夢野久作 押絵の奇蹟③/⑲

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問題文

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(けれど、そのにまいのおしえをあおのいてみておりますうちにわたしはなにかしら、)

けれど、その二枚の押絵をあおのいて見ておりますうちに私は何かしら、

(あるけだかいちからにひきたてられていくようなきもちになりました。)

或る気高い力に引き立てられて行くような気持ちになりました。

(そのうちのいちまいは、はっけんでんのいっせつで、いぬづかしのといぬかいげんぱちがほうりゅうかくのうえで)

そのうちの一枚は、八犬伝の一節で、犬塚信乃と犬飼現八が芳流閣の上で

(たたかっておりますところで、いまひとつはあこやのことぜめのぶたいめんになっております。)

闘っておりますところで、今一つは阿古屋の琴責めの舞台面になっております。

(どちらもおおきながらすばりのがくぶちにいれてありますうえからいまひとえ、がんじょうなかなあみで)

どちらも大きな硝子張りの額ぶちに入れてあります上から今一重、頑丈な金網で

(つつまれて、えまどうのにしのしょうめんにならべられているのでございますが、それを)

包まれて、絵馬堂の西の正面に並べられているので御座いますが、それを

(みあげておりますうちに、これは、もしかしたら、そのおしえのなかにこもって)

見上げておりますうちに、これは、もしかしたら、その押絵の中に籠もって

(おります、あなたさまとわたしとのうんめいをつつむしんぴのちからが、いまいちどあたらしく、わたしのこころに)

おります、貴方様と私との運命を包む神秘の力が、今一度新しく、私の心に

(はたらきかけているのではないかしらとおもいましたくらい、わたしのみうちが)

働きかけているのではないかしらと思いましたくらい、私の身うちが

(ぞくぞくといたしてまいりまして、なにかしらふしぎなおさけによっているような)

ゾクゾクと致して参りまして、何かしら不思議なお酒に酔っているような

(きもちになってしまったのでございました。そのときほどにうんめいのちからというものを)

気持ちになってしまったので御座いました。その時ほどに運命の力というものを

(しみじみとうれしく、たのしいものにかんじましたことはわたしのいっしょうのうちにいちども)

シミジミと嬉しく、楽しいものに感じましたことは私の一生のうちに一度も

(ございませんでしたでしょう。このよのなかにうんめいでないものはひとつもない。)

御座いませんでしたでしょう。この世の中に運命でないものは一つもない。

(ですからわたしはこのびょうきでしぬものときまってはいないでしょう。もしかすると)

ですから私はこの病気で死ぬものときまってはいないでしょう。もしかすると

(いまいちど、ふしぎとけんこうなからだになって、あなたさまにおめにかかるようなことが)

今一度、不思議と健康な身体になって、貴方様にお眼にかかるような事が

(ないともかぎりませぬ。そのようなうんめいをしっておりますのはこのふたつの)

ないとも限りませぬ。そのような運命を知っておりますのはこの二つの

(おしえばかり・・・そのなかでも、かたなをふりあげているいぬづかしのと、ことをひいている)

押絵ばかり・・・その中でも、刀を振り上げている犬塚信乃と、琴を弾いている

(あこやのふたりだけが、なにもかもちゃんとしっているので、そのうんめいに、)

阿古屋の二人だけが、何もかもチャンと知っているので、その運命に、

(わたしのかよわいちからがさからおうとしてもなんのやくにたちましょう。わたしはこうしたうんめいの)

私のかよわい力が逆らおうとしても何の役に立ちましょう。私はこうした運命の

(てにいだかれて、あなたさまのおそばにまいりましょう。そうしておなつかしいおむねに)

手に抱かれて、貴方様のお傍に参りましょう。そうしてお懐かしいお胸に

など

(すがって、いままでのことをすっかりおうちあけして、こころゆくまでなかしていただき)

縋って、今までの事をスッカリお打ち明けして、心ゆくまで泣かして頂き

(ましょう。それがわたしのほんとのうんめいなのでしょう。こんなような、)

ましょう。それが私のホントの運命なのでしょう。こんなような、

(ななやつのこどもがゆめみますような、あまえた、やすらかなきもちになりまして、)

七八つの子供が夢みますような、甘えた、安らかな気持ちになりまして、

(うつつともなくうとうとしながらのぼりのきしゃにのったことでございました。)

うつつともなくウトウトしながら上りの汽車に乗ったことで御座いました。

(とうきょうへかえりつきますと、わざと、ばすえのなもないようなちいさなやどやに)

東京へ帰りつきますと、わざと、場末の名もないような小さな宿屋に

(とまりました。そうしてまえにももうしあげましたように、そこであれからのちのしんぶんを)

泊りました。そうして前にも申上げましたように、そこであれから後の新聞を

(よんだのでございますが、そのきじのなかでも、とりわけてみをせめられました)

読んだので御座いますが、その記事の中でも、とりわけて身を責められました

(あなたさまのごしんせつのほど・・・それはわたしのにくたいとこころにつきまとうておりますよにも)

貴方様の御親切の程・・・それは私の肉体と心に付き纏うております世にも

(おそろしい、ふしぎなひみつのすべてをあらわにしておめにかけましても、あとへは)

恐ろしい、不思議な秘密のすべてを露わにしてお眼にかけましても、あとへは

(おひきになりそうにおもわれませぬおこころのほどと、そのためにきゅうにおもくおなり)

お退きになりそうに思われませぬお心の程と、そのために急に重くおなり

(あそばしたごびょうきのことをしょうちいたしますとどうじに、あなたさまとわたしとのうんめいをしはい)

遊ばした御病気の事を承知致しますと同時に、貴方様と私との運命を支配

(いたしております、あのおしえのしんぴのちからを、どのようにそらおそろしくおもいしりました)

致しております、あの押絵の神秘の力を、どのように空恐ろしく思い知りました

(ことでしょう。どのようにそのしんぶんしをいだきしめてなきぬれましたことで)

ことでしょう。どのようにその新聞紙を抱き締めて泣き濡れましたことで

(しょう。そうしていくどおもいかえしましても、そうしたうんめいにこのみをまかせて、)

しょう。そうして幾度思い返しましても、そうした運命にこの身を委せて、

(あなたさまにおめにかかって、このひみつをおうちあけするよりほかにみちはない。)

貴方様にお眼にかかって、この秘密をお打ち明けするよりほかに道はない。

(そうしたならば、あなたさまとわたしのびょうきもおのずとなおってしまうのかもしれない。)

そうしたならば、貴方様と私の病気もおのずと癒ってしまうのかも知れない。

(いえいえ、あなたさまとわたしとが、かようにおなじびょうきにたおれましたのは、そうした)

イエイエ、貴方様と私とが、斯様に同じ病気にたおれましたのは、そうした

(めにみえませぬうんめいのてが、じぶんかってにあなたさまからはなれていこうといたしました)

眼に見えませぬ運命の手が、自分勝手に貴方様から離れて行こうと致しました

(わたしを、ぜひともおそばへひきもどすための、ふしぎなしんせつからしてくれたことかも)

私を、ぜひともお傍へ引き戻すための、不思議な親切からしてくれたことかも

(しれない・・・というようなはかない、やるせのないおもいにむねを)

しれない・・・というような果敢(はか)ない、遣る瀬のない思いに胸を

(ときめかせながら、いくどあなたさまへさしあげるおてがみをかきなおしましたことか。)

ときめかせながら、いく度貴方様へ差し上げるお手紙を書き直しましたことか。

(とはもうせ、そうしたわたしのおもいは、おおかたたかいねつにうかされておりましたわたしの、)

とは申せ、そうした私の思いは、おおかた高い熱に浮かされておりました私の、

(まぼろしでしかございませんでしたでしょう。わたしはまもなくげんじつにめざめ)

まぼろしでしか御座いませんでしたでしょう。私はまもなく現実に目ざめ

(なければなりませんでした。そのようにして、いくどもいくどもあなたさまに)

なければなりませんでした。そのようにして、いく度もいく度も貴方様に

(さしあげるてがみをかきなおしておりますうちに、わたしはもう、もどかしくて)

差し上げる手紙を書き直しておりますうちに、私はもう、もどかしくて

(もどかしくてたえられないようになりました。すぐにもあなたさまにおめもじ)

もどかしくて堪えられないようになりました。すぐにも貴方様にお眼もじ

(しなければしんでしまいそうなおもいにいっぱいになってしまいました。このままに)

しなければ死んでしまいそうな思いに一パイになってしまいました。このままに

(おてがみをかいておりましたならばめがくらんで、たおれるかもしれないとおもうほど)

お手紙を書いておりましたならば眼が眩んで、たおれるかも知れないと思うほど

(いきぐるしくなりましたので、すぐにやどのはらいをすましまして、ひとめを)

息苦しくなりましたので、すぐに宿の払いを済ましまして、他眼(ひとめ)を

(さけて、あなたさまのおみまいにうかがうつもりで、すこしばかりのてにもつを)

さけて、貴方様の御見舞いに伺うつもりで、すこしばかりの手荷物を

(まとめかけたのでございましたが、そのうちにはかたでもとめましたはいいろの)

纏めかけたので御座いましたが、そのうちに博多で求めました灰色の

(ぶらんけっとをたたんでおりますとまもなく、わたしはまたも、にどめのかっけつを)

ブランケットを畳んでおりますと間もなく、私は又も、二度目の喀血を

(いたしましたのでございます。)

致しましたので御座います。

(どうぞおゆるしくださいませ。そのときにわたしは、もうふのうえにつっぷしながら、あなたさまと)

どうぞお許し下さいませ。その時に私は、毛布の上に突っ伏しながら、貴方様と

(わたしとのうんめいが、みじめにうちくだかれていくすがたをはっきりとまぼろしに)

私との運命が、みじめに打ちくだかれて行く姿をハッキリとまぼろしに

(みました。あおいあおい、ひろいひろい、おおぞらかうみかわかりませぬきよらかな、)

見ました。青い青い、広い広い、大空か海かわかりませぬ清らかな、

(うつくしいものが、おたがいにちをはきながらもしっかりとひとつにいだきあっている、)

美しいものが、お互いに血をはきながらもシッカリと一ツに抱き合っている、

(あなたさまとわたしのからだをすいこもうとして、はるかのむこうにぴかぴかとひかりながら)

貴方様と私の身体を吸い込もうとして、はるかの向うにピカピカと光りながら

(まっているのがみえました。そうしてあなたさまとわたしとがずんずんとそのほうに)

待っているのが見えました。そうして貴方様と私とがズンズンとその方に

(すいよせられていきますのが、なんともいえませずきもちよくおもわれました。)

吸い寄せられて行きますのが、何ともいえませず気持ちよく思われました。

(けれども、そのまぼろしがきえますと、わたしはいっしょうけんめいのおもいで、やっときを)

けれども、そのまぼろしが消えますと、私は一生懸命の思いで、やっと気を

(とりなおしました。そうしていきもたえだえのおもいをいたしながら、ちのあとを)

取り直しました。そうして息も絶え絶えの思いを致しながら、血のあとを

(つつみけしましてじんりきしゃにのって、このきたざとせんせいのりょうよういんにまいりましたが、もう)

包み消しまして人力車に乗って、この北里先生の療養院に参りましたが、もう

(わたしのいのちはないものとぞんじまして、むりをしてはならぬというかかりのおいしゃさまの)

私の命はないものと存じまして、無理をしてはならぬという係りのお医者様の

(おことばをおうけはしながら、このかみとえんぴつをそっとねどこのしたへしのばせまして、)

お言葉をお受けはしながら、この紙と鉛筆をソット寝床の下へ忍ばせまして、

(かんごふさんのすきをみてはおてがみをかいているのでございます。)

看護婦さんの隙を見てはお手紙を書いているので御座います。

(このてがみをおしまいまで、およみになりますればあなたさまは、すぐにある)

この手紙をおしまいまで、お読みになりますれば貴方様は、すぐにある

(たったひとつのことを、おおもいだしになるにちがいないとおもいます。それは)

タッタ一つの事を、お思い出しになるに違いないと思います。それは

(あなたさまにとりましてなんでもないほどに、よくおわかりになっていることかと)

貴方様にとりまして何でもないほどに、よくおわかりになっている事かと

(おもいますが、それをおもいだしになりさえすれば、すべてのひみつをなんのくもなく)

思いますが、それを思い出しになりさえすれば、すべての秘密を何の苦もなく

(といておしまいになることとしんじております。)

解いておしまいになる事と信じております。

(いずれにいたしましても、あなたさまとわたしとのあいだにまつわっておりますふしぎなうんめいの)

いずれに致しましても、貴方様と私との間にまつわっております不思議な運命の

(なぞをといていただけますおかたは、このひろいよのなかに、あなたさまおひとりしかおいでに)

謎を解いて頂けますお方は、この広い世の中に、貴方様お一人しかおいでに

(ならないのでございます。わたしはただ、そのたったひとつのことを、あなたさまにおたずね)

ならないので御座います。私は唯、そのたった一つの事を、貴方様にお尋ね

(いたしたくてたまらぬおもいにせめられながら、そうしたゆうきをだしえませぬ)

致したくてたまらぬ思いに責められながら、そうした勇気を出し得ませぬ

(ままに、こんにちまでいきながらえておったようなものでございます。)

ままに、今日まで生き永らえておったようなもので御座います。

(とはおもいながら、なにからさきにもうしあげてよいやらわかりませぬ。このなやましさを)

とは思いながら、何から先に申し上げてよいやらわかりませぬ。この悩ましさを

(どういたしましょう。あせってもあせってもすすみませぬこのふでのもどかしさを)

どう致しましょう。あせってもあせっても進みませぬこの筆のもどかしさを

(どういたしましょう。ああ。わたしは、あなたさまの、あのあついなみだのおことばと、おくちづけを)

どう致しましょう。ああ。私は、貴方様の、あの熱い涙のお言葉と、お口づけを

(いっしょうのおもいでとしてあのよにたびだってはわるいのでございましょうか。)

一生の思い出としてあの世に旅立っては悪いので御座いましょうか。

(わたしはこのごろまいばんのようにあのおしえのゆめばかりをみるのでございます。あの)

私はこの頃毎晩のようにあの押絵の夢ばかりを見るので御座います。あの

(ほうりゅうかくのいちばんちょうじょうのまっさおなやねがわらのうえにまたがって、ぎんいろのかたなをふりあげて)

芳流閣の一番頂上の真青な屋根瓦の上に跨って、銀色の刀を振り上げて

(おりますいぬづかしののりりしいすがたや、いかめしいはたけやましげただのまえでことをひいております)

おります犬塚信乃の凛々しい姿や、厳めしい畠山重忠の前で琴を弾いております

(あこやの、いろのさめたしおらしいすがたを、くりかえしくりかえしゆめにみるのでございます。)

阿古屋の、色のさめたしおらしい姿を、繰返し繰返し夢に見るので御座います。

(それにつれてわたしのおとうさまのかおや、おかあさまのかおや、またはうまれてからじゅうにねんのあいだに)

それにつれて私のお父様の顔や、お母様の顔や、または生れてから十二年の間に

(すまっておりましたこきょうのいえのありさまなぞがまぼろしのようにうつくしく、)

住まっておりました故郷の家の有様なぞが 幻燈(まぼろし)のように美しく、

(ちぎれちぎれにみえてまいります。そうしてめがさめますと、ちょうどそのころの)

千切れ千切れに見えて参ります。そうして眼が醒めますと、ちょうどその頃の

(こどもごころにたちかえりましたような、あまいような、なつかしいようななみだが、)

子供心に立ち帰りましたような、甘いような、なつかしいような涙が、

(いつまでもいつまでもながれましていたしようがないのでございます。それはねつの)

いつまでもいつまでも流れまして致しようがないので御座います。それは熱の

(ためばかりではないようにぞんじます。おおかたわたしのいのちが、もうのこりすくなに)

ためばかりではないように存じます。おおかた私の命が、もう残りすくなに

(なっているせいでございましょう・・・とそうおもいますとあなたさまのおかおが)

なっているせいで御座いましょう・・・とそう思いますと貴方様のお顔が

(ひとしおおなつかしく、またはかなしくおもいだされましてむねがいっぱいに)

一入(ひとしお)おなつかしく、又は悲しく思い出されまして胸が一パイに

(なるのでございます。)

なるので御座います。

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