有島武郎 或る女61
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問題文
(ようこはくらちのなかにすっかりとけこんだじぶんをみいだすのみだった。さだこまでも)
葉子は倉地の中にすっかりとけ込んだ自分を見いだすのみだった。定子までも
(ぎせいにしてくらちをそのさいしからきりはなそうなどというたくらみはあまりに)
犠牲にして倉地をその妻子から切り放そうなどというたくらみはあまりに
(ばからしいとりこしぐろうであるのをおもわせられた。)
ばからしい取り越し苦労であるのを思わせられた。
(「そうだうまれてからこのかたわたしがもとめていたものはとうとうこようと)
「そうだ生まれてからこのかたわたしが求めていたものはとうとう来ようと
(している。しかしこんなことがこうてぢかにあろうとはほんとうにおもいも)
している。しかしこんな事がこう手近にあろうとはほんとうに思いも
(よらなかった。わたしみたいなばかはない。このこうふくのちょうじょうがいまだとだれか)
よらなかった。わたしみたいなばかはない。この幸福の頂上が今だとだれか
(おしえてくれるひとがあったら、わたしはそのしゅんかんによろこんでしぬ。こんなこうふくを)
教えてくれる人があったら、わたしはその瞬間に喜んで死ぬ。こんな幸福を
(みてからくだりざかにまでいきているのはいやだ。それにしてもこんなこうふくでさえが)
見てから下り坂にまで生きているのはいやだ。それにしてもこんな幸福でさえが
(いつかはくだりざかになるときがあるのだろうか」)
いつかは下り坂になる時があるのだろうか」
(そんなことをようこはこうふくにひたりきったゆめごこちのなかにかんがえた。)
そんなことを葉子は幸福に浸りきった夢心地の中に考えた。
(ようこがとうきょうについてからいっしゅうかんめに、やどのおかみのしゅうせんで、しばのこうようかんとみちひとつ)
葉子が東京に着いてから一週間目に、宿の女将の周旋で、芝の紅葉館と道一つ
(へだてたたいこうえんというばらせんもんのうえきやのうらにあたるにかいだてのいえを)
隔てた苔香(たいこう)園という薔薇専門の植木屋の裏にあたる二階建ての家を
(かりることになった。それはもとこうようかんのじょちゅうだったひとがあるごうしょうのめかけになったに)
借りる事になった。それは元紅葉館の女中だった人がある豪商の妾になったに
(ついて、そのごうしょうというひとがたててあてがったひとかまえだった。そうかくかんのおかみは)
ついて、その豪商という人が建ててあてがった一構えだった。双鶴館の女将は
(そのおんなとこんいのあいだだったが、おんなにこどもがいくにんかできてすこしてぜますぎるので)
その女と懇意の間だったが、女に子供が幾人かできて少し手ぜま過ぎるので
(よそにいてんしようかといっていたのをききしっていたので、おかみのほうでてきとうな)
他所に移転しようかといっていたのを聞き知っていたので、女将のほうで適当な
(いえをさがしだしてそのおんなをうつらせ、そのあとをようこがかりることにとりはからって)
家をさがし出してその女を移らせ、そのあとを葉子が借りる事に取り計らって
(くれたのだった。くらちがさきにいってなかのようすをみてきて、すぎばやしのためにすこし)
くれたのだった。倉地が先に行って中の様子を見て来て、杉林のために少し
(ひあたりはよくないが、とうぶんのかくれがとしてはくっきょうだといったので、すぐさま)
日当たりはよくないが、当分の隠れ家としては屈強だといったので、すぐさま
(そこにうつることにきめたのだった。だれにもしれないようにひっこさねばならぬと)
そこに移る事に決めたのだった。だれにも知れないように引っ越さねばならぬと
(いうので、にもつをこわけしてもちだすのにも、おかみはじぶんのじょちゅうたちにまで、)
いうので、荷物を小分けして持ち出すのにも、女将は自分の女中たちにまで、
(それがくらちのほんたくにはこばれるものだといってしらせた。うんぱんにんはすべてしばの)
それが倉地の本宅に運ばれるものだといって知らせた。運搬人はすべて芝の
(ほうからたのんできた。そしてにもつがあらかたかたづいたところで、あるよるおそく、)
ほうから頼んで来た。そして荷物があらかた片づいた所で、ある夜おそく、
(しかもびしょびしょとふきぶりのするさむいあまかぜのおりをえらんでようこはほろぐるまに)
しかもびしょびしょと吹き降りのする寒い雨風のおりを選んで葉子は幌車に
(のった。ようことしてはそれほどのけいかいをするにはあたらないとおもったけれども、)
乗った。葉子としてはそれほどの警戒をするには当たらないと思ったけれども、
(おかみがどうしてもきかなかった。あんぜんなところにおくりこむまではいったん)
女将がどうしてもきかなかった。安全な所に送り込むまではいったん
(おひきうけしたてまえ、きがすまないといいはった。)
お引き受けした手前、気がすまないといい張った。
(ようこがあつらえておいたしたておろしのいるいをきかえているとそこにおかみも)
葉子があつらえておいた仕立ておろしの衣類を着かえているとそこに女将も
(きあわせてぬぎかえしのせわをみた。えりのあわせめをぴんでとめながらようこが)
来合わせて脱ぎ返しの世話を見た。襟の合わせ目をピンで留めながら葉子が
(きがえをおえてざにつくのをみて、おかみはうれしそうにもみてをしながら、)
着がえを終えて座につくのを見て、女将はうれしそうにもみ手をしながら、
(「これであすこにだいじょうぶついてくださりさえすればわたしはおもにがひとつおりると)
「これであすこに大丈夫着いてくださりさえすればわたしは重荷が一つ降りると
(もうすものです。しかしこれからがあなたはごたいていじゃございませんね。あちらの)
申すものです。しかしこれからがあなたは御大抵じゃございませんね。あちらの
(おくさまのことなどおもいますと、どちらにどうおしむけをしていいやらわたしには)
奥様の事など思いますと、どちらにどうお仕向けをしていいやらわたしには
(わからなくなります。あなたのおこころもちもわたしはみにしみておさっしもうします)
わからなくなります。あなたのお心持ちもわたしは身にしみてお察し申します
(が、どこからみてもひてんのうちどころのないおくさまのおみのうえもわたしには)
が、どこから見ても批点の打ちどころのない奥様のお身の上もわたしには
(ごふびんでなみだがこぼれてしまうんでございますよ。でね、これからのことについちゃ)
御不憫で涙がこぼれてしまうんでございますよ。でね、これからの事についちゃ
(わたしはこうきめました。なんでもできますことならもうしあげたいんでございます)
わたしはこう決めました。なんでもできます事なら申し上げたいんでございます
(けれども、わたしにはしんそこおうちあけもうしましたところ、どちらさまにもぎりが)
けれども、わたしには心底お打ち明け申しました所、どちら様にも義理が
(たちませんから、はくじょうでもきょうかぎりこのおはなしにはてをひかせて)
立ちませんから、薄情でもきょうかぎりこのお話には手をひかせて
(いただきます。・・・どうかわるくおとりになりませんようにね・・・どうも)
いただきます。・・・どうか悪くお取りになりませんようにね・・・どうも
(わたしはこんなでいながらかいしょうがございませんで・・・」そういいながら)
わたしはこんなでいながら甲斐性がございませんで・・・」そういいながら
(おかみはくちをきったときのうれしげなようすにもにず、じゅばんのそでをひきだすひまもなく)
女将は口をきった時のうれしげな様子にも似ず、襦袢の袖を引き出すひまもなく
(めになみだをいっぱいためてしまっていた。ようこにはそれがうらめしくもにくくも)
目に涙をいっぱいためてしまっていた。葉子にはそれが恨めしくも憎くも
(なかった。ただなんとなくしんみなせつなさがじぶんのむねにもこみあげてきた。「わるく)
なかった。ただ何となく親身な切なさが自分の胸にもこみ上げて来た。「悪く
(とるどころですか。よのなかのひとがひとりでもあなたのようなこころもちでみて)
取るどころですか。世の中の人が一人でもあなたのような心持ちで見て
(くれたら、わたしはそのまえになきながらあたまをさげてありがとうございますという)
くれたら、わたしはその前に泣きながら頭を下げてありがとうございますという
(ことでしょうよ。これまでのあなたのおこころづくしでわたしはもうじゅうぶん。またいつか)
事でしょうよ。これまでのあなたのお心尽くしでわたしはもう充分。またいつか
(ごおんがえしのできることもありましょう。・・・それではこれでごめんくださいまし。)
御恩返しのできる事もありましょう。・・・それではこれで御免くださいまし。
(おいもうとごにもどうかきもののおれいをくれぐれもよろしく」すこしなきごえになって)
お妹御にもどうか着物のお礼をくれぐれもよろしく」少し泣き声になって
(そういいながら、ようこはおかみとそのいもうとぶんにあたるというひとにれいごころに)
そういいながら、葉子は女将とその妹分にあたるという人に礼心に
(おいていこうとするべいこくせいのふたつのてさげをしまいこんだちがいだなを)
置いて行こうとする米国製の二つの手提げをしまいこんだ違い棚を
(ちょっとみやってそのままざをたった。)
ちょっと見やってそのまま座を立った。
(あまかぜのためによるはにぎやかなおうらいもさすがにひとどおりがたえだえだった。くるまに)
雨風のために夜はにぎやかな往来もさすがに人通りが絶え絶えだった。車に
(のろうとしてそらをみあげると、くもはそうこくはかかっていないとみえて、しんげつの)
乗ろうとして空を見上げると、雲はそう濃くはかかっていないと見えて、新月の
(ひかりがおぼろにそらをあかるくしているなかをあらしもようのくもがおそろしいいきおいではしって)
光がおぼろに空を明るくしている中をあらし模様の雲が恐ろしい勢いで走って
(いた。へやのなかのあたたかさにひきかえて、しっけをじゅうぶんにふくんだかぜはすそまえをあおって)
いた。部屋の中の暖かさに引きかえて、湿気を充分に含んだ風は裾前をあおって
(ぞくぞくとはだにせまった。ばたばたとかぜになぶられるまえほろをしゃふがかけようと)
ぞくぞくと膚に逼った。ばたばたと風になぶられる前幌を車夫がかけようと
(しているすきから、おかみがみずみずしいまるまげをあめにもかぜにもおもうままうたせ)
しているすきから、女将がみずみずしい丸髷を雨にも風にも思うまま打たせ
(ながら、じょちゅうのさしかざそうとするあまがさのかげにかくれようともせず、なにかしゃふに)
ながら、女中のさしかざそうとする雨傘の陰に隠れようともせず、何か車夫に
(いいきかせているのがだいじらしくみやられた。しゃふがかじぼうをあげようとするとき)
いい聞かせているのが大事らしく見やられた。車夫が梶棒をあげようとする時
(おかみがしゅうぎぶくろをそのてにわたすのがみえた。「さようなら」「おだいじに」)
女将が祝儀袋をその手に渡すのが見えた。「さようなら」「お大事に」
(はばかるようにくるまのうちそとからこえがかわされた。ほろにのしかかってくるかぜに)
はばかるように車の内外から声がかわされた。幌にのしかかってくる風に
(ていこうしながらくるまはやみのなかをうごきだした。むかいかぜがうなりをたててふきつけて)
抵抗しながら車は闇の中を動き出した。向かい風がうなりを立てて吹きつけて
(くると、しゃふはおもわずくるまをあおらせてあしをとめるほどだった。このしごにちひばちの)
来ると、車夫は思わず車をあおらせて足を止めるほどだった。この四五日火鉢の
(まえばかりにいたようこにとってはみをきるかとおもわれるようなさむさが、あつい)
前ばかりにいた葉子に取っては身を切るかと思われるような寒さが、厚い
(ひざかけのめまでとおしておそってきた。ようこはさきほどおかみのことばをきいたときには)
膝かけの目まで通して襲って来た。葉子は先ほど女将の言葉を聞いた時には
(さほどともおもっていなかったが、すこしほどたったいまになってみると、それが)
さほどとも思っていなかったが、少しほどたった今になってみると、それが
(ひしひしとみにこたえるのをかんじた。じぶんはひょっとするとあざむかれている、)
ひしひしと身にこたえるのを感じた。自分はひょっとするとあざむかれている、
(もてあそびものにされている。くらちはやはりどこまでもあのさいしとわかれるきは)
もてあそびものにされている。倉地はやはりどこまでもあの妻子と別れる気は
(ないのだ。ただながいこうかいちゅうのきまぐれから、できごころにじぶんをせいふくしてみようと)
ないのだ。ただ長い航海中の気まぐれから、出来心に自分を征服してみようと
(くわだてたばかりなのだ。このこいのいきさつがようこからもちだされたもので)
企てたばかりなのだ。この恋のいきさつが葉子から持ち出されたもので
(あるだけに、こんなこころもちになってくると、ようこはやもたてもたまらずじぶんに)
あるだけに、こんな心持ちになって来ると、葉子は矢もたてもたまらず自分に
(ひけめをおぼえた。こうふくーーじぶんがむそうしていたこうふくがとうとうきたとほこりがに)
ひけ目を覚えた。幸福ーー自分が夢想していた幸福がとうとう来たと誇りがに
(よろこんだそのよろこびはさもしいぬかよろこびにすぎなかったらしい。くらちはふねのなかでと)
喜んだその喜びはさもしいぬか喜びに過ぎなかったらしい。倉地は船の中でと
(どうようのよろこびでまだようこをよろこんではいる。それにうたがいをいれようよちはない。)
同様の喜びでまだ葉子を喜んではいる。それに疑いを入れよう余地はない。
(けれどもうつくしいていせつなつまとかれんなむすめをさんにんまでもっているくらちのこころがいつまで)
けれども美しい貞節な妻と可憐な娘を三人まで持っている倉地の心がいつまで
(ようこにひかされているか、それをだれがかたりえよう、ようこのこころはほろのなかにふきこむ)
葉子にひかされているか、それを誰が語り得よう、葉子の心は幌の中に吹きこむ
(かぜのさむさとともにひえていった。よのなかからきれいにはなれてしまったこどくなたましいが)
風の寒さと共に冷えて行った。世の中からきれいに離れてしまった孤独な魂が
(たったひとつそこにはみいだされるようにもおもえた。どこにうれしさがある、)
たった一つそこには見いだされるようにも思えた。どこにうれしさがある、
(たのしさがある。じぶんはまたひとつのいままでにあじわわなかったようなくのうのなかに)
楽しさがある。自分はまた一つの今までに味わわなかったような苦悩の中に
(みをなげこもうとしているのだ。またうまうまといたずらもののうんめいにしてやられた)
身を投げ込もうとしているのだ。又うまうまといたずら者の運命にしてやられた
(のだ。それにしてももうこのせとぎわからひくことはできない。しぬまで・・・)
のだ。それにしてももうこの瀬戸際から引く事はできない。死ぬまで・・・
(そうだしんでもこのくるしみにひたりきらずにおくものか。ようこにはたのしさが)
そうだ死んでもこの苦しみに浸りきらずに置くものか。葉子には楽しさが
(くるしさなのか、くるしさがたのしさなのか、まったくみさかいがつかなくなってしまって)
苦しさなのか、苦しさが楽しさなのか、全く見さかいがつかなくなってしまって
(いた。たましいをしめぎにかけてそのあぶらでもしぼりあげるようなもだえのなかに)
いた。魂を締め木にかけてその油でもしぼりあげるような悶えの中に
(やむにやまれぬしゅうちゃくをみいだしてわれながらおどろくばかりだった。)
やむにやまれぬ執着を見いだしてわれながら驚くばかりだった。