有島武郎 或る女57

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(「もういいかんにんしてくださいよ。ねえさんがやはりいたらなかったんだから。)

「もういい堪忍してくださいよ。ねえさんがやはり至らなかったんだから。

(おとうさんがいらっしゃればおたがいにこんないやなめにはあわないんだろう)

お父さんがいらっしゃればお互いにこんないやな目には合わないんだろう

(けれども(こういうばあいようこはおくびにもははのなはださなかった)おやのない)

けれども(こういう場合葉子はおくびにも母の名は出さなかった)親のない

(わたしたちはかたみがせまいわね。まああなたがたはそんなにないちゃだめ。あいさん)

私たちは肩身が狭いわね。まああなた方はそんなに泣いちゃだめ。愛さん

(なんですねあなたからさきにたって。ねえさんがかえったいじょうはねえさんになんでも)

なんですねあなたから先に立って。ねえさんが帰った以上はねえさんになんでも

(まかしてあんしんしてべんきょうしてくださいよ。そしてせけんのひとをみかえしておやり」ようこは)

任して安心して勉強してくださいよ。そして世間の人を見返しておやり」葉子は

(じぶんのこころもちをいきどおろしくいいはっているのにきがついた。いつのまにか)

自分の心持ちを憤ろしくいい張っているのに気が付いた。いつのまにか

(じぶんまでがはげしくこうふんしていた。)

自分までが激しく興奮していた。

(ひばちのひはいつかはいになって、よさむがひそやかにさんにんのしまいにはいよっていた。)

火鉢の火はいつか灰になって、夜寒がひそやかに三人の姉妹にはい寄っていた。

(もうすこしねむけをもよおしてきたさだよは、ないたあとのしぶいめをてのこうでこすり)

もう少し眠気を催して来た貞世は、泣いたあとの渋い目を手の甲でこすり

(ながら、ふしぎそうにこうふんしたあおじろいあねのかおをみやっていた。あいこは)

ながら、不思議そうに興奮した青白い姉の顔を見やっていた。愛子は

(がすのひにかおをそむけながらしくしくとなきはじめた。ようこはもうそれを)

瓦斯(がす)の灯に顔をそむけながらしくしくと泣き始めた。葉子はもうそれを

(とめようとはしなかった。じぶんですらこえをだしてないてみたいようなしょうどうを)

止めようとはしなかった。自分ですら声を出して泣いてみたいような衝動を

(つきかえしつきかえしみぞおちのところにかんじながら、ひばちのなかをみいったまま)

つき返しつき返し水落(みぞおち)の所に感じながら、火鉢の中を見入ったまま

(こまかくふるえていた。うまれかわらなければかいふくしようのないようなじぶんの)

細かく震えていた。生まれ変わらなければ回復しようのないような自分の

(こしかたゆくすえがぜつぼうてきにはっきりとようこのこころをさむくひきしめていた。それでも)

越し方行く末が絶望的にはっきりと葉子の心を寒く引き締めていた。それでも

(さんにんがじゅうろくじょうにとこをしいてねてだいぶたってから、よこはまからかえってきたくらちが)

三人が十六畳に床を敷いて寝てだいぶたってから、横浜から帰って来た倉地が

(ろうかをへだてたとなりのへやにいくのをききしると、ようこはすぐおきかえってしばらく)

廊下を隔てた隣の部屋に行くのを聞き知ると、葉子はすぐ起きかえってしばらく

(いもうとたちのねいきをうかがっていたが、ふたりがいかにもむしんにあかあかとしたほおをして)

妹たちの寝息をうかがっていたが、二人がいかにも無心に赤々とした頬をして

(よくねいっているのをみきわめると、そっとどてらをひっかけながらそのへやを)

よく寝入っているのを見極めると、そっとどてらを引っかけながらその部屋を

など

(ぬけだした。)

脱け出した。

(にじゅうごそれからいちにちおいてつぎのひにことうからくじごろにくるがいいかと)

【二五】 それから一日置いて次の日に古藤から九時ごろに来るがいいかと

(でんわがかかってきた。ようこはじゅうじすぎにしてくれとへんじをさせた。ことうにあう)

電話がかかって来た。葉子は十時過ぎにしてくれと返事をさせた。古藤に会う

(にはくらちがよこはまにいったあとがいいとおもったからだ。とうきょうにかえってからおばと)

には倉地が横浜に行ったあとがいいと思ったからだ。東京に帰ってから叔母と

(いそがわじょしのところへはかえったことだけをしらせてはおいたが、どっちからもほうもんは)

五十川女史の所へは帰った事だけを知らせては置いたが、どっちからも訪問は

(もとよりのこといちごんはんくのあいさつもなかった。せめてくるなりなぐさめてくるなり、なんとか)

元よりの事一言半句の挨拶もなかった。責めて来るなり慰めて来るなり、何とか

(しそうなものだ。あまりといえばひとをふみつけにしたしわざだとはおもった)

しそうなものだ。あまりといえば人を踏みつけにしたしわざだとは思った

(けれども、ようことしてはけっくそれがめんどうがなくっていいともおもった。そんな)

けれども、葉子としては結句それがめんどうがなくっていいとも思った。そんな

(ひとたちにあっていさくさくちをきくよりも、ことうとはなしさえすればそのくちうらから)

人たちに会っていさくさ口をきくよりも、古藤と話しさえすればその口裏から

(とうきょうのひとたちのこころもちもだいたいはわかる。せっきょくてきなじぶんのたいどはそのうえできめても)

東京の人たちの心持ちも大体はわかる。積極的な自分の態度はその上で決めても

(おそくはないとしあんした。そうかくかんのおかみはほんとうにめからはなにぬけるように)

遅くはないと思案した。双鶴館の女将はほんとうに目から鼻に抜けるように

(おちどなく、ようこのかげみになってようこのためにつくしてくれた。そのうしろには)

落ち度なく、葉子の影身になって葉子のために尽くしてくれた。その後ろには

(くらちがいて、あのいかにもそだいらしくみえながら、ひとのきもつかないような)

倉地がいて、あのいかにも疎大らしく見えながら、人の気もつかないような

(めんみつなところにまできをくばって、さいはいをふるっているのはわかっていた。しんぶんきしゃ)

綿密な所にまで気を配って、采配を振っているのはわかっていた。新聞記者

(などがどこをどうしてさぐりだしたか、はじめのうちはおしづよくようこにめんかいをもとめて)

などがどこをどうして探り出したか、始めのうちは押し強く葉子に面会を求めて

(きたのを、おかみがてぎわよくおいはらったので、ちかづきこそはしなかったがとおまきに)

来たのを、女将が手際よく追い払ったので、近づきこそはしなかったが遠巻きに

(してようこのきょどうにちゅういしていることなどを、おかみはまゆをひそめながらはなしてきかせ)

して葉子の挙動に注意している事などを、女将は眉をひそめながら話して聞かせ

(たりした。きべのこいびとであったということがひどくきしゃたちのきょうみをひいたように)

たりした。木部の恋人であったという事がひどく記者たちの興味を引いたように

(みえた。ようこはしんぶんきしゃときくと、ふるえあがるほどいやなかんじをうけた。ちいさい)

見えた。葉子は新聞記者と聞くと、震え上がるほどいやな感じを受けた。小さい

(じぶんにおんなきしゃになろうなどとひとにもこうがいしたおぼえがあるくせに、たんぼうなどにくる)

時分に女記者になろうなどと人にも口外した覚えがあるくせに、探訪などに来る

(ひとたちのことをかんがえるといちばんいやしいしゅるいのにんげんのようにおもわないではいられ)

人たちの事を考えるといちばん賤しい種類の人間のように思わないではいられ

(なかった。せんだいで、しんぶんしゃのしゃちょうとおやさとようことのあいだにおこったこととしてふりんな)

なかった。仙台で、新聞社の社長と親佐と葉子との間に起こった事として不倫な

(ねつぞうきじ(ようこはそのきじのうち、ははにかんしてはどのへんまでがねつぞうであるか)

捏造記事(葉子はその記事のうち、母に関してはどの辺までが捏造であるか

(しらなかった。すくなくともようこにかんしてはねつぞうだった)がけいさいされたばかりで)

知らなかった。少なくとも葉子に関しては捏造だった)が掲載されたばかりで

(なく、ははのいわゆるえんざいはどうどうとしんぶんしじょうですすがれたが、じぶんのは)

なく、母のいわゆる冤罪は堂々と新聞紙上で 雪(すす)がれたが、自分のは

(とうとうそのままになってしまった、あのにがいけいけんなどがますますようこのかんがえを)

とうとうそのままになってしまった、あの苦い経験などがますます葉子の考えを

(かたくなにした。ようこが「ほうせいしんぽう」のきじをみたときも、それほどたがわふじんがじぶんを)

頑なにした。葉子が「報正新報」の記事を見た時も、それほど田川夫人が自分を

(はくがいしようとするなら、こちらもどこかのしんぶんをてにいれてたがわふじんにちめいしょうを)

迫害しようとするなら、こちらもどこかの新聞を手に入れて田川夫人に致命傷を

(あたえてやろうかという(どうとくをこめのめしとどうようにみていきているような)

与えてやろうかという(道徳を米の飯と同様に見て生きているような

(たがわふじんに、そのてんにきずをあたえてかおだしができないようにするのはよういなことだと)

田川夫人に、その点に傷を与えて顔出しができないようにするのは容易な事だと

(ようこはおもった)たくらみをじぶんひとりでかんがえたときでも、あのきしゃというものを)

葉子は思った)企みを自分一人で考えた時でも、あの記者というものを

(てなずけるまでにじぶんをだらくさせたくないばかりにそのもくろみをおもいとどまった)

手なずけるまでに自分を堕落させたくないばかりにその目論見を思いとどまった

(ほどだった。そのあさもくらちとようことはおかみをはなしあいてにあさめしをくいながらしんぶんに)

ほどだった。その朝も倉地と葉子とは女将を話相手に朝飯を食いながら新聞に

(でたあのきかいなきじのはなしをして、ようこがとうにそれをちゃんとしっていた)

出たあの奇怪な記事の話をして、葉子がとうにそれをちゃんと知っていた

(ことなどをかたりあいながらわらったりした。「いそがしいにかまけて、あれは)

事などを談(かた)り合いながら笑ったりした。「忙しいにかまけて、あれは

(あのままにしておったが・・・ひとつはあまりたんぺいきゅうにこっちからでしゃばると)

あのままにしておったが・・・一つはあまり短兵急にこっちから出しゃばると

(あしもとをみやがるで、・・・あれはなんとかせんとめんどうだて」とくらちは)

足元を見やがるで、・・・あれはなんとかせんとめんどうだて」と倉地は

(がらっとはしをぜんにすてながら、ようこからおかみにめをやった。「そうですともさ。)

がらっと箸を膳に捨てながら、葉子から女将に目をやった。「そうですともさ。

(くだらない、あなた、あれであなたのおしょくしょうにでもけちがついたらほんとうに)

下らない、あなた、あれであなたのお職掌にでもけちが付いたらほんとうに

(ばかばかしゅうござんすわ。ほうせいしんぽうにならわたしごこんいのかたもふたりやさんにんは)

ばかばかしゅうござんすわ。報正新報になら私御懇意の方も二人や三人は

(いらっしゃるから、なんならわたしからそれとなくおはなししてみてもようございますわ。)

いらっしゃるから、何なら私からそれとなくお話してみてもようございますわ。

(わたしはまたおふたりともいままであんまりへいきでいらっしゃるんで、もうなんとかおはなしが)

私はまたお二人とも今まであんまり平気でいらっしゃるんで、もう何とかお話が

(ついたのだとばかりおもってましたの」とおかみはさかしそうなめにしんみな)

付いたのだとばかり思ってましたの」と女将は怜(さか)しそうな目に真味な

(いろをみせてこういった。くらちはむとんじゃくに「そうさな」といった)

色を見せてこういった。倉地は無頓着(むとんじゃく)に「そうさな」といった

(きりだったが、ようこはふたりのいけんがほぼいっちしたらしいのをみると、いくら)

きりだったが、葉子は二人の意見がほぼ一致したらしいのを見ると、いくら

(おかみがたくみにたちまわってもそれをもみけすことができないといいだした。なぜと)

女将が巧みに立ち回ってもそれをもみ消す事ができないといい出した。なぜと

(いえばそれはたがわふじんがなにかようこをふかくいしゅにおもってさせたことで、「ほうせいしんぽう」)

いえばそれは田川夫人が何か葉子を深く意趣に思ってさせた事で、「報正新報」

(にそれがあらわれたわけは、そのしんぶんがたがわはかせのきかんしんぶんだからだとせつめいした。)

にそれが現われたわけは、その新聞が田川博士の機関新聞だからだと説明した。

(くらちはたがわとしんぶんとのかんけいをはじめてしったらしいようすでいがいなかおつきをした。)

倉地は田川と新聞との関係を始めて知ったらしい様子で意外な顔つきをした。

(「おれはまたこうろくのやつ・・・あいつはべらべらしたやつで、みぎひだりのはっきり)

「おれはまた興録のやつ・・・あいつはべらべらしたやつで、右左のはっきり

(しないゆだんのならぬおとこだから、あいつのしごとかともおもってみたが、なるほど)

しない油断のならぬ男だから、あいつの仕事かとも思ってみたが、なるほど

(それにしてはきじのでかたがすこしはやすぎるて」そういってやおらたちあがり)

それにしては記事の出かたが少し早すぎるて」そういってやおら立ち上がり

(ながらつぎのまにきかえにいった。)

ながら次の間に着かえに行った。

(じょちゅうがぜんぶをかたづけおわらぬうちにことうがきたというあんないがあった。)

女中が膳部を片づけ終わらぬうちに古藤が来たという案内があった。

(ようこはちょっととうわくした。あつらえておいたいるいがまだできないのと、)

葉子はちょっと当惑した。あつらえておいた衣類がまだできないのと、

(きぐあいがよくって、くらちからもしっくりにあうとほめられるので、そのあさも)

着具合がよくって、倉地からもしっくり似合うとほめられるので、その朝も

(げいしゃのちょいちょいぎらしい、くろじゅすのえりのついた、でんぽうな)

芸者のちょいちょい着らしい、 黒襦子(くろじゅす)の襟の着いた、伝法な

(ぼうじまのみはばのせまいきものに、くろじゅすとみずいろひったのちゅうやおびをしめて、)

棒縞の身幅の狭い着物に、黒襦子と 水色匹田(ひった)の昼夜帯を締めて、

(どてらをひっかけていたばかりでなく、かみまでやはりくしまきにしていたの)

どてらを引っかけていたばかりでなく、髪までやはり櫛巻きにしていたの

(だった。ええ、いいかまうものか、どうせはなをあかさせるならのっけから)

だった。ええ、いい構うものか、どうせ鼻をあかさせるならのっけから

(あかさせてやろう、そうおもってようこはそのままのすがたでことうをまちかまえた。)

あかさせてやろう、そう思って葉子はそのままの姿で古藤を待ち構えた。

(むかしのままのすがたで、ことうはりょかんというよりもりょうりやといったふうのいえのようすに)

昔のままの姿で、古藤は旅館というよりも料理屋といったふうの家の様子に

(すこしはなじろみながらはいってきた。そうしてとびはなれてふうていのかわったようこを)

少し鼻じろみながらはいって来た。そうして飛び離れて風体の変わった葉子を

(みると、なおさらかってがちがって、これがあのようこなのかというように、)

見ると、なおさら勝手が違って、これがあの葉子なのかというように、

(おどろきのいろをかくしだてもせずにかおにあらわしながら、じっとそのすがたをみた。)

驚きの色を隠し立てもせずに顔に現わしながら、じっとその姿を見た。

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