有島武郎 或る女㊻
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問題文
(ふねがしやとるについてからごろくにちたって、きむらはたがわふさいにもめんかいするきかいを)
船がシヤトルに着いてから五六日たって、木村は田川夫妻にも面会する機会を
(つくったらしかった。そのころからきむらはとつぜんわきめにもそれときがつくほどかんがえ)
造ったらしかった。そのころから木村は突然わき目にもそれと気が付くほど考え
(ぶかくなって、ともするとようこのことばすらききおとしてあわてたりすることが)
深くなって、ともすると葉子の言葉すら聞き落としてあわてたりする事が
(あった。そしてあるときとうとうひとりむねのなかにはおさめていられなくなったと)
あった。そしてある時とうとう一人胸の中には納めていられなくなったと
(みえて、「わたしにゃあなたがなぜあんなひととちかしくするかわかりませんがね」)
見えて、「わたしにゃあなたがなぜあんな人と近しくするかわかりませんがね」
(とじむちょうのことをうわさのようにいった。ようこはすこしふくぶにいたみをおぼえるのを)
と事務長の事をうわさのようにいった。葉子は少し腹部に痛みを覚えるのを
(ことさらこちょうしてわきばらをひだりてでおさえて、まゆをひそめながらきいていたが、)
ことさら誇張してわき腹を左手で押えて、眉をひそめながら聞いていたが、
(もっともらしくいくどもうなずいて、「それはほんとうにおっしゃるとおりです)
もっともらしく幾度もうなずいて、「それはほんとうにおっしゃるとおりです
(からなにもこのんでちかづきたいとはおもわないんですけれども、これまでずいぶん)
から何も好んで近づきたいとは思わないんですけれども、これまでずいぶん
(せわになっていますしね、それにああみえていておもいのほかしんせつぎのあるひとです)
世話になっていますしね、それにああ見えていて思いのほか親切気のある人です
(から、ぼーいでもすいふでもこわがりながらなついていますわ。おまけにわたし)
から、ボーイでも水夫でもこわがりながらなついていますわ。おまけにわたし
(おかねまでかりていますもの」とさもとうわくしたらしくいうと、「あなたおかねはなし)
お金まで借りていますもの」とさも当惑したらしくいうと、「あなたお金は無し
(ですか」きむらはようこのとうわくさをじぶんのかおにもあらわしていた。「それはおはなしした)
ですか」木村は葉子の当惑さを自分の顔にも現わしていた。「それはお話しした
(じゃありませんか」「こまったなあ」きむらはよほどこまりきったらしくにぎったてを)
じゃありませんか」「困ったなあ」木村はよほど困りきったらしく握った手を
(はなのしたにあてがって、したをむいたまましばらくしあんにくれていたが、「いくら)
鼻の下にあてがって、下を向いたまましばらく思案に暮れていたが、「いくら
(ほどかりになっているんです」「さあしんさつりょうやじようひんでひゃくえんちかくにもなって)
ほど借りになっているんです」「さあ診察料や滋養品で百円近くにもなって
(いますかしらん」「あなたはかねはまったくなしですね」きむらはさらにくりかえして)
いますかしらん」「あなたは金は全く無しですね」木村はさらに繰り返して
(いってためいきをついた。ようこはものなれぬおとうとをおしえいたわるように、「それにまんいち)
いってため息をついた。葉子は物慣れぬ弟を教えいたわるように、「それに万一
(わたしのびょうきがよくならないで、ひとまずにほんへでもかえるようになれば、)
わたしの病気がよくならないで、ひとまず日本へでも帰るようになれば、
(なおなおかえりのふねのなかではせわにならなければならないでしょう。・・・でも)
なおなお帰りの船の中では世話にならなければならないでしょう。・・・でも
(だいじょうぶそんなことはないとはおもいますけれども、さきざきまでのかんがえをつけて)
大丈夫そんな事はないとは思いますけれども、さきざきまでの考えをつけて
(おくのがたびにあればいちばんだいじですもの」きむらはなおもにぎったてをはなのしたに)
おくのが旅にあればいちばん大事ですもの」木村はなおも握った手を鼻の下に
(おいたなり、なんにもいわず、みうごきもせずかんがえこんでいた。ようこはすべなさそう)
置いたなり、なんにもいわず、身動きもせず考え込んでいた。葉子は術なさそう
(にきむらのそのかおをおもしろくおもいながらまじまじとみやっていた。きむらはふと)
に木村のその顔をおもしろく思いながらまじまじと見やっていた。木村はふと
(かおをあげてしげしげとようこをみた。なにかそこにじでもかいてありはしないかと)
顔を上げてしげしげと葉子を見た。何かそこに字でも書いてありはしないかと
(それをよむように。そしてだまったままふかぶかとたんそくした。「ようこさん。わたしは)
それを読むように。そして黙ったまま深々と嘆息した。「葉子さん。わたしは
(なにからなにまであなたをしんじているのがいいことなのでしょうか。あなたのみのため)
何から何まであなたを信じているのがいい事なのでしょうか。あなたの身のため
(ばかりおもってもいうほうがいいかともおもうんですが・・・」「ではおっしゃって)
ばかり思ってもいうほうがいいかとも思うんですが・・・」「ではおっしゃって
(くださいましななんでも」ようこのくちはすこししたしみをこめてじょうだんらしくこたえて)
くださいましななんでも」葉子の口は少し親しみをこめて冗談らしく答えて
(いたが、そのめからはきむらをだまらせるだけのひかりがいられていた。かるはずみなことを)
いたが、その目からは木村を黙らせるだけの光が射られていた。軽はずみな事を
(いやしくもいってみるがいい、あたまをさげさせないではおかないから。そうその)
いやしくもいってみるがいい、頭を下げさせないでは置かないから。そうその
(めはたしかにいっていた。きむらはおもわずじぶんのめをたじろがしてだまって)
目はたしかにいっていた。木村は思わず自分の目をたじろがして黙って
(しまった。ようこはかたいじにもめでつづけさまにきむらのかおをむちうった。きむらは)
しまった。葉子は片意地にも目で続けさまに木村の顔をむちうった。木村は
(そのしもとのひとつひとつをかんずるようにどぎまぎした。「さ、おっしゃって)
その笞(しもと)の一つ一つを感ずるようにどぎまぎした。「さ、おっしゃって
(くださいまし・・・さ」ようこはそのことばにはどこまでもこういとしんらいとをこめて)
くださいまし・・・さ」葉子はその言葉にはどこまでも好意と信頼とをこめて
(みせた。きむらはやはりちゅうちょしていた。ようこはいきなりてをのばしてきむらをしんだいに)
見せた。木村はやはり躊躇していた。葉子はいきなり手を延ばして木村を寝台に
(ひきよせた。そしてはんぶんおきあがってそのみみにちかくくちをよせながら、「あなた)
引きよせた。そして半分起きあがってその耳に近く口を寄せながら、「あなた
(みたいにみずくさいもののおっしゃりかたをなさるかたもないもんね。なんとでもおもって)
みたいに水臭い物のおっしゃりかたをなさる方もないもんね。なんとでも思って
(いらっしゃることをおっしゃってくださればいいじゃありませんか。・・・あ、)
いらっしゃる事をおっしゃってくださればいいじゃありませんか。・・・あ、
(いたい・・・いいえさしていたくもないの。なにをおもっていらっしゃるんだか)
痛い・・・いいえさして痛くもないの。何を思っていらっしゃるんだか
(おっしゃってくださいまし、ね、さ。なんでしょうねえ。うかがいたいことね。そんな)
おっしゃってくださいまし、ね、さ。なんでしょうねえ。伺いたい事ね。そんな
(たにんぎょうぎは・・・あ、あ、いたい、おおいたい・・・ちょっとここのところをおさえて)
他人行儀は・・・あ、あ、痛い、おお痛い・・・ちょっとここのところを押えて
(くださいまし。・・・さしこんできたようで・・・あ、あ」といいながら、めを)
くださいまし。・・・さし込んで来たようで・・・あ、あ」といいながら、目を
(つぶって、とこのうえにねたおれると、きむらのてをもちそえてじぶんのひばらをおさえ)
つぶって、床の上に寝倒れると、木村の手を持ち添えて自分の脾腹を押え
(さして、つらそうにはをくいしばってしーつにかおをうずめた。かたでつくいきが)
さして、つらそうに歯をくいしばってシーツに顔を埋めた。肩でつく息気が
(かすかにせっぱくのしーつをふるわした。きむらはあたふたしながら、いままでの)
かすかに雪白のシーツを震わした。木村はあたふたしながら、今までの
(ことばなどはそっちのけにしてかいほうにかかった。)
言葉などはそっちのけにして介抱にかかった。
(にじゅういちえじままるはしやとるについてからじゅうににちめにともづなをといてきこう)
【二一】絵島丸はシヤトルに着いてから十二日目に纜(ともづな)を解いて帰航
(するはずになっていた。そのしゅっぱつがあとみっかになったじゅうがつじゅうごにちに、きむらは、)
するはずになっていた。その出発があと三日になった十月十五日に、木村は、
(せんいのこうろくから、ようこはどうしてもひとまずきこくさせるほうがあんぜんだという)
船医の興録から、葉子はどうしてもひとまず帰国させるほうが安全だという
(さいごのせんこくをくだされてしまった。きむらはそのときにはもうだいたいかくごをきめていた。)
最後の宣告を下されてしまった。木村はその時にはもう大体覚悟を決めていた。
(かえろうとおもっているようこのしたごころをおぼろげながらみてとって、それをひるがえすことは)
帰ろうと思っている葉子の下心をおぼろげながら見て取って、それを翻す事は
(できないとあきらめていた。うんめいにじゅうじゅんなひつじのように、しかし)
できないとあきらめていた。運命に従順な羊のように、しかし
(しゅうねくしょうらいのきぼうをいのちにして、げんざいのふまんにふくじゅうしようとして)
執念(しゅうね)く将来の希望を命にして、現在の不満に服従しようとして
(いた。いどのたかいしやとるにふゆのおそいかかってくるさまはすさまじいもの)
いた。緯度の高いシヤトルに冬の襲いかかって来るさまはすさまじいもの
(だった。かいがんせんにそうてはるかとおくまでれんぞくしてみわたされるろっきーのやまやまは)
だった。海岸線に沿うてはるか遠くまで連続して見渡されるロッキーの山々は
(もうたっぷりとゆきがかかって、おだやかなゆうぞらにあらわれなれたくものみねも、ふるわたの)
もうたっぷりと雪がかかって、穏やかな夕空に現われ慣れた雲の峰も、古綿の
(ようにかたちのくずれたいろのさむいあられぐもにかわって、ひとをおびやかす)
ように形のくずれた色の寒い霰雲(あられぐも)に変わって、人をおびやかす
(しろいものが、いまにもちをはらってふりおろしてくるかとおもわれた。うみぞいにはえ)
白いものが、今にも地を払って降りおろして来るかと思われた。海ぞいに生え
(そろったあめりかまつのみどりばかりがどくどくしいほどくろずんで、めにたつばかりで、)
そろったアメリカ松の翠ばかりが毒々しいほど黒ずんで、目に立つばかりで、
(かつようじゅのたぐいは、いつのまにか、はをはらいおとしたえださきをはりの)
濶葉樹(かつようじゅ)の類は、いつのまにか、葉を払い落とした枝先を針の
(ようにするどくそらにむけていた。しやとるのまちなみがあるとおもわれるあたりからは)
ように鋭く空に向けていた。シヤトルの町並みがあると思われるあたりからは
(ーーふねのつながれているところからしがいはみえなかったーーきゅうにばいえんがたち)
ーー船のつながれている所から市街は見えなかったーー急に煤煙が立ち
(まさって、せわしくふゆじたくをととのえながら、やがてきたはんきゅうをつつんでせめよせて)
増さって、せわしく冬じたくを整えながら、やがて北半球を包んで攻め寄せて
(くるまっしろなかんきにたいしておぼつかないていこうをよういするようにみえた。ぽけっと)
来るまっ白な寒気に対しておぼつかない抵抗を用意するように見えた。ポケット
(にりょうてをさしいれて、あたまをちぢめぎみに、はとばのいしだたみをあるきまわるひとびとのすがたにも、)
に両手をさし入れて、頭を縮め気味に、波止場の石畳を歩き回る人々の姿にも、
(ふあんとしょうそうとのうかがわれるせわしいしぜんのうつりかわりのなかに、えじままるは)
不安と焦燥とのうかがわれるせわしい自然の移り変わりの中に、絵島丸は
(あわただしいはっこうのじゅんびをしはじめた。こうばんのはぐるまのきしむおとが)
あわただしい発航の準備をし始めた。絞盤(こうばん)の歯車のきしむ音が
(せんしゅとせんびとからやかましくさえかえってきこえはじめた。きむらはそのひもあさから)
船首と船尾とからやかましく冴え返って聞こえ始めた。木村はその日も朝から
(ようこをおとずれてきた。ことにあおじろくみえるかおつきは、なにかわくわくとむねのなかに)
葉子を訪れて来た。ことに青白く見える顔つきは、何かわくわくと胸の中に
(にえかえるおもいをまざまざとうらぎって、みるひとのあわれをさそうほどだった。はいすいの)
煮え返る想いをまざまざと裏切って、見る人のあわれを誘うほどだった。背水の
(じんとじぶんでもいっているように、ぼうふのざいさんをありったけかねにかえて、)
陣と自分でもいっているように、亡父の財産をありったけ金に代えて、
(てっぱらいににほんのざっかをかいいれて、こちらからつうちしょひとつだせば、)
手っ払(ぱら)いに日本の雑貨を買い入れて、こちらから通知書一つ出せば、
(いつでもにほんからおくってよこすばかりにしてあるものの、てもとにはいささかの)
いつでも日本から送ってよこすばかりにしてあるものの、手もとにはいささかの
(ぜにものこってはいなかった。ようこがきたならばとかねのうえにもこころのうえにもあてにして)
銭も残ってはいなかった。葉子が来たならばと金の上にも心の上にもあてにして
(いたのがみごとにはずれてしまって、ようこがかえるにつけては、なけなしのところから)
いたのがみごとにはずれてしまって、葉子が帰るにつけては、なけなしの所から
(またまたなんとかしなければならないはめにたったきむらは、にさんにちのうちに、)
またまたなんとかしなければならないはめに立った木村は、二三日のうちに、
(ぬかよろこびもいちじのあいだで、こどくとふゆとにかこまれなければならなかったのだ。ようこは)
ぬか喜びも一時の間で、孤独と冬とに囲まれなければならなかったのだ。葉子は
(きむらがけっきょくじむちょうにすがりよってくるほかにみちのないことをさっしていた。きむらは)
木村が結局事務長にすがり寄って来るほかに道のない事を察していた。木村は
(はたしてじむちょうをようこのへやによびよせてもらった。じむちょうはすぐやってきたが)
はたして事務長を葉子の部屋に呼び寄せてもらった。事務長はすぐやって来たが
(ふくなどもしごとぎのままでなにかよほどせわしそうにみえた。きむらはまあといって)
服なども仕事着のままで何かよほどせわしそうに見えた。木村はまあといって
(くらちにいすをあたえて、きょうはいつものすげないたいどににず、おりいって)
倉地に椅子を与えて、きょうはいつものすげない態度に似ず、折り入って
(いろいろとようこのみのうえをたのんだ。じむちょうははじめのせわしそうだったようすにひき)
いろいろと葉子の身の上を頼んだ。事務長は始めの忙しそうだった様子に引き
(かえて、どっしりとこしをすえてしょうめんかられいのおおきくきむらをみやりながら、しんみに)
かえて、どっしりと腰を据えて正面から例の大きく木村を見やりながら、親身に
(みみをかたむけた。きむらのようすのほうがかえってそわそわしくながめられた。きむらは)
耳を傾けた。木村の様子のほうがかえってそわそわしくながめられた。木村は
(おおきなかみいれをとりだして、ごじゅうどるのきってをようこにてわたしした。「なにもかも)
大きな紙入れを取り出して、五十ドルの切手を葉子に手渡しした。「何もかも
(ごしょうちだからくらちさんのまえでいうほうがせわなしだとおもいますが、なんと)
御承知だから倉地さんの前でいうほうが世話なしだと思いますが、なんと
(いってもこれだけしかできないんです。こ、これです」といってさびしくわらい)
いってもこれだけしかできないんです。こ、これです」といってさびしく笑い
(ながら、りょうてをだしてひろげてみせてから、ちょっきをたたいた。むねにかかって)
ながら、両手を出して広げて見せてから、チョッキをたたいた。胸にかかって
(いたおもそうなきんぐさりも、よっつまではめられていたゆびわのみっつまでもなくなって)
いた重そうな金鎖も、四つまではめられていた指輪の三つまでもなくなって
(いて、たった、ひとつこんやくのゆびわだけがびんぼうくさくひだりのゆびにはまっているばかり)
いて、たった、一つ婚約の指輪だけが貧乏臭く左の指にはまっているばかり
(だった。ようこはさすがに「まあ」といった。)
だった。葉子はさすがに「まあ」といった。