有島武郎 或る女㉓

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(それにしても、あたらしいきょういくをうけ、あたらしいしそうをこのみ、せじにうといだけに、)

それにしても、新しい教育を受け、新しい思想を好み、世事にうといだけに、

(よのなかのしゅうぞくからもとびはなれてじゆうでありげにみえることうさえが、ようこがいま)

世の中の習俗からも飛び離れて自由でありげに見える古藤さえが、葉子が今

(たっているがけのきわからさきには、ようこがあしをふみだすのをにくみおそれるようすを)

立っている崕のきわから先には、葉子が足を踏み出すのを憎み恐れる様子を

(あきらかにみせているのだ。けっこんというものがひとりのおんなにとって、どれほどせいかつと)

明らかに見せているのだ。結婚というものが一人の女に取って、どれほど生活と

(いうじっさいもんだいとむすびつき、おんながどれほどそのそくばくのもとになやんでいるかをかんがえて)

いう実際問題と結び付き、女がどれほどその束縛の下に悩んでいるかを考えて

(みることさえしようとはしないのだ。そうようこはおもってもみた。これからいこうと)

みる事さえしようとはしないのだ。そう葉子は思ってもみた。これから行こうと

(するべいこくというとちのせいかつもようこはひとりでいろいろとそうぞうしないではいられな)

する米国という土地の生活も葉子はひとりでいろいろと想像しないではいられな

(かった。べいこくのひとたちはどんなふうにじぶんをむかえいれようとはするだろう。)

かった。米国の人たちはどんなふうに自分を迎え入れようとはするだろう。

(とにかくいままでのせまいなやましいかことえんをきって、なんのかかわりもないしゃかいのなかに)

とにかく今までの狭い悩ましい過去と縁を切って、何の関りもない社会の中に

(のりこむのはおもしろい。わふくよりもはるかにようふくにてきしたようこは、そこの)

乗り込むのはおもしろい。和服よりもはるかに洋服に適した葉子は、そこの

(こうさいしゃかいでもふうぞくではべいこくじんをわらわせないことができる。かんらくでもあいしょうでも)

交際社会でも風ぞくでは米国人を笑わせない事ができる。歓楽でも哀傷でも

(しっくりとじっせいかつのなかにおりこまれているようなせいかつがそこにはあるにちがい)

しっくりと実生活の中に織り込まれているような生活がそこにはあるに違い

(ない。おんなのちゃーむというものが、しゅうかんてきなきずなからときはなされて、そのちからだけに)

ない。女のチャームというものが、習慣的な絆から解き放されて、その力だけに

(はたらくことのできるせいかつがそこにはあるにちがいない。さいのうとりきりょうさえあればおんなでも)

働く事のできる生活がそこにはあるに違いない。才能と力量さえあれば女でも

(おとこのてをかりずにじぶんをまわりのひとにみとめさすことのできるせいかつがそこにはあるに)

男の手を借りずに自分をまわりの人に認めさす事のできる生活がそこにはあるに

(ちがいない。おんなでもむねをはってぞんぶんこきゅうのできるせいかつがそこにはあるにちがいない。)

違いない。女でも胸を張って存分呼吸のできる生活がそこにはあるに違いない。

(すくなくともこうさいしゃかいのどこかではそんなせいかつがおんなにゆるされているにちがいない。)

少なくとも交際社会のどこかではそんな生活が女に許されているに違いない。

(ようこはそんなことをくうそうするとむずむずするほどかいかつになった。そんなこころもちで)

葉子はそんな事を空想するとむずむずするほど快活になった。そんな心持ちで

(ことうのことばなどをかんがえてみると、まるでろうじんのくりごとのようにしかみえな)

古藤の言葉などを考えてみると、まるで老人の繰り言のようにしか見えな

(かった。ようこはながいもくそうのなかからいきいきとたちあがった。そして)

かった。葉子は長い黙想の中から活々(いきいき)と立ち上がった。そして

など

(けしょうをすますためにかがみのほうにちかづいた。きむらをおっととするのになんのくったくが)

化粧をすますために鏡のほうに近づいた。木村を良人とするのに何の屈託が

(あろう。きむらがじぶんのおっとであるのは、じぶんがきむらのつまであるというほどにかるい)

あろう。木村が自分の良人であるのは、自分が木村の妻であるというほどに軽い

(ことだ。きむらというかめん・・・ようこはかがみをみながらそうおもってほほえんだ。)

事だ。木村という仮面・・・葉子は鏡を見ながらそう思ってほほえんだ。

(そしてみだれかかるひたいぎわのかみを、ふりあおいでうしろになでつけたり、りょうほうのびんを)

そして乱れかかる額ぎわの髪を、振り仰いで後ろになでつけたり、両方の鬢を

(きようにかきあげたりして、りょうこうがさいくものでもするようにたのしみながらげんきよく)

器用にかき上げたりして、良工が細工物でもするように楽しみながら元気よく

(あさげしょうをおえた。ぬれたてぬぐいで、かがみにちかづけためのまわりのおしろいをぬぐい)

朝化粧を終えた。ぬれた手ぬぐいで、鏡に近づけた目のまわりの白粉をぬぐい

(おわると、くちびるをひらいてうつくしくそろったはなみをながめ、りょうほうのてのゆびをつぼの)

終わると、口びるを開いて美しくそろった歯並みをながめ、両方の手の指を壺の

(くちのようにひとところにあつめてつめのそうじがいきとどいているかたしかめた。みかえるとふねに)

口のように一所に集めて爪の掃除が行き届いているか確かめた。見返ると船に

(のるとききてきたひとえのじみなきものは、よすてびとのようにだらりとさびしくへやの)

乗る時着て来た単衣のじみな着物は、世捨て人のようにだらりと寂しく部屋の

(すみのぼうしかけにかかったままになっていた。ようこははでなあわせをとらんくのなか)

すみの帽子かけにかかったままになっていた。葉子は派手な袷をトランクの中

(からとりだしてねまきときかえながら、それにめをやると、かたに)

から取り出して寝衣(ねまき)と着かえながら、それに目をやると、肩に

(しっかりとしがみついて、なきおめいたかのきょうきじみたわかもののことを)

しっかりとしがみ付いて、泣きおめいた彼(か)の狂気じみた若者の事を

(おもった。と、すぐそのそばからわかものをこわきにかかえたじむちょうのすがたがおもい)

思った。と、すぐそのそばから若者を小わきにかかえた事務長の姿が思い

(だされた。こさめのなかを、がいとうもきずに、こにもつでもはこんでいったようにわかものを)

出された。小雨の中を、外套も着ずに、小荷物でも運んで行ったように若者を

(さんばしのうえにおろして、ちょっといそがわじょしにあいさつしてふねからなげたつなにすがるや)

桟橋の上におろして、ちょっと五十川女史に挨拶して船から投げた綱にすがるや

(いなや、しずかにきしからはなれてゆくふねのかんぱんのうえにかるがるとあがってきたそのすがたが、)

否や、静かに岸から離れてゆく船の甲板の上に軽々と上がって来たその姿が、

(ようこのこころをくすぐるようにたのしませておもいだされた。よるはいつのまにか)

葉子の心をくすぐるように楽しませて思い出された。夜はいつのまにか

(あけはなれていた。めまどのそとはもとのままにはいいろはしているが、いきいきとしたひかりが)

明け離れていた。眼窓の外は元のままに灰色はしているが、活々とした光が

(そいくわわって、かんぱんのうえをまいあさきそくただしくさんぽするはくはつのべいじんとそのむすめとの)

添い加わって、甲板の上を毎朝規則正しく散歩する白髪の米人とその娘との

(あしおとがこつこつかいかつらしくきこえていた。けしょうをすましたようこはながいすに)

足音がこつこつ快活らしく聞こえていた。化粧をすました葉子は長椅子に

(ゆっくりこしをかけて、りょうあしをまっすぐにそろえてながながとのばしたまま、)

ゆっくり腰をかけて、両足をまっすぐにそろえて長々と延ばしたまま、

(うっとりとおもうともなくじむちょうのことをおもっていた。そのときとつぜんのっくをして)

うっとりと思うともなく事務長の事を思っていた。その時突然ノックをして

(ぼーいがこーひーをもってはいってきた。ようこはなにかわるいところでもみつけられた)

ボーイがコーヒーを持ってはいって来た。葉子は何か悪い所でも見つけられた

(ようにちょっとぎょっとして、のばしていたあしのひざをたてた。ぼーいはいつもの)

ようにちょっとぎょっとして、延ばしていた足の膝を立てた。ボーイはいつもの

(ようにうすわらいをしてちょっとあたまをさげてぎんいろのぼんをたたみいすのうえにおいた。そして)

ように薄笑いをしてちょっと頭を下げて銀色の盆を畳椅子の上においた。そして

(きょうもしょくじはやはりせんしつにはこぼうかとたずねた。「こんばんからはしょくどうにして)

きょうも食事はやはり船室に運ぼうかと尋ねた。「今晩からは食堂にして

(ください」ようこはうれしいことでもいってきかせるようにこういった。ぼーいは)

ください」葉子はうれしい事でもいって聞かせるようにこういった。ボーイは

(まじめくさって「はい」といったが、ちらりとようこをうわめでみて、いそぐように)

まじめくさって「はい」といったが、ちらりと葉子を上目で見て、急ぐように

(へやをでた。ようこはぼーいがへやをでてどんなふうをしているかがはっきり)

部屋を出た。葉子はボーイが部屋を出てどんなふうをしているかがはっきり

(みえるようだった。ぼーいはすぐににこにことふしぎなわらいをもらしながら)

見えるようだった。ボーイはすぐににこにこと不思議な笑いをもらしながら

(けーく・うぉーくのあしつきでしょくどうのほうにかえっていったにちがいない。)

ケーク・ウォークの足つきで食堂のほうに帰って行ったに違いない。

(ほどもなく、「え、いよいよごらいごう?」「きたね」というようなやひなことばが、)

ほどもなく、「え、いよいよ御来迎?」「来たね」というような野卑な言葉が、

(ぼーいらしいけいはくなちょうしでこわだかにとりかわされるのをようこはきいた。ようこは)

ボーイらしい軽薄な調子で声高に取りかわされるのを葉子は聞いた。葉子は

(そんなことをみみにしながらやはりじむちょうのことをおもっていた。「みっかもしょくどうにでない)

そんな事を耳にしながらやはり事務長の事を思っていた。「三日も食堂に出ない

(でとじこもっているのに、なんというじむちょうだろう、いっぺんもみまいにこない)

で閉じこもっているのに、なんという事務長だろう、一ぺんも見舞いに来ない

(とはあんまりひどい」こんなことをおもっていた。そしてそのいっぽうではえんもゆかりも)

とはあんまりひどい」こんな事を思っていた。そしてその一方では縁もゆかりも

(ないうまのようにただがんじょうなひとりのおとこがなんでこうおもいだされるのだろうとおもって)

ない馬のようにただ頑丈な一人の男がなんでこう思い出されるのだろうと思って

(いた。ようこはかるいためいきをついてなにげなくたちあがった。そしてまたながいすに)

いた。葉子は軽いため息をついて何げなく立ち上がった。そしてまた長椅子に

(こしかけるときにはたなのうえからじむちょうのめいしをもってきてながめていた。)

腰かける時には棚の上から事務長の名刺を持って来てながめていた。

(「にっぽんゆうせんがいしゃえじままるじむちょうくんろくとうくらちさんきち」とみんちょうではっきりかいてある。)

「日本郵船会社絵島丸事務長勲六等倉地三吉」と明朝ではっきり書いてある。

(ようこはかたてでこーひーをすすりながら、めいしをうらがえしてそのうらをながめた。)

葉子は片手でコーヒーをすすりながら、名刺を裏返してその裏をながめた。

(そしてまっしろなそのうらになにかもんくでもかいであるかのように、にじゅうになるゆたかな)

そしてまっ白なその裏に何か文句でも書いであるかのように、二重になる豊かな

(あごをえりのあいだにおとして、すこしまゆをひそめながら、ながいあいだまじろぎもせず)

顎を襟の間に落として、少し眉をひそめながら、長い間まじろぎもせず

(みつめていた。)

見つめていた。

(じゅうにそのひのゆうがた、ようこはふねにきてからはじめてしょくどうにでた。きものは)

【一二】 その日の夕方、葉子は船に来てから始めて食堂に出た。着物は

(おもいきってじみなくすんだのをえらんだけれども、かおだけはぞんぶんにわかくつくって)

思いきって地味なくすんだのを選んだけれども、顔だけは存分に若くつくって

(いた。はたちをこすやこさずにみえる、めのおおきな、しずんだひょうじょうの)

いた。二十(はたち)を越すや越さずに見える、目の大きな、沈んだ表情の

(かのじょのえりのあいねずみは、なんとなくみるひとのこころをいたくさせた。ほそながいしょくたくのいったんに、)

彼女の襟の藍鼠は、なんとなく見る人の心を痛くさせた。細長い食卓の一端に、

(かっぷ・ぼーどをうしろにしてざをしめたじむちょうのみぎてにはたがわふじんがいて、)

カップ・ボードを後ろにして座を占めた事務長の右手には田川夫人がいて、

(そのむかいがたがわはかせ、ようこのせきははかせのすぐとなりにとってあった。そのほかの)

その向かいが田川博士、葉子の席は博士のすぐ隣に取ってあった。そのほかの

(せんきゃくもたいがいはすでにたくにむかっていた。ようこのあしおとがきこえると、いちはやく)

船客も大概はすでに卓に向かっていた。葉子の足音が聞こえると、いち早く

(めくばせをしあったのはぼーいなかまで、そのつぎにひどくおちつかぬようすを)

目くばせをし合ったのはボーイ仲間で、その次にひどく落ち付かぬ様子を

(しだしたのはじむちょうとむかいあってしょくたくのほかのいったんにいたひげのしろいあめりかじんの)

し出したのは事務長と向かい合って食卓の他の一端にいた鬚の白いアメリカ人の

(せんちょうであった。あわててせきをたって、みぎてになぷきんをさげながら、じぶんのまえを)

船長であった。あわてて席を立って、右手にナプキンを下げながら、自分の前を

(ようこにとおらせて、かおをまっかにしてざにかえった。ようこはしとやかにひとびとの)

葉子に通らせて、顔をまっ赤にして座に返った。葉子はしとやかに人々の

(ものずきらしいしせんをうけながしながら、ぐるっとしょくたくをまわってじぶんの)

物数奇(ものずき)らしい視線を受け流しながら、ぐるっと食卓を回って自分の

(せきまでいくと、たがわはかせはぬすむようにふじんのかおをちょっとうかがっておいて、)

席まで行くと、田川博士はぬすむように夫人の顔をちょっとうかがっておいて、

(ふとったからだをよけるようにしてようこをじぶんのとなりにすわらせた。)

肥ったからだをよけるようにして葉子を自分の隣にすわらせた。

(すわりずまいをただしているあいだ、たくさんのちゅうしのなかにも、ようこはたがわふじんの)

すわりずまいをただしている間、たくさんの注視の中にも、葉子は田川夫人の

(つめたいひとみのひかりをあびているのをここちわるいほどにかんじた。やがてきちんと)

冷たいひとみの光を浴びているのを心地悪いほどに感じた。やがてきちんと

(つつましくしょうめんをむいてこしかけて、なぷきんをとりあげながら、まずだいいちに)

つつましく正面を向いて腰かけて、ナプキンを取り上げながら、まず第一に

(たがわふじんのほうにめをやってそっとあいさつすると、いままでのかどかどしいめにも)

田川夫人のほうに目をやってそっと挨拶すると、今までの角々しい目にも

(さすがにもうしわけほどのえみをみせて、ふじんがなにかいおうとしたしゅんかん、そのとき)

さすがに申しわけほどの笑みを見せて、夫人が何かいおうとした瞬間、その時

(までぎごちなくはなしをとぎらしていたたがわはかせもじむちょうのほうをむいてなにかいおう)

までぎごちなく話を途切らしていた田川博士も事務長のほうを向いて何かいおう

(としたところであったので、りょうほうのことばがきまずくぶつかりあって、ふうふは)

としたところであったので、両方の言葉が気まずくぶつかりあって、夫婦は

(おもわずどうじにかおをみあわせた。いちざのひとびとも、にほんじんといわずがいこくじんといわず、)

思わず同時に顔を見合わせた。一座の人々も、日本人といわず外国人といわず、

(ようこにあつめていたひとみをたがわふさいのほうにむけた。「しつれい」といってひかえた)

葉子に集めていたひとみを田川夫妻のほうに向けた。「失礼」といってひかえた

(はかせにふじんはちょっとあたまをさげておいて、みんなにきこえるほどはっきりすんだ)

博士に夫人はちょっと頭を下げておいて、みんなに聞こえるほどはっきり澄んだ

(こえで、「とんとしょくどうにおいでがなかったので、おあんじもうしましたの、ふねには)

声で、「とんと食堂においでがなかったので、お案じ申しましたの、船には

(おこまりですか」といった。さすがによなれてさいばしったそのことばは、ひとのうえに)

お困りですか」といった。さすがに世慣れて才走ったその言葉は、人の上に

(たちつけたおもみをみせた。ようこはにこやかにだまってうなずきながら、くらいをいちだん)

立ちつけた重みを見せた。葉子はにこやかに黙ってうなずきながら、位を一段

(おとしてえしゃくするのをそうふかいにはおもわぬくらいだった。)

落として会釈するのをそう不快には思わぬくらいだった。

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