有島武郎 或る女㉘
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問題文
(えいびんなうまのひふのようにだちだちとふるえるせいねんのかたにおぶいかかりながら、)
鋭敏な馬の皮膚のようにだちだちと震える青年の肩におぶいかかりながら、
(ようこはくろいおおきなじむちょうのうしろすがたをあだかたきでもあるかのようにするどくみつめて)
葉子は黒い大きな事務長の後ろ姿を仇かたきでもあるかのように鋭く見つめて
(そろそろとあるいた。せいようしゅのほうじゅんなあまいさけのかおりが、まだよいからさめきらない)
そろそろと歩いた。西洋酒の芳醇な甘い酒の香が、まだ酔いからさめきらない
(じむちょうのみのまわりをどくどくしいもやとなってとりまいていた。ほうじゅうというじむちょうの)
事務長の身のまわりを毒々しい靄となって取り巻いていた。放縦という事務長の
(しんのぞうは、いまぶようじんにひらかれている。あのむとんじゃく)
心(しん)の臓は、今不用心に開かれている。あの無頓着(むとんじゃく)
(そうなかたのゆすりのかげにすさまじいdesireのひがはげしくもえているはず)
そうな肩のゆすりの陰にすさまじいdesireの火が激しく燃えているはず
(である。ようこはきんだんのきのみをはじめてくいかいだげんじんのようなかつよくをわれにも)
である。葉子は禁断の木の実を始めてくいかいだ原人のような渇欲をわれにも
(なくあおりたてて、じむちょうのこころのうらをひっくりかえしてぬいめをみきわめようと)
なくあおりたてて、事務長の心の裏をひっくり返して縫い目を見窮めようと
(ばかりしていた。おまけにせいねんのかたにおいたようこのては、きゃしゃとはいいながら、)
ばかりしていた。おまけに青年の肩に置いた葉子の手は、華車とはいいながら、
(だんせいてきなつよいだんりょくをもつきんにくのふるえをまざまざとかんずるので、これらのふたりの)
男性的な強い弾力を持つ筋肉の震えをまざまざと感ずるので、これらの二人の
(おとこがあたえるきかいなしげきはほしいままにからまりあって、おそろしいこころをようこに)
男が与える奇怪な刺激はほしいままにからまりあって、恐ろしい心を葉子に
(おこさせた。きむら・・・なにをうるさい、よけいなことはいわずとだまってみているが)
起こさせた。木村・・・何をうるさい、よけいな事はいわずと黙って見ているが
(いい。こころのなかをひらめきすぎるだんぺんてきなかげをようこはかれはのようにはらいのけ)
いい。心の中をひらめき過ぎる断片的な影を葉子は枯れ葉のように払いのけ
(ながら、めのまえにみるこわくにおぼれていこうとのみした。くちからのどは)
ながら、目の前に見る蠱惑(こわく)におぼれて行こうとのみした。口から喉は
(あえぎたいほどにひからびて、おかのかたにのせたては、せいりてきなさようからつめたく)
あえぎたいほどにひからびて、岡の肩に乗せた手は、生理的な作用から冷たく
(かたくなっていた。そしてねつをこめてうるんだめをみはって、じむちょうのうしろすがた)
堅くなっていた。そして熱をこめてうるんだ目を見張って、事務長の後ろ姿
(ばかりをみつめながら、ごたいはふらふらとたわいもなくおかのほうによりそった。)
ばかりを見つめながら、五体はふらふらとたわいもなく岡のほうによりそった。
(はきだすいきはもえたっておかのよこがおをなでた。じむちょうはゆだんなくかくとうで)
吐き出す気息(いき)は燃え立って岡の横顔をなでた。事務長は油断なく角燈で
(さゆうをてらしながらかんぱんのせいとんにきをくばってあるいている。ようこはいたわるように)
左右を照らしながら甲板の整頓に気を配って歩いている。葉子はいたわるように
(おかのみみにくちをよせて、「あなたはどちらまで」ときいてみた。そのこえはいつもの)
岡の耳に口をよせて、「あなたはどちらまで」と聞いてみた。その声はいつもの
(ようにすんではいなかった。そしてきをゆるしたおんなからばかりきかれるような)
ように澄んではいなかった。そして気を許した女からばかり聞かれるような
(あまたるいしたしさがこもっていた。おかのかたはかんげきのためにひとしお)
甘たるい親しさがこもっていた。岡の肩は感激のために一入(ひとしお)
(ふるえた。とみにはへんじもしえないでいたようだったが、やがておくびょう)
震えた。頓(とみ)には返事もし得ないでいたようだったが、やがて臆病
(そうに、「あなたは」とだけききかえして、ねっしんにようこのへんじをまつらしかった。)
そうに、「あなたは」とだけ聞き返して、熱心に葉子の返事を待つらしかった。
(「しかごまでまいるつもりですの」「ぼくも・・・わたしもそうです」おかは)
「シカゴまで参るつもりですの」「僕も・・・わたしもそうです」岡は
(まちもうけたようにこえをふるわしながらきっぱりとこたえた。「しかごのだいがくにでも)
待ち設けたように声を震わしながらきっぱりと答えた。「シカゴの大学にでも
(いらっしゃいますの」おかはひじょうにあわてたようだった。なんとへんじをしたものか)
いらっしゃいますの」岡は非常にあわてたようだった。なんと返事をしたものか
(おそろしくためらうふうだったが、やがてあいまいにくちのなかで、「ええ」とだけ)
恐ろしくためらうふうだったが、やがてあいまいに口の中で、「ええ」とだけ
(つぶやいてだまってしまった。そのおぼこさ・・・ようこはやみのなかでめを)
つぶやいて黙ってしまった。そのおぼこさ・・・葉子は闇の中で目を
(かがやかしてほほえんだ。そしておかをあわれんだ。しかしせいねんをあわれむと)
かがやかしてほほえんだ。そして岡をあわれんだ。しかし青年をあわれむと
(どうじにようこのめはいなずまのようにじむちょうのうしろすがたをななめにかすめた。せいねんを)
同時に葉子の目は稲妻のように事務長の後ろ姿を斜めにかすめた。青年を
(あわれむじぶんはじむちょうにあわれまれているのではないか。しじゅういっぽずつうわてを)
あわれむ自分は事務長にあわれまれているのではないか。始終一歩ずつ上手を
(いくようなじむちょうがいっしゅのにくしみをもってながめやられた。かつてあじわったことの)
行くような事務長が一種の憎しみをもってながめやられた。かつて味わった事の
(ないこのにくしみのこころをようこはどうすることもできなかった。ふたりにわかれてじぶんの)
ないこの憎しみの心を葉子はどうする事もできなかった。二人に別れて自分の
(せんしつにかえったようこはほとんどdeliriumのじょうたいにあった。)
船室に帰った葉子はほとんどdeliriumの状態にあった。
(ひとみはおおきくひらいたままで、もうもくどうようにへやのなかのものをみることを)
眼睛(ひとみ)は大きく開いたままで、盲目同様に部屋の中の物を見る事を
(しなかった。ひえきったてさきはおどおどとりょうのたもとをつかんだりはなしたりして)
しなかった。冷え切った手先はおどおどと両の袂をつかんだり離したりして
(いた。ようこはむちゅうでしょーるとぼあとをかなぐりすて、もどかしげにおびだけ)
いた。葉子は夢中でショールとボアとをかなぐり捨て、もどかしげに帯だけ
(ほどくと、かみもとかずにしんだいのうえにたおれかかって、よこになったままはねまくらを)
ほどくと、髪も解かずに寝台の上に倒れかかって、横になったまま羽根枕を
(りょうてでひしとだいてかおをふせた。なぜとしらぬなみだがそのときせきをきったようにながれ)
両手でひしと抱いて顔を伏せた。なぜと知らぬ涙がその時堰を切ったように流れ
(だした。そしてなみだはあとからあとからみなぎるようにしーつをうるおし)
出した。そして涙はあとからあとからみなぎるようにシーツを湿(うるお)し
(ながら、じゅうけつしたくちびるはおそろしいわらいをたたえてわなわなとふるえていた。)
ながら、充血した口びるは恐ろしい笑いをたたえてわなわなと震えていた。
(いちじかんほどそうしているうちになきつかれにつかれて、ようこはかけるものもかけずに)
一時間ほどそうしているうちに泣き疲れに疲れて、葉子はかけるものもかけずに
(そのままふかいねむりにおちいっていった。けばけばしいでんとうのひかりはそのよくじつのあさまで)
そのまま深い眠りに陥って行った。けばけばしい電燈の光はその翌日の朝まで
(このなまめかしくもふしだらなようこのまるねすがたをかいたようにてらしていた。)
このなまめかしくもふしだらな葉子の丸寝姿を画いたように照らしていた。
(じゅうよんなんといってもふなたびはたんちょうだった。たといひびよよにいっしゅんも)
【一四】 なんといっても船旅は単調だった。たとい日々夜々に一瞬も
(やむことなくすがたをかえるうみのなみとそらのくもとはあっても、しじんでもないなべての)
やむ事なく姿を変える海の波と空の雲とはあっても、詩人でもないなべての
(せんきゃくは、それらにたいしてとほうにくれたけんたいのしせんをなげるばかりだった。ちじょうの)
船客は、それらに対して途方に暮れた倦怠の視線を投げるばかりだった。地上の
(せいかつからすっかりしゃだんされたふねのなかには、ごくちいさなことでもめあたらしいじけんの)
生活からすっかり遮断された船の中には、ごく小さな事でも目新しい事件の
(おこることのみがまちもうけられていた。そうしたせいかつではようこがしぜんにせんきゃくの)
起こる事のみが待ち設けられていた。そうした生活では葉子が自然に船客の
(ちゅういのしょうてんとなり、わだいのていきょうしゃとなったのはふしぎもない。まいにちまいにちこおりつく)
注意の焦点となり、話題の提供者となったのは不思議もない。毎日毎日凍りつく
(ようなのうむのあいだを、ひがしへひがしへとこころぼそくはしりつづけるちいさなきせんのなかのしゃかいは、)
ような濃霧の間を、東へ東へと心細く走り続ける小さな汽船の中の社会は、
(あらわにはしれないながら、なにかさびしいかこをもつらしい、ようえんな、わかいようこ)
あらわには知れないながら、何かさびしい過去を持つらしい、妖艶な、若い葉子
(のいっきょいちどうを、たえずきょうみぶかくじっとみまもるようにみえた。かのきかいなこころの)
の一挙一動を、絶えず興味深くじっと見守るように見えた。かの奇怪な心の
(どうらんのいちやをすごすと、そのよくじつからようこはまたふだんのとおりに、いかにも)
動乱の一夜を過ごすと、その翌日から葉子はまたふだんのとおりに、いかにも
(あしもとがあやうくみえながらすこしもはたんをしめさず、ややもすればたにんのかってに)
足もとがあやうく見えながら少しも破綻を示さず、ややもすれば他人の勝手に
(なりそうでいて、よそからはけっしてうごかされないおんなになっていた。はじめてしょくどうに)
なりそうでいて、よそからは決して動かされない女になっていた。始めて食堂に
(でたときのつつましやかさにひきかえて、ときにはかいかつなしょうじょのようにはれやかな)
出た時のつつましやかさに引きかえて、時には快活な少女のように晴れやかな
(かおつきをして、せんきゃくらとことばをかわしたりした。しょくどうにあらわれるときのようこのふくそう)
顔つきをして、船客らと言葉をかわしたりした。食堂に現われる時の葉子の服装
(だけでも、たいくつにうんじはてたひとびとには、ものずきなきたいをあたえた。)
だけでも、退屈に倦(うん)じ果てた人々には、物好きな期待を与えた。
(あるときはようこはつつしみぶかいしんそうのふじんらしくじょうひんに、あるときはそようのふかいわかい)
ある時は葉子は慎み深い深窓の婦人らしく上品に、ある時は素養の深い若い
(でぃれったんとのようにこうしょうに、またあるときはしゅうぞくからかいほうされた)
ディレッタントのように高尚に、またある時は習俗から解放された
(adventuressともおもわれるほうたんをしめした。そのきょくたんなへんかがいちにちの)
adventuressとも思われる放胆を示した。その極端な変化が一日の
(なかにおこってきても、ひとびとはさしてあやしくおもわなかった。それほどようこの)
中に起こって来ても、人々はさして怪しく思わなかった。それほど葉子の
(せいかくにはふくざつなものがひそんでいるのをかんじさせた。えじままるがよこはまのさんばしに)
性格には複雑なものが潜んでいるのを感じさせた。絵島丸が横浜の桟橋に
(つながれているあいだから、ひとびとのちゅういのちゅうしんとなっていたたがわふじんを、かいきに)
つながれている間から、人々の注意の中心となっていた田川夫人を、海気に
(あっていきをふきかえしたにんぎょのようなようこのかたわらにおいてみると、みぶん、)
あって息気をふき返した人魚のような葉子のかたわらにおいて見ると、身分、
(えつれき、がくしょく、ねんれいなどといういかめしいしかくが、かえってふじんをかたいふるぼけた)
閲歴、学殖、年齢などといういかめしい資格が、かえって夫人を固い古ぼけた
(りんかくにはめこんでみせるけっかになって、ただしんたいのないくうきょなきゅうでんのような)
輪郭にはめこんで見せる結果になって、ただ神体のない空虚な宮殿のような
(そらいかめしいきょうなさをかんじさせるばかりだった。おんなのほんのうのするどさからたがわふじんは)
空いかめしい興なさを感じさせるばかりだった。女の本能の鋭さから田川夫人は
(すぐそれをかんづいたらしかった。ふじんのみみもとにひびいてくるのはようこのうわさ)
すぐそれを感づいたらしかった。夫人の耳元に響いてくるのは葉子のうわさ
(ばかりで、ふじんじしんのひょうばんはみるみるうすれていった。ともするとたがわはかせ)
ばかりで、夫人自身の評判は見る見る薄れて行った。ともすると田川博士
(までが、ふじんのそんざいをわすれたようなふるまいをする、そうふじんをおもわせることが)
までが、夫人の存在を忘れたような振る舞いをする、そう夫人を思わせる事が
(あるらしかった。しょくどうのたくをはさんでむかいあうふさいがたにんどうしのようなかおを)
あるらしかった。食堂の卓をはさんで向かい合う夫妻が他人同士のような顔を
(してたがいたがいにぬすみみをするのをようこがすばやくみてとったことなどもあった。)
して互い互いにぬすみ見をするのを葉子がすばやく見て取った事などもあった。
(といっていままでじぶんのこどもでもあしらうようにふるまっていたようこにたいして、)
といって今まで自分の子供でもあしらうように振る舞っていた葉子に対して、
(いまさらふじんはあらたまったたいどもとりかねていた。よくもかめんをかぶってひとをおとしいれた)
今さら夫人は改まった態度も取りかねていた。よくも仮面をかぶって人を陥れた
(というおんならしいひねくれたねたみひがみが、あきらかにふじんのひょうじょうによまれだした。)
という女らしいひねくれた妬みひがみが、明らかに夫人の表情に読まれ出した。
(しかしじっさいのしょちとしては、くやしくてもむしをころして、じぶんをようこまでひき)
しかし実際の処置としては、くやしくても虫を殺して、自分を葉子まで引き
(さげるか、ようこをじぶんまでひきあげるよりしかたがなかった。ふじんのようこに)
下げるか、葉子を自分まで引き上げるよりしかたがなかった。夫人の葉子に
(たいするしうちはといたをかえすようにちがってきた。ようこはしらんかおをしてふじんの)
対する仕打ちは戸板をかえすように違って来た。葉子は知らん顔をして夫人の
(するがままにまかせていた。ようこはもとよりふじんのあわてたこのしょちがふじんには)
するがままに任せていた。葉子はもとより夫人のあわてたこの処置が夫人には
(ちめいてきなふりえきであり、じぶんにはつごうのいいしあわせであるのをしっていた)
致命的な不利益であり、自分には都合のいい仕合せであるのを知っていた
(からだ。あんのじょう、たがわふじんのこのじょうほは、ふじんになんらかのどうじょうなりそんけいなり)
からだ。案のじょう、田川夫人のこの譲歩は、夫人に何らかの同情なり尊敬なり
(がくわえられるけっかとならなかったばかりでなく、そのせいりょくはますますくだりざかに)
が加えられる結果とならなかったばかりでなく、その勢力はますます下り坂に
(なって、ようこはいつのまにかたがわふじんとたいとうでものをいいあってもすこしも)
なって、葉子はいつのまにか田川夫人と対等で物をいい合っても少しも
(ふしぎとはおもわせないほどのたかみにじぶんをもちあげてしまっていた。)
不思議とは思わせないほどの高みに自分を持ち上げてしまっていた。
(おちめになったふじんはとしがいもなくしどろもどろになっていた。おそろしいほど)
落ち目になった夫人はとしがいもなくしどろもどろになっていた。恐ろしいほど
(やさしくしんせつにようこをあしらうかとおもえば、ひにくらしくばかていねいにものをいいかけ)
やさしく親切に葉子をあしらうかと思えば、皮肉らしくばか丁寧に物をいいかけ
(たり、あるいはとつぜんろぼうのひとにたいするようなよそよそしさをよそおってみせたり)
たり、あるいは突然路傍の人に対するようなよそよそしさを装って見せたり
(した。しにかけたへびののたうちまわるのをみやるへびつかいのように、ようこはひややかに)
した。死にかけた蛇ののたうち回るのを見やる蛇使いのように、葉子は冷やかに
(あざわらいながら、ふじんのこころのかっとうをみやっていた。)
あざ笑いながら、夫人の心の葛藤を見やっていた。