすみわたったみずの)

などとのんきに自分の身の上を考えていた。いわば悠々閑々と澄み渡った水の

(となりに、うすがみひとえのさかいもおかず、たぎりかえってうずまきながれるみずがある。ようこのこころは)

隣に、薄紙一重の界も置かず、たぎり返って渦巻き流れる水がある。葉子の心は

(そのしずかなほうのみずにうかびながら、たきがわのなかにもまれもまれておちていくじぶんと)

その静かなほうの水に浮びながら、滝川の中にもまれもまれて落ちて行く自分と

(いうものをひとごとのようにながめやっているようなものだった。)

いうものを他人事(ひとごと)のようにながめやっているようなものだった。

(ようこはじぶんのれいたんさにあきれながら、それでもやっぱりおどろきもせず、てすりに)

葉子は自分の冷淡さにあきれながら、それでもやっぱり驚きもせず、手欄に

(よりかかってじっとたっていた。「たがわほうがくはかせ」ようこはまたふといたずらもの)

よりかかってじっと立っていた。「田川法学博士」葉子はまたふといたずら者

(らしくこんなことをおもっていた。が、たがわふさいがじぶんとはんたいのげんのとういすに)

らしくこんなことを思っていた。が、田川夫妻が自分と反対の舷の籐椅子に

(こしかけて、せじせじしくちかよってくるどうせんしゃとなにかじょうだんぐち)

腰かけて、世辞世辞しく近寄って来る同船者と何か戯談口(じょうだんぐち)

(でもきいているとひとりできめると、あんしんでもしたようにげんそうはまたかのわかものに)

でもきいているとひとりで決めると、安心でもしたように幻想はまたかの若者に

(かえっていった。ようこはふとみぎのかたにあたたかみをおぼえるようにおもった。そこには)

かえって行った。葉子はふと右の肩に暖かみを覚えるように思った。そこには

(わかもののあついなみだがしみこんでいるのだ。ようこはむゆうびょうしゃのようなめつきをして、)

若者の熱い涙が浸み込んでいるのだ。葉子は夢遊病者のような目つきをして、

(ややあたまをうしろにひきながらかたのところをみようとすると、そのしゅんかん、わかものをふねから)

やや頭を後ろに引きながら肩の所を見ようとすると、その瞬間、若者を船から

(さんばしにつれだしたせんいんのことがはっとおもいだされて、いままでめしいていた)

桟橋に連れ出した船員の事がはっと思い出されて、今まで盲(めし)いていた

(ようなめに、まざまざとそのおおきなくろいかおがうつった。ようこはなおゆめみるような)

ような目に、まざまざとその大きな黒い顔が映った。葉子はなお夢みるような

(めをみひらいたまま、せんいんのこいまゆからくろいくちひげのあたりをみまもっていた。)

目を見開いたまま、船員の濃い眉から黒い口髭のあたりを見守っていた。

(ふねはもうかなりそくりょくをはやめて、きりのようにふるともなくふるあめのなかをはしって)

船はもうかなり速力を早めて、霧のように降るともなく降る雨の中を走って

(いた。げんそくからはきだされるすてみずのおとがざあざあときこえだしたので、とおい)

いた。舷側から吐き出される捨て水の音がざあざあと聞こえ出したので、遠い

(げんそうのくにからいっそくとびにとってかえしたようこは、ゆめではなく、まがいもなくめの)

幻想の国から一足飛びに取って返した葉子は、夢ではなく、まがいもなく目の

(まえにたっているせんいんをみて、なんということなしにぎょっとほんとうにおどろいて)

前に立っている船員を見て、なんという事なしにぎょっとほんとうに驚いて

(たちすくんだ。はじめてあだむをみたいヴのようにようこはまじまじとめずらしくもない)

立ちすくんだ。始めてアダムを見たイヴのように葉子はまじまじと珍しくもない

(はずのひとりのおとこをみやった。「ずいぶんながいたびですが、なに、もうこれだけにほんが)

はずの一人の男を見やった。「ずいぶん長い旅ですが、何、もうこれだけ日本が

(とおくなりましたんだ」といってそのせんいんはみぎてをのべてきょりゅうちのはなをゆびさした。)

遠くなりましたんだ」といってその船員は右手を延べて居留地の鼻を指さした。

(がっしりしたかたをゆすって、いきおいよくすいへいにのばしたそのうでからは、つよくはげしく)

がっしりした肩をゆすって、勢よく水平に延ばしたその腕からは、強くはげしく

(かいじょうにいきるおとこのちからがほとばしった。ようこはだまったままかるくうなずいた、むねの)

海上に生きる男の力がほとばしった。葉子は黙ったまま軽くうなずいた、胸の

(したのところにふしぎなにくたいてきなしょうどうをかすかにかんじながら。「おひとりですな」)

下の所に不思議な肉体的な衝動をかすかに感じながら。「お一人ですな」

(しおがれたつよいこえがまたこうひびいた。ようこはまただまったままかるくうなずいた。)

塩がれた強い声がまたこう響いた。葉子はまた黙ったまま軽くうなずいた。

(ふねはやがてのりたてのせんきゃくのあしもとにかすかなふあんをあたえるほどにそくりょくをはやめて)

船はやがて乗りたての船客の足もとにかすかな不安を与えるほどに速力を早めて

(はしりだした。ようこはせんいんからめをうつしてうみのほうをみわたしてみたが、じぶんの)

走り出した。葉子は船員から目を移して海のほうを見渡して見たが、自分の

(そばにひとりのおとこがたっているという、つよいいしきからおこってくるふあんは)

そばに一人の男が立っているという、強い意識から起こってくる不安は

(どうしてもけすことができなかった。ようこにしてはそれはふしぎなけいけんだった。)

どうしても消す事ができなかった。葉子にしてはそれは不思議な経験だった。

(こっちからなにかものをいいかけて、このくるしいあっぱくをうちやぶろうとおもってもそれが)

こっちから何か物をいいかけて、この苦しい圧迫を打ち破ろうと思ってもそれが

(できなかった。いまなにかものをいったらきっとひどいふしぜんなもののいいかたになるに)

できなかった。今何か物をいったらきっとひどい不自然な物のいいかたになるに

(きまっている。そうかといってそのせんいんにはむとんじゃくにもういちど)

決まっている。そうかといってその船員には無頓着(むとんじゃく)にもう一度

(まえのようなげんそうにみをまかせようとしてもだめだった。しんけいがきゅうにざわざわと)

前のような幻想に身を任せようとしてもだめだった。神経が急にざわざわと

(さわぎたって、ぼーっとけぶったきりさめのかなたさえみとおせそうにめが)

騒ぎ立って、ぼーっと煙(けぶ)った霧雨のかなたさえ見とおせそうに目が

(はっきりして、さきほどのおっかぶさるようなあんしゅうは、いつのまにかはかない)

はっきりして、先ほどのおっかぶさるような暗愁は、いつのまにかはかない

(できごころのしわざとしかかんがえられなかった。)

出来心のしわざとしか考えられなかった。

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