有島武郎 或る女㉝

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(じゅうろくようこはほんとうにしのあいだをさまよいあるいたようなふしぎな、こんらんした)

【一六】 葉子はほんとうに死の間をさまよい歩いたような不思議な、混乱した

(かんじょうのくるいにでいすいして、じむちょうのへやからあしもともさだまらずにじぶんのせんしつに)

感情の狂いに泥酔して、事務長の部屋から足もとも定まらずに自分の船室に

(もどってきたが、せいもこんもつきはててそのままそふぁのうえにぶったおれた。)

戻って来たが、精も根も尽き果ててそのままソファの上にぶっ倒れた。

(めのまわりにうすぐろいかさのできたそのかおはにぶいなまりいろをして、どうこうはひかりに)

目のまわりに薄黒い暈(かさ)のできたその顔は鈍い鉛色をして、瞳孔は光に

(たいしてちょうせつのちからをうしなっていた。かるくひらいたままのくちびるからもれるはなみ)

対して調節の力を失っていた。軽く開いたままの口びるからもれる歯並み

(までが、ひかりなく、ただしろくみやられて、しをれんそうさせるようなみにくいうつくしさがみみの)

までが、光なく、ただ白く見やられて、死を連想させるような醜い美しさが耳の

(つけねまでみなぎっていた。ゆきげどきのいずみのように、あらんかぎりのかんじょうが)

付け根までみなぎっていた。雪解(ゆきげ)時の泉の様に、あらん限りの感情が

(めまぐるしくわきあがっていたそのむねには、そこのほうにくらいひあいがこちんと)

目まぐるしくわき上がっていたその胸には、底のほうに暗い悲哀がこちんと

(よどんでいるばかりだった。ようこはこんなふしぎなこころのじょうたいからのがれ)

よどんでいるばかりだった。葉子はこんな不思議な心の状態からのがれ

(でようと、おもいだしたようにあたまをはたらかしてみたが、そのどりょくはこころにもなく)

出ようと、思い出したように頭を働かして見たが、その努力は心にもなく

(かすかなはかないものだった。そしてそのふしぎにこんらんしたこころのじょうたいもいわば)

かすかなはかないものだった。そしてその不思議に混乱した心の状態もいわば

(たえきれぬほどのせつなさはもっていなかった。ようこはそんなにしてぼんやりと)

たえきれぬほどの切なさは持っていなかった。葉子はそんなにしてぼんやりと

(めをさましそうになったり、いしきのかすいにおちいったりした。もうれつないけいれんを)

目をさましそうになったり、意識の仮睡に陥ったりした。猛烈な胃痙攣を

(おこしたかんじゃが、もるひねのちゅうしゃをうけて、かんけつてきにおこるいたみのために)

起こした患者が、モルヒネの注射を受けて、間歇的に起こる痛みのために

(むいしきにかおをしかめながら、まやくのおそろしいちからのもとに、ただこんこんときかいなかすいに)

無意識に顔をしかめながら、麻薬の恐ろしい力の下に、ただ昏々と奇怪な仮睡に

(おちいりこむように、ようこのこころはむりむたいなどりょくでときどきおどろいたようにみだれさわぎ)

陥り込むように、葉子の心は無理無体な努力で時々驚いたように乱れさわぎ

(ながら、たちまちものすごいちんもくのふちふかくおちていくのだった。ようこのいしは)

ながら、たちまち物すごい沈黙の淵深く落ちて行くのだった。葉子の意志は

(いかにてをのばしても、もうこころのおちゆくふかみにはとどきかねた。あたまのなかはねつを)

いかに手を延ばしても、もう心の落ち行く深みには届きかねた。頭の中は熱を

(もって、ただぼーときいろくけむっていた。そのきいろいけむりのなかをときどきあかいひや)

持って、ただぼーと黄色く煙っていた。その黄色い煙の中を時々紅い火や

(あおいひがちかちかとしんけいをうずかしてかけとおった。いきづまるようなけさの)

青い火がちかちかと神経をうずかして駆け通った。息気詰まるようなけさの

など

(こうけいや、かこのあらゆるかいそうが、いりみだれてあらわれてきても、ようこはそれに)

光景や、過去のあらゆる回想が、入り乱れて現われて来ても、葉子はそれに

(たいしてけのすえほどもこころをうごかされはしなかった。それはとおいとおいこだまのように)

対して毛の末ほども心を動かされはしなかった。それは遠い遠い木魂のように

(うつろにかすかにひびいてはきえていくばかりだった。かこのじぶんといまのじぶんとの)

うつろにかすかに響いては消えて行くばかりだった。過去の自分と今の自分との

(これほどなおそろしいへだたりを、ようこはおそれげもなく、なるがままに)

これほどな恐ろしい距(へだた)りを、葉子は恐れげもなく、成るがままに

(まかせておいて、おもくよどんだぜつぼうてきなひあいにただわけもなくどこまでも)

任せて置いて、重くよどんだ絶望的な悲哀にただわけもなくどこまでも

(ひっぱられていった。そのさきにはくらいぼうきゃくがまちもうけていた。なみだでおもった)

引っぱられて行った。その先には暗い忘却が待ち設けていた。涙で重った

(まぶたはだんだんうちひらいたままのひとみをおおっていった。すこしひらいたくちびるの)

まぶたはだんだん打ち開いたままのひとみを蔽って行った。少し開いた口びるの

(あいだからは、うめくようなかるいいびきがもれはじめた。それをようこはかすかにいしき)

間からは、うめくような軽い鼾がもれ始めた。それを葉子はかすかに意識

(しながら、そふぁのうえにうつむきになったまま、いつとはなしにゆめもないふかい)

しながら、ソファの上にうつむきになったまま、いつとはなしに夢もない深い

(ねむりにおちいっていた。どのくらいねむっていたかわからない。とつぜんようこはしんぞうでも)

眠りに陥っていた。どのくらい眠っていたかわからない。突然葉子は心臓でも

(はれつしそうなおどろきにうたれて、はっとめをひらいてあたまをもたげた。ずきずきずきと)

破裂しそうな驚きに打たれて、はっと目を開いて頭をもたげた。ずきずきずきと

(あたまのしんがいたんで、へやのなかはひのようにかがやいておもてもむけられ)

頭の心(しん)が痛んで、部屋の中は火のように輝いて面(おもて)も向けられ

(なかった。もうひるごろだなときがつくなかにも、かみなりともおもわれるきょうかんがふねを)

なかった。もう昼ごろだなと気が付く中にも、雷とも思われる叫喚が船を

(ふるわしてひびきわたっていた。ようこはこのしゅんかんのふしぎにむねをどきつかせながら)

震わして響き渡っていた。葉子はこの瞬間の不思議に胸をどきつかせながら

(ききみみをたてた。ふねのおののきともじぶんのおののきともしれぬしんどうがようこの)

聞き耳を立てた。船のおののきとも自分のおののきとも知れぬ震動が葉子の

(ごたいをこのはのようにもてあそんだ。しばらくしてそのきょうかんがやや)

五体を木の葉のようにもてあそんだ。しばらくしてその叫喚がやや

(しずまったので、ようこはようやく、よこはまをでていらいたえてもちいられなかった)

しずまったので、葉子はようやく、横浜を出て以来絶えて用いられなかった

(きてきのこえであることをさとった。けんえきじょがちかづいたのだなとおもって、えりもとをかき)

汽笛の声であることを悟った。検疫所が近づいたのだなと思って、襟もとをかき

(あわせながら、しずかにそふぁのうえにひざをたてて、めまどからとのもを)

合わせながら、静かにソファの上に膝を立てて、眼窓から外面(とのも)を

(のぞいてみた。けさまではあまぐもにとじられていたそらもみちがえるようにからっと)

のぞいて見た。けさまでは雨雲に閉じられていた空も見違えるようにからっと

(はれわたって、こんじょうのいろのひのひかりのためにおくふかくかがやいていた。まつがしぜんにうつくしく)

晴れ渡って、紺青の色の日の光のために奥深く輝いていた。松が自然に美しく

(はいちされてはえしげったいわがかったきしがすぐめのさきにみえて、うみはいかにもいりえ)

配置されて生え茂った岩がかった岸がすぐ目の先に見えて、海はいかにも入り江

(らしくかれんなさざなみをつらね、そのうえをえじままるはきかんのどうきをうちながら)

らしく可憐なさざ波をつらね、その上を絵島丸は機関の動悸を打ちながら

(しずかにはしっていた。いくにちのあらあらしいかいろからここにきてみると、)

徐(しず)かに走っていた。幾日の荒々しい海路からここに来て見ると、

(さすがにそこにはにんげんのかくればらしいしずかさがあった。きしのおくまったところに)

さすがにそこには人間の隠れ場らしい静かさがあった。岸の奥まった所に

(しろいかべのちいさなかおくがみられた。そのかたわらにはえいこくのこっきがびふうに)

白い壁の小さな家屋が見られた。そのかたわらには英国の国旗が微風に

(あおられてあおぞらのなかにうごいていた。「あれがけんえきかんのいるところなのだ」そうおもった)

あおられて青空の中に動いていた。「あれが検疫官のいる所なのだ」そう思った

(いしきのかつどうがはじまるやいなや、ようこのあたまははじめてうまれかわったようにはっきりと)

意識の活動が始まるや否や、葉子の頭は始めて生まれ代わったようにはっきりと

(なっていった。そしてあたまがはっきりしてくるとともに、いままできりはなされていた)

なって行った。そして頭がはっきりして来るとともに、今まで切り放されていた

(すべてのかこがあるべきすがたをとって、めいりょうにげんざいのようことむすびついた。ようこは)

すべての過去があるべき姿を取って、明瞭に現在の葉子と結び付いた。葉子は

(かこのかいそうがいまみたばかりのけしきからでもきたようにおどろいて、いそいでめまどから)

過去の回想が今見たばかりの景色からでも来たように驚いて、急いで眼窓から

(かおをひっこめて、きょうてきにおそいかかられたこぐんのように、たじろぎながらまた)

顔を引っ込めて、強敵に襲いかかられた孤軍のように、たじろぎながらまた

(そふぁのうえにねたおれた。あたまのなかはきゅうにむらがりあつまるかんがえをせいり)

ソファの上に臥(ね)倒れた。頭の中は急に 叢(むら)がり集まる考えを整理

(するためにはげしくはたらきだした。ようこはひとりでにりょうてでかみのけのうえから)

するために激しく働き出した。葉子はひとりでに両手で髪の毛の上から

(こめかみのところをおさえた。そしてすこしうわめをつかってかがみのほうをみやりながら、)

こめかみの所を押えた。そして少し上目をつかって鏡のほうを見やりながら、

(いままでへいししていたらんそうのよせくるままにきびんにそれをおくりむかえようと)

今まで閉止していた乱想の寄せ来るままに機敏にそれを送り迎えようと

(みがまえた。ようこはとにかくおそろしいがけのきわまできてしまったことを、そして)

身構えた。葉子はとにかく恐ろしい崕のきわまで来てしまった事を、そして

(ほとんどむはんせいで、ほんのうにひきずられるようにして、そのなかにとびこんだことを)

ほとんど無反省で、本能に引きずられるようにして、その中に飛び込んだ事を

(おもわないわけにはいかなかった。しんるいえんじゃにうながされて、こころにもないとべいを)

思わないわけには行かなかった。親類縁者に促されて、心にもない渡米を

(よぎなくされたときにじぶんでえらんだみちーーともかくきむらといっしょになろう。そして)

余儀なくされた時に自分で選んだ道ーーともかく木村と一緒になろう。そして

(うまれかわったつもりでべいこくのしゃかいにはいりこんで、じぶんがみつけあぐねていた)

生まれ代わったつもりで米国の社会にはいりこんで、自分が見つけあぐねていた

(じぶんというものを、さぐりだしてみよう。おんなというものがにほんとはちがってかんがえ)

自分というものを、探り出してみよう。女というものが日本とは違って考え

(られているらしいべいこくで、おんなとしてのじぶんがどんないちにすわることができるか)

られているらしい米国で、女としての自分がどんな位置にすわる事ができるか

(ためしてみよう。じぶんはどうしてもうまるべきでないじだいに、うまるべきでない)

試してみよう。自分はどうしても生まるべきでない時代に、生まるべきでない

(ところにうまれてきたのだ。じぶんのうまるべきじだいとところとはどこかべつにある。)

所に生まれて来たのだ。自分の生まるべき時代と所とはどこか別にある。

(そこではじぶんはじょおうのざになおってもはずかしくないほどのちからをもつことができる)

そこでは自分は女王の座になおっても恥ずかしくないほどの力を持つ事ができる

(はずなのだ。いきているうちにそこをさがしだしたい。じぶんのしゅういにまつわって)

はずなのだ。生きているうちにそこをさがし出したい。自分の周囲にまつわって

(きながらいつのまにかじぶんをうらぎって、いつどんなところにでもへいきでいきて)

来ながらいつのまにか自分を裏切って、いつどんな所にでも平気で生きて

(いられるようになりはてたおんなたちのはなをあかさしてやろう。わかいいのちをもったうち)

いられるようになり果てた女たちの鼻をあかさしてやろう。若い命を持ったうち

(にそれだけのことをぜひしてやろう。きむらはじぶんのこのこころのたくらみをたすけることの)

にそれだけの事をぜひしてやろう。木村は自分のこの心の企みを助ける事の

(できるおとこではないが、じぶんのあとについてこられないほどのおとこでもあるまい。)

できる男ではないが、自分のあとについて来られないほどの男でもあるまい。

(ようこはそんなこともおもっていた。にっしんせんそうがおこったころからようこぐらいのねんぱいの)

葉子はそんな事も思っていた。日清戦争が起こったころから葉子ぐらいの年配の

(おんながひとしくかんじだしたいっしゅのふあん、いっしゅのげんめつーーそれをはげしくかんじたようこは、)

女が等しく感じ出した一種の不安、一種の幻滅ーーそれを激しく感じた葉子は、

(むほんにんのようにしらずしらずじぶんのまわりのしょうじょたちにあるかんじょうてきな)

謀叛(むほん)人のように知らず知らず自分のまわりの少女たちにある感情的な

(きょうさをあたえていたのだが、じぶんじしんですらがどうしてこのだいじなせとぎわを)

教唆を与えていたのだが、自分自身ですらがどうしてこの大事な瀬戸ぎわを

(のりぬけるのかは、すこしもわからなかった。そのころのようこはことごとにじぶんの)

乗り抜けるのかは、少しもわからなかった。そのころの葉子は事ごとに自分の

(きょうぐうがきにくわないでただいらいらしていた。そのけっかはただおもうままを)

境遇が気にくわないでただいらいらしていた。その結果はただ思うままを

(ふるまっていくよりしかたがなかった。じぶんはどんなものからもほんとうにくんれん)

振る舞って行くよりしかたがなかった。自分はどんな物からもほんとうに訓練

(されてはいないんだ。そしてじぶんにはどうにでもはたらくするどいさいのうと、おんなのつよみ)

されてはいないんだ。そして自分にはどうにでも働く鋭い才能と、女の強味

((よわみともいわばいえ)になるべきすぐれたにくたいとはげしいじょうちょとがあるのだ。)

(弱味ともいわばいえ)になるべき優れた肉体と激しい情緒とがあるのだ。

(そうようこはしらずしらずじぶんをみていた。そこからめくらめっぽうにうごいて)

そう葉子は知らず知らず自分を見ていた。そこから盲(めくら)滅法に動いて

(いった。ことにじだいのふしぎなめざめをけいけんしたようこにとってはおそろしいてきは)

行った。ことに時代の不思議な目ざめを経験した葉子に取っては恐ろしい敵は

(おとこだった。ようこはそのためになんどつまずいたかしれない。しかし、よのなかには)

男だった。葉子はそのためになんどつまずいたか知れない。しかし、世の中には

(ほんとうにようこをたすけおこしてくれるひとがなかった。「わたしが)

ほんとうに葉子を扶(たす)け起こしてくれる人がなかった。「わたしが

(わるければなおすだけのことをしてみせてごらん」ようこはよのなかにむいてこういい)

悪ければ直すだけの事をして見せてごらん」葉子は世の中に向いてこういい

(はなってやりたかった。おんなをまったくどれいのきょうがいにしずめはてたおとこは)

放ってやりたかった。女を全く奴隷の 境界(きょうがい)に沈め果てた男は

(もうむかしのあだむのようにしょうじきではないんだ。おんながじっとしているあいだはいんぎんにして)

もう昔のアダムのように正直ではないんだ。女がじっとしている間は慇懃にして

(みせるが、おんながすこしでもじぶんでたちあがろうとすると、うってかわっておそろしい)

見せるが、女が少しでも自分で立ち上がろうとすると、打って変わって恐ろしい

(ぼうおうになりあがるのだ。おんなまでがおめおめとおとこのてつだいをしている。ようこは)

暴王になり上がるのだ。女までがおめおめと男の手伝いをしている。葉子は

(じょがっこうじだいにしたたかそのにがいはいをなめさせられた。そしてじゅうはちのとききべこきょうに)

女学校時代にしたたかその苦い杯をなめさせられた。そして十八の時木部孤筇に

(たいして、さいしょのれんあいらしいれんあいのじょうをかたむけたとき、ようこのこころはもうしょじょのこころでは)

対して、最初の恋愛らしい恋愛の情を傾けた時、葉子の心はもう処女の心では

(なくなっていた。)

なくなっていた。

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