有島武郎 或る女㊶

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(とがあいた。「とがあいた」、ようこはじぶんじしんにすくいをもとめるように、こうこころの)

戸があいた。「戸があいた」、葉子は自分自身に救いを求めるように、こう心の

(なかでうめいた。そしていきもとまるほどみうちがしゃちこばってしまっていた。)

中でうめいた。そして息気もとまるほど身内がしゃちこばってしまっていた。

(「さつきさん、きむらさんがみえましたよ」じむちょうのこえだ。ああじむちょうのこえだ。)

「早月さん、木村さんが見えましたよ」事務長の声だ。ああ事務長の声だ。

(じむちょうのこえだ。ようこはみをふるわせてかべのほうにかおをむけた。・・・じむちょうの)

事務長の声だ。葉子は身を震わせて壁のほうに顔を向けた。・・・事務長の

(こえだ・・・。「ようこさん」きむらのこえだ。こんどはかんじょうにふるえたきむらのこえがきこえて)

声だ・・・。「葉子さん」木村の声だ。今度は感情に震えた木村の声が聞こえて

(きた。ようこはきがくるいそうだった。とにかくふたりのかおをみることはどうしても)

来た。葉子は気が狂いそうだった。とにかく二人の顔を見る事はどうしても

(できない。ようこはふたりにうしろをむけますますかべのほうにもがきより)

できない。葉子は二人に背(うし)ろを向けますます壁のほうにもがきより

(ながら、なみだのひまからきょうじんのようにさけんだ。たちまちたかくたちまちひくいその)

ながら、涙の暇から狂人のように叫んだ。たちまち高くたちまち低いその

(ふるえごえはわらっているようにさえきこえた。「でて・・・おふたりともどうか)

震え声は笑っているようにさえ聞こえた。「出て・・・お二人ともどうか

(でて・・・このへやを・・・ごしょうですからいまこのへやを・・・でてください)

出て・・・この部屋を・・・後生ですから今この部屋を・・・出てください

(まし・・・」きむらはひどくふあんげにようこによりそってそのかたにてをかけた。)

まし・・・」木村はひどく不安げに葉子によりそってその肩に手をかけた。

(きむらのてをかんずるときょうふとけんおのためにみをちぢめてかべにしがみついた。)

木村の手を感ずると恐怖と嫌悪のために身をちぢめて壁にしがみついた。

(「いたい・・・いけません・・・おなかが・・・はやくでて・・・はやく・・・」)

「痛い・・・いけません・・・お腹が・・・早く出て・・・早く・・・」

(じむちょうはきむらをよびよせてなにかしばらくひそひそはなしあっているようだったが、)

事務長は木村を呼び寄せて何かしばらくひそひそ話し合っているようだったが、

(ふたりながらあしおとをぬすんでそっとへやをでていった。ようこはなおもいきも)

二人ながら足音を盗んでそっと部屋を出て行った。葉子はなおも息気も

(たえだえに、「どうぞでて・・・あっちにいって・・・」といいながら、)

絶え絶えに、「どうぞ出て・・・あっちに行って・・・」といいながら、

(いつまでもなきつづけた。)

いつまでも泣き続けた。

(じゅうくしばらくのあいだしょくどうでじむちょうととおりいっぺんのはなしでもしているらしい)

【一九】 しばらくの間食堂で事務長と通り一ぺんの話でもしているらしい

(きむらが、ころをみはからってさいどようこのへやのとをたたいたときにも、ようこはまだ)

木村が、ころを見計らって再度葉子の部屋の戸をたたいた時にも、葉子はまだ

(まくらにかおをふせて、ふしぎなかんじょうのうずまきのなかにこころをひたしていたが、きむらがひとりで)

枕に顔を伏せて、不思議な感情の渦巻きの中に心を浸していたが、木村が一人で

など

(はいってきたのにきづくと、はじめてよわよわしくよこむきにねなおって、にのうでまで)

はいって来たのに気づくと、始めて弱々しく横向きに寝なおって、二の腕まで

(そでぐちのまくれたまっしろなてをさしのべて、だまったままきむらとあくしゅした。きむらは)

袖口のまくれたまっ白な手をさし延べて、黙ったまま木村と握手した。木村は

(ようこのはげしくないたのをみてから、こらえこらえていたかんじょうがさらにこうじた)

葉子の激しく泣いたのを見てから、こらえこらえていた感情がさらに嵩じた

(ものか、なみだをあふれんばかりめがしらにためて、あつぼったいくちびるをふるわせ)

ものか、涙をあふれんばかり目がしらにためて、厚ぼったい口びるを震わせ

(ながら、いたいたしげにようこのかおつきをみいってつったった。ようこはいままでつづけて)

ながら、痛々しげに葉子の顔つきを見入って突っ立った。葉子は今まで続けて

(いたちんもくのだせいでだいいっこうをきくのがものうかったし、きむらはなんといい)

いた沈黙の惰性で第一口をきくのが物懶(ものう)かったし、木村はなんといい

(だしたものかまようようすで、ふたりのあいだにはあくしゅのままいみぶかげなちんもくがとりかわ)

出したものか迷う様子で、二人の間には握手のまま意味深げな沈黙が取りかわ

(された。そのちんもくはしかしかんしょうてきというていどであるにはあまりにながくつづきすぎた)

された。その沈黙はしかし感傷的という程度であるにはあまりに長く続き過ぎた

(ので、がいかいのしげきにおうじてかびんなまでにみちひのできるようこのかんじょうは)

ので、外界の刺激に応じて過敏なまでに 満干(みちひ)のできる葉子の感情は

(いままでひたっていたつうれつなどうらんからひとかわひとかわひょうじょうにかえって、はてはそのそこに、)

今まで浸っていた痛烈な動乱から一皮一皮平調に還って、果てはその底に、

(こうこうじてはいとわしいとじぶんですらがおもうようなひややかなひにくが、そろそろ)

こう嵩じてはいとわしいと自分ですらが思うような冷ややかな皮肉が、そろそろ

(あたまをもちあげるのをかんじた。にぎりあわせたむずかゆいようなてをひっこめて、)

頭を持ち上げるのを感じた。握り合わせたむずかゆいような手を引っ込めて、

(めもとまでふとんをかぶって、そこからじぶんのまえにたつわかいおとこのこころのみだれを)

目もとまでふとんをかぶって、そこから自分の前に立つ若い男の心の乱れを

(あざわらってみたいようなこころにすらなっていた。ながくつづくちんもくがとうぜんひきおこす)

嘲笑ってみたいような心にすらなっていた。長く続く沈黙が当然ひき起こす

(いっしゅのあっぱくをきむらもかんじてうろたえたらしく、なんとかしてふたりのあいだのきまずさ)

一種の圧迫を木村も感じてうろたえたらしく、なんとかして二人の間の気まずさ

(をひきさくような、こころのせつなさをあらわすてきとうのことばをあんじもとめているらしかった)

を引き裂くような、心の切なさを表わす適当の言葉を案じ求めているらしかった

(が、とうとうなみだにうるおったひくいこえで、もういちど、「ようこさん」とあいするもののなを)

が、とうとう涙に潤った低い声で、もう一度、「葉子さん」と愛するものの名を

(よんだ。それはさきほどよばれたときのそれにくらべると、ききちがえるほどうつくしいこえ)

呼んだ。それは先ほど呼ばれた時のそれに比べると、聞き違えるほど美しい声

(だった。ようこは、いままで、これほどせつなじょうをこめてじぶんのなをよばれたことはない)

だった。葉子は、今まで、これほど切な情をこめて自分の名を呼ばれた事はない

(ようにさえおもった。「ようこ」というなにきわだってでんきてきなしきさいがそえられた)

ようにさえ思った。「葉子」という名にきわ立って伝奇的な色彩が添えられた

(ようにもきこえた。で、ようこはわざときむらとにぎりあわせたてにちからをこめて、)

ようにも聞こえた。で、葉子はわざと木村と握り合わせた手に力をこめて、

(さらになんとかことばをつがせてみたくなった。そのめもきむらのくちびるにはげましを)

さらになんとか言葉をつがせてみたくなった。その目も木村の口びるに励ましを

(あたえていた。きむらはきゅうにべんりょくをかいふくして、「いちにちせんしゅうのおもいとはこのことです」)

与えていた。木村は急に弁力を回復して、「一日千秋の思いとはこの事です」

(とすらすらとなめらかにいってのけた。それをきくとようこはみごときたいに)

とすらすらとなめらかにいってのけた。それを聞くと葉子はみごと期待に

(しょいなげをくわされてそのばのこっけいにおもわずふきだそうとしたが、)

背負投(しょいな)げをくわされてその場の滑稽に思わずふき出そうとしたが、

(いかにじむちょうにたいするこいにおぼれきったおんなごころのざんぎゃくさからも、さすがにきむらの)

いかに事務長に対する恋におぼれきった女心の残虐さからも、さすがに木村の

(たいないせいじつをわらいきることはえしないで、ようこはただこころのなかでしつぼうしたように)

他意ない誠実を笑いきる事は得しないで、葉子はただ心の中で失望したように

(「あれだからいやになっちまう」とくさくさしながらかこった。しかし)

「あれだからいやになっちまう」とくさくさしながら喞(かこ)った。しかし

(このばあい、きむらとどうよう、ようこもかっこうなくうきをへやのなかにつくることにとうわくせずには)

この場合、木村と同様、葉子も格好な空気を部屋の中に作る事に当惑せずには

(いられなかった。じむちょうとわかれてじぶんのへやにとじこもってから、こころしずかに)

いられなかった。事務長と別れて自分の部屋に閉じこもってから、心静かに

(かんがえておこうとしたきむらにたいするぜんごさくも、おもいよらぬかんじょうのくるいから)

考えて置こうとした木村に対する善後策も、思いよらぬ感情の狂いから

(そのままになってしまって、いまになってみると、ようこはどうきむらをもて)

そのままになってしまって、今になってみると、葉子はどう木村をもて

(あつかっていいのか、はっきりしたもくろみはできていなかった。しかしかんがえて)

あつかっていいのか、はっきりした目論見はできていなかった。しかし考えて

(みると、きべこきょうとわかれたときでも、ようこにはかくべつこれというぼうりゃくがあったわけ)

みると、木部孤筇と別れた時でも、葉子には格別これという謀略があったわけ

(ではなく、ただそのときどきにわがままをふるまったにすぎなかったのだけれども、)

ではなく、ただその時々にわがままを振る舞ったに過ぎなかったのだけれども、

(そのけっかはようこはなにかおそろしくふかいたくらみとてくだをしめしたかのように)

その結果は葉子は何か恐ろしく深い企みと 手練(てくだ)を示したかのように

(ひとにとられていたこともおもった。なんとかしてこぎぬけられないことはあるまい。)

人に取られていた事も思った。なんとかして漕ぎ抜けられない事はあるまい。

(そうおもって、まずおちつきはらってきむらにいすをすすめた。きむらがてぢかにある)

そう思って、まず落ち付き払って木村に椅子をすすめた。木村が手近にある

(たたみいすをとりあげてしんだいのそばにきてすわると、ようこはまたしなやかなてを)

畳み椅子を取り上げて寝台のそばに来てすわると、葉子はまたしなやかな手を

(きむらのひざのうえにおいて、おとこのかおをしげしげとみやりながら、「ほんとうに)

木村の膝の上において、男の顔をしげしげと見やりながら、「ほんとうに

(しばらくでしたわね。すこしおやつれになったようですわ」といってみた。きむらは)

しばらくでしたわね。少しおやつれになったようですわ」といってみた。木村は

(じぶんのかんじょうにうちまかされてみをふるわしていた。そしてわくわくとながれでるなみだが)

自分の感情に打ち負かされて身を震わしていた。そしてわくわくと流れ出る涙が

(みるみるめからあふれて、かおをつたっていくすじとなくながれおちた。ようこは、そのなみだ)

見る見る目からあふれて、顔を伝って幾筋となく流れ落ちた。葉子は、その涙

(ひとしずくがきまぐれにも、うつむいたおとこのはなのさきにやどって、おちそうでおちない)

一しずくが気まぐれにも、うつむいた男の鼻の先に宿って、落ちそうで落ちない

(のをみやっていた。「ずいぶんいろいろとくろうなすったろうとおもって、)

のを見やっていた。「ずいぶんいろいろと苦労なすったろうと思って、

(きがきではなかったんですけれども、わたしのほうもごしょうちのとおりでしょう。)

気が気ではなかったんですけれども、わたしのほうも御承知のとおりでしょう。

(こんどこっちにくるにつけても、それはこまって、ありったけのものをはらったり)

今度こっちに来るにつけても、それは困って、ありったけのものを払ったり

(して、ようやくまにあわせたくらいだったもんですから・・・」なおいおうと)

して、ようやく間に合わせたくらいだったもんですから・・・」なおいおうと

(するのをきむらはせわしくうちけすようにさえぎって、「それはじゅうぶんわかって)

するのを木村は忙しく打ち消すようにさえぎって、「それは充分わかって

(います」とかおをあげたひょうしになみだのしずくがぽたりとはなのさきからずぼんのうえに)

います」と顔を上げた拍子に涙のしずくがぽたりと鼻の先からズボンの上に

(おちたのをみた。ようこは、ないたためにみょうにはれぼったくあかくなって、)

落ちたのを見た。葉子は、泣いたために妙に 脹(は)れぼったく赤くなって、

(てらてらとひかるきむらのはなのさきがきゅうにきになりだして、わるいとはしりながらも、)

てらてらと光る木村の鼻の先が急に気になり出して、悪いとは知りながらも、

(ともするとそこへばかりめがいった。きむらはなにからどうはなしだしていいか)

ともするとそこへばかり目が行った。木村は何からどう話し出していいか

(わからないようすだった。「わたしのでんぽうをびくとりやでうけとったでしょうね」)

わからない様子だった。「わたしの電報をビクトリヤで受け取ったでしょうね」

(などともてれかくしのようにいった。ようこはうけとったおぼえもないくせに)

などともてれ隠しのようにいった。葉子は受け取った覚えもないくせに

(いいかげんに、「ええ、ありがとうございました」とこたえておいた。そして)

いいかげんに、「ええ、ありがとうございました」と答えておいた。そして

(いっときもはやくこんないきづまるようにあっぱくしてくるふたりのあいだのこころのもつれから)

一時も早くこんな息気づまるように圧迫して来る二人の間の心のもつれから

(のがれるすべはないかとしあんしていた。「いまはじめてじむちょうからきいたんですが、)

のがれる術はないかと思案していた。「今始めて事務長から聞いたんですが、

(あなたがびょうきだったといってましたが、いったいどこがわるかったんです。さぞ)

あなたが病気だったといってましたが、いったいどこが悪かったんです。さぞ

(こまったでしょうね。そんなこととはちっともしらずに、いまがいままで、しゅくふくされた、)

困ったでしょうね。そんな事とはちっとも知らずに、今が今まで、祝福された、

(かがやくようなあなたをむかえられるとばかりおもっていたんです。あなたはほんとうに)

輝くようなあなたを迎えられるとばかり思っていたんです。あなたはほんとうに

(しれんのうけつづけというもんですね。どこでしたわるいのは」ようこは、ふよういにも)

試練の受けつづけというもんですね。どこでした悪いのは」葉子は、不用意にも

(おんなをとらえてじかづけにびょうきのしゅるいをききただすおとこのこころのそざつさをいみながら、)

女を捕えてじかづけに病気の種類を聞きただす男の心の粗雑さを忌みながら、

(あたらずさわらず、まえからあったいびょうが、ふねのなかでしょくもつときこうとのかわった)

当たらずさわらず、前からあった胃病が、船の中で食物と気候との変わった

(ために、だんだんこうじてきておきられなくなったようにいいつくろった。きむらは)

ために、だんだん嵩じて来て起きられなくなったようにいい繕った。木村は

(いたましそうにまゆをよせながらきいていた。ようこはもうこんなほどほどなかいわには)

痛ましそうに眉を寄せながら聞いていた。葉子はもうこんな程々な会話には

(たえきれなくなってきた。きむらのかおをみるにつけておもいだされるせんだいじだいや、)

耐えきれなくなって来た。木村の顔を見るにつけて思い出される仙台時代や、

(ははのしというようなことにもかなりなやまされるのをつらくおもった。で、はなしのちょうしを)

母の死というような事にもかなり悩まされるのをつらく思った。で、話の調子を

(かえるためにしいていくらかかいかつをよそおって、「それはそうとこちらのごじぎょうは)

変えるためにしいていくらか快活を装って、「それはそうとこちらの御事業は

(いかが」としごととかようすとかいうかわりに、わざとじぎょうということばをつかって)

いかが」と仕事とか様子とかいう代わりに、わざと事業という言葉をつかって

(こうたずねた。きむらのかおつきはみるみるかわった。そしてむねのぽけっとに)

こう尋ねた。木村の顔つきは見る見る変わった。そして胸のポケットに

(のぞかせてあったおおきなりんねるのはんけちをとりだして、きようにかたてでそれを)

のぞかせてあった大きなリンネルのハンケチを取り出して、器用に片手でそれを

(ふわりとまるめておいて、ちんとはなをかんでから、またきようにそれをぽけっとに)

ふわりと丸めておいて、ちんと鼻をかんでから、また器用にそれをポケットに

(もどすと、「だめです」といかにもぜつぼうてきなちょうしでいったが、そのめはすでに)

戻すと、「だめです」といかにも絶望的な調子でいったが、その目はすでに

(わらっていた。)

笑っていた。

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