有島武郎 或る女62
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問題文
(ふとくるまがとまってかじぼうがおろされたのでようこははっとゆめごこちからわれにかえった。)
ふと車が停まって梶棒がおろされたので葉子ははっと夢心地からわれに返った。
(おそろしいふきぶりになっていた。しゃふがかたあしでかじぼうをふまえて、かぜでくるまの)
恐ろしい吹き降りになっていた。車夫が片足で梶棒を踏まえて、風で車の
(よろめくのをふせぎながら、まえほろをはずしにかかると、まっくらだったぜんぽうから)
よろめくのを防ぎながら、前幌をはずしにかかると、まっ暗だった前方から
(かすかにひかりがもれてきた。あたまのうえではざあざあとふりしきるあめのなかに、あらうみの)
かすかに光がもれて来た。頭の上ではざあざあと降りしきる雨の中に、荒海の
(しおさいのようなものすごいひびきがなにかへんじでもわいておこりそうにきこえていた。)
潮騒のような物すごい響きが何か変事でもわいて起こりそうに聞えていた。
(ようこはくるまをでるとかぜにふきとばされそうになりながら、かみやしんちょうのきものの)
葉子は車を出ると風に吹き飛ばされそうになりながら、髪や新調の着物の
(ぬれるのもかまわずそらをあおいでみた。うるしをながしたようなくもでかたくとざされたくもの)
ぬれるのもかまわず空を仰いで見た。漆を流したような雲で固くとざされた雲の
(なかに、うるしよりもいろこくむらむらとたちさわいでいるのはふるいすぎのこだちだった。)
中に、漆よりも色濃くむらむらと立ち騒いでいるのは古い杉の木立だった。
(かだんらしいたけがきのなかのかんぼくのたぐいはえださきをちにつけんばかりにふきなびいて、)
花壇らしい竹垣の中の灌木の類は枝先を地につけんばかりに吹きなびいて、
(かれはがうずのようにばらばらととびまわっていた。ようこはわれにもなくそこに)
枯れ葉が渦のようにばらばらと飛び回っていた。葉子はわれにもなくそこに
(べったりすわりこんでしまいたくなった。「おいはやくはいらんかよ、ぬれて)
べったりすわり込んでしまいたくなった。「おい早くはいらんかよ、ぬれて
(しまうじゃないか」くらちがらんぷのひをかばいつついえのなかからどなるのがかぜに)
しまうじゃないか」倉地がランプの灯をかばいつつ家の中からどなるのが風に
(ふきちぎられながらきこえてきた。くらちがそこにいるということさえようこには)
吹きちぎられながら聞こえて来た。倉地がそこにいるという事さえ葉子には
(いがいのようだった。だいぶはなれたところでどたんととかなにかはずれたようなおとがした)
意外のようだった。だいぶ離れた所でどたんと戸か何かはずれたような音がした
(とおもうと、かぜはまたひとしきりうなりをたててすぎむらをこそいでとおりぬけた。しゃふは)
と思うと、風はまた一しきりうなりを立てて杉叢をこそいで通りぬけた。車夫は
(ようこをたすけようにもかじぼうをはなれればくるまをけしとばされるので、ちょうちんのしりをかざかみの)
葉子を助けようにも梶棒を離れれば車をけし飛ばされるので、提灯の尻を風上の
(ほうにしゃにむけてめはちぶにあげながらなにかおおごえにうしろからこえをかけて)
ほうに斜(しゃ)に向けて目八分に上げながら何か大声に後ろから声をかけて
(いた。ようこはすごすごとしてげんかんぐちにちかづいた。いっぱいきげんでまちあぐんだ)
いた。葉子はすごすごとして玄関口に近づいた。一杯きげんで待ちあぐんだ
(らしいくらちのかおのさけほてりににず、ようこのかおはすきとおるほどあおざめていた。)
らしい倉地の顔の酒ほてりに似ず、葉子の顔は透き通るほど青ざめていた。
(なよなよとまずしきだいにこしをおろして、じゅっぽばかりあるくだけでどろになって)
なよなよとまず敷き台に腰をおろして、十歩ばかり歩くだけで泥になって
(しまったげたを、あしさきでてつだいながらぬぎすてて、ようやくいたのまに)
しまった下駄を、足先で手伝いながら脱ぎ捨てて、ようやく板の間に
(たちあがってから、うつろなめでくらちのかおをじっとみいった。「どうだった)
立ち上がってから、うつろな目で倉地の顔をじっと見入った。「どうだった
(さむかったろう。まあこっちにおあがり」そうくらちはいって、そこにであわして)
寒かったろう。まあこっちにお上がり」そう倉地はいって、そこに出合わして
(いたじょちゅうらしいひとにてらんぷをわたすときゃしゃなすこしきゅうなはしごだんをのぼっていった。)
いた女中らしい人に手ランプを渡すと華奢な少し急な階子段をのぼって行った。
(にかいのまはでんとうでひるまよりあかるくようこにはおもわれた。とというとががたぴしと)
二階の間は電燈で昼間より明るく葉子には思われた。戸という戸ががたぴしと
(なりはためいていた。いたぶきらしいやねにいっすんくぎでもたたきつけるようにあめが)
鳴りはためいていた。板葺きらしい屋根に一寸釘でもたたきつけるように雨が
(ふりつけていた。ざしきのなかはあたたかくいきれて、のみくいするものがちらかっている)
降りつけていた。座敷の中は暖かくいきれて、飲み食いする物が散らかっている
(ようだった。ようこのちゅういのなかにはそれだけのことがかろうじてはいってきた。)
ようだった。葉子の注意の中にはそれだけの事がかろうじてはいって来た。
(そこにたったままのくらちにようこはすいつけられるようにみをなげかけていった。)
そこに立ったままの倉地に葉子は吸いつけられるように身を投げかけて行った。
(くらちもむかえとるようにようこをいだいたとおもうとそのままそこにどっかとあぐらを)
倉地も迎え取るように葉子を抱いたと思うとそのままそこにどっかとあぐらを
(かいた。そしてじぶんのほてったほおをようこのにすりつけるとさすがにおどろいた)
かいた。そして自分のほてった頬を葉子のにすり付けるとさすがに驚いた
(ように、「こりゃどうだひえたにもこおりのようだ」といいながらそのかおを)
ように、「こりゃどうだ冷えたにも氷のようだ」といいながらその顔を
(みいろうとした。しかしようこはむしょうにじぶんのかおをくらちのひろいあたたかいむねにうずめて)
見入ろうとした。しかし葉子は無性に自分の顔を倉地の広い暖かい胸に埋めて
(しまった。なつかしみとにくしみとのもつれあった、かつてけいけんしないはげしい)
しまった。なつかしみと憎しみとのもつれ合った、かつて経験しない激しい
(じょうちょがすぐにようこのなみだをさそいだした。ひすてりーのようにかんけつてきにひきおこる)
情緒がすぐに葉子の涙を誘い出した。ヒステリーのように間歇的にひき起こる
(すすりなきのこえをかみしめてもかみしめてもとめることができなかった。ようこは)
すすり泣きの声をかみしめてもかみしめても止める事ができなかった。葉子は
(そうしたままくらちのむねでいきをひきとることができたらとおもった。それともじぶんの)
そうしたまま倉地の胸で息を引き取る事ができたらと思った。それとも自分の
(なめているようなたましいのもだえのなかにくらちをまきこむことができたらばともおもった。)
なめているような魂の悶えの中に倉地を巻き込む事ができたらばとも思った。
(いそいそとせわにょうぼうらしくよろこびいさんでにかいにあがってくるようこをみいだすだろう)
いそいそと世話女房らしく喜び勇んで二階に上がって来る葉子を見いだすだろう
(とばかりおもっていたらしいくらちは、このりゆうもしれぬようこのきょうたいにおどろいた)
とばかり思っていたらしい倉地は、この理由も知れぬ葉子の狂態に驚いた
(らしかった。「どうしたというんだな、え」とひくくちからをこめていいながら、)
らしかった。「どうしたというんだな、え」と低く力をこめていいながら、
(ようこをじぶんのむねからひきはなそうとするけれども、ようこはただむしょうにかぶりをふる)
葉子を自分の胸から引き離そうとするけれども、葉子はただ無性にかぶりを振る
(ばかりで、だだっこのように、くらちのむねにしがみついた。できるならそのにくの)
ばかりで、駄々っ児のように、倉地の胸にしがみついた。できるならその肉の
(あついおとこらしいむねをかみやぶって、ちみどろになりながらそのむねのなかにかおを)
厚い男らしい胸をかみ破って、血みどろになりながらその胸の中に顔を
(うずめこみたいーーそういうようにようこはくらちのきものをかんだ。しずかにでは)
埋めこみたいーーそういうように葉子は倉地の着物をかんだ。しずかにでは
(あるけれどもくらちのこころはだんだんようこのこころもちにそめられていくようだった。)
あるけれども倉地の心はだんだん葉子の心持ちに染められて行くようだった。
(ようこをかきいだくくらちのうでのちからはしずかにくわわっていった。そのいきづかいはあらく)
葉子をかき抱く倉地の腕の力は静かに加わって行った。その息づかいは荒く
(なってきた。ようこはきがとおくなるようにおもいながら、しめころすほどひきしめて)
なって来た。葉子は気が遠くなるように思いながら、絞め殺すほど引きしめて
(くれとねんじていた。そしてかおをふせたままなみだのひまからきれぎれにさけぶように)
くれと念じていた。そして顔を伏せたまま涙のひまから切れ切れに叫ぶように
(こえをはなった。「すてないでちょうだいとはいいません・・・すてるならすてて)
声を放った。「捨てないでちょうだいとはいいません・・・捨てるなら捨てて
(くださってもようござんす・・・そのかわり・・・そのかわり・・・はっきり)
くださってもようござんす・・・その代わり・・・その代わり・・・はっきり
(おっしゃってください、ね・・・わたしはただひきずられていくのがいやなん)
おっしゃってください、ね・・・わたしはただ引きずられて行くのがいやなん
(です・・・」「なにをいってるんだおまえは・・・」くらちのかんでふくめるような)
です・・・」「何をいってるんだお前は・・・」倉地のかんでふくめるような
(こえがみみもとちかくようこにこうささやいた。「それだけは・・・それだけはちかって)
声が耳もと近く葉子にこうささやいた。「それだけは・・・それだけは誓って
(ください・・・ごまかすのはわたしはいや・・・いやです」「なにを・・・なにを)
ください・・・ごまかすのはわたしはいや・・・いやです」「何を・・・何を
(ごまかすかい」「そんなことばがわたしはきらいです」「ようこ!」くらちはもう)
ごまかすかい」「そんな言葉がわたしはきらいです」「葉子!」倉地はもう
(ねつじょうにもえていた。しかしそれはいつでもようこをだいたときにくらちにおこるやじゅうの)
熱情に燃えていた。しかしそれはいつでも葉子を抱いた時に倉地に起こる野獣の
(ようなねつじょうとはすこしちがっていた。そこにはやさしくおんなのこころをいたわるようなかげが)
ような熱情とは少し違っていた。そこにはやさしく女の心をいたわるような影が
(みえた。ようこはそれをうれしくもおもい、ものたらなくもおもった。ようこのこころのなかは)
見えた。葉子はそれをうれしくも思い、物足らなくも思った。葉子の心の中は
(くらちのつまのことをいいだそうとするねついでいっぱいになっていた。そのつまがていしゅくな)
倉地の妻の事をいい出そうとする熱意でいっぱいになっていた。その妻が貞淑な
(うつくしいおんなであるとおもえばおもうほど、そのひとがふたりのあいだにはさまっているのが)
美しい女であると思えば思うほど、その人が二人の間にはさまっているのが
(のろわしかった。たといすてられるまでもいちどはくらちのこころをそのおんなからねこそぎ)
呪わしかった。たとい捨てられるまでも一度は倉地の心をその女から根こそぎ
(うばいとらなければたんねんができないようなひたむきにきょうぼうなよくねんがむねのなかでは)
奪い取らなければ堪念ができないようなひたむきに狂暴な欲念が胸の中では
(はちきれそうににえくりかえっていた。けれどもようこはどうしてもそれを)
はち切れそうに煮えくり返っていた。けれども葉子はどうしてもそれを
(くちのはにのぼせることはできなかった。そのしゅんかんにじぶんにたいする)
口の端(は)に上(のぼ)せる事はできなかった。その瞬間に自分に対する
(ほこりがちりあくたのようにふみにじられるのをかんじたからだ。ようこは)
誇りが塵芥(ちりあくた)のように踏みにじられるのを感じたからだ。葉子は
(じぶんながらじぶんのこころがじれったかった。くらちのほうからひとこともそれをいわない)
自分ながら自分の心がじれったかった。倉地のほうから一言もそれをいわない
(のがうらめしかった。くらちはそんなことはいうにもたらないとおもっているのかも)
のが恨めしかった。倉地はそんな事はいうにも足らないと思っているのかも
(しれないが・・・いいえそんなことはない、そんなことあろうはずはない。くらちは)
しれないが・・・いいえそんな事はない、そんな事あろうはずはない。倉地は
(やはりふたまたかけてじぶんをあいしているのだ。おとこのこころにはそんなみだらなみれんが)
やはり二股かけて自分を愛しているのだ。男の心にはそんなみだらな未練が
(あるはずだ。おとこのこころとはいうまい、じぶんもくらちにであうまでは、いせいにたいする)
あるはずだ。男の心とはいうまい、自分も倉地に出あうまでは、異性に対する
(じぶんのあいをかってにみっつにもよっつにもさいてみることができたのだ。・・・ようこは)
自分の愛を勝手に三つにも四つにも裂いてみる事ができたのだ。・・・葉子は
(ここにもじぶんのくらいかこのけいけんのためにせめさいなまれた。すすんでこいの)
ここにも自分の暗い過去の経験のために責めさいなまれた。進んで恋の
(とりことなったものがとうぜんおちいらなければならないたとえようのないほどくらく)
とりことなったものが当然陥らなければならないたとえようのないほど暗く
(ふかいぎわくはあとからあとからこうじつをつくってようこをおそうのだった。ようこのむねは)
深い疑惑はあとからあとから口実を作って葉子を襲うのだった。葉子の胸は
(ことばどおりにはりさけようとしていた。しかしようこのこころがいためばいたむほど)
言葉どおりに張り裂けようとしていた。しかし葉子の心が傷めば傷むほど
(くらちのこころはねっしてみえた。くらちはどうしてようこがこんなにきげんをわるくしている)
倉地の心は熱して見えた。倉地はどうして葉子がこんなにきげんを悪くしている
(のかをおもいまよっているようすだった。くらちはやがてしいてようこをじぶんのむねから)
のかを思い迷っている様子だった。倉地はやがてしいて葉子を自分の胸から
(ひきはなしてそのかおをつよくみまもった。「なにをそうりくつもなくないているのだ・・・)
引き放してその顔を強く見守った。「何をそう理屈もなく泣いているのだ・・・
(おまえはおれをうたぐっているな」ようこは「うたがわないでいられますか」と)
お前はおれを疑(うたぐ)っているな」葉子は「疑わないでいられますか」と
(こたえようとしたが、どうしてもそれはじぶんのめんぼくにかけてくちにはだせなかった。)
答えようとしたが、どうしてもそれは自分の面目にかけて口には出せなかった。
(ようこはなみだにとけてただようようなめをうらめしげにおおきくひらいてだまってくらちを)
葉子は涙に解けて漂うような目を恨めしげに大きく開いて黙って倉地を
(みかえした。「きょうおれはとうとうほんてんからよびだされたんだった。ふねのなかでの)
見返した。「きょうおれはとうとう本店から呼び出されたんだった。船の中での
(ことをそれとなくききただそうとしおったから、おれはのこらずいってのけたよ。)
事をそれとなく聞きただそうとしおったから、おれは残らずいってのけたよ。
(しんぶんにおれたちのことがでたときでもが、あわてるがものはないとおもっとったんだ。)
新聞におれたちの事が出た時でもが、あわてるがものはないと思っとったんだ。
(どうせいつかはしれることだ。しれるほどなら、おおっぴらではやいがいいくらいの)
どうせいつかは知れる事だ。知れるほどなら、大っぴらで早いがいいくらいの
(ものだ。ちかいうちにかいしゃのほうはくびになろうが、おれは、ようこ、それがまんぞくなん)
ものだ。近いうちに会社のほうは首になろうが、おれは、葉子、それが満足なん
(だぞ。じぶんでじぶんのつらにどろをぬってよろこんでるおれがばかにみえような」)
だぞ。自分で自分の面(つら)に泥を塗って喜んでるおれがばかに見えような」
(そういってからくらちははげしいちからでふたたびようこをじぶんのむねにひきよせようとした。)
そういってから倉地は激しい力で再び葉子を自分の胸に引き寄せようとした。
(ようこはしかしそうはさせなかった。)
葉子はしかしそうはさせなかった。