有島武郎 或る女55
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問題文
(「ちょっとさあちゃんをこっちにおかし」しばらくしてからようこはさだこを)
「ちょっと定(さあ)ちゃんをこっちにお貸し」しばらくしてから葉子は定子を
(ばあやのひざからうけとってじぶんのふところにだきしめた。「おじょうさま・・・わたしには)
婆やの膝から受け取って自分のふところに抱きしめた。「お嬢さま・・・私には
(もうなにがなんだかちっともわかりませんが、わたしはただもうくやしゅうござい)
もう何がなんだかちっともわかりませんが、私はただもうくやしゅうござい
(ます。・・・どうしてこうはやくおかえりになったんでございますか・・・みなさまの)
ます。・・・どうしてこう早くお帰りになったんでございますか・・・皆様の
(おっしゃることをうかがっているとあんまりごうはらでございますから・・・もうわたしはみみを)
おっしゃる事を伺っているとあんまり業腹でございますから・・・もう私は耳を
(ふさいでおります。あなたからうかがったところがどうせこうとしをとりますとふに)
ふさいでおります。あなたから伺ったところがどうせこう年を取りますと腑に
(おちるきづかいはございません。でもまあおからだがどうかとおもっておあんじ)
落ちる気づかいはございません。でもまあおからだがどうかと思ってお案じ
(もうしておりましたが、ごじょうぶでなによりでございました・・・なにしろさだこさまが)
申しておりましたが、御丈夫で何よりでございました・・・何しろ定子様が
(おかわいそうで・・・」ようこにおぼれきったばあやのくちからさもくやしそうに)
おかわいそうで・・・」葉子におぼれきった婆やの口からさもくやしそうに
(こうしたことばがつぶやかれるのを、ようこはさびしいこころもちできかねばならな)
こうした言葉がつぶやかれるのを、葉子はさびしい心持ちで聞かねばならな
(かった。もうろくしたとじぶんではいいながら、わかいときにていしゅにしに)
かった。耄碌(もうろく)したと自分ではいいながら、若い時に亭主に死に
(わかれてりっぱにごけをとおしてうしろゆびいっぽんさされなかったむかしかたぎの)
別れて立派に後家を通して後ろ指一本さされなかった昔気質(むかしかたぎ)の
(しっかりものだけに、しんるいたちのかげぐちやうわさできいたようこのらんぎょうにはあきれ)
しっかり者だけに、親類たちの陰口やうわさで聞いた葉子の乱行にはあきれ
(はてていながら、このよでただひとりのひぞうぶつとしてようこのあたまからあしのさきまでも)
果てていながら、この世でただ一人の秘蔵物として葉子の頭から足の先までも
(じぶんのほこりにしているばあやのせつないこころもちは、ひしひしとようこにもつうじるの)
自分の誇りにしている婆やの切ない心持ちは、ひしひしと葉子にも通じるの
(だった。ばあやとさだこ・・・こんなじゅんすいなあいじょうのなかにとりかこまれて、おちついた、)
だった。婆やと定子・・・こんな純粋な愛情の中に取り囲まれて、落ち着いた、
(しとやかな、そしてあんのんないっしょうをすごすのも、ようこはのぞましいとおもわないでは)
しとやかな、そして安穏な一生を過ごすのも、葉子は望ましいと思わないでは
(なかった。ことにばあやとさだことをめのまえにおいて、つつましやかなかぶそくのない)
なかった。ことに婆やと定子とを目の前に置いて、つつましやかな過不足のない
(せいかつをながめると、ようこのこころはしらずしらずなじんでいくのをおぼえた。しかし)
生活をながめると、葉子の心は知らず知らずなじんで行くのを覚えた。しかし
(どうじにくらちのことをちょっとでもおもうとようこのちはいっときにわきたった。へいおんな、)
同時に倉地の事をちょっとでも思うと葉子の血は一時にわき立った。平穏な、
(そのかわりしんだもどうぜんないっしょうがなんだ。じゅんすいな、そのかわりひえもせずねっしも)
その代わり死んだも同然な一生がなんだ。純粋な、その代わり冷えもせず熱しも
(しないあいじょうがなんだ。いきるいじょうはいきてるらしくいきないでどうしよう。)
しない愛情がなんだ。生きる以上は生きてるらしく生きないでどうしよう。
(あいするいじょうはいのちととりかえっこをするくらいにあいせずにはいられない。そうした)
愛する以上は命と取りかえっこをするくらいに愛せずにはいられない。そうした
(しょうどうがじぶんでもどうすることもできないつよいかんじょうになって、ようこのこころをほんのうてきに)
衝動が自分でもどうする事もできない強い感情になって、葉子の心を本能的に
(あおぎたてるのだった。このきかいなふたつのむじゅんがようこのこころのなかにはへいきでりょうりつ)
煽ぎ立てるのだった。この奇怪な二つの矛盾が葉子の心の中には平気で両立
(しようとしていた。ようこはがんぜんのきょうかいでそのふたつのむじゅんをわりあいにこんなんもなく)
しようとしていた。葉子は眼前の境界でその二つの矛盾を割合に困難もなく
(つかいわけるふしぎなこころのひろさをもっていた。あるときにはきょくたんになみだもろく、)
使い分ける不思議な心の広さを持っていた。ある時には極端に涙もろく、
(あるときにはきょくたんにざんぎゃくだった。まるでふたりのひとがひとつのにくたいにやどっているかと)
ある時には極端に残虐だった。まるで二人の人が一つの肉体に宿っているかと
(じぶんながらうたがうようなこともあった。それがときにはいまいましかった、ときには)
自分ながら疑うような事もあった。それが時にはいまいましかった、時には
(ほこらしくもあった。「さあちゃま。ようございましたね、ままちゃんが)
誇らしくもあった。「定(さあ)ちゃま。ようございましたね、ママちゃんが
(はやくおかえりになって。おたちになってからでもおききわけよくままのまのじも)
早くお帰りになって。お立ちになってからでもお聞き分けよくママのマの字も
(おっしゃらなかったんですけれども、どうかするとこうぼんやりかんがえてでも)
おっしゃらなかったんですけれども、どうかするとこうぼんやり考えてでも
(いらっしゃるようなのがおかわいそうで、いちじはおからだでもわるくなりは)
いらっしゃるようなのがおかわいそうで、一時はおからだでも悪くなりは
(しないかとおもうほどでした。こんなでもなかなかこころははたらいていらっしゃるんです)
しないかと思うほどでした。こんなでもなかなか心は働いていらっしゃるんです
(からねえ」とばあやは、ようこのひざのうえにすくうようにだかれて、だまったまま、)
からねえ」と婆やは、葉子の膝の上に巣食うように抱かれて、黙ったまま、
(すんだひとみでははのかおをしたからのぞくようにしているさだことようことをみくらべ)
澄んだひとみで母の顔を下からのぞくようにしている定子と葉子とを見くらべ
(ながら、じゅっかいめいたことをいった。ようこはじぶんのほおを、あたたかいもものはだのように)
ながら、述懐めいた事をいった。葉子は自分の頬を、暖かい桃の膚のように
(うぶげのはえたさだこのほおにすりつけながら、それをきいた。「おまえの)
生毛(うぶげ)の生えた定子の頬にすりつけながら、それを聞いた。「お前の
(そのきしょうでわからないとおいいなら、くどくどいったところがむだかもしれない)
その気象でわからないとおいいなら、くどくどいったところがむだかもしれない
(から、こんどのことについてはわたしなんにもはなすまいが、うちのしんるいたちのいうこと)
から、今度の事については私なんにも話すまいが、家の親類たちのいう事
(なんぞはきっときにしないでおくれよ。こんどのふねにはとんでもないひとりの)
なんぞはきっと気にしないでおくれよ。今度の船には飛んでもない一人の
(おくさんがのりあわしていてね、そのひとがちょっとしたきまぐれからあることないこと)
奥さんが乗り合わしていてね、その人がちょっとした気まぐれからある事ない事
(とりまぜてこっちにいってよこしたので、ことあれかしとまちかまえていたひとたちの)
取りまぜてこっちにいってよこしたので、事あれかしと待ち構えていた人たちの
(みみにはいったんだから、これからさきだってどんなひどいことをいわれるかしれた)
耳にはいったんだから、これから先だってどんなひどい事をいわれるか知れた
(もんじゃないんだよ。おまえもしってのとおりわたしはうまれおちるとから)
もんじゃないんだよ。お前も知ってのとおり私は生まれ落ちるとから
(つむじまがりじゃあったけれども、あんなにまわりからこづきまわされ)
つむじ曲がりじゃあったけれども、 あんなに周囲(まわり)からこづき回され
(さえしなければこんなになりはしなかったのだよ。それはだれよりもおまえが)
さえしなければこんなになりはしなかったのだよ。それはだれよりもお前が
(しってておくれだわね。これからだってわたしはわたしなりにおしとおすよ。だれがなんと)
知ってておくれだわね。これからだって私は私なりに押し通すよ。だれがなんと
(いったってかまうもんですか。そのつもりでおまえもわたしをみていておくれ。ひろい)
いったって構うもんですか。そのつもりでお前も私を見ていておくれ。広い
(よのなかにわたしがどんなしくじりをしでかしても、こころからおもいやってくれる)
世の中に私がどんな失策(しくじり)をしでかしても、心から思いやってくれる
(のはほんとうにおまえだけだわ。・・・こんどからはわたしもちょいちょいくるだろう)
のはほんとうにお前だけだわ。・・・今度からは私もちょいちょい来るだろう
(けれども、このうえともこのこをたのみますよ。ね、さあちゃん。よくばあやの)
けれども、この上ともこの子を頼みますよ。ね、定(さあ)ちゃん。よく婆やの
(いうことをきいていいこになってちょうだいよ。ままちゃんはここにいるときでも)
いう事を聞いていい子になってちょうだいよ。ママちゃんはここにいる時でも
(いないときでも、いつでもあなたをだいじにだいじにおもってるんだからね。・・・さ、)
いない時でも、いつでもあなたを大事に大事に思ってるんだからね。・・・さ、
(もうこんなむずかしいおはなしはよしておひるのおしたくでもしましょうね。きょうは)
もうこんなむずかしいお話はよしてお昼のおしたくでもしましょうね。きょうは
(ままちゃんがおいしいごちそうをこしらえてあげるからさあちゃんも)
ママちゃんがおいしいごちそうをこしらえて上げるから定(さあ)ちゃんも
(てつだいしてちょうだいね」そういってようこはきがるそうにたちあがってだいどころの)
手伝いしてちょうだいね」そういって葉子は気軽そうに立ち上がって台所の
(ほうにさだことつれだった。ばあやもたちあがりはしたがそのかおはみょうにさえな)
ほうに定子と連れだった。婆やも立ち上がりはしたがその顔は妙に冴えな
(かった。そしてだいどころではたらきながらややともするとないしょではなを)
かった。そして台所で働きながらややともすると内所(ないしょ)で鼻を
(すすっていた。)
すすっていた。
(そこにははやまできべこきょうとどうせいしていたときにつかったちょうどがいまだにふるびをおびて)
そこには葉山で木部孤筇と同棲していた時に使った調度が今だに古びを帯びて
(ほぞんされたりしていた。さだこをそばにおいてそんなものをみるにつけ、)
保存されたりしていた。定子をそばにおいてそんなものを見るにつけ、
(すこしかんしょうてきになったようこのこころはなみだにうごこうとした。けれどもそのひはなんと)
少し感傷的になった葉子の心は涙に動こうとした。けれどもその日はなんと
(いってもちかごろおぼえないほどしみじみとしたたのしさだった。なにごとにでもきような)
いっても近ごろ覚えないほどしみじみとした楽しさだった。何事にでも器用な
(ようこはふそくがちなだいどころどうぐをたくみにりようして、せいようふうなりょうりとかしとをみしなほど)
葉子は不足がちな台所道具を巧みに利用して、西洋風な料理と菓子とを三品ほど
(つくった。さだこはすっかりよろこんでしまって、ちいさなてあしをまめまめしくはたらかし)
作った。定子はすっかり喜んでしまって、小さな手足をまめまめしく働かし
(ながら、「はいはい」といってほうちょうをあっちにはこんだり、さらをこっちに)
ながら、「はいはい」といって庖丁をあっちに運んだり、皿をこっちに
(はこんだりした。さんにんはたのしくひるめしのたくについた。そしてゆうがたまでみずいらずに)
運んだりした。三人は楽しく昼飯の卓についた。そして夕方まで水入らずに
(ゆっくりくらした。そのよるはいもうとたちががっこうからくるはずになっていたのでようこは)
ゆっくり暮らした。その夜は妹たちが学校から来るはずになっていたので葉子は
(ばあやのすすめるばんめしもことわってゆうがたそのいえをでた。いりぐちのところにつくねんとたって)
婆やの勧める晩飯も断わって夕方その家を出た。入り口の所につくねんと立って
(ばあやにりょうかたをささえられながらすがたのきえるまでようこをみおくったさだこのすがたが)
婆やに両肩をささえられながら姿の消えるまで葉子を見送った定子の姿が
(いつまでもいつまでもようこのこころからはなれなかった。ゆうやみにまぎれたほろのなかで)
いつまでもいつまでも葉子の心から離れなかった。夕闇にまぎれた幌の中で
(ようこはいくどかはんけちをめにあてた。)
葉子は幾度かハンケチを目にあてた。
(やどにつくころにはようこのこころもちはかわっていた。げんかんにはいってみると、)
宿に着くころには葉子の心持ちは変わっていた。玄関にはいって見ると、
(じょがっこうでなければはかれないようなやすげたのきたなくなったのが、おきゃくや)
女学校でなければ履かれないような安下駄のきたなくなったのが、お客や
(じょちゅうたちのきどったはきもののなかにまじってぬいであるのをみて、もういもうとたちが)
女中たちの気取った履き物の中にまじって脱いであるのを見て、もう妹たちが
(きてまっているのをしった。さっそくにでむかえにでたおかみに、こんやはくらちが)
来て待っているのを知った。さっそくに出迎えに出た女将に、今夜は倉地が
(かえってきたらよそのへやでねるようによういをしておいてもらいたいとたのんで、)
帰って来たら他所の部屋で寝るように用意をしておいてもらいたいと頼んで、
(しずしずとにかいへあがっていった。ふすまをあけてみるとふたりのしまいはぴったりと)
静々と二階へ上がって行った。襖をあけて見ると二人の姉妹はぴったりと
(くっつきあってないていた。ひとのあしおとをあねのそれだとはじゅうぶんにしりながら、)
くっつき合って泣いていた。人の足音を姉のそれだとは充分に知りながら、
(あいこのほうはなきがおをみせるのがきまりがわるいふうで、ふりむきもせずに)
愛子のほうは泣き顔を見せるのが気まりが悪いふうで、振り向きもせずに
(ひとしおうなだれてしまったが、さだよのほうはようこのすがたをひとめみる)
一入(ひとしお)うなだれてしまったが、貞世のほうは葉子の姿を一目見る
(なり、はねるようにたちあがってはげしくなきながらようこのふところにとびこんで)
なり、はねるように立ち上がって激しく泣きながら葉子のふところに飛びこんで
(きた。ようこもおもわずとびたつようにさだよをむかえて、ながひばちのかたわらのじぶんの)
来た。葉子も思わず飛び立つように貞世を迎えて、長火鉢のかたわらの自分の
(ざにすわると、さだよはそのひざにつっぷしてすすりあげすすりあげかれんなせなかに)
座にすわると、貞世はその膝に突っ伏してすすり上げすすり上げ可憐な背中に
(なみをうたした。)
波を打たした。