有島武郎 或る女㊱

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(よこはまでくらちのあとにつづいてせんしつへのはしごだんをくだるときはじめてかぎおぼえたういすきー)

横浜で倉地のあとに続いて船室への階子段を下る時始めて嗅ぎ覚えたウイスキー

(とはまきとのまじりあったようなあまたるいいっしゅのにおいが、このときかすかにようこの)

と葉巻とのまじり合ったような甘たるい一種の香いが、この時かすかに葉子の

(はなをかすめたとおもった。それをかぐとようこのじょうねつのほむらがいっときにあおりたて)

鼻をかすめたと思った。それをかぐと葉子の情熱のほむらが一時にあおり立て

(られて、ひとまえではかんがえられもせぬようなおもいが、つむじかぜのごとく)

られて、人前では考えられもせぬような思いが、旋風(つむじかぜ)のごとく

(あたまのなかをこそいでとおるのをおぼえた。おとこにはそれがどんないんしょうをあたえたかをかえりみる)

頭の中をこそいで通るのを覚えた。男にはそれがどんな印象を与えたかを顧みる

(ひまもなく、たがわふさいのまえということもはばからずに、じぶんではみにくいにちがいないと)

暇もなく、田川夫妻の前ということもはばからずに、自分では醜いに違いないと

(おもうようなびしょうが、おぼえずようこのまゆのあいだにうかびあがった。じむちょうは)

思うような微笑が、覚えず葉子の眉の間に浮かび上がった。事務長は

(こむずかしいかおになってふりかえりながら、「いかがです」ともういちどたがわふさいを)

小むずかしい顔になって振り返りながら、「いかがです」ともう一度田川夫妻を

(うながした。しかしたがわはかせはじぶんのつまのおとなげないのをあわれむものわかりのいい)

促した。しかし田川博士は自分の妻のおとなげないのをあわれむ物わかりのいい

(しんしというたいどをみせて、ていよくじむちょうにことわりをいって、ふじんといっしょに)

紳士という態度を見せて、態よく事務長にことわりをいって、夫人と一緒に

(そこをたちさった。「ちょっといらっしゃい」たがわふさいのすがたがみえなくなると、)

そこを立ち去った。「ちょっといらっしゃい」田川夫妻の姿が見えなくなると、

(じむちょうはろくろくようこをみむきもしないでこういいながらさきにたった。ようこは)

事務長はろくろく葉子を見むきもしないでこういいながら先に立った。葉子は

(こむすめのようにいそいそとそのあとについて、うすぐらいはしごだんにかかるとおとこにおぶい)

小娘のようにいそいそとそのあとについて、薄暗い階子段にかかると男におぶい

(かかるようにしてこぜわしくおりていった。そしてきかんしつとせんいんしつとのあいだにある)

かかるようにしてこぜわしく降りて行った。そして機関室と船員室との間にある

(れいのくらいろうかをとおって、じむちょうがじぶんのへやのとをあけたとき、ぱっとあかるく)

例の暗い廊下を通って、事務長が自分の部屋の戸をあけた時、ぱっと明るく

(なったしろいひかりのなかに、nonchalantなdiabolicなおとこのすがたを)

なった白い光の中に、nonchalantなdiabolicな男の姿を

(いまさらのようにいっしゅのおそれとなつかしさとをこめてうちながめた。へやにはいる)

今さらのように一種の畏れとなつかしさとをこめて打ちながめた。部屋にはいる

(とじむちょうは、たがわふじんのことばでもおもいだしたらしくめんどうくさそうにといきひとつ)

と事務長は、田川夫人の言葉でも思い出したらしくめんどうくさそうに吐息一つ

(して、ちょうぼをじむてーぶるのうえにほうりなげておいて、またとからあたまだけつき)

して、帳簿を事務テーブルの上にほうりなげておいて、また戸から頭だけつき

(だして、「ぼーい」とおおきなこえでよびたてた。そしてとをしめきると、はじめて)

出して、「ボーイ」と大きな声で呼び立てた。そして戸をしめきると、始めて

など

(まともにようこにむきなおった。そしてはらをゆすりあげてつづけさまにおもいぞんぶん)

まともに葉子に向きなおった。そして腹をゆすり上げて続けさまに思い存分

(わらってから、「え」とおおきなこえで、はんぶんはものでもたずねるように、はんぶんは「どう)

笑ってから、「え」と大きな声で、半分は物でも尋ねるように、半分は「どう

(だい」といったようなちょうしでいって、あしをひらいてakimboをしてつったち)

だい」といったような調子でいって、足を開いてakimboをして突っ立ち

(ながら、ちょいとむじゃきにくびをかしげてみせた。そこにぼーいがとのうしろから)

ながら、ちょいと無邪気に首をかしげて見せた。そこにボーイが戸の後ろから

(かおだけだした。「しゃんぺんだ。せんちょうのところにばーからもってこさしたのが、)

顔だけ出した。「シャンペンだ。船長の所にバーから持って来さしたのが、

(にさんぼんのこってるよ。じゅうのじみっつぞ(だいしきゅうというぐんたいようご)。・・・なにが)

二三本残ってるよ。十の字三つぞ(大至急という軍隊用語)。・・・何が

(おかしいかい」じむちょうはようこのほうをむいたままこういったのであるが、じっさい)

おかしいかい」事務長は葉子のほうを向いたままこういったのであるが、実際

(そのときぼーいはいみありげににやにやうすわらいをしていた。あまりにこともなげな)

その時ボーイは意味ありげににやにや薄笑いをしていた。あまりに事もなげな

(くらちのようすをみているとようこはじぶんのこころのせつなさにくらべて、おとこのこころをうらめしい)

倉地の様子を見ていると葉子は自分の心の切なさに比べて、男の心を恨めしい

(ものにおもわずにいられなくなった。けさのきおくもまだなまなましいへやのなかをみるに)

ものに思わずにいられなくなった。けさの記憶もまだ生々しい部屋の中を見るに

(つけても、はげしくたかぶってくるじょうねつがみょうにこじれて、いてもたってもいられない)

つけても、激しく嵩ぶって来る情熱が妙にこじれて、いても立ってもいられない

(もどかしさがくるしくむねにせまるのだった。いままではまるきりがんちゅうになかったたがわ)

もどかしさが苦しく胸に逼るのだった。今まではまるきり眼中になかった田川

(ふじんも、さんとうのおんなきゃくのなかで、しょじょともつまともつかぬふたりのにじゅうおんなも、はては)

夫人も、三等の女客の中で、処女とも妻ともつかぬ二人の二十女も、果ては

(じむちょうにまつわりつくあのこむすめのようなおかまでが、しゃしんでみたじむちょうのさいくんと)

事務長にまつわりつくあの小娘のような岡までが、写真で見た事務長の細君と

(いっしょになって、くるしいてきいをようこのこころにあおりたてた。ぼーいにまでわらいものに)

一緒になって、苦しい敵意を葉子の心にあおり立てた。ボーイにまで笑いものに

(されて、おとこのかわをきたこのこうしょくのやじゅうのなぶりものにされているのではないか。)

されて、男の皮を着たこの好色の野獣のなぶりものにされているのではないか。

(じぶんのみもこころもただひといきにひしぎつぶすかとみえるあのおそろしいちからは、じぶんを)

自分の身も心もただ一息にひしぎつぶすかと見えるあの恐ろしい力は、自分を

(せいふくするとともにすべてのおんなにたいしてもおなじちからではたらくのではないか。その)

征服すると共にすべての女に対しても同じ力で働くのではないか。その

(たくさんのおんなのなかのかげのうすいひとりのおんなとしてかれはじぶんをあつかっているのでは)

たくさんの女の中の影の薄い一人の女として彼は自分を扱っているのでは

(ないか。じぶんにはなにものにもかえがたくおもわれるけさのできごとがあったあとでも、)

ないか。自分には何物にも代え難く思われるけさの出来事があったあとでも、

(ああへいきでいられるそののんきさはどうしたものだろう。ようこはものごころがついて)

ああ平気でいられるそののんきさはどうしたものだろう。葉子は物心がついて

(からしじゅうじぶんでもいいあらわすことのできないなにものかをおいもとめていた。その)

から始終自分でも言い現わす事のできない何物かを逐(お)い求めていた。その

(なにものかはようこのすぐてぢかにありながら、しっかりとつかむことはどうしても)

何物かは葉子のすぐ手近にありながら、しっかりとつかむ事はどうしても

(できず、そのくせいつでもそのちからのしたにかいらいのようにあてもなく)

できず、そのくせいつでもその力の下に 傀儡(かいらい)のようにあてもなく

(うごかされていた。ようこはけさのできごといらいなんとなくおもいあがっていたのだ。)

動かされていた。葉子はけさの出来事以来なんとなく思いあがっていたのだ。

(それはそのなにものかがおぼろげながらかたちをとっててにふれたようにおもったからだ。)

それはその何物かがおぼろげながら形を取って手に触れたように思ったからだ。

(しかしそれもいまからおもえばげんえいにすぎないらしくもある。じぶんにとくべつなちゅういも)

しかしそれも今から思えば幻影に過ぎないらしくもある。自分に特別な注意も

(はらっていなかったこのおとこのできごころにたいして、こっちからすすんでじょうをそそるような)

払っていなかったこの男の出来心に対して、こっちから進んで情をそそるような

(ことをしたじぶんはなんということをしたのだろう。どうしたらこのとりかえしの)

事をした自分はなんという事をしたのだろう。どうしたらこの取り返しの

(つかないじぶんのはめつをすくうことができるのだろうとおもってくると、いちびょうでもこの)

つかない自分の破滅を救う事ができるのだろうと思って来ると、一秒でもこの

(いまわしいきおくのさまようへやのなかにはいたたまれないようにおもえだした。)

いまわしい記憶のさまよう部屋の中にはいたたまれないように思え出した。

(しかしどうじにじむちょうはたちがたいしゅうちゃくとなってようこのむねのそこにこびりついて)

しかし同時に事務長は断ちがたい執着となって葉子の胸の底にこびりついて

(いた。このへやをこのままででていくのはしぬよりもつらいことだった。)

いた。この部屋をこのままで出て行くのは死ぬよりもつらい事だった。

(どうしてもはっきりとじむちょうのこころをにぎるまでは・・・ようこはじぶんのこころのむじゅんに)

どうしてもはっきりと事務長の心を握るまでは・・・葉子は自分の心の矛盾に

(ごうをにやしながら、じぶんをさげすみはてたようなぜつぼうてきないかりのいろをくちびるの)

業を煮やしながら、自分をさげすみ果てたような絶望的な怒りの色を口びるの

(あたりにやどして、だまったままいんうつにたっていた。いままでそわそわと)

あたりに宿して、黙ったまま陰鬱に立っていた。今までそわそわと

(しょうまのようにようこのこころをめぐりおどっていたはなやかなよろこびーー)

小魔(しょうま)のように葉子の心をめぐりおどっていたはなやかな喜びーー

(それはどこにいってしまったのだろう。じむちょうはそれにきづいたのかきが)

それはどこに行ってしまったのだろう。事務長はそれに気づいたのか気が

(つかないのか、やがてよりかかりのないまるいじむいすにしりをすえて、こどもの)

つかないのか、やがてよりかかりのないまるい事務いすに尻をすえて、子供の

(ようなつみのないかおをしながら、ようこをみてかるくわらっていた。ようこはそのかおを)

ような罪のない顔をしながら、葉子を見て軽く笑っていた。葉子はその顔を

(みて、おそろしいだいたんなあくじをあかごどうようのむじゃきさでおかしうるたちのおとこだと)

見て、恐ろしい大胆な悪事を赤児同様の無邪気さで犯しうる質(たち)の男だと

(おもった。ようこはこんなむじかくなじょうたいにはとてもなっていられなかった。ひとあしずつ)

思った。葉子はこんな無自覚な状態にはとてもなっていられなかった。一足ずつ

(さきをこされているのかしらんというふあんまでがこころのへいこうをさらにくるわした。)

先を越されているのかしらんという不安までが心の平衡をさらに狂わした。

(「たがわはかせはばかばかで、たがわのおくさんはりこうばかというんだ。ははははは」)

「田川博士は馬鹿ばかで、田川の奥さんは利口ばかというんだ。ははははは」

(そういってわらって、じむちょうはひざがしらをはっしとうったてをかえして、つくえのうえに)

そういって笑って、事務長は膝がしらをはっしと打った手をかえして、机の上に

(あるはまきをつまんだ。ようこはわらうよりもはらだたしく、はらだたしいよりもなきたい)

ある葉巻をつまんだ。葉子は笑うよりも腹だたしく、腹だたしいよりも泣きたい

(くらいになっていた。くちびるをぶるぶるとふるわしながらなみだでもたまったように)

くらいになっていた。口びるをぶるぶると震わしながら涙でもたまったように

(かがやくめはけんをもって、うらみをこめてじむちょうをみいったが、じむちょうは)

輝く目は剣を持って、恨みをこめて事務長を見入ったが、事務長は

(むとんじゃくにしたをむいたままいっしんにはまきにひをつけている。ようこは)

無頓着(むとんじゃく)に下を向いたまま一心に葉巻に火をつけている。葉子は

(むねにおさえあまるうらみつらみをいいだすには、こころがあまりにふるえてのどがかわき)

胸に抑えあまる恨みつらみをいい出すには、心があまりに震えて喉がかわき

(きっているので、したくちびるをかみしめたままだまっていた。くらちはそれを)

きっているので、下くちびるをかみしめたまま黙っていた。倉地はそれを

(かんづいているのだのにとようこはおきざりにされたようなやりどころのないさびしさを)

感づいているのだのにと葉子は置きざりにされたようなやり所のないさびしさを

(かんじていた。ぼーいがしゃんぺんとこっぷとをもってはいってきた。そして)

感じていた。ボーイがシャンペンとコップとを持ってはいって来た。そして

(ていねいにそれをじむてーぶるのうえにおいて、さっきのようにいみありげなびしょうを)

丁寧にそれを事務テーブルの上に置いて、さっきのように意味ありげな微笑を

(もらしながら、そっとようこをぬすみみた。まちかまえていたようこのめはしかし)

もらしながら、そっと葉子をぬすみ見た。待ち構えていた葉子の目はしかし

(ぼーいをわらわしてはおかなかった。ぼーいはぎょっとしてとんでもないことをした)

ボーイを笑わしてはおかなかった。ボーイはぎょっとして飛んでもない事をした

(というふうに、すぐつつしみぶかいきゅうじらしく、そこそこにへやをでていった。)

というふうに、すぐ慎み深い給仕らしく、そこそこに部屋を出て行った。

(じむちょうははまきのけむりにかおをしかめながら、しゃんぺんをついでぼんをようこのほうに)

事務長は葉巻の煙に顔をしかめながら、シャンペンをついで盆を葉子のほうに

(さしだした。ようこはだまってたったままてをのばした。なにをするにもこころにもない)

さし出した。葉子は黙って立ったまま手を延ばした。何をするにも心にもない

(つくりごとをしているようだった。このみじかいしゅんかんに、いままでのできごとでいいかげん)

作り事をしているようだった。この短い瞬間に、今までの出来事でいいかげん

(みだれていたこころは、みのはめつがとうとうきてしまったのだというおそろしいよそうに)

乱れていた心は、身の破滅がとうとう来てしまったのだというおそろしい予想に

(おしひしがれて、あたまはこおりでまかれたようにつめたくけうとくなった。むねから)

押しひしがれて、頭は氷で巻かれたように冷たく気(け)うとくなった。胸から

(のどもとにつきあげてくるつめたいそしてあついたまのようなものをおおしく)

喉もとにつきあげて来る冷たいそして熱い球のようなものを雄々しく

(のみこんでものみこんでもなみだがややともするとめがしらをあつくうるおしてきた。)

飲み込んでも飲み込んでも涙がややともすると目がしらを熱くうるおして来た。

(うすでのこっぷにあわをたててもられたこがねいろのさけはようこのてのなかでこまかいさざなみを)

薄手のコップに泡を立てて盛られた黄金色の酒は葉子の手の中で細かいさざ波を

(たてた。ようこはそれをけどられまいと、しいてひだりのてをかるくあげてびんのけをかき)

立てた。葉子はそれを気取られまいと、しいて左の手を軽くあげて鬢の毛をかき

(あげながら、こっぷをじむちょうのとうちあわせたが、それをきっかけにがんでも)

上げながら、コップを事務長のと打ち合わせたが、それをきっかけに願でも

(ほどけたようにいままでからくもちこたえていたじせいはねこそぎくずされて)

ほどけたように今までからく持ちこたえていた自制は根こそぎくずされて

(しまった。じむちょうがこっぷをきようにくちびるにあてて、あおむきかげんにのみほす)

しまった。事務長がコップを器用に口びるにあてて、仰向きかげんに飲みほす

(あいだ、ようこははいをてにもったまま、ぐびりぐびりとうごくおとこののどをみつめていたが、)

間、葉子は杯を手に持ったまま、ぐびりぐびりと動く男の喉を見つめていたが、

(いきなりじぶんのはいをのまないままぼんのうえにかえして、「よくもあなたはそんなに)

いきなり自分の杯を飲まないまま盆の上にかえして、「よくもあなたはそんなに

(へいきでいらっしゃるのね」とちからをこめるつもりでいったそのこえはいくじなくも)

平気でいらっしゃるのね」と力をこめるつもりでいったその声はいくじなくも

(なかんばかりにふるえていた。そしてせきをきったようになみだがながれでようとするのを)

泣かんばかりに震えていた。そして堰を切ったように涙が流れ出ようとするのを

(いときりばでかみきるばかりにしいてくいとめた。)

糸切り歯でかみきるばかりにしいてくいとめた。

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