有島武郎 或る女㉚

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問題文

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(どうしてもしかしようこには、ふねにいるすべてのひとのなかでじむちょうがいちばんきに)

どうしてもしかし葉子には、船にいるすべての人の中で事務長がいちばん気に

(なった。そんなはず、りゆうのあるはずはないとじぶんをたしなめてみてもなんの)

なった。そんなはず、理由のあるはずはないと自分をたしなめてみてもなんの

(かいもなかった。さるんでこどもたちとたわむれているときでも、ようこはじぶんのして)

かいもなかった。サルンで子供たちと戯れている時でも、葉子は自分のして

(みせるこわくてきなしながいつでもあんあんりにじむちょうのために)

見せる蠱惑的な姿態(しな)がいつでも暗々裡(あんあんり)に事務長のために

(されているのをいしきしないわけにはいかなかった。じむちょうがそのばにいない)

されているのを意識しないわけには行かなかった。事務長がその場にいない

(ときは、こどもたちをあやしたのしませるねついさえうすらぐのをおぼえた。そんなときに)

時は、子供たちをあやし楽しませる熱意さえ薄らぐのを覚えた。そんな時に

(ちいさいひとたちはきまってつまらなそうなかおをしたりあくびをしたりした。ようこは)

小さい人たちはきまってつまらなそうな顔をしたりあくびをしたりした。葉子は

(そうしたようすをみるとさらにきょうみをうしなった。そしてそのままたってじぶんのへやに)

そうした様子を見るとさらに興味を失った。そしてそのまま立って自分の部屋に

(かえってしまうようなことをした。それにもかかわらずじむちょうはかつてようこにとくべつな)

帰ってしまうような事をした。それにも係わらず事務長はかつて葉子に特別な

(ちゅういをはらうようなことはないらしくみえた。それがようこをますますふかいにした。)

注意を払うような事はないらしく見えた。それが葉子をますます不快にした。

(よるなどかんぱんのうえをそぞろあるきしているようこが、たがわはかせのへやのなかかられいの)

夜など甲板の上をそぞろ歩きしている葉子が、田川博士の部屋の中から例の

(ぶえんりょなじむちょうのたかわらいのこえをもれきいたりなぞすると、おもわずかっとなって、)

無遠慮な事務長の高笑いの声をもれ聞いたりなぞすると、思わずかっとなって、

(てつのかべすらいとおしそうなするどいひとみをこえのするほうにおくらずにはいられ)

鉄の壁すら射通しそうな鋭いひとみを声のするほうに送らずにはいられ

(なかった。あるひのごご、それはくもゆきのあらいさむいひだった。せんきゃくたちはふねの)

なかった。 ある日の午後、それは雲行きの荒い寒い日だった。船客たちは船の

(どうようにへきえきしてじぶんのせんしつにとじこもるのがおおかったので、さるんががらあきに)

動揺に辟易して自分の船室に閉じこもるのが多かったので、サルンががら明きに

(なっているのをさいわい、ようこはおかをさそいだして、へやのかどになったところに)

なっているのを幸い、葉子は岡を誘い出して、部屋のかどになった所に

(おれまがってすえてあるもろっこがわのでぃわんにひざとひざとをふれあわさんばかり)

折れ曲がって据えてあるモロッコ皮のディワンに膝と膝とをふれ合わさんばかり

(よりそってこしをかけて、とらんぷをいじってあそんだ。おかはひごろそういうゆうぎ)

寄り添って腰をかけて、トランプをいじって遊んだ。岡は日ごろそういう遊戯

(にはすこしもきょうみをもっていなかったが、ようことふたりきりでいられるのをひじょうに)

には少しも興味を持っていなかったが、葉子と二人きりでいられるのを非常に

(こうふくにおもうらしく、いつになくかいかつにふだをひねくった。そのほそいしなやかな)

幸福に思うらしく、いつになく快活に札をひねくった。その細いしなやかな

など

(てからぶきっちょうにふだがすてられたりとられたりするのをようこはおもしろい)

手からぶきっちょうに札が捨てられたり取られたりするのを葉子はおもしろい

(ものにみやりながら、だんぞくてきにことばをとりかわした。「あなたもしかごに)

ものに見やりながら、断続的に言葉を取りかわした。「あなたもシカゴに

(いらっしゃるとおっしゃってね、あのばん」「ええいいました。・・・これで)

いらっしゃるとおっしゃってね、あの晩」「ええいいました。・・・これで

(きってもいいでしょう」「あらそんなものでもったいない・・・もっとひくい)

切ってもいいでしょう」「あらそんなものでもったいない・・・もっと低い

(ものはおありなさらない?・・・しかごではしかごだいがくにいらっしゃる)

ものはおありなさらない?・・・シカゴではシカゴ大学にいらっしゃる

(の?」「これでいいでしょうか・・・よくわからないんです」「よく)

の?」「これでいいでしょうか・・・よくわからないんです」「よく

(わからないって、そりゃおかしゅうござんすわね、そんなことおきめなさらずに)

わからないって、そりゃおかしゅうござんすわね、そんな事お決めなさらずに

(あっちにいらっしゃるって・・・」「ぼくは・・・」「これでいただ)

米国(あっち)にいらっしゃるって・・・」「僕は・・・」「これでいただ

(きますよ・・・ぼくは・・・なに」「ぼくはねえ」「ええ」ようこはとらんぷをいじるの)

きますよ・・・僕は・・・何」「僕はねえ」「ええ」葉子はトランプをいじるの

(をやめてかおをあげた。おかはざんげでもするひとのように、おもてをふせてあかく)

をやめて顔を上げた。岡は懺悔でもする人のように、面(おもて)を伏せて紅く

(なりながらふだをいじくっていた。「ぼくのほんとうにいくところはぼすとんだったの)

なりながら札をいじくっていた。「僕のほんとうに行く所はボストンだったの

(です。そこにぼくのいえでがくしをやってるしょせいがいてぼくのかんとくをしてくれることに)

です。そこに僕の家で学資をやってる書生がいて僕の監督をしてくれる事に

(なっていたんですけれど・・・」ようこはめずらしいことをきくようにおかにめをすえた。)

なっていたんですけれど・・・」葉子は珍しい事を聞くように岡に目をすえた。

(おかはますますいいにくそうに、「あなたにおあいもうしてからぼくもしかごにいきたく)

岡はますますいい憎そうに、「あなたにおあい申してから僕もシカゴに行きたく

(なってしまったんです」とだんだんごびをけしてしまった。なんというかれんさ)

なってしまったんです」とだんだん語尾を消してしまった。なんという可憐さ

(・・・ようこはさらにおかにすりよった。おかはしんけんになってかおまであおざめてきた。)

・・・葉子はさらに岡にすり寄った。岡は真剣になって顔まで青ざめて来た。

(「おきにさわったらゆるしてください・・・ぼくはただ・・・あなたのいらっしゃる)

「お気にさわったら許してください・・・僕はただ・・・あなたのいらっしゃる

(ところにいたいんです、どういうわけだか・・・」もうおかはなみだぐんでいた。ようこは)

所にいたいんです、どういうわけだか・・・」もう岡は涙ぐんでいた。葉子は

(おもわずおかのてをとってやろうとした。そのしゅんかんにいきなりじむちょうがはげしいいきおいで)

思わず岡の手を取ってやろうとした。その瞬間にいきなり事務長が激しい勢いで

(そこにはいってきた。そしてようこにはめもくれずにはげしくおかをひったてるように)

そこにはいって来た。そして葉子には目もくれずに激しく岡を引っ立てるように

(してさんぽにつれだしてしまった。おかはいいとしてそのあとに)

して散歩に連れ出してしまった。岡は唯々(いい)としてそのあとに

(したがった。ようこはかっとなっておもわずざからたちあがった。そしておもいぞんぶん)

したがった。葉子はかっとなって思わず座から立ち上がった。そして思い存分

(じむちょうのぶれいをせめようとみがまえした。そのときふいにひとつのかんがえがようこのあたまを)

事務長の無礼を責めようと身構えした。その時不意に一つの考えが葉子の頭を

(ひらめきとおった。「じむちょうはどこかでじぶんたちをみまもっていたにちがいない」)

ひらめき通った。「事務長はどこかで自分たちを見守っていたに違いない」

(つったったままのようこのかおに、ちぶさをみせつけられたこどものようなほほえみが)

突っ立ったままの葉子の顔に、乳房を見せつけられた子供のようなほほえみが

(ほのかにうかびあがった。)

ほのかに浮かび上がった。

(じゅうごようこはあるあさおもいがけなくはやおきをした。べいこくにちかづくにつれて)

【一五】 葉子はある朝思いがけなく早起きをした。米国に近づくにつれて

(いどはだんだんさがっていったので、さむけもうすらいでいたけれども、)

緯度はだんだん下がって行ったので、寒気も薄らいでいたけれども、

(なんといってもあきだったくうきはあさごとにひえびえとひきしまっていた。ようこは)

なんといっても秋立った空気は朝ごとに冷え冷えと引きしまっていた。葉子は

(おんしつのようなせんしつからこのきりっとしたくうきにふれようとしてかんぱんにでてみた。)

温室のような船室からこのきりっとした空気に触れようとして甲板に出てみた。

(うげんをまわってさげんにでるとはからずもめのまえにりくかげをみつけだして、おもわずあしを)

右舷を回って左舷に出ると計らずも目の前に陸影を見つけ出して、思わず足を

(とめた。そこにはとおかほどねんとうからたえはてていたようなものがかいめんからあさく)

止めた。そこには十日ほど念頭から絶え果てていたようなものが海面から浅く

(もれあがってつづいていた。ようこはこうきなめをかがやかしながら、おもわずいったん)

もれ上がって続いていた。葉子は好奇な目をかがやかしながら、思わず一たん

(とめたあしをうごかしててすりにちかづいてそれをみわたした。おれごんまつがすくすくと)

とめた足を動かして手欄に近づいてそれを見渡した。オレゴン松がすくすくと

(しらなみのはげしくかみよせるきしべまでみっせいしたばんくーばーとうのひくいやまなみがそこに)

白波の激しくかみよせる岸部まで密生したバンクーバー島の低い山なみがそこに

(あった。ものすごくそこびかりのするまっさおなえんようのいろは、いつのまにかみだれたなみの)

あった。物すごく底光りのするまっさおな遠洋の色は、いつのまにか乱れた波の

(ものくるわしくたちさわぐえんかいのあおはいいろにかわって、そのさきにみえるあんりょくのじゅりんは)

物狂わしく立ち騒ぐ沿海の青灰色に変わって、その先に見える暗緑の樹林は

(どんよりとしたあまぞらのしたにこうりょうとしてよこたわっていた。それはみじめなすがた)

どんよりとした雨空の下に荒涼として横たわっていた。それはみじめな姿

(だった。へだたりのとおいせいかふねがいくらすすんでもけしきにはいささかの)

だった。距(へだた)りの遠いせいか船がいくら進んでも景色にはいささかの

(へんかもおこらないで、こうりょうたるそのけしきはいつまでもめのまえにたちつづいていた。)

変化も起こらないで、荒涼たるその景色はいつまでも目の前に立ち続いていた。

(ふるわたににたうすぐもをもれるあさひのひかりがちからよわくそれをてらすたびごとに、)

古綿に似た薄雲をもれる朝日の光が力弱くそれを照らすたびごとに、

(にえきらないかげとひかりのへんかがかすかにやまとうみとをなでてとおるばかりだ。ながいながい)

煮え切らない影と光の変化がかすかに山と海とをなでて通るばかりだ。長い長い

(かいようのせいかつになれたようこのめにはりくちのいんしょうはむしろきたないものでも)

海洋の生活に慣れた葉子の目には陸地の印象はむしろきたないものでも

(みるようにふゆかいだった。もうみっかほどするとふねはいやでもしやとるのさんばしに)

見るように不愉快だった。もう三日ほどすると船はいやでもシヤトルの桟橋に

(つながれるのだ。むこうにみえるあのりくちのつづきにしやとるはある。あのまつのはやしが)

つながれるのだ。向うに見えるあの陸地の続きにシヤトルはある。あの松の林が

(きりたおされてすこしばかりのへいちとなったところに、ここにひとつかしこにひとつという)

切り倒されて少しばかりの平地となった所に、ここに一つかしこに一つという

(ようにこやがたててあるが、そのこやのかずがひがしにいくにつれてだんだんおおく)

ように小屋が建ててあるが、その小屋の数が東に行くにつれてだんだん多く

(なって、しまいにはひとかたまりのかおくができる。それがしやとるであるにちがい)

なって、しまいには一かたまりの家屋ができる。それがシヤトルであるに違い

(ない。うらさびしくあきかぜのふきわたるそのちいさなみなとまちのさんばしに、やじゅうのような)

ない。うらさびしく秋風の吹きわたるその小さな港町の桟橋に、野獣のような

(しょこくのろうどうしゃがむらがるところに、このちいさなえじままるがつかれきったせんたいをよこたえるとき、)

諸国の労働者が群がる所に、この小さな絵島丸が疲れきった船体を横たえる時、

(あのきむらがれいのめまぐるしいきびんさで、あめりかふうになりすましたらしい)

あの木村が例のめまぐるしい機敏さで、アメリカ風になり済ましたらしい

(ものごしで、まわりのけしきにつりあわないけしきのいいかおをして、ふなばしごをのぼってくる)

物腰で、まわりの景色に釣り合わない景色のいい顔をして、船梯子を上って来る

(ようすまでが、ようこにはみるようにそうぞうされた。「いやだいやだ。どうしても)

様子までが、葉子には見るように想像された。「いやだいやだ。どうしても

(きむらといっしょになるのはいやだ。わたしはとうきょうにかえってしまおう」ようこはだだっこ)

木村と一緒になるのはいやだ。私は東京に帰ってしまおう」葉子はだだっ子

(らしくいまさらそんなことをほんきにかんがえてみたりしていた。)

らしく今さらそんな事を本気に考えてみたりしていた。

(すいふちょうとひとりのぼーいとがおしならんで、くつとぞうりとのおとをたてながらやって)

水夫長と一人のボーイとが押し並んで、靴と草履との音をたてながらやって

(きた。そしてようこのそばまでくると、ようこがふりかえったのでふたりながらいんぎんに、)

来た。そして葉子のそばまで来ると、葉子が振り返ったので二人ながら慇懃に、

(「おはようございます」とあいさつした。そのようすがいかにもしたしいめうえにたいする)

「お早うございます」と挨拶した。その様子がいかにも親しい目上に対する

(ようなたいどで、ことにすいふちょうは、「ごたいくつでございましたろう。それでもこれで)

ような態度で、ことに水夫長は、「御退屈でございましたろう。それでもこれで

(あとみっかになりました。こんどのこうかいにはしかしおかげさまでおおだすかりをしまして、)

あと三日になりました。今度の航海にはしかしお陰様で大助かりをしまして、

(ゆうべからきわだってよくなりましてね」とつけくわえた。ようこはいっとうせんきゃくのあいだの)

ゆうべからきわだってよくなりましてね」と付け加えた。葉子は一等船客の間の

(わだいのまとであったばかりでなく、じょうきゅうせんいんのあいだのうわさのたねであったばかりで)

話題の的であったばかりでなく、上級船員の間のうわさの種であったばかりで

(なく、このながいこうかいちゅうに、いつのまにかかきゅうせんいんのあいだにもふしぎなせいりょくになって)

なく、この長い航海中に、いつのまにか下級船員の間にも不思議な勢力になって

(いた。こうかいのようかめかに、あるろうねんのすいふがふぉくするでしごとをしていたとき、)

いた。航海の八日目かに、ある老年の水夫がフォクスルで仕事をしていた時、

(いかりのくさりにあしさきをはさまれてほねをくじいた。ぷろめねーど・でっきでぐうぜんそれを)

錨の鎖に足先をはさまれて骨をくじいた。プロメネード・デッキで偶然それを

(みつけたようこは、せんいよりはやくそのばにかけつけた。むすびっこぶのように)

見つけた葉子は、船医より早くその場に駆けつけた。結びっこぶのように

(まるまって、いたみのためにもがきくるしむそのろうじんのあとにひきそって、すいふべやの)

丸まって、痛みのためにもがき苦しむその老人のあとに引きそって、水夫部屋の

(いりぐちまではたくさんのせんいんやせんきゃくがものめずらしそうについてきたが、そこまでいく)

入り口まではたくさんの船員や船客が物珍しそうについて来たが、そこまで行く

(とせんいんですらがなかにはいるのをちゅうちょした。どんなひみつがひそんでいるかだれもしる)

と船員ですらが中にはいるのを躊躇した。どんな秘密が潜んでいるかだれも知る

(ひとのないそのないぶは、せんちゅうではきかんしつよりもきけんなひとくいきとみなされていただけ)

人のないその内部は、船中では機関室よりも危険な一区域と見なされていただけ

(に、そのいりぐちさえがいっしゅひとをおびやかすようなうすきみわるさをもっていた。)

に、その入り口さえが一種人を脅かすような薄気味わるさを持っていた。

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