有島武郎 或る女㊼
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問題文
(「ようこさん、わたしはどうにでもします。おとこいっぴきなりゃどこにころがりこんだ)
「葉子さん、わたしはどうにでもします。男一匹なりゃどこにころがり込んだ
(からって、ーーそんなけいけんもおもしろいくらいのものですが、これんばかりじゃ)
からって、ーーそんな経験もおもしろいくらいのものですが、これんばかりじゃ
(あなたがたりなかろうとおもうと、めんぼくもないんです。くらちさん、あなたには)
あなたが足りなかろうと思うと、面目もないんです。倉地さん、あなたには
(これまででさえいいかげんせわをしていただいてなんともすみませんですが、)
これまででさえいいかげん世話をしていただいてなんともすみませんですが、
(わたしどもふたりはおうちあけもうしたところ、こういうていたらくなんです。)
わたしども二人はお打ち明け申したところ、こういうていたらくなんです。
(よこはまへさえおとどけくださればそのさきはまたどうにでもしますから、もしりょひに)
横浜へさえおとどけくださればその先はまたどうにでもしますから、もし旅費に
(でもふそくしますようでしたら、ごめいわくついでになんとかしてやっていただくことは)
でも不足しますようでしたら、御迷惑ついでになんとかしてやっていただく事は
(できないでしょうか」じむちょうはうでぐみをしたまままじまじときむらのかおをみやり)
できないでしょうか」事務長は腕組みをしたまままじまじと木村の顔を見やり
(ながらきいていたが、「あなたはちっとももっとらんのですか」ときいた。)
ながら聞いていたが、「あなたはちっとも持っとらんのですか」と聞いた。
(きむらはわざとかいかつにしいてこわだかくわらいながら、「きれいなもんです」とまた)
木村はわざと快活にしいて声高く笑いながら、「きれいなもんです」とまた
(ちょっきをたたくと、「そりゃいかん。なに、ふなちんなんぞいりますものか。とうきょうで)
チョッキをたたくと、「そりゃいかん。何、船賃なんぞいりますものか。東京で
(ほんてんにおはらいになればいいんじゃし、よこはまのしてんちょうもばんじこころえとられるんだで、)
本店にお払いになればいいんじゃし、横浜の支店長も万事心得とられるんだで、
(ごしんぱいいりませんわ。そりゃあなたおもちになるがいい。がいこくにいてもんなしでは)
御心配いりませんわ。そりゃあなたお持ちになるがいい。外国にいて文なしでは
(こころぼそいもんですよ」とれいのしおがらごえでややふきげんらしくいった。そのことばには)
心細いもんですよ」と例の塩辛声でややふきげんらしくいった。その言葉には
(ふしぎにおもおもしいちからがこもっていて、きむらはしばらくかれこれとおしもんどうをして)
不思議に重々しい力がこもっていて、木村はしばらくかれこれと押し問答をして
(いたが、けっきょくじむちょうのしんせつをむにすることのきのどくさに、すぐなこころからなお)
いたが、結局事務長の親切を無にする事の気の毒さに、直な心からなお
(いろいろとたびちゅうのせわをたのみながら、またおおきなかみいれをとりだしてきってを)
いろいろと旅中の世話を頼みながら、また大きな紙入れを取り出して切手を
(たたみこんでしまった。「よしよしそれでなにもいうことはなし。さつきさんはわしが)
たたみ込んでしまった。「よしよしそれで何もいう事はなし。早月さんはわしが
(ひきうけた」とふてきなびしょうをうかべながら、じむちょうははじめてようこのほうを)
引き受けた」と不敵な微笑を浮かべながら、事務長は始めて葉子のほうを
(みかえった。ようこはふたりをめのまえにおいて、いつものようにみくらべながらふたりの)
見返った。葉子は二人を目の前に置いて、いつものように見比べながら二人の
(かいわをきいていた。あたりまえなら、ようこはたいていのばあい、よわいもののみかたを)
会話を聞いていた。あたりまえなら、葉子はたいていの場合、弱いものの味方を
(してみるのがつねだった。どんなときでも、つよいものがそのつよみをふりかざして)
して見るのが常だった。どんな時でも、強いものがその強味を振りかざして
(よわいものをあっぱくするのをみると、ようこはかっとなって、りがひでもよわいものを)
弱い者を圧迫するのを見ると、葉子はかっとなって、理が非でも弱いものを
(かたしてやりたかった。いまのばあいきむらはたんにじゃくしゃであるばかりでなく、)
勝たしてやりたかった。今の場合木村は単に弱者であるばかりでなく、
(そのきょうぐうもみじめなほどたよりないくるしいものであることはぞんぶんにしりぬいて)
その境遇もみじめなほどたよりない苦しいものである事は存分に知り抜いて
(いながら、きむらにたいしてのどうじょうはふしぎにもわいてこなかった。としのわかさ、)
いながら、木村に対しての同情は不思議にもわいて来なかった。齢の若さ、
(すがたのしなやかさ、きょうぐうのゆたかさ、さいのうのはなやかさというようなものを)
姿のしなやかさ、境遇のゆたかさ、才能のはなやかさというようなものを
(たよりにするおとこたちのこわくのちからは、じむちょうのまえではふけばとぶちりのごとくたいしょう)
たよりにする男たちの蠱惑の力は、事務長の前では吹けば飛ぶ塵のごとく対照
(された。このおとこのまえには、よわいもののあわれよりもみにくさがさらけだされた。なんと)
された。この男の前には、弱いものの哀れよりも醜さがさらけ出された。なんと
(いうふこうなせいねんだろう。わかいときにちちおやにしにわかれてから、ばんじおもいのままだった)
いう不幸な青年だろう。若い時に父親に死に別れてから、万事思いのままだった
(せいかつからいきなりふじゆうなうきよのどんぞこにほうりだされながら、めげもせずに)
生活からいきなり不自由な浮世のどん底にほうり出されながら、めげもせずに
(せっせとはたらいて、うしろゆびをさされないだけのよわたりをして、だれからもはたらきの)
せっせと働いて、後ろ指をさされないだけの世渡りをして、だれからも働きの
(あるゆくすえのたのもしいひととおもわれながら、それでもこころのなかのさびしさを)
ある行く末のたのもしい人と思われながら、それでも心の中のさびしさを
(うちけすためにおもいいったこいびとはあだしおとこにそむいてしまっている。それをまた)
打ち消すために思い入った恋人は仇し男にそむいてしまっている。それをまた
(そうともしらずに、そのおとこのなさけにすがって、きえるにきまったやくそくをのがす)
そうとも知らずに、その男の情けにすがって、消えるに決まった約束をのがす
(まいとしている。・・・ようこはしいてじぶんをせっぷくするようにこうかんがえてみたが、)
まいとしている。・・・葉子はしいて自分を説服するようにこう考えてみたが、
(すこしもみにしみたかんじはおこってこないで、ややもするとわらいだしたいような)
少しも身にしみた感じは起こって来ないで、ややもすると笑い出したいような
(きにすらなっていた。「よしよしそれでなにもいうことはなし。さつきさんはわしが)
気にすらなっていた。「よしよしそれで何もいう事はなし。早月さんはわしが
(ひきうけた」というこえとふてきなびしょうとがどやすようにようこのこころのとをうったとき、)
引き受けた」という声と不敵な微笑とがどやすように葉子の心の戸を打った時、
(ようこもおもわずびしょうをうかべてそれにおうじようとした。が、そのしゅんかん、めざとく)
葉子も思わず微笑を浮かべてそれに応じようとした。が、その瞬間、目ざとく
(きむらのみているのにきがついて、かおにはわらいのかげはみじんもあらわさなかった。)
木村の見ているのに気がついて、顔には笑いの影はみじんも現わさなかった。
(「わしへのようはそれだけでしょう。じゃせわしいでいきますよ」とぶっきらぼうに)
「わしへの用はそれだけでしょう。じゃ忙しいで行きますよ」とぶっきらぼうに
(いってじむちょうがへやをでていってしまうと、のこったふたりはみょうにてれて、)
いって事務長が部屋を出て行ってしまうと、残った二人は妙にてれて、
(しばらくはたがいにかおをみあわすのもはばかってだまったままでいた。)
しばらくは互いに顔を見合わすのもはばかって黙ったままでいた。
(じむちょうがいってしまうとようこはきゅうにちからがおちたようにおもった。いままでのことが)
事務長が行ってしまうと葉子は急に力が落ちたように思った。今までの事が
(まるでしばいでもみてたのしんでいたようだった。きむらのやるせないこころのなかがきゅうに)
まるで芝居でも見て楽しんでいたようだった。木村のやる瀬ない心の中が急に
(ようこにせまってきた。ようこのめにはきむらをあわれむともじぶんをあわれむともしれ)
葉子に逼って来た。葉子の目には木村をあわれむとも自分をあわれむとも知れ
(ないなみだがいつのまにかやどっていた。きむらはいたましげにだまったままでしばらく)
ない涙がいつのまにか宿っていた。木村は痛ましげに黙ったままでしばらく
(ようこをみやっていたが、「ようこさんいまになってそうないてもらっちゃわたしが)
葉子を見やっていたが、「葉子さん今になってそう泣いてもらっちゃわたしが
(たまりませんよ。きげんをなおしてください。またいいひもまわってくるでしょう)
たまりませんよ。きげんを直してください。またいい日も回って来るでしょう
(から。かみをしんずるものーーそういうしんこうがいまあなたにあるかどうかしらないが)
から。神を信ずるものーーそういう信仰が今あなたにあるかどうか知らないが
(ーーおかあさんがああいうかたいしんじゃでありなさったし、あなたもせんだいじぶんには)
ーーおかあさんがああいう堅い信者でありなさったし、あなたも仙台時分には
(たしかにしんこうをもっていられたとおもいますが、こんなばあいにはなおさらおなじかみさま)
確かに信仰を持っていられたと思いますが、こんな場合にはなおさら同じ神様
(からくるしんこうときぼうとをもってすすんでいきたいものだとおもいますよ。なにごとも)
から来る信仰と希望とを持って進んで行きたいものだと思いますよ。何事も
(かみさまはしっていられる・・・そこにわたしはたゆまないきぼうをつないでいき)
神様は知っていられる・・・そこにわたしはたゆまない希望をつないで行き
(ます」けっしんしたところがあるらしくちからづよいことばでこういった。なんのきぼう!ようこは)
ます」決心した所があるらしく力強い言葉でこういった。何の希望! 葉子は
(きむらのことについては、きむらのいわゆるかみさまいじょうにきむらのみらいをしりぬいている)
木村の事については、木村のいわゆる神様以上に木村の未来を知りぬいている
(のだ。きむらのきぼうというのはやがてしつぼうにそうしてぜつぼうにおわるだけのものだ。)
のだ。木村の希望というのはやがて失望にそうして絶望に終わるだけのものだ。
(なんのしんこう!なんのきぼう!きむらはようこがすえたみちをーーいきどまりのふくろこうじを)
何の信仰! 何の希望! 木村は葉子が据えた道をーー行きどまりの袋小路を
(ーーてんしののぼりおりするくものかけはしのようにおもっている。ああなんの)
ーー天使の昇り降りする雲の梯(かけはし)のように思っている。ああ何の
(しんこう!ようこはふとおなじめをじぶんにむけてみた。きむらをかってきままにこづきまわす)
信仰! 葉子はふと同じ目を自分に向けて見た。木村を勝手気ままにこづき回す
(いりょくをそなえたじぶんはまただれになにものにかってにされるのだろう。どこかでおおきな)
威力を備えた自分はまただれに何物に勝手にされるのだろう。どこかで大きな
(てがなさけもなくようしゃもなくれいぜんとじぶんのうんめいをあやつっている。きむらのきぼうが)
手が情けもなく容赦もなく冷然と自分の運命をあやつっている。木村の希望が
(はかなくたちきれるまえ、じぶんのきぼうがいちはやくたたれてしまわないとどうして)
はかなく断ち切れる前、自分の希望がいち早く絶たれてしまわないとどうして
(ほしょうすることができよう。きむらはぜんにんだ。じぶんはあくにんだ。ようこはいつのまにかじゅんな)
保障する事ができよう。木村は善人だ。自分は悪人だ。葉子はいつのまにか純な
(かんじょうにとらえられていた。「きむらさん。あなたはきっと、しまいにはきっとしゅくふくを)
感情に捕えられていた。「木村さん。あなたはきっと、しまいにはきっと祝福を
(おうけになります・・・どんなことがあってもしつぼうなさっちゃいやですよ。)
お受けになります・・・どんな事があっても失望なさっちゃいやですよ。
(あなたのようなよいかたがふこうにばかりおあいになるわけがありませんわ。)
あなたのような善い方が不幸にばかりおあいになるわけがありませんわ。
(・・・わたしはうまれるときからのろわれたおんななんですもの。かみ、ほんとうは)
・・・わたしは生まれるときから呪われた女なんですもの。神、ほんとうは
(かみさまをしんずるより・・・しんずるよりにくむほうがにあっているんです・・・)
神様を信ずるより・・・信ずるより憎むほうが似合っているんです・・・
(ま、きいて・・・でも、わたしひきょうはいやだからしんじます・・・かみさまはわたし)
ま、聞いて・・・でも、わたし卑怯はいやだから信じます・・・神様はわたし
(みたいなものをどうなさるか、しっかりめをあいてさいごまでみています」)
みたいなものをどうなさるか、しっかり目を明いて最後まで見ています」
(といっているうちにだれにともなくくやしさがむねいっぱいにこみあげてくるの)
といっているうちにだれにともなくくやしさが胸いっぱいにこみ上げて来るの
(だった。「あなたはそんなしんこうはないとおっしゃるでしょうけれども・・・)
だった。「あなたはそんな信仰はないとおっしゃるでしょうけれども・・・
(でもわたしにはこれがしんこうです。りっぱなしんこうですもの」といってきっぱりおもい)
でもわたしにはこれが信仰です。立派な信仰ですもの」といってきっぱり思い
(きったように、ひのようにあつくめにたまったままでながれずにいるなみだを、)
きったように、火のように熱く目にたまったままで流れずにいる涙を、
(はんけちでぎゅっとおしぬぐいながら、あんぜんとあたまをたれた)
ハンケチでぎゅっと押しぬぐいながら、 黯然(あんぜん)と頭をたれた
(きむらに、「もうやめましょうこんなおはなし。こんなことをいってると、いえばいう)
木村に、「もうやめましょうこんなお話。こんな事をいってると、いえばいう
(ほどさきがくらくなるばかりです。ほんとにおもいきってふしあわせなひとはこんなことを)
ほど先が暗くなるばかりです。ほんとに思いきって不仕合わせな人はこんな事を
(つべこべとくちになんぞだしはしませんわ。ね、いや、あなたはじぶんのほうから)
つべこべと口になんぞ出しはしませんわ。ね、いや、あなたは自分のほうから
(めいってしまって、わたしのいったことぐらいでなんですねえ、おとこのくせに」)
めいってしまって、わたしのいった事ぐらいでなんですねえ、男のくせに」
(きむらはへんじもせずにまっさおになってうつむいていた。そこに「ごめんなさい」)
木村は返事もせずにまっさおになってうつむいていた。そこに「御免なさい」
(というかとおもうと、いきなりとをあけてはいってきたものがあった。きむらも)
というかと思うと、いきなり戸をあけてはいって来たものがあった。木村も
(ようこもふいをうたれてきさきをくじかれながら、みると、いつぞやびょうづなであしを)
葉子も不意を打たれて気先をくじかれながら、見ると、いつぞや鋲綱で足を
(けがしたとき、ようこのせわになったろうすいふだった。かれはとうとうびっこになって)
けがした時、葉子の世話になった老水夫だった。彼はとうとうびっこになって
(いた。そしてすいふのようなしごとにはとてもやくにたたないから、さいわいおーくらんど)
いた。そして水夫のような仕事にはとても役に立たないから、幸いオークランド
(にしょうのうちをもってとにかくくらしをたてているおいをたずねてやっかいになることになった)
に小農地を持ってとにかく暮らしを立てている甥を尋ねて厄介になる事になった
(ので、れいかたがたいとまごいにきたというのだった。ようこはあかくなっためをすこし)
ので、礼かたがた暇乞いに来たというのだった。葉子は紅くなった目を少し
(はずかしげにまたたかせながら、いろいろとなぐさめた。「なにねこうおいぼれちゃ、)
恥ずかしげにまたたかせながら、いろいろと慰めた。「何ねこう老いぼれちゃ、
(こんなかぎょうをやってるがてんでうそなれど、じむちょうさんとぼんすん(すいふちょう))
こんな稼業をやってるがてんでうそなれど、事務長さんとボンスン(水夫長)
(とがかわいそうだといってつかってくれるで、いいきになったがばちあたったん)
とがかわいそうだといって使ってくれるで、いい気になったが罰あたったん
(だね」といっておくびょうにわらった。ようこがこのろうじんをあわれみいたわるさまはわきめ)
だね」といって臆病に笑った。葉子がこの老人をあわれみいたわるさまはわき目
(もいじらしかった。にほんにはでんごんをたのむようなみよりさえないみだと)
もいじらしかった。日本には伝言を頼むような近親(みより)さえない身だと
(いうようなことをきくたびに、ようこはなきだしそうなかおをしてがてんがってんしていたが)
いうような事を聞くたびに、葉子は泣き出しそうな顔をして合点合点していたが
(しまいにはきむらのとめるのもきかずねどこからおきあがって、きむらのもってきた)
しまいには木村の止めるのも聞かず寝床から起き上がって、木村の持って来た
(くだものをありったけかごにつめて、「りくにあがればいくらもあるんだろう)
果物をありったけ籃(かご)につめて、「陸に上がればいくらもあるんだろう
(けれども、これをもっておいで。そしてそのなかにくだものでなくはいっているものが)
けれども、これを持っておいで。そしてその中に果物でなくはいっているものが
(あったら、それもおまえさんにあげたんだからね、ひとにとられたりしちゃ)
あったら、それもお前さんに上げたんだからね、人に取られたりしちゃ
(いけませんよ」といってそれをわたしてやった。)
いけませんよ」といってそれを渡してやった。