有島武郎 或る女67
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問題文
(あるばんそれはくらちのほうからきりだされた。ながいよるをしょざいなさそうに)
ある晩それは倉地のほうから切り出された。長い夜を所在なさそうに
(よみもしないしょもつなどをいじくっていたが、ふとおもいだしたように、「ようこ。)
読みもしない書物などをいじくっていたが、ふと思い出したように、「葉子。
(ひとつおまえのいもうとたちをいえによぼうじゃないか・・・それからおまえのこどもっていう)
一つお前の妹たちを家に呼ぼうじゃないか・・・それからお前の子供っていう
(のもぜひここでそだてたいもんだな。おれもきゅうにさんにんまでこをなくしたら)
のもぜひここで育てたいもんだな。おれも急に三人まで子を失くしたら
(さびしくってならんから・・・」とびたつようなおもいをようこはいちはやくも)
さびしくってならんから・・・」飛び立つような思いを葉子はいち早くも
(みごとにむねのなかでおししずめてしまった。そうして、「そうですね」といかにも)
みごとに胸の中で押ししずめてしまった。そうして、「そうですね」といかにも
(きょうみなげにいってゆっくりとくらちのかおをみた。「それよりあなたのおこさんを)
興味なげにいってゆっくりと倉地の顔を見た。「それよりあなたのお子さんを
(ひとりなりふたりなりきてもらったらいかが。・・・わたしおくさんのことをおもうと)
一人なり二人なり来てもらったらいかが。・・・わたし奥さんの事を思うと
(いつでもなきます(ようこはそういいながらもうなみだをいっぱいにめに)
いつでも泣きます(葉子はそういいながらもう涙をいっぱいに目に
(ためていた)。けれどわたしはいきてるあいだはおくさんをよびもどしてあげてください)
ためていた)。けれどわたしは生きてる間は奥さんを呼び戻して上げてください
(なんて・・・そんなぎぜんしゃじみたことはいいません。わたしにはそんなこころもちは)
なんて・・・そんな偽善者じみた事はいいません。わたしにはそんな心持ちは
(みじんもありませんもの。おきのどくなということと、ふたりがこうなってしまった)
みじんもありませんもの。お気の毒なという事と、二人がこうなってしまった
(ということとはべつものですものねえ。せめてはおくさんがわたしをのろいころそうとでも)
という事とは別物ですものねえ。せめては奥さんがわたしを詛い殺そうとでも
(してくださればすこしはきもちがいいんだけれども、しとやかにしておさとにかえって)
してくだされば少しは気持がいいんだけれども、しとやかにしてお里に帰って
(いらっしゃるとおもうとついみにつまされてしまいます。だからといってわたしは)
いらっしゃると思うとつい身につまされてしまいます。だからといってわたしは
(じぶんがいのちをなげだしてきずきあげたこうふくをひとにあげるきにはなれません。あなたが)
自分が命をなげ出して築き上げた幸福を人に上げる気にはなれません。あなたが
(わたしをおすてになるまではね、よろこんでわたしはわたしをとおすんです。)
わたしをお捨てになるまではね、喜んでわたしはわたしを通すんです。
(・・・けれどもおこさんならわたしほんとうにちっともかまいはしないことよ。どう)
・・・けれどもお子さんならわたしほんとうにちっとも構いはしない事よ。どう
(およびよせになっては?」「ばかな。いまさらそんなことができてたまるか」くらちは)
お呼び寄せになっては?」「ばかな。今さらそんな事ができてたまるか」倉地は
(かんですてるようにそういってよこをむいてしまった。ほんとうをいうと)
かんで捨てるようにそういって横を向いてしまった。ほんとうをいうと
(くらちのつまのことをいったときにはようこはこころのなかをそのままいっていたのだ。)
倉地の妻の事をいった時には葉子は心の中をそのままいっていたのだ。
(そのむすめたちのことをいったときにはまざまざとしたうそをついていた)
その娘たちの事をいった時にはまざまざとした虚言(うそ)をついていた
(のだ。ようこのねついはくらちのつまをにおわせるものはすべてにくかった。くらちのいえの)
のだ。葉子の熱意は倉地の妻をにおわせるものはすべて憎かった。倉地の家の
(ほうからもちはこばれたちょうどすらにくかった。ましてそのこがのろわしくなくって)
ほうから持ち運ばれた調度すら憎かった。ましてその子が呪わしくなくって
(どうしよう。ようこはたんにくらちのこころをひいてみたいばかりにこわごわながら)
どうしよう。葉子は単に倉地の心を引いてみたいばかりに怖々ながら
(こころにもないことをいってみたのだった。くらちのかんですてるようなことばはようこを)
心にもない事をいってみたのだった。倉地のかんで捨てるような言葉は葉子を
(まんぞくさせた。どうじにすこしつよすぎるようなごちょうがけねんでもあった。くらちのしんそこを)
満足させた。同時に少し強すぎるような語調が懸念でもあった。倉地の心底を
(すっかりみてとったというじしんをえたつもりでいながら、ようこのこころはなにか)
すっかり見て取ったという自信を得たつもりでいながら、葉子の心は何か
(おりにつけてこうぐらついた。「わたしがぜひというんだからかまわない)
機(おり)につけてこうぐらついた。「わたしがぜひというんだから構わない
(じゃありませんか」「そんなまけおしみをいわんで、いもうとたちなりさだこなりを)
じゃありませんか」「そんな負け惜しみをいわんで、妹たちなり定子なりを
(よびよせようや」そういってくらちはようこのこころをすみずみまでみぬいてるように、)
呼び寄せようや」そういって倉地は葉子の心をすみずみまで見抜いてるように、
(おおきくようこをつつみこむようにみやりながら、いつものすこししぶいようなかおをして)
大きく葉子を包みこむように見やりながら、いつもの少し渋いような顔をして
(ほほえんだ。)
ほほえんだ。
(ようこはいいしおどきをみはからってたくみにもふしょうぶしょうそうにくらちのことばにおれた。)
葉子はいい潮時を見計らって巧みにも不承不承そうに倉地の言葉に折れた。
(そしてたじまのじゅくからいよいよいもうとたちふたりをよびよせることにした。どうじにくらちは)
そして田島の塾からいよいよ妹たち二人を呼び寄せる事にした。同時に倉地は
(そのきんじょにげしゅくするのをよぎなくされた。それはようこがくらちとのかんけいをまだ)
その近所に下宿するのを余儀なくされた。それは葉子が倉地との関係をまだ
(いもうとたちにうちあけてなかったからだ。それはもうすこしさきにてきとうなじきを)
妹たちに打ち明けてなかったからだ。それはもう少し先に適当な時期を
(みはからってしらせるほうがいいというようこのいけんだった。くらちもそれにふふくは)
見計らって知らせるほうがいいという葉子の意見だった。倉地もそれに不服は
(なかった。そしてあさからばんまでいっしょにねおきをするよりは、はなれたところにすんで)
なかった。そして朝から晩まで一緒に寝起きをするよりは、離れた所に住んで
(いて、きのむいたときにあうほうがどれほどふたりのあいだのたわむれのこころをまんぞくさせるか)
いて、気の向いた時にあうほうがどれほど二人の間の戯れの心を満足させるか
(しれないのを、ふたりはしばらくのあいだのことばどおりのどうせいのけっかとしてみとめて)
しれないのを、二人はしばらくの間の言葉どおりの同棲の結果として認めて
(いた。くらちはせいかつをささえていくうえにもひつようであるし、ふきゅうにかつどうりょくをほうしゃする)
いた。倉地は生活をささえていく上にも必要であるし、不休に活動力を放射する
(にもひつようなのでかいしょくになっていらいなにかじぎょうのことをときどきおもいふけっているよう)
にも必要なので解職になって以来何か事業の事を時々思いふけっているよう
(だったが、いよいよけいかくがたったのでそれにちゃくしゅするためには、とうざのところ、)
だったが、いよいよ計画が立ったのでそれに着手するためには、当座の所、
(ひとびとのでいりにようこのかおをみられないところでじむをとるのをべんぎとした)
人々の出入りに葉子の顔を見られない所で事務を取るのを便宜とした
(らしかった。そのためにもくらちがしばらくなりともべっきょするひつようがあった。)
らしかった。そのためにも倉地がしばらくなりとも別居する必要があった。
(ようこのたちばはだんだんとかたまってきた。じゅうにがつのすえにしけんがすむと、いもうとたちは)
葉子の立場はだんだんと固まって来た。十二月の末に試験が済むと、妹たちは
(たじまのじゅくからすこしばかりのにもつをもってかえってきた。ことにさだよのよろこびと)
田島の塾から少しばかりの荷物を持って帰って来た。ことに貞世の喜びと
(いってはなかった。ふたりはようこのへやだったろくじょうのこしまどのまえにちいさなふたつのつくえを)
いってはなかった。二人は葉子の部屋だった六畳の腰窓の前に小さな二つの机を
(ならべた。いままでなんとなくえんりょがちだったつやもうまれかわったようにかいかつな)
並べた。今までなんとなく遠慮がちだったつやも生まれ代わったように快活な
(はきはきしたしょうじょになった。ただあいこだけはすこしもうれしさをみせないで、ただ)
はきはきした少女になった。ただ愛子だけは少しもうれしさを見せないで、ただ
(つつしみぶかくすなおだった。「あいねえさんうれしいわねえ」さだよはかちほこるものの)
慎み深く素直だった。「愛ねえさんうれしいわねえ」貞世は勝ち誇るものの
(ごとく、えんがわのはしらによりかかってじっとふゆがれのにわをみつめているあねのかたにてを)
ごとく、縁側の柱によりかかってじっと冬枯れの庭を見つめている姉の肩に手を
(かけながらよりそった。あいこはひとところをまたたきもしないでみつめながら、)
かけながらより添った。愛子は一所をまたたきもしないで見つめながら、
(「ええ」とはぎれわるくこたえるのだった。さだよはじれったそうにあいこのかたを)
「ええ」と歯切れ悪く答えるのだった。貞世はじれったそうに愛子の肩を
(ゆすりながら、「でもちっともうれしそうじゃないわ」とせめるようにいった。)
ゆすりながら、「でもちっともうれしそうじゃないわ」と責めるようにいった。
(「でもうれしいんですもの」あいこのこたえはれいぜんとしていた。じゅうじょうまのざしきに)
「でもうれしいんですもの」愛子の答えは冷然としていた。十畳間の座敷に
(もちこまれたこうりをあけて、よごれものなどをよりわけていたようこはそのようすを)
持ち込まれた行李を明けて、よごれ物などを選り分けていた葉子はその様子を
(ちらとみたばかりではらがたった。しかしきたばかりのものをたしなめるでもない)
ちらと見たばかりで腹が立った。しかし来たばかりのものをたしなめるでもない
(とおもってむしをころした。「なんてしずかなところでしょう。じゅくよりもきっとしずかよ。)
と思って虫を殺した。「なんて静かな所でしょう。塾よりもきっと静かよ。
(でもこんなにもりがあっちゃよるになったらさびしいわねえ。わたしひとりで)
でもこんなに森があっちゃ夜になったらさびしいわねえ。わたしひとりで
(おはばかりにいけるかしらん。・・・あいねえさんそら、あすこにきどが)
お便所(はばかり)に行けるかしらん。・・・愛ねえさんそら、あすこに木戸が
(あるわ。きっととなりのおにわにいけるのよ。あのにわにいってもいいのおねえさま。だれの)
あるわ。きっと隣のお庭に行けるのよ。あの庭に行ってもいいのおねえ様。誰の
(おうちむこうは?・・・」さだよはめにはいるものはどれもめずらしいという)
お家(うち)むこうは?・・・」貞世は目にはいるものはどれも珍しいという
(ようにひとりでしゃべっては、ようこにともあいこにともなくしつもんをれんぱつした。)
ようにひとりでしゃべっては、葉子にとも愛子にともなく質問を連発した。
(そこがばらのはなぞのであるのをようこからきかされると、さだよはあいこをさそって)
そこが薔薇の花園であるのを葉子から聞かされると、貞世は愛子を誘って
(にわげたをつっかけた。あいこもさだよにつづいてそっちのほうにでかけるようすだった。)
庭下駄をつっかけた。愛子も貞世に続いてそっちのほうに出かける様子だった。
(そのものおとをきくとようこはもうがまんができなかった。「あいさんおまち。)
その物音を聞くと葉子はもう我慢ができなかった。「愛さんお待ち。
(おまえさんがたのものがまだかたづいてはいませんよ。あそびまわるのはしまつをしてからに)
お前さん方のものがまだ片づいてはいませんよ。遊び回るのは始末をしてからに
(なさいな」あいこはじゅうじゅんにあねのことばにしたがって、そのうつくしいめをふせながらざしきの)
なさいな」愛子は従順に姉の言葉に従って、その美しい目を伏せながら座敷の
(なかにはいってきた。それでもそのよるのゆうしょくはめずらしくにぎやかだった。さだよが)
中にはいって来た。それでもその夜の夕食は珍しくにぎやかだった。貞世が
(はしゃぎきって、むねいっぱいのものをぜんごもれんらくもなくしゃべりたてるので)
はしゃぎきって、胸いっぱいのものを前後も連絡もなくしゃべり立てるので
(あいこさえもおもわずにやりとわらったり、じぶんのことをようしゃなくいわれたりすると)
愛子さえも思わずにやりと笑ったり、自分の事を容赦なくいわれたりすると
(はずかしそうにかおをあからめたりした。さだよはうれしさにつかれはててよるの)
恥ずかしそうに顔を赤らめたりした。貞世はうれしさに疲れ果てて夜の
(あさいうちにねどこにはいった。あかるいでんとうのしたにようことあいことむかいあうと、)
浅いうちに寝床にはいった。明るい電燈の下に葉子と愛子と向かい合うと、
(ひさしくあわないでいたこつにくのひとびとのあいだにのみかんぜられるあわいこころおきをかんじた。)
久しくあわないでいた骨肉の人々の間にのみ感ぜられる淡い心置きを感じた。
(ようこはあいこにだけはくらちのことをすこしぐたいてきにしらしておくほうがいいとおもって、)
葉子は愛子にだけは倉地の事を少し具体的に知らしておくほうがいいと思って、
(はなしのきっかけにすこしことばをあらためた。「まだあなたがたにおひきあわせがしてない)
話のきっかけに少し言葉を改めた。「まだあなた方にお引き合わせがしてない
(けれどもくらちっていうかたね、えじままるのじむちょうの・・・(あいこはじゅうじゅんにおちついて)
けれども倉地っていう方ね、絵島丸の事務長の・・・(愛子は従順に落ち着いて
(うなずいてみせた)・・・あのかたがいまきむらさんになりかわってわたしのせわを)
うなずいて見せた)・・・あの方が今木村さんに成り代わってわたしの世話を
(みていてくださるのよ。きむらさんからおたのまれになったものだから、)
見ていてくださるのよ。木村さんからお頼まれになったものだから、
(めいわくそうにもなく、こんないいいえまでみつけてくださったの。きむらさんはべいこくで)
迷惑そうにもなく、こんないい家まで見つけてくださったの。木村さんは米国で
(いろいろじぎょうをくわだてていらっしゃるんだけれども、どうもおしごとがうまく)
いろいろ事業を企てていらっしゃるんだけれども、どうもお仕事がうまく
(いかないで、おかねがつぎこみにばかりなっていて、とてもこっちには)
行かないで、お金が注(つ)ぎ込みにばかりなっていて、とてもこっちには
(おくってくだされないの、わたしのいえはあなたもしってのとおりでしょう。)
送ってくだされないの、わたしの家はあなたも知ってのとおりでしょう。
(どうしてもしばらくのあいだはごめいわくでもくらちさんにばんじをみていただかなければ)
どうしてもしばらくの間は御迷惑でも倉地さんに万事を見ていただかなければ
(ならないのだから、あなたもそのつもりでいてちょうだいよ。ちょくちょく)
ならないのだから、あなたもそのつもりでいてちょうだいよ。ちょくちょく
(ここにもきてくださるからね。それにつけてせけんではなにかくだらないうわさを)
ここにも来てくださるからね。それにつけて世間では何かくだらないうわさを
(しているにちがいないが、あいさんのじゅくなんかではなんにもおききではなかった)
しているに違いないが、愛さんの塾なんかではなんにもお聞きではなかった
(かい」「いいえ、わたしたちにめんとむかってなにかおっしゃるかたはひとりも)
かい」「いいえ、わたしたちに面と向かって何かおっしゃる方は一人も
(ありませんわ。でも」とあいこはれいのたこんらしいうつくしいめをうわめにつかってようこを)
ありませんわ。でも」と愛子は例の多恨らしい美しい目を上目に使って葉子を
(ぬすみみるようにしながら、「でもなにしろあんなしんぶんがでたもんですから」)
ぬすみ見るようにしながら、「でも何しろあんな新聞が出たもんですから」
(「どんなしんぶん?」「あらおねえさまごぞんじなしなの。ほうせいしんぽうにつづきもので)
「どんな新聞?」「あらおねえ様御存じなしなの。報正新報に続き物で
(おねえさまとそのくらちというかたのことがながくでていましたのよ」「へーえ」ようこは)
おねえ様とその倉地という方の事が長く出ていましたのよ」「へーえ」葉子は
(じぶんのむちにあきれるようなこえをだしてしまった。それはじっさいおもいもかけぬと)
自分の無知にあきれるような声を出してしまった。それは実際思いもかけぬと
(いうよりは、ありそうなことではあるがいまのいままでしらずにいた、それにようこは)
いうよりは、ありそうな事ではあるが今の今まで知らずにいた、それに葉子は
(あきれたのだった。しかしそれはあいこのめにじぶんをひじょうにむこらしくみせた)
あきれたのだった。しかしそれは愛子の目に自分を非常に無辜らしく見せた
(だけのりえきはあった。さすがのあいこもおどろいたらしいめをしてあねのおどろいたかおを)
だけの利益はあった。さすがの愛子も驚いたらしい目をして姉の驚いた顔を
(みやった。)
見やった。