有島武郎 或る女51

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(それからはもうほんとうになんにもすることがなかった。ただくらちの)

それからはもうほんとうになんにもする事がなかった。ただ倉地の

(かえってくるのばかりがいらいらするほどまちにまたれた。しながわだいばおきあたりで)

帰って来るのばかりがいらいらするほど待ちに待たれた。品川台場沖あたりで

(うちだすしゅくほうがかすかにはらにこたえるようにひびいて、こどもらはおうらいでそのころ)

打ち出す祝砲がかすかに腹にこたえるように響いて、子供らは往来でそのころ

(しきりにはやったなんきんはなびをぱちぱちとならしていた。てんきがいいので)

しきりにはやった南京花火をぱちぱちと鳴らしていた。天気がいいので

(じょちゅうたちははしゃぎきったじょうだんなどをいいいいあらゆるへやをあけはなして、)

女中たちははしゃぎきった冗談などを言い言いあらゆる部屋を明け放して、

(ぎょうさんらしくはたきやほうきのおとをたてた。そしてただひとりこのりょかんではいのこっている)

仰山らしくはたきや箒の音を立てた。そしてただ一人この旅館では居残っている

(らしいようこのへやをそうじせずに、いきなりえんがわにぞうきんをかけたりした。)

らしい葉子の部屋を掃除せずに、いきなり縁側にぞうきんをかけたりした。

(それがでてゆけがしのしうちのようにようこにはおもえばおもわれた。「どこかそうじの)

それが出て行けがしの仕打ちのように葉子には思えば思われた。「どこか掃除の

(すんだへやがあるんでしょう。しばらくそこをかしてくださいな。そしてここも)

済んだ部屋があるんでしょう。しばらくそこを貸してくださいな。そしてここも

(きれいにしてちょうだい。へやのそうじもしないでぞうきんがけなぞしたって)

きれいにしてちょうだい。部屋の掃除もしないでぞうきんがけなぞしたって

(なんにもなりはしないわ」とすこしけんをもたせていってやると、けさきたのとは)

なんにもなりはしないわ」と少し剣を持たせていってやると、けさ来たのとは

(ちがう、よこはまうまれらしい、わるずれのしたちゅうねんのじょちゅうは、はじめてえんがわから)

違う、横浜生まれらしい、悪ずれのした中年の女中は、始めて縁側から

(たちあがってこめんどうそうにようこをたたみろうかひとつをへだてたとなりのへやにあんないした。)

立ち上がって小めんどうそうに葉子を畳廊下一つを隔てた隣の部屋に案内した。

(けさまできゃくがいたらしく、そうじはすんでいたけれども、ひばちだの、すみとりだの、)

けさまで客がいたらしく、掃除は済んでいたけれども、火鉢だの、炭取りだの、

(ふるいしんぶんだのが、へやのすみにはまだおいたままになっていた。あけはなしたしょうじ)

古い新聞だのが、部屋のすみにはまだ置いたままになっていた。あけ放した障子

(からかわいたあたたかいこうせんがたたみのおもてさんぶほどまでさしこんでいる、そこにひざを)

からかわいた暖かい光線が畳の表三分ほどまでさしこんでいる、そこに膝を

(よこくずしにすわりながら、ようこはめをほそめてまぶしいこうせんをさけつつ、じぶんの)

横くずしにすわりながら、葉子は目を細めてまぶしい光線を避けつつ、自分の

(へやをかたづけているじょちゅうのけはいにようじんのきをくばった。どんなところにいてもだいじな)

部屋を片づけている女中の気配に用心の気を配った。どんな所にいても大事な

(かねめなものをくだらないものといっしょにほうりだしておくのがようこのくせだった。)

金目なものをくだらないものと一緒にほうり出しておくのが葉子の癖だった。

(ようこはそこにいかにもだてでかんかつなこころをみせているようだったが、どうじに)

葉子はそこにいかにも伊達で寛濶な心を見せているようだったが、同時に

など

(くだらないじょちゅうずれができごころでもおこしはしないかとおもうと、さいしんにかんしするのも)

下らない女中ずれが出来心でも起こしはしないかと思うと、細心に監視するのも

(わすれはしなかった。こうしてとなりのへやにきをくばっていながらも、ようこはへやの)

忘れはしなかった。こうして隣の部屋に気を配っていながらも、葉子は部屋の

(すみにきちょうめんにおりたたんであるしんぶんをみると、にほんにかえってからまだ)

すみにきちょうめんに折りたたんである新聞を見ると、日本に帰ってからまだ

(しんぶんというものにめをとおさなかったのをおもいだして、てにとりあげてみた。)

新聞というものに目を通さなかったのを思い出して、手に取り上げてみた。

(てれびんゆのようなにおいがぷんぷんするのでそれがきょうのしんぶんで)

テレビン油のような香(にお)いがぷんぷんするのでそれがきょうの新聞で

(あることがすぐさっせられた。はたしてだいいちめんには「せいじゅばんざい」とにくぶとにかかれた)

ある事がすぐ察せられた。はたして第一面には「聖寿万歳」と肉太に書かれた

(みだしのしたにきけんのしょうぞうがかかげられてあった。ようこはいっかげつのあまりもとおのいていた)

見出しの下に貴顕の肖像が掲げられてあった。葉子は一か月の余も遠のいていた

(しんぶんしをものめずらしいものにおもってざっとめをとおしはじめた。)

新聞紙を物珍しいものに思ってざっと目をとおし始めた。

(いちめんにはそのとしのろくがつにいとうないかくとこうてつしてできたかつらないかくにたいしていろいろな)

一面にはその年の六月に伊藤内閣と更迭してできた桂内閣に対していろいろな

(ちゅうもんをていしゅつしたろんぶんがかかげられて、かいがいつうしんにはしなりょうどないにおけるにちろの)

注文を提出した論文が掲げられて、海外通信にはシナ領土内における日露の

(けいざいてきかんけいをといたちりこふはくのえんぜつのこうがいなどがみえていた。にめんにはとみぐちと)

経済的関係を説いたチリコフ伯の演説の梗概などが見えていた。二面には富口と

(いうぶんがくはかせが「さいきんにほんにおけるいわゆるふじんのかくせい」というつづきもののろんぶんを)

いう文学博士が「最近日本におけるいわゆる婦人の覚醒」という続き物の論文を

(のせていた。ふくだというおんなのしゃかいしゅぎしゃのことや、かじんとしてしられたよさのあきこ)

載せていた。福田という女の社会主義者の事や、歌人として知られた与謝野晶子

(じょしのことなどのながあらわれているのをようこはちゅういした。しかしいまのようこには)

女史の事などの名が現われているのを葉子は注意した。しかし今の葉子には

(それがふしぎにじぶんとはかけはなれたことのようにみえた。さんめんにくるとよんごうかつじで)

それが不思議に自分とはかけ離れた事のように見えた。三面に来ると四号活字で

(かかれたきべこきょうというじがめについたのでおもわずそこをよんでみるようこは)

書かれた木部孤筇という字が目に着いたので思わずそこを読んでみる葉子は

(あっとおどろかされてしまった。)

あっと驚かされてしまった。

(ぼうだいきせんがいしゃせんちゅうのだいかいじ)

◯某大汽船会社船中の大怪事

(じむちょうとふじんせんきゃくとのみちならぬこいーー)

事務長と婦人船客との道ならぬ恋ーー

(せんきゃくはきべこきょうのせんさい)

船客は木部孤筇の先妻

(こういうおおぎょうなひょうだいがまずようこのめをこいたくいつけた。「ほんぽうにてもっともじゅうようなる)

こういう大業な標題がまず葉子の目を小痛く射つけた。「本邦にて最も重要なる

(いちにあるぼうきせんがいしゃのしょゆうせんまるまるまるのじむちょうは、さきごろべいこくこうろにきんむちゅう、)

位置にある某汽船会社の所有船〇〇丸の事務長は、先ごろ米国航路に勤務中、

(かつてきべこきょうにかしてほどもなくすがたをくらましたるばくれんおんななにがしがいっとうせんきゃくとして)

かつて木部孤筇に嫁してほどもなく姿を晦ましたる莫連女某が一等船客として

(のりこみいたるをそそのかし、そのおんなをべいこくにじょうりくせしめずひそかにつれかえり)

乗り込みいたるをそそのかし、その女を米国に上陸せしめずひそかに連れ帰り

(たるかいじじつあり。しかもぼうおんなといえるはべいこくにせんこうせるこんやくのおっとまであるみぶんの)

たる怪事実あり。しかも某女といえるは米国に先行せる婚約の夫まである身分の

(ものなり。せんきゃくにたいしてもっともおもきせきにんをになうべきじむちょうにかかるふらちのきょどう)

ものなり。船客に対して最も重き責任を担うべき事務長にかかる不埒の挙動

(ありしは、じむちょういっこのしったいのみならず、そのきせんがいしゃのたいめんにもえいきょうする)

ありしは、事務長一個の失態のみならず、その汽船会社の体面にも影響する

(ゆゆしきだいじなり。ことのしさいはもれなくほんしのたんちしたるところなれども、かいしゅんの)

由々しき大事なり。事の仔細はもれなく本紙の探知したる所なれども、改悛の

(よちをあたえんため、しばらくはっぴょうをみあわせおくべし。もしあるきかんを)

余地を与えんため、しばらく発表を見合わせおくべし。もしある期間を

(すぎても、りょうにんのしゅうこうあらたまるもようなきときは、ほんしはようしゃなくしょうさいのきじを)

過ぎても、両人の醜行改まる模様なき時は、本紙は容赦なく詳細の記事を

(かかげてちくしょうどうにおちいりたるふたりをちょうかいし、あわせてきせんがいしゃのせきにんをとうことと)

掲げて畜生道に陥りたる二人を懲戒し、併せて汽船会社の責任を問う事と

(すべし。どくしゃこうかつもくしてそのときをまて」ようこはしたくちびるをかみしめながら)

すべし。読者請う刮目してその時を待て」葉子は下くちびるをかみしめながら

(このきじをよんだ。いったいなにしんぶんだろうと、そのときまできにもとめないでいた)

この記事を読んだ。いったい何新聞だろうと、その時まで気にも留めないでいた

(だいいちめんをくりもどしてみると、れいれいと「ほうせいしんぽう」としょしてあった。それをしると)

第一面を繰り戻して見ると、麗々と「報正新報」と書してあった。それを知ると

(ようこのぜんしんはいかりのためにつめのさきまであおじろくなって、おさえつけてもおさえつけても)

葉子の全身は怒りのために爪の先まで青白くなって、抑えつけても抑えつけても

(ぶるぶるとふるえだした。「ほうせいしんぽう」といえばたがわほうがくはかせのきかんしんぶんだ。)

ぶるぶると震え出した。「報正新報」といえば田川法学博士の機関新聞だ。

(そのしんぶんにこんなきじがあらわれるのはいがいでもありとうぜんでもあった。たがわふじんと)

その新聞にこんな記事が現われるのは意外でもあり当然でもあった。田川夫人と

(いうおんなはどこまでしゅうねくいやしいおんななのだろう。たがわふじんからのつうしんにちがいない)

いう女はどこまで執念く卑しい女なのだろう。田川夫人からの通信に違いない

(のだ。「ほうせいしんぽう」はこのつうしんをうけると、ほうどうのせんべんをつけておくためと、)

のだ。「報正新報」はこの通信を受けると、報道の先鞭をつけておくためと、

(どくしゃのこうきしんをあおるためとに、いちはやくあれだけのきじをのせて、たがわふじん)

読者の好奇心をあおるためとに、いち早くあれだけの記事を載せて、田川夫人

(からさらにくわしいしょうそくのくるのをまっているのだろう。ようこはするどくもこう)

からさらにくわしい消息の来るのを待っているのだろう。葉子は鋭くもこう

(すいした。もしこれがほかのしんぶんであったら、くらちのいっしんじょうのききでもあるの)

推した。もしこれがほかの新聞であったら、倉地の一身上の危機でもあるの

(だから、ようこはどんなひみつなうんどうをしても、このうえのきじのはっぴょうはもみけさ)

だから、葉子はどんな秘密な運動をしても、この上の記事の発表はもみ消さ

(なければならないとむねをさだめたにそういなかったけれども、たがわふじんがあくいを)

なければならないと胸を定めたに相違なかったけれども、田川夫人が悪意を

(こめてさせているしごとだとしてみると、どのみちかかずにはおくまいとおもわれた。)

こめてさせている仕事だとして見ると、どの道書かずにはおくまいと思われた。

(ゆうせんがいしゃのほうでこうあつてきなこうしょうでもすればとにかく、そのほかにはみちがない。)

郵船会社のほうで高圧的な交渉でもすればとにかく、そのほかには道がない。

(くれぐれもにくいおんなはたがわふじんだ・・・こういちずにおもいめぐらすとようこはふねの)

くれぐれも憎い女は田川夫人だ・・・こういちずに思いめぐらすと葉子は船の

(なかでのくつじょくをいまさらにまざまざとこころにうかべた。「おそうじができました」そう)

中での屈辱を今さらにまざまざと心に浮かべた。「お掃除ができました」そう

(ふすまごしにいいながらさっきのじょちゅうはかおもみせずにさっさとしたにおりて)

襖越しにいいながらさっきの女中は顔も見せずにさっさと階下(した)に降りて

(いってしまった。ようこはけっきょくそれをきやすいことにして、そのしんぶんをもったまま、)

行ってしまった。葉子は結局それを気安い事にして、その新聞を持ったまま、

(じぶんのへやにかえった。どこをそうじしたのだとおもわれるようなそうじのしかたで、)

自分の部屋に帰った。どこを掃除したのだと思われるような掃除のしかたで、

(はたきまでがちがいだなのしたにおきわすられていた。かびんにきちょうめんで)

はたきまでが違い棚の下におき忘られていた。過敏にきちょうめんで

(きれいずきなようこはもうたまらなかった。じぶんでてきぱきとそこいらをかたづけて)

きれい好きな葉子はもうたまらなかった。自分でてきぱきとそこいらを片づけて

(おいて、ぱらそるとてさげをとりあげるがいなやそのやどをでた。)

置いて、パラソルと手提げを取り上げるが否やその宿を出た。

(おうらいにでるとそのりょかんのじょちゅうがしごにんはやじまいをしてひるまのなかをのげやまの)

往来に出るとその旅館の女中が四五人早じまいをして昼間の中を野毛山の

(だいじんぐうのほうにでもさんぽにいくらしいうしろすがたをみた。そそくさとあさのそうじを)

大神宮のほうにでも散歩に行くらしい後ろ姿を見た。そそくさと朝の掃除を

(いそいだじょちゅうたちのこころもようこにはよめた。ようこはそのおんなたちをみおくるとなんという)

急いだ女中たちの心も葉子には読めた。葉子はその女たちを見送るとなんという

(ことなしにさびしくおもった。おびのあいだにはさんだままにしておいたしんぶんのきりぬきが)

事なしにさびしく思った。帯の間にはさんだままにしておいた新聞の切り抜きが

(むねをやくようだった。ようこはあるきあるきそれをひきだしててさげにしまいかえた。)

胸を焼くようだった。葉子は歩き歩きそれを引き出して手提げにしまいかえた。

(りょかんはでたがどこにいこうというあてもなかったようこはうつむいてもみじざかをおり)

旅館は出たがどこに行こうというあてもなかった葉子はうつむいて紅葉坂をおり

(ながら、さしもしないぱらそるのいしづきでしもどけになったつちをひとあしひとあし)

ながら、さしもしないパラソルの石突きで霜解けになった土を一足一足

(つきさしてあるいていった。いつのまにかじめじめしたうすぎたないせまいとおりにきた)

突きさして歩いて行った。いつのまにかじめじめした薄ぎたない狭い通りに来た

(とおもうと、はしなくもいつかことうといっしょにあがったさがみやのまえをとおっているの)

と思うと、はしなくもいつか古藤と一緒に上がった相模屋の前を通っているの

(だった。「さがみや」とふるめかしいじたいでかいたおきあんどんのかみまでがそのときのまま)

だった。「相模屋」と古めかしい字体で書いた置き行燈の紙までがその時のまま

(ですすけていた。ようこはみおぼえられているのをおそれるようにあしばやにそのまえを)

ですすけていた。葉子は見覚えられているのを恐れるように足早にその前を

(とおりぬけた。ていしゃばまえはすぐそこだった。もうじゅうにじちかいあきのひははなやかに)

通りぬけた。停車場前はすぐそこだった。もう十二時近い秋の日ははなやかに

(てりみちて、おもったよりかずおおいぐんしゅうがうんがにかけわたしたいくつかのはしを)

照り満ちて、思ったより数多い群衆が運河にかけ渡したいくつかの橋を

(にぎやかにおうらいしていた。ようこはじぶんひとりがみんなからふりむいてみられる)

にぎやかに往来していた。葉子は自分一人がみんなから振り向いて見られる

(ようにおもいなした。それがあたりまえのときならば、どれほどおおくのひとにじろじろ)

ように思いなした。それがあたりまえの時ならば、どれほど多くの人にじろじろ

(とみられようともどをうしなうようなようこではなかったけれども、たったいま)

と見られようとも度を失うような葉子ではなかったけれども、たった今

(いまいましいしんぶんのきじをみたようこではあり、いかにもせいようじみたやぼくさい)

いまいましい新聞の記事を見た葉子ではあり、いかにも西洋じみた野暮くさい

(わたいれをきているようこであった。ふくそうにちりほどでもひてんのうちどころがあると)

綿入れを着ている葉子であった。服装に塵ほどでも批点の打ちどころがあると

(きがひけてならないようことしては、りょかんをでてきたのがかなしいほどこうかいされた。)

気がひけてならない葉子としては、旅館を出て来たのが悲しいほど後悔された。

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