有島武郎 或る女㊿

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(にじゅうにどこかからきくのこうがかすかにかよってきたようにおもってようこは)

【二二】 どこかから菊の香がかすかに通(かよ)って来たように思って葉子は

(こころよいねむりからめをさました。じぶんのそばには、くらちがあたまからすっぽりとふとんを)

快い眠りから目をさました。自分のそばには、倉地が頭からすっぽりとふとんを

(かぶって、いびきもたてずにじゅくすいしていた。りょうりやをかねたりょかんのににあわしい)

かぶって、いびきも立てずに熟睡していた。料理屋を兼ねた旅館のに似合わしい

(はでなちりめんのやぐのうえにはもうだいぶたかくなったらしいあきのひのひかりが)

華手(はで)な縮緬の夜具の上にはもうだいぶ高くなったらしい秋の日の光が

(しょうじごしにさしていた。ようこはおうふくいっかげつのあまりをふねにのりつづけていたので、)

障子越しにさしていた。葉子は往復一か月の余を船に乗り続けていたので、

(ふなあしのゆらめきのなごりがのこっていて、からだがふらりふらりとゆれるような)

船脚の揺らめきのなごりが残っていて、からだがふらりふらりと揺れるような

(かんじをうしなってはいなかったが、ひろいたたみのあいだにおおきなやわらかいやぐをのべて、)

感じを失ってはいなかったが、広い畳の間に大きな軟らかい夜具をのべて、

(ごたいをおもうままのばして、ひとばんゆっくりとねむりとおしたそのここちよさはかくべつ)

五体を思うまま延ばして、一晩ゆっくりと眠り通したその心地よさは格別

(だった。あおむけになって、さむからぬていどにあたたまったくうきのなかにりょうてをにのうでまで)

だった。仰向けになって、寒からぬ程度に暖まった空気の中に両手を二の腕まで

(むきだしにして、やわらかいかみのけにこころよいしょっかくをかんじながら、なにをおもうともなく)

むき出しにして、軟らかい髪の毛に快い触角を感じながら、何を思うともなく

(てんじょうのもくめをみやっているのも、めずらしいことのようにこころよかった。ややこはんときも)

天井の木目を見やっているのも、珍しい事のように快かった。やや小半時も

(そうしたままでいると、ちょうばでぼんぼんどけいがくじをうった。さんかいにいるのだ)

そうしたままでいると、帳場でぼんぼん時計が九時を打った。三階にいるのだ

(けれどもそのおとはほがらかにかわいたくうきをつたってようこのへやまでひびいてきた。)

けれどもその音はほがらかにかわいた空気を伝って葉子の部屋まで響いて来た。

(と、くらちがいきなりやぐをはねのけてとこのうえにじょうたいをたててめをこすった。)

と、倉地がいきなり夜具をはねのけて床の上に上体を立てて目をこすった。

(「くじだないまうったのは」とりくできくとおかしいほどおおきなしおがれごえでいった。)

「九時だな今打ったのは」と陸で聞くとおかしいほど大きな塩がれ声でいった。

(どれほどじゅくすいしていても、じかんにはえいびんなせんいんらしいくらちのようすがなんのことは)

どれほど熟睡していても、時間には鋭敏な船員らしい倉地の様子がなんの事は

(なくようこをほほえました。くらちがたつと、ようこもとこをでた。そしてそのへんを)

なく葉子をほほえました。倉地が立つと、葉子も床を出た。そしてそのへんを

(かたづけたり、たばこをすったりしているあいだに(ようこはふねのなかでたばこをすうことを)

片づけたり、煙草を吸ったりしている間に(葉子は船の中で煙草を吸う事を

(おぼえてしまったのだった)くらちはてばやくかおをあらってへやにかえってきた。そして)

覚えてしまったのだった)倉地は手早く顔を洗って部屋に帰って来た。そして

(せいふくにきかえはじめた。ようこはいそいそとそれをてつだった。くらちとくゆうなせいようふうに)

制服に着かえ始めた。葉子はいそいそとそれを手伝った。倉地特有な西洋風に

など

(あまったるいようないっしゅのにおいがそのからだにもふくにもまつわっていた。それが)

甘ったるいような一種のにおいがそのからだにも服にもまつわっていた。それが

(ふしぎにいつでもようこのこころをときめかした。「もうめしをくっとるひまはない。)

不思議にいつでも葉子の心をときめかした。「もう飯を食っとる暇はない。

(またしばらくせわしいでこっぱみじんだ。こんやはおそいかもしれんよ。おれたち)

またしばらく忙しいで木っ葉みじんだ。今夜はおそいかもしれんよ。おれたち

(にはてんちょうせつもなにもあったもんじゃない」そういわれてみるとようこはきょうが)

には天長節も何もあったもんじゃない」そういわれてみると葉子はきょうが

(てんちょうせつなのをおもいだした。ようこのこころはなおなおかんかつになった。)

天長節なのを思い出した。葉子の心はなおなお寛濶(かんかつ)になった。

(くらちがへやをでるとようこはえんがわにでててすりからしたをのぞいてみた。りょうがわに)

倉地が部屋を出ると葉子は縁側に出て手欄から下をのぞいて見た。両側に

(さくらなみきのずっとならんだもみじざかはきゅうこうばいをなしてかいがんのほうにかたむいている、)

桜並み木のずっとならんだ紅葉坂は急勾配をなして海岸のほうに傾いている、

(そこをくらちのこんらしゃのすがたがいきおいよくあるいていくのがみえた。はんぶんがたちり)

そこを倉地の紺羅紗の姿が勢いよく歩いて行くのが見えた。半分がた散り

(つくしたさくらのははしんくにこうようして、のきなみにかかげられたにっしょうきが、かぜのない)

尽くした桜の葉は真紅に紅葉して、軒並みに掲げられた日章旗が、風のない

(くうきのなかにあざやかにならんでいた。そのあいだにえいこくのこっきがいっぽんまじってながめ)

空気の中にあざやかにならんでいた。その間に英国の国旗が一本まじってながめ

(られるのもかいこうばらしいふぜいをそえていた。とおくうみのほうをみるとぜいかんのさんばしに)

られるのも開港場らしい風情を添えていた。遠く海のほうを見ると税関の桟橋に

(もやわれたよんそうほどのきせんのなかに、ようこがのってかえったえじままるもまじって)

繋(もや)われた四艘ほどの汽船の中に、葉子が乗って帰った絵島丸もまじって

(いた。まっさおにすみわたったうみにたいしてきょうのさいじつをしゅくがするために)

いた。まっさおに澄みわたった海に対してきょうの祭日を祝賀するために

(ますとからますとにかけわたされたこばたがおもちゃのようにながめ)

檣(マスト)から檣にかけわたされた小旌(こばた)がおもちゃのようにながめ

(られた。ようこはながいこうかいのしじゅうをいちじょうのゆめのようにおもいやった。そのながたびの)

られた。葉子は長い航海の始終を一場の夢のように思いやった。その長旅の

(あいだに、じぶんのいっしんにおこったおおきなへんかもじぶんのことのようではなかった。ようこは)

間に、自分の一身に起こった大きな変化も自分の事のようではなかった。葉子は

(なにがなしにきぼうにもえたいきいきしたこころでてすりをはなれた。へやには)

何がなしに希望に燃えた活々(いきいき)した心で手欄を離れた。部屋には

(こざっぱりとみじたくをしたじょちゅうがきてねどこをあげていた。いっけんはんのおおとこのまに)

小ざっぱりと身じたくをした女中が来て寝床をあげていた。一間半の大床の間に

(かざられたおおはないけには、きくのはながひとかかえぶんもいけられていて、くうきがうごくたび)

飾られた大花活けには、菊の花が一抱え分もいけられていて、空気が動くたび

(ごとにせんにんじみたこうをただよわした。そのこうをかぐと、ともするとまだがいこくにいるの)

ごとに仙人じみた香を漂わした。その香をかぐと、ともするとまだ外国にいるの

(ではないかとおもわれるようなたびごころがいっきにくだけて、じぶんはもうたしかににほんの)

ではないかと思われるような旅心が一気にくだけて、自分はもう確かに日本の

(つちのうえにいるのだということがしっかりおもわされた。「いいおひよりね。こんや)

土の上にいるのだという事がしっかり思わされた。「いいお日和ね。今夜

(あたりはいそがしいんでしょう」とようこはあさめしのぜんにむかいながらじょちゅうにいって)

あたりは忙しいんでしょう」と葉子は朝飯の膳に向かいながら女中にいって

(みた。「はいこんやはごえんかいがふたつばかりございましてね。でもはまのかたでも)

みた。「はい今夜は御宴会が二つばかりございましてね。でも浜の方でも

(がいむしょうのやかいにいらっしゃるかたもございますから、たんとこみあいはいたします)

外務省の夜会にいらっしゃる方もございますから、たんと込み合いはいたします

(まいけれども」そうこたえながらじょちゅうは、さくばんおそくついてきた、ちょっとえたいの)

まいけれども」そう応えながら女中は、昨晩おそく着いて来た、ちょっと得体の

(しれないこのうつくしいふじんのすじょうをさぐろうとするようにちゅういぶかいめをやった。)

知れないこの美しい婦人の素性を探ろうとするように注意深い目をやった。

(ようこはようこで「はま」ということばなどから、よこはまというとちをかたちにしてみるような)

葉子は葉子で「浜」という言葉などから、横浜という土地を形にして見るような

(きもちがした。みじかくなってはいても、なんにもすることなしにいちにちをくらすかと)

気持ちがした。短くなってはいても、なんにもする事なしに一日を暮すかと

(おもえば、そのあきのいちにちのながさがようこにはひどくきになりだした。みょうごにちとうきょうに)

思えば、その秋の一日の長さが葉子にはひどく気になり出した。明後日東京に

(かえるまでのあいだに、かいものでもみてあるきたいのだけれども、みやげものはきむらがれいの)

帰るまでの間に、買い物でも見て歩きたいのだけれども、土産物は木村が例の

(ぎんこうきってをくずしてありあまるほどかってもたしてよこしたし、てもとにはあわれな)

銀行切手をくずしてあり余るほど買って持たしてよこしたし、手もとには哀れな

(ほどよりかねはのこっていなかった。ちょっとでもじっとしていられないようこは、)

ほどより金は残っていなかった。ちょっとでもじっとしていられない葉子は、

(にほんできようとはおもわなかったので、せいようむきにちゅうもんしたはですぎる)

日本で着ようとは思わなかったので、西洋向きに注文した華手(はで)すぎる

(ようなわたいれにてをとおしながら、とつおいつかんがえた。「そうだことうにでんわでも)

ような綿入れに手を通しながら、とつ追いつ考えた。「そうだ古藤に電話でも

(かけてみてやろう」ようこはこれはいいしあんだとおもった。とうきょうのほうでしんるいたちが)

かけてみてやろう」葉子はこれはいい思案だと思った。東京のほうで親類たちが

(どんなこころもちでじぶんをむかえようとしているか、ことうのようなおとこにこんどのことがどう)

どんな心持ちで自分を迎えようとしているか、古藤のような男に今度の事がどう

(ひびいているだろうか、これはたんになぐさみばかりではない、しっておかなければ)

響いているだろうか、これは単に慰みばかりではない、知っておかなければ

(ならないだいじなことだった。そうようこはおもった。そしてじょちゅうをよんでとうきょうにでんわを)

ならない大事な事だった。そう葉子は思った。そして女中を呼んで東京に電話を

(つなぐようにたのんだ。さいじつであったせいかでんわはおもいのほかはやくつながった。)

つなぐように頼んだ。祭日であったせいか電話は思いのほか早くつながった。

(ようこはすこしいたずららしいびしょうをえくぼのはいるそのうつくしいかおにかるくうかべ)

葉子は少しいたずららしい微笑を笑窪のはいるその美しい顔に軽く浮かべ

(ながら、かいだんをはやあしにおりていった。いまごろになってようやくとこをはなれたらしい)

ながら、階段を早足に降りて行った。今ごろになってようやく床を離れたらしい

(だんじょのきゃくがしどけないふうをしてろうかのここかしこでようことすれちがった。ようこは)

男女の客がしどけないふうをして廊下のここかしこで葉子とすれ違った。葉子は

(それらのひとびとにはめもくれずにちょうばにいってでんわしつにとびこむとぴっしりととを)

それらの人々には目もくれずに帳場に行って電話室に飛び込むとぴっしりと戸を

(しめてしまった。そしてじゅわきをてにとるがはやいか、でんわにくちをよせて、)

しめてしまった。そして受話器を手に取るが早いか、電話に口を寄せて、

(「あなたぎいちさん?ああそう。ぎいちさんそれはこっけいなのよ」とひとりでに)

「あなた義一さん? ああそう。義一さんそれは滑稽なのよ」とひとりでに

(すらすらといってしまってわれながらようこははっとおもった。そのときのうきうき)

すらすらといってしまってわれながら葉子ははっと思った。その時の浮き浮き

(したかるいこころもちからいうと、ようこにはそういうよりいじょうにしぜんなことばはなかった)

した軽い心持ちからいうと、葉子にはそういうより以上に自然な言葉はなかった

(のだけれども、それではあまりにじぶんというものをあからさまにさらけだしていたのに)

のだけれども、それではあまりに自分というものを明白にさらけ出していたのに

(きがついたのだ。ことうはあんのじょうこたえしぶっているらしかった。とみにはへんじも)

気が付いたのだ。古藤は案の定答え渋っているらしかった。とみには返事も

(しないで、ちゃんときこえているらしいのに、ただ「なんです?」とききかえして)

しないで、ちゃんと聞こえているらしいのに、ただ「なんです?」と聞き返して

(きた。ようこにはすぐとうきょうのようすをのみこんだようにおもった。「そんなことどうでも)

きた。葉子にはすぐ東京の様子を飲み込んだように思った。「そんな事どうでも

(よござんすわ。あなたおじょうぶでしたの」といってみると「ええ」とだけすげない)

よござんすわ。あなたお丈夫でしたの」といってみると「ええ」とだけすげない

(へんじが、きかいをとおしてであるだけにことさらすげなくひびいてきた。そしてこんどは)

返事が、機械を通してであるだけにことさらすげなく響いて来た。そして今度は

(ことうのほうから、「きむら・・・きむらくんはどうしています。あなたあったん)

古藤のほうから、「木村・・・木村君はどうしています。あなた会ったん

(ですか」とはっきりきこえてきた。ようこはすかさず、「はああいましてよ。)

ですか」とはっきり聞こえて来た。葉子はすかさず、「はあ会いましてよ。

(あいかわらずじょうぶでいます。ありがとう。けれどもほんとうにかわいそう)

相変わらず丈夫でいます。ありがとう。けれどもほんとうにかわいそう

(でしたの。ぎいちさん・・・きこえますか。あさってわたしとうきょうに)

でしたの。義一さん・・・聞こえますか。 明後日(あさって)私東京に

(かえりますわ。もうおばのところにはいけませんからね、あすこにはいきたく)

帰りますわ。もう叔母の所には行けませんからね、あすこには行きたく

(ありませんから・・・あのね、すきやちょうのね、)

ありませんから・・・ あのね、透矢町(すきやちょう)のね、

(そうかくかん・・・つがいのつる・・・そう、おわかりになって?)

双鶴館(そうかくかん)・・・つがいの鶴・・・そう、おわかりになって?

(・・・そうかくかんにいきますから・・・あなたきてくだされる?・・・でもぜひ)

・・・双鶴館に行きますから・・・あなた来てくだされる?・・・でもぜひ

(きいていただかなければならないことがあるんですから・・・よくって?)

聞いていただかなければならない事があるんですから・・・よくって?

(・・・そうぜひどうぞ。しあさってのあさ?ありがとうきっと)

・・・そうぜひどうぞ。明々後日(しあさって)の朝? ありがとうきっと

(おまちもうしていますからぜひですのよ」ようこがそういっているあいだ、ことうのことばは)

お待ち申していますからぜひですのよ」葉子がそういっている間、古藤の言葉は

(しまいまでおくばにもののはさまったようにおもかった。そしてややともするとようこ)

しまいまで奥歯に物のはさまったように重かった。そしてややともすると葉子

(とのかいけんをこばもうとするようすがみえた。もしようこのぎんのようにすんだすずしい)

との会見を拒もうとする様子が見えた。もし葉子の銀のように澄んだ涼しい

(こえが、ことうをえらんであいそするらしくひびかなかったら、ことうはようこのいうことを)

声が、古藤を選んで哀訴するらしく響かなかったら、古藤は葉子のいう事を

(きいてはいなかったかもしれないとおもわれるほどだった。あさからなにごともわすれた)

聞いてはいなかったかもしれないと思われるほどだった。朝から何事も忘れた

(ようにこころよかったようこのきもちはこのでんわひとつのためにみょうにこじれてしまった。)

ように快かった葉子の気持ちはこの電話一つのために妙にこじれてしまった。

(とうきょうにかえればこんどこそはなかなかよういならざるはんこうがまちうけているとは)

東京に帰れば今度こそはなかなか容易ならざる反抗が待ちうけているとは

(じゅうにぶんにかくごして、そのそなえをしておいたつもりではいたけれども、ことうの)

十二分に覚悟して、その備えをしておいたつもりではいたけれども、古藤の

(くちうらからかんがえてみるとめんとぶつかったじっさいはくうそうしていたよりもじゅうだいである)

口うらから考えてみると面とぶつかった実際は空想していたよりも重大である

(のをおもわずにはいられなかった。ようこはでんわしつをでるとけさはじめてかおをあわした)

のを思わずにはいられなかった。葉子は電話室を出るとけさ始めて顔を合わした

(おかみにちょうばごうしのなかからあいさつされて、へやにもうかがいにこないで)

内儀(おかみ)に帳場格子の中から挨拶されて、部屋にも伺いに来ないで

(なれなれしくことばをかけるそのしうちにまでふかいをかんじながら、そうそうさんかいに)

なれなれしく言葉をかけるその仕打ちにまで不快を感じながら、匆々三階に

(ひきあげた。)

引き上げた。

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