有島武郎 或る女㊴

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(けっくふねのなかのひとたちからどがいしされるのをきやすいこととまではおもわないでも、)

結句船の中の人たちから度外視されるのを気安い事とまでは思わないでも、

(ようこはかかるけっかにはいっこうむとんじゃくだった。もうふねはきょう)

葉子はかかる結果にはいっこう無頓着(むとんじゃく)だった。もう船はきょう

(しやとるにつくのだ。たがわふじんやそのほかのせんきゃくたちのいわゆる「かんし」のしたに)

シヤトルに着くのだ。田川夫人やそのほかの船客たちのいわゆる「監視」の下に

(にがにがしいおもいをするのもきょうかぎりだ。そうようこはへいきでかんがえていた。しかし)

苦々しい思いをするのもきょう限りだ。そう葉子は平気で考えていた。しかし

(ふねがしやとるにつくということは、ようこにほかのふあんをもちきたさずには)

船がシヤトルに着くという事は、葉子にほかの不安を持ちきたさずには

(おかなかった。しかごにいってはんとしかいちねんきむらとつれそうほかはあるまいとも)

おかなかった。シカゴに行って半年か一年木村と連れ添うほかはあるまいとも

(おもった。しかしきべのときでもにかげつとはどうせいしていなかったともおもった。くらちと)

思った。しかし木部の時でも二か月とは同棲していなかったとも思った。倉地と

(はなれてはいちにちでもいられそうにはなかった。しかしこんなことをかんがえるにはふねが)

離れては一日でもいられそうにはなかった。しかしこんな事を考えるには船が

(しやとるについてからでもみっかやよっかのよゆうはある。くらちはそのことはだいいちに)

シヤトルに着いてからでも三日や四日の余裕はある。倉地はその事は第一に

(かんがえてくれているにちがいない。ようこはいまのへいわをしいてこんなもんだいでかきみだす)

考えてくれているに違いない。葉子は今の平和をしいてこんな問題でかき乱す

(ことをほっしなかったばかりでなくとてもできなかった。ようこはそのくせ、せんきゃくと)

事を欲しなかったばかりでなくとてもできなかった。葉子はそのくせ、船客と

(かおをみあわせるのがふかいでならなかったので、じむちょうにたのんでふなばしにあげて)

顔を見合わせるのが不快でならなかったので、事務長に頼んで船橋に上げて

(もらった。ふねはいませとうちのようなせまいうちうみをどうようもなくすすんでいた。せんちょうは)

もらった。船は今瀬戸内のような狭い内海を動揺もなく進んでいた。船長は

(びくとりあでやといいれたみずさきあんないとふたりならんでたっていたが、ようこを)

ビクトリアで傭(やと)い入れた水先案内と二人ならんで立っていたが、葉子を

(みるといつものとおりかおをまっかにしながらぼうしをとってあいさつした。)

見るといつものとおり顔をまっ赤にしながら帽子を取って挨拶した。

(びすまーくのようなかおをして、せんちょうよりひとがけもふたがけもおおきいはくはつの)

ビスマークのような顔をして、船長より一がけも二がけも大きい白髪の

(みずさきあんないはふとふりかえってじっとようこをみたが、そのままむきなおって、)

水先案内はふと振り返ってじっと葉子を見たが、そのまま向きなおって、

(「charmin’littlelassie!wha’isthat?」)

「Charmin’little lassie!wha’is that?」

(とすこっとらんどふうなつよいはつおんでせんちょうにたずねた。ようこにはわからないつもりで)

とスコットランド風な強い発音で船長に尋ねた。葉子にはわからないつもりで

(いったのだ。せんちょうがあわててなにかささやくと、ろうじんはからからとわらってちょっと)

いったのだ。船長があわてて何かささやくと、老人はからからと笑ってちょっと

など

(くびをひっこませながら、もういちどふりかえってようこをみた。そのどくけなく)

首を引っ込ませながら、もう一度振り返って葉子を見た。その毒気なく

(からからとわらうこえが、おそろしくきにいったばかりでなく、かわいてはれわたった)

からからと笑う声が、恐ろしく気に入ったばかりでなく、かわいて晴れ渡った

(あきのあさのそらとなんともいえないちょうわをしているとおもいながらようこはきいた。)

秋の朝の空となんともいえない調和をしていると思いながら葉子は聞いた。

(そしてそのろうじんのせなかでもなでてやりたいようなきになった。ふねは)

そしてその老人の背中でもなでてやりたいような気になった。船は

(こゆるぎもせずにあめりかのまつのはえしげったおおしまこじまのあいだをぬって、)

小動(こゆる)ぎもせずにアメリカの松の生え茂った大島小島の間を縫って、

(げんそくにきてぶつかるさざなみのおとものどかだった。そしてひるちかくなってちょっと)

舷側に来てぶつかるさざ波の音ものどかだった。そして昼近くなってちょっと

(したみさきをくるりとふねがかわすと、やがてぽーと・たうんせんどについた。)

した岬をくるりと船がかわすと、やがてポート・タウンセンドに着いた。

(そこではべいこくかんけんのけんさがかたばかりあるのだ。くずしたがけのつちでうめたてをして)

そこでは米国官憲の検査が型ばかりあるのだ。くずした崕の土で埋め立てをして

(つくった、さんばしまでちいさなぎょそんで、しかくなはこにまどをあけたような、なまなましいいっしょくの)

造った、桟橋まで小さな漁村で、四角な箱に窓を明けたような、生々しい一色の

(ぺんきでぬりたてたにさんかいだてのやなみが、けわしいしゃめんにそうて、たかくひくく)

ペンキで塗り立てた二三階建ての家並みが、けわしい斜面に沿うて、高く低く

(たちつらなって、おかのうえにはみずあげのふうしゃが、あおぞらにしろいはねをゆるゆるうごかし)

立ち連なって、丘の上には水上げの風車が、青空に白い羽根をゆるゆる動かし

(ながら、かったんこっとんとのんきらしくおとをたててまわっていた。)

ながら、かったんこっとんとのんきらしく音を立てて回っていた。

(かもめがむれをなしてねこににたこえでなきながら、ふねのまわりをみずにちかく)

鴎(かもめ)が群れをなして猫に似た声でなきながら、船のまわりを水に近く

(のどかにとびまわるのをみるのも、ようこにはたえてひさしいものめずらしさだった。あめやの)

のどかに飛び回るのを見るのも、葉子には絶えて久しい物珍しさだった。飴屋の

(よびうりのようなこえさえまちのほうからきこえてきた。ようこはちゃーと・るーむの)

呼び売りのような声さえ町のほうから聞こえて来た。葉子はチャート・ルームの

(かべにもたれかかって、ぽかぽかとさすあきのひのひかりをあたまからあびながら、しずかな)

壁にもたれかかって、ぽかぽかとさす秋の日の光を頭から浴びながら、静かな

(めぐみぶかいこころで、このちいさなまちのちいさなせいかつのすがたをながめやった。そしてじゅうよっかの)

恵み深い心で、この小さな町の小さな生活の姿をながめやった。そして十四日の

(こうかいのあいだに、いつのまにかうみのこころをこころとしていたのにきがついた。)

航海の間に、いつのまにか海の心を心としていたのに気がついた。

(ほうらつな、うつりぎな、そうぞうもおよばぬぱっしょんにのたうちまわって)

放埒(ほうらつ)な、移り気な、想像も及ばぬパッションにのたうち回って

(うめきなやむあのおおうなばらーーようこはうしなわれたらくえんをしたいのぞむいヴのように、)

うめきなやむあの大海原ーー葉子は失われた楽園を慕い望むイヴのように、

(しずかにちいさくうねるみずのしわをみやりながら、はるかなうみのうえのたびじをおもい)

静かに小さくうねる水の皺を見やりながら、はるかな海の上の旅路を思い

(やった。「さつきさん、ちょっとそこからでいい、かおをかしてください」すぐしたで)

やった。「早月さん、ちょっとそこからでいい、顔を貸してください」すぐ下で

(じむちょうのこういうこえがきこえた。ようこはははによびたてられたしょうじょのように、)

事務長のこういう声が聞こえた。葉子は母に呼び立てられた少女のように、

(うれしさにこころをときめかせながら、ふなばしのてすりからしたをみおろした。)

うれしさに心をときめかせながら、船橋の手欄から下を見おろした。

(そこにじむちょうがたっていた。「onemoreoverthere,)

そこに事務長が立っていた。「One more over there,

(look!」こういいながら、べいこくのぜいかんりらしいひとにようこをゆびさしてみせた。)

look!」こういいながら、米国の税関吏らしい人に葉子を指さして見せた。

(かんりはうなずきながらてちょうになにかかきいれた。ふねはまもなくこのぎょそんを)

官吏はうなずきながら手帳に何か書き入れた。船はまもなくこの漁村を

(しゅっぱつしたが、しゅっぱつするとまもなくじむちょうはふなばしにのぼってきた。)

出発したが、出発するとまもなく事務長は船橋にのぼって来た。

(「hereweare!seatleisgoodas)

「Here we are!Seatle is good as

(reachednow.」せんちょうにともなくようこにともなくいっておいて、)

reached now.」船長にともなく葉子にともなくいって置いて、

(みずさきあんないとあくしゅをしながら、「thankstoyou.」とつけたした。)

水先案内と握手をしながら、「Thanks to you.」と付け足した。

(そしてさんにんでしばらくかいかつによもやまのはなしをしていたが、ふとおもいだしたように)

そして三人でしばらく快活に四方山の話をしていたが、ふと思い出したように

(ようこをかえりみて、「これからまたとうぶんはめがまわるほどいそがしくなるで、そのまえに)

葉子を顧みて、「これからまた当分は目が回るほど忙しくなるで、その前に

(ちょっとごそうだんがあるんだが、したにきてくれませんか」といった。ようこはせんちょうに)

ちょっと御相談があるんだが、下に来てくれませんか」といった。葉子は船長に

(ちょっとあいさつをのこして、すぐじむちょうのあとにつづいた。はしごだんをおりるときでも、)

ちょっと挨拶を残して、すぐ事務長のあとに続いた。階子段を降りる時でも、

(めのさきにみえるがんじょうなひろいかたからいっしゅのふあんがぬけでてきてようこにせまることは)

目の先に見える頑丈な広い肩から一種の不安が抜け出て来て葉子に逼る事は

(もうなかった。じぶんのへやのまえまでくると、じむちょうはようこのかたにてをかけてとを)

もうなかった。自分の部屋の前まで来ると、事務長は葉子の肩に手をかけて戸を

(あけた。へやのなかにはさんよにんのおとこがこくたちこめたたばこのけむりのなかにところせまく)

あけた。部屋の中には三四人の男が濃く立ちこめた煙草の煙の中に所狭く

(たったりこしをかけたりしていた。そこにはこうろくのかおもみえた。じむちょうはへいきで)

立ったり腰をかけたりしていた。そこには興録の顔も見えた。事務長は平気で

(ようこのかたにてをかけたままはいっていった。それはしじゅうじむちょうやせんいと)

葉子の肩に手をかけたままはいって行った。それは始終事務長や船医と

(ひとかたまりのぐるーぷをつくって、さるんのちいさなてーぶるをかこんでういすきーを)

一かたまりのグループを作って、サルンの小さなテーブルを囲んでウイスキーを

(かたむけながら、ときどきほかのせんきゃくのかいわにむえんりょなひにくやちゃちゃをいれたりするれんちゅう)

傾けながら、時々他の船客の会話に無遠慮な皮肉や茶々を入れたりする連中

(だった。にほんじんがきるといかにもいやみにみえるあめりかふうのせびろも、さして)

だった。日本人が着るといかにもいや味に見えるアメリカ風の背広も、さして

(とってつけたようにはみえないほど、たいへいようをいくどもおうらいしたらしいひとたちで、)

取ってつけたようには見えないほど、太平洋を幾度も往来したらしい人たちで、

(どんなしょくぎょうにじゅうじしているのか、そういうみわけにはひといちばいえいびんなかんさつりょくを)

どんな職業に従事しているのか、そういう見分けには人一倍鋭敏な観察力を

(もっているようこにすらけんとうがつかなかった。ようこがはいっていっても、かれらは)

持っている葉子にすら見当がつかなかった。葉子がはいって行っても、彼らは

(かくべつじぶんたちのなまえをなのるでもなく、いちばんあんらくないすにこしかけていた)

格別自分たちの名前を名乗るでもなく、いちばん安楽な椅子に腰かけていた

(おとこが、それをようこにゆずって、じぶんはふたつにおれるようにちいさくなって、すでに)

男が、それを葉子に譲って、自分は二つに折れるように小さくなって、すでに

(ひとりこしかけているしんだいにまがりこむと、いちどうはそのようすにこえをたててわらったが、)

一人腰かけている寝台に曲がりこむと、一同はその様子に声を立てて笑ったが、

(すぐまたまえどおりへいきなかおをしてかってなくちをききはじめた。それでもいちざは)

すぐまた前どおり平気な顔をして勝手な口をきき始めた。それでも一座は

(じむちょうにはいちもくおいているらしく、またじむちょうとようことのかんけいも、じむちょうから)

事務長には一目置いているらしく、また事務長と葉子との関係も、事務長から

(のこらずきかされているようすだった。ようこはそういうひとたちのあいだにあるのをけっく)

残らず聞かされている様子だった。葉子はそういう人たちの間にあるのを結句

(きやすくおもった。かれらはようこをかきゅうせんいんのいわゆる「あねご」あつかいにしていた。)

気安く思った。彼らは葉子を下級船員のいわゆる「姉御」扱いにしていた。

(「むこうについたらこれでもんちゃくものだぜ。たがわのかかあめ、あいつ、)

「向こうに着いたらこれで悶着ものだぜ。田川の嚊(かかあ)め、あいつ、

(ひとみそすらずにおくまいて」「いんごうなうまれだなあ」「なんでもしょうめんから)

一味噌すらずにおくまいて」「因業な生まれだなあ」「なんでも正面から

(ぶっつかって、いさくさいわせずきめてしまうほかはないよ」などとかれらは)

ぶっ突かって、いさくさいわせず決めてしまうほかはないよ」などと彼らは

(じょうだんぶったくちょうでしんみなこころもちをいいあらわした。じむちょうはまゆも)

戯談(じょうだん)ぶった口調で親身な心持ちをいい現わした。事務長は眉も

(うごかさずに、つくえによりかかってだまっていた。ようこはこれらのことばからそこに)

動かさずに、机によりかかって黙っていた。葉子はこれらの言葉からそこに

(いあわすひとびとのせいしつやけいこうをよみとろうとしていた。こうろくのほかにさんにんいた。)

居合わす人々の性質や傾向を読み取ろうとしていた。興録のほかに三人いた。

(そのなかのひとりはかいきのどてらをきていた。「このままこのふねで)

その中の一人は甲斐絹(かいき)のどてらを着ていた。「このままこの船で

(おかえりなさるがいいね」とそのどてらをきたちゅうねんのよわたりこうしゃらしいのがようこの)

お帰りなさるがいいね」とそのどてらを着た中年の世渡り巧者らしいのが葉子の

(かおをうかがいうかがいいうと、じむちょうはすこしくったくらしいかおをしてものうげに)

顔を窺い窺いいうと、事務長は少し屈託らしい顔をして物懶(ものう)げに

(ようこをみやりながら、「わたしもそうおもうんだがどうだ」とたずねた。ようこは、)

葉子を見やりながら、「わたしもそう思うんだがどうだ」とたずねた。葉子は、

(「さあ・・・」となまへんじをするほかなかった。はじめてくちをきくいくにんものおとこの)

「さあ・・・」と生返事をするほかなかった。始めて口をきく幾人もの男の

(まえで、とっかはものをいうのがさすがにおっくうだった。こうろくはじむちょうのいこうをよんで)

前で、とっかは物をいうのがさすがに億劫だった。興録は事務長の意向を読んで

(とると、ふんべつぶったかおをさしだして、「それにかぎりますよ。あなたひとつびょうきに)

取ると、分別ぶった顔をさし出して、「それに限りますよ。あなた一つ病気に

(おなりなさりゃせわなしですさ。じょうりくしたところがきゅうにうごくようにはなれない。)

おなりなさりゃ世話なしですさ。上陸したところが急に動くようにはなれない。

(またそういうからだではけんえきがとやかくやかましいにちがいないし、このあいだの)

またそういうからだでは検疫がとやかくやかましいに違いないし、この間の

(ようにけんえきじょでまっぱだかにされるようなことでもおこれば、こくさいもんだいだの)

ように検疫所でまっ裸にされるような事でも起これば、国際問題だの

(なんだのってしまつにおえなくなる。それよりはしゅっぱんまでふねにねていらっしゃる)

なんだのって始末におえなくなる。それよりは出帆まで船に寝ていらっしゃる

(ほうがいいと、そこはわたしがだいじょうぶやりますよ。そしておいてふねのでぎわになって)

ほうがいいと、そこは私が大丈夫やりますよ。そしておいて船の出ぎわになって

(やはりどうしてもいけないといえばそれっきりのもんでさあ」「なに、たがわの)

やはりどうしてもいけないといえばそれっきりのもんでさあ」「なに、田川の

(おくさんが、きむらっていうのに、みそさえしこたますってくれればいちばんええの)

奥さんが、木村っていうのに、味噌さえしこたますってくれればいちばんええの

(だが」とじむちょうはせんいのことばをむししたようすで、じぶんのおもうとおりを)

だが」と事務長は船医の言葉を無視した様子で、自分の思うとおりを

(ぶっきらぼうにいってのけた。)

ぶっきらぼうにいってのけた。

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