夢野久作 押絵の奇蹟⑱/⑲

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(それからちょうどゆうがたのことでした。ずっととおくのするがだいのほうからにこらいどうの)

それからちょうど夕方の事でした。ずっと遠くの駿河台の方からニコライ堂の

(かねのおとがきこえますとまもなく、としょかんのひとがまどをしめはじめましたのでわたしは)

鐘の音が聞こえますと間もなく、図書館の人が窓を閉め始めましたので私は

(やっときがつきましたが、そのときにはもうひろいへやのなかにわたしひとりだけしか)

やっと気が付きましたが、その時にはもう広い室(へや)の中に私一人だけしか

(のこっていないのでございました。わたしはそのしょもつをかかりのひとにおかえししますと)

残っていないので御座いました。私はその書物を係の人にお返ししますと

(そのまま、うなだれてそとへでましたが、かんえいじのごもんのまえのすぎこだちにちかい)

そのまま、うなだれて外へ出ましたが、寛永寺の御門の前の杉木立に近い

(ひとけのたえたところまでまいりまして、とあるおおきなきのねかたにすわりますと、)

人気の絶えた処まで参りまして、とある大きな木の根方に坐りますと、

(ありたけのなみだをしぼりながらないてないてなきつづけました。そのときのわたしの)

ありたけの涙を絞りながら泣いて泣いて泣き続けました。その時の私の

(こころもちを、どういたしましたならばおにいさまにおつたえすることができましょう・・・。)

心持ちを、どう致しましたならばお兄様にお伝えする事が出来ましょう・・・。

(もしこのようなことがありえるものといたしましたならば、おにいさまとわたしのみのうえこそ)

もしこのような事があり得るものと致しましたならば、お兄様と私の身の上こそ

(このうえもないよいおてほんではございますまいか。あなたのおとうさまと、わたしのおかあさま)

この上もないよいお手本では御座いますまいか。貴方のお父様と、私のお母様

(とはただひとめでこいにおちられました。そうしておたがいにそのこいしいひとのすがたを、むねの)

とは唯一眼で恋に落ちられました。そうしてお互いにその恋しい人の姿を、胸の

(そこにふかくひめられたまま、ねてもさめてもおわすれになりませんでした・・・その)

底に深く秘められたまま、寝ても醒めてもお忘れになりませんでした・・・その

(おもいがおにいさまとわたしのすがたにあらわれて、おふたりのおもいをとげるためにこのよに)

思いがお兄様と私の姿にあらわれて、お二人の思いを遂げるためにこの世に

(いきのこっているのではございますまいか。こうおもいあたりましたとき、わたしはこの)

生き残っているのでは御座いますまいか。こう思い当りました時、私はこの

(ちいさなむねがおしつぶされてしまって、めのまえがまっくらになりましたなかに、ふたつの)

小さな胸が押し潰されてしまって、眼の前が真っ暗になりました中に、二つの

(あおじろいおにびがもつれあっていくのがほんのりとみえたようにおもいました。)

青白い鬼火がもつれ合って行くのがホンノリと見えたように思いました。

(けれどもまたきをとりなおして、いまいちどよくよくあとさきをかんがえまわしてみたので)

けれども又気を取り直して、今一度よくよくあと先を考えまわして見たので

(ございましたが、かんがえればかんがえるほどおもいあたりますことばかりが、あとから)

御座いましたが、考えれば考えるほど思い当ります事ばかりが、あとから

(あとからでてくるのでございました。あなたのおとうさまににておりますわたしのすがたを、)

あとから出て来るので御座いました。貴方のお父様に似ております私の姿を、

(あさにばんにみておられましたわたしのおかあさまはきっと、こうしたふしぎについて)

朝に晩に見ておられました私のお母様はきっと、こうした不思議について

など

(なにかしら、こころのおくふかくにおもいあたっておいでになったにちがいないのでした。)

何かしら、心の奥深くに思い当っておいでになったに違いないのでした。

(あのくしだじんじゃのえまどうにほうのうされましたがくぶちのげだいに「さんごくし」をとおっしゃった)

あの櫛田神社の絵馬堂に奉納されました額ぶちの外題に「三国志」をと仰有った

(しばちゅうさんのごちゅうもんをさけて、わざと「ほうりゅうかくじょうのにけんし」のばめんをおつくりに)

柴忠さんの御註文を避けて、わざと「芳流閣上の二犬士」の場面をお作りに

(なった、おかあさまのおこころのそこには、ついこのあいだ、わたしがふせひめさまのおはなしをみましたときに)

なった、お母様のお心の底には、ついこの間、私が伏姫様のお話を見ました時に

(おもいあたりましたのとおなじようなおどろきとよろこびが、いうにいわれぬははおやのかなしみと)

思い当りましたのと同じような驚きと喜びが、云うに云われぬ母親の悲しみと

(いっしょに、ひとしれずひそみかくれていなかったとどうしてかんがえられましょう。そのころの)

一緒に、人知れず潜み隠れていなかったとどうして考えられましょう。その頃の

(ふくおかのしぞくのかていにはおきまりのようにいちぶずつそなえつけてありましたはっけんでんの)

福岡の士族の家庭にはオキマリのように一部ずつ備え附けてありました八犬伝の

(おはなしを、おかあさまだけがごぞんじなかったと、どうしておもわれましょう。)

お話を、お母様だけが御存じなかったと、どうして思われましょう。

(・・・そうしてそのようなおそろしい、なやましいふしぎさをあけくれむねにひめて)

・・・そうしてそのような恐ろしい、悩ましい不思議さを明け暮れ胸に秘めて

(おいでになったればこそ、おかあさまはあのようにおもいきって、おとうさまのごせいばいを)

おいでになったればこそ、お母様はあのように思い切って、お父様の御成敗を

(おうけになったのではないでしょうか。わたしがまさしく、うちのおとうさまのちをひいた)

お受けになったのではないでしょうか。私が正しく、うちのお父様の血を引いた

(むすめであることをごぞんじになりながらも、そうしたふしぎをおもいあたっておいでに)

娘である事を御存じになりながらも、そうした不思議を思い当っておいでに

(なったればこそ、あのようになにひとつ、おもうしびらきをなさらなかったのでは)

なったればこそ、あのように何一つ、お申し開きをなさらなかったのでは

(ないでしょうか・・・。ああ。おもうもけだかい・・・おそろしい、おかあさまのじゅんしんな)

ないでしょうか・・・。ああ。思うも気高い・・・おそろしい、お母様の純真な

(おこころのちから・・・げいじゅつのみちと、にんげんのみちと、そうして、のがれようもなくおちて)

お心の力・・・芸術の道と、人間の道と、そうして、のがれようもなく落ちて

(おいでになったこいのみちのみっつに、れいとにくをささげつくして、あえなくもよを)

おいでになった恋の道の三つに、霊と肉を捧げつくして、あえなくも世を

(おはやめになったしんせいなおかあさま・・・かわいそうなおかあさま・・・いじらしいおかあさま)

お早めになった神聖なお母様・・・可哀そうなお母様・・・いじらしいお母様

(・・・むごい・・・かなしい・・・おなつかしい・・・。こうおもいますとわたしは)

・・・むごい・・・悲しい・・・おなつかしい・・・。こう思いますと私は

(きがちがいそうにたまらなくなりまして、ふいとかおをあげました。するともうひが)

気が違いそうにたまらなくなりまして、フイと顔を上げました。するともう日が

(とっぷりとくれておりまして、たくさんのおちばが、まっしろなちりといっしょにおそろしい)

トップリと暮れておりまして、沢山の落ち葉が、真白な塵と一緒に恐ろしい

(いきおいでごーごーとうずまきながら、わたしのほうへはしってくるようでしたから、わたしは)

勢いでゴーゴーと渦巻きながら、私の方へ走って来るようでしたから、私は

(やっとたちあがりましてやなかのほうへかえりかけました。ないてないてなきつくし)

やっと立ち上りまして谷中の方へ帰りかけました。泣いて泣いて泣きつくし

(ましたあとのからっぽのようなきもちになりながら・・・。けれども、そうして)

ましたあとの空っぽのような気もちになりながら・・・。けれども、そうして

(ほしぞらのしたをふくはげしいあきかぜのなかをふらふらとあるいていきますうちに、わたしはまたも)

星空の下を吹く烈しい秋風の中をフラフラと歩いて行きますうちに、私は又も

(よのなかがしだいとあかるくなってくるようにおもいはじめました。そうしてそのよるはなみだに)

世の中が次第と明るくなって来るように思い始めました。そうしてその夜は涙に

(ぬれたまま、ゆめひとつみませずにやすやすとねむりましたが、あくるあさは、いつもよりも)

濡れたまま、夢一つ見ませずに安々と眠りましたが、あくる朝は、いつもよりも

(ずっとはやくおきまして、せんせいのおたくのうらやおもてのおそうじをいたしました。「わたしはもう)

ずっと早く起きまして、先生のお宅の裏や表のお掃除を致しました。「私はもう

(いっしょうがいけっこんしますまい。おにいさまはまだなにもごぞんじないのですから・・・この)

一生涯結婚しますまい。お兄様はまだ何も御存じないのですから・・・この

(ひみつをこちらからすすんでおうちあけするわけにはいかないのですから・・・。)

秘密をこちらから進んでお打ち明けする訳には行かないのですから・・・。

(ほかのかたとこうふくなかていをおつくりになるのかもしれないのですから・・・。わたしは)

ほかの方と幸福な家庭をお作りになるのかも知れないのですから・・・。私は

(そのおじゃまをしないように・・・わたしというものがこのよにおりますことを、)

そのお邪魔をしないように・・・私というものがこの世に居ります事を、

(おにいさまにぜったいにおしらせしないようにして、げいじゅつのためにみをささげましょう。)

お兄様に絶対にお知らせしないようにして、芸術のために身を捧げましょう。

(おかあさまにまけないようにせいじょうないっしょうをおくりましょう」といくどかおもいおもいしては)

お母様に敗けないように清浄な一生を送りましょう」と幾度か思い思いしては

(あおいあおいすみわたったあさのそらをあおいだことでございました。それからのちのわたしは、)

青い青い澄み渡った朝の空を仰いだことで御座いました。それから後の私は、

(ほかからくるいろいろなゆうわくやはくがいとたたかいながら、こころのなかで、かようなけっしんを)

ほかから来る色々な誘惑や迫害とたたかいながら、心の中で、斯様な決心を

(かたくかたくまもりつづけていくばかりでございました。)

固く固く守り続けて行くばかりで御座いました。

(おんがくがっこうをそつぎょういたしましたときに、おかざわせんせいからようこうのおすすめをうけました)

音楽学校を卒業致しました時に、岡沢先生から洋行のおすすめを受けました

(ときも、おきにさわらないようにしておことわりいたしました。・・・ほんとうをもうしますと、)

時も、お気に障らないようにしてお断り致しました。・・・本当を申しますと、

(とびたつようなおもいがしないではございませんでしたが、まんいちそのためにわたしの)

飛び立つような思いがしないでは御座いませんでしたが、万一そのために私の

(しゃしんがしんぶんにのりまして、おにいさまのおめにとまるようなことがありはしまいかと)

写真が新聞に載りまして、お兄様のお眼に止まるような事がありはしまいかと

(おもいますと、なんとなくそらおそろしいきもちがしてちゅうちょされたのでございました。)

思いますと、何となく空恐ろしい気持ちがして躊躇されたので御座いました。

(もしかいたしますと、これもおにいさまとわたしとにまつわっておりました、ふしぎな)

もしか致しますと、これもお兄様と私とにまつわっておりました、不思議な

(うんめいのしわざかもしれませんでしたけれど・・・。またときたまには、せんせいをつうじて)

運命の仕業かも知れませんでしたけれど・・・。又時たまには、先生を通じて

(もうしこんでまいりましたえんだんにもおなじようにしておことわりいたしました。わたしのこのむねの)

申込んで参りました縁談にも同じようにしてお断り致しました。私のこの胸の

(きずあとを、おにいさまいがいのおかたにどうしておめにかけることができましょう・・・)

疵痕を、お兄様以外のお方にどうしてお眼にかけることが出来ましょう・・・

(とおもいまして・・・。わたしはそうして、ただあけてもくれてもぴあのばかりひいて)

と思いまして・・・。私はそうして、ただ明けても暮れてもピアノばかり弾いて

(いるのでございました。ちょうどにっしんせんそうのあとで、せいようおんがくがいっときぱったりと)

いるので御座いました。ちょうど日清戦争のあとで、西洋音楽が一時パッタリと

(はやらなくなりまして、ぐんがくたいと、しょうかだけしかのこっていないようなありさまで)

流行らなくなりまして、軍楽隊と、唱歌だけしか残っていないような有様で

(ございましたが、ちっともかまいませずにだいがくのけーべるせんせいのおたくやくないしょうの)

御座いましたが、ちっとも構いませずに大学のケーベル先生のお宅や宮内省の

(やまうちせんせいのおたくへにっさんいたしておりました。あたらしいがくふをうつしてはひき、うつしては)

山内先生のお宅へ日参致しておりました。新しい楽譜を写しては弾き、写しては

(ひくたのしみに、むちゅうになろうなろうとしておりました。けれども、そのぴあのの)

弾く楽しみに、夢中になろうなろうとしておりました。けれども、そのピアノの

(きーのしろいなめらかなてざわりにふれるたんびにわたしは、ともするとおかあさまの)

キーの白いなめらかな手ざわりに触れるたんびに私は、ともするとお母様の

(なつかしいしろいはだをおもいだしまして、あついなみだをおとすのでございました。またはその)

なつかしい白い肌を思い出しまして、熱い涙を落すので御座いました。又はその

(くろいきーのひかりをみるとき、おかあさまがつけておいでになったおはぐろのうつくしさを)

黒いキーの光りを見る時、お母様がつけておいでになったオハグロの美しさを

(いつもいつもおもいだしました。そうしてまた、おかざわせんせいのおにわにさいている)

いつもいつも思い出しました。そうして又、岡沢先生のお庭に咲いている

(だりやや、さるびあのあかいはなのいろをみますと、あのおかあさまのうしろのしろいかべについて)

ダリヤや、サルビアの赤い花の色を見ますと、あのお母様の後の白い壁について

(おりましたちのしたたりをおもいだしまして、ともするとわたしのこころはものぐるおしくなるので)

おりました血の滴りを思い出しまして、ともすると私の心は物狂おしくなるので

(ございました。そんなものおもいをくりかえしくりかえしいたしておりますうちに、あなたの)

御座いました。そんな物思いをくり返しくり返し致しておりますうちに、貴方の

(おとうさまのおこころがおにいさまのおすがたとなって、あらわれておりますのとおなじように、)

お父様のお心がお兄様のお姿となって、あらわれておりますのと同じように、

(わたしのおかあさまのおもいがわたしのみめかたちとなってこのよにのこっておりますことは、もう)

私のお母様の思いが私のミメカタチとなってこの世に残っております事は、もう

(うたがうことができなくなりました。そうして、あなたのおとうさまとわたしのおかあさまが、)

疑う事が出来なくなりました。そうして、貴方のお父様と私のお母様が、

(しぬまでおかくしになったこいが、おにいさまとわたしとによってかおかたちを)

死ぬまでお隠しになった恋が、お兄様と私とによって顔貌(かおかたち)を

(いれちがえたままにとげられなければならぬうんめいがいっこくいっこくとさしせまってきて)

入れ違えたままに遂げられなければならぬ運命が一刻一刻とさし迫って来て

(おりますことを、わたしはまいにちまいにちはっきりとかんずるようになってまいりました。)

おります事を、私は毎日毎日ハッキリと感ずるようになって参りました。

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