有島武郎 或る女70
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問題文
(きのうせんとるいすからかえってきたら、てがみがかなりたすうとどいていました。)
きのうセントルイスから帰って来たら、手紙がかなり多数届いていました。
(ゆうびんきょくのまえをとおるにつけ、ゆうびんばこをみるにつけ、きゃくふにいきあうにつけ、ぼくは)
郵便局の前を通るにつけ、郵便箱を見るにつけ、脚夫に行きあうにつけ、僕は
(あなたをれんそうしないことはありません。じぶんのつくえのうえにらいしんをみいだしたときは)
あなたを連想しない事はありません。自分の机の上に来信を見いだした時は
(なおさらのことです。ぼくはてがみのたばのあいだをかきわけてあなたのてがみをみいだそうと)
なおさらの事です。僕は手紙の束の間をかき分けてあなたの手紙を見いだそうと
(つとめました。しかしぼくはまたぜつぼうにちかいしつぼうにうたれなければ)
つとめました。しかし僕はまた絶望に近い失望に打たれなければ
(なりませんでした。ぼくはしつぼうはしましょう。しかしぜつぼうはしません。できません)
なりませんでした。僕は失望はしましょう。しかし絶望はしません。できません
(ようこさん、しんじてください。ぼくはろんぐふぇろーのえヴぁんじぇりんのにんたいと)
葉子さん、信じてください。僕はロングフェローのエヴァンジェリンの忍耐と
(けんそんとをもってあなたがぼくのこころをほんとうにくみとってくださるときをまって)
謙遜とをもってあなたが僕の心をほんとうに汲み取ってくださる時を待って
(います。しかしてがみのたばのなかからはわずかにぼくをしつぼうからすくうためにことうくんと)
います。しかし手紙の束の中からはわずかに僕を失望から救うために古藤君と
(おかくんとのてがみがみいだされました。ことうくんのてがみはへいえいにいくいつかまえにかかれた)
岡君との手紙が見いだされました。古藤君の手紙は兵営に行く五日前に書かれた
(ものでした。いまだにあなたのいどころをしることができないので、ぼくのてがみはやはり)
ものでした。いまだにあなたの居所を知る事ができないので、僕の手紙はやはり
(くらちしにあててかいそうしているとかいてあります。ことうくんはそうしたてつづきを)
倉地氏にあてて回送していると書いてあります。古藤君はそうした手続きを
(とるのをはなはだしくふかいにおもっているようです。おかくんはひとにもらしえない)
取るのをはなはだしく不快に思っているようです。岡君は人にもらし得ない
(かていないのふんじょうやしゅういからうけるごかいを、おかくんらしくかびんにかんがえすぎて)
家庭内の紛擾や周囲から受ける誤解を、岡君らしく過敏に考えすぎて
(よわいたいしつをますますよわくしているようです。かいてあることにはところどころ)
弱い体質をますます弱くしているようです。書いてある事にはところどころ
(ぼくのもつじょうしきでははんだんしかねるようなところがあります。あなたからいつかかならず)
僕の持つ常識では判断しかねるような所があります。あなたからいつか必ず
(しょうそくがくるのをしんじきって、そのときをただひとつのすくいとしてまっています。)
消息が来るのを信じきって、その時をただ一つの救いとして待っています。
(そのときのかんしゃときえつとをそうぞうでえがきだして、しょうせつでもよむようにかいて)
その時の感謝と喜悦とを想像で描き出して、小説でも読むように書いて
(あります。ぼくはおかくんのてがみをよむと、いつでもぼくじしんのこころがそのまま)
あります。僕は岡君の手紙を読むと、いつでも僕自身の心がそのまま
(かきあらわされているようにおもってなみだをかんじます。)
書き現わされているように思って涙を感じます。
(なぜあなたはじぶんをそれほどまでとうかいしておられるのか、それにはふかい)
なぜあなたは自分をそれほどまで韜晦しておられるのか、それには深い
(わけがあることとおもいますけれども、ぼくにはどちらのほうめんからかんがえても)
わけがある事と思いますけれども、僕にはどちらの方面から考えても
(そうぞうがつきません。)
想像がつきません。
(にほんからのしょうそくはどんなしょうそくもまちどおしい。しかしそれをみおわったぼくは)
日本からの消息はどんな消息も待ち遠しい。しかしそれを見終わった僕は
(きっとゆううつにおそわれます。ぼくにもししんこうがあたえられていなかったら、ぼくは)
きっと憂鬱に襲われます。僕にもし信仰が与えられていなかったら、僕は
(いまどうなっていたかをしりません。)
今どうなっていたかを知りません。
(まえのてがみとのあいだにみっかがたちました。ぼくはばびこっくはかせふうふとこんや)
前の手紙との間に三日がたちました。僕はバビコック博士夫婦と今夜
(らいしあむざにうぇるしじょうのえんじたとるすといの「ふっかつ」をけんぶつしました。)
ライシアム座にウェルシ嬢の演じたトルストイの「復活」を見物しました。
(そこにはきりすときょうととしてめをそむけなければならないようなばめんがないでは)
そこにはキリスト教徒として目をそむけなければならないような場面がないでは
(なかったけれども、おわりのほうにちかづいていってのそうごんさはけんぶつにんのすべてを)
なかったけれども、終わりのほうに近づいて行っての荘厳さは見物人のすべてを
(ほそくしてしまいました。うぇるしじょうのえんじたおんなしゅじんこうはしんにせまりすぎている)
捕捉してしまいました。ウェルシ嬢の演じた女主人公は真に迫りすぎている
(くらいでした。あなたがもしまだ「ふっかつ」をよんでいられないのならぼくはぜひ)
くらいでした。あなたがもしまだ「復活」を読んでいられないのなら僕はぜひ
(それをおすすめします。ぼくはとるすといの「ざんげ」をkしのほうぶんやくでにほんにいるとき)
それをお勧めします。僕はトルストイの「懺悔」をK氏の邦文訳で日本にいる時
(よんだだけですが、あのしばいをみてから、ひまがあったらもっとふかくいろいろ)
読んだだけですが、あの芝居を見てから、暇があったらもっと深くいろいろ
(けんきゅうしたいとおもうようになりました。にほんではとるすといのちょしょはまだ)
研究したいと思うようになりました。日本ではトルストイの著書はまだ
(おおくのひとにしられていないとおもいますが、すくなくとも「ふっかつ」だけは)
多くの人に知られていないと思いますが、少なくとも「復活」だけは
(まるぜんからでもとりよせてよんでいただきたい、あなたをけいはつすることが)
丸善からでも取り寄せて読んでいただきたい、あなたを啓発する事が
(かならずおおいのはうけあいますから。ぼくらはひとしくかみのまえにつみびとです。しかし)
必ず多いのは請け合いますから。僕らは等しく神の前に罪人です。しかし
(そのつみをくいあらためることによってひとしくえらばれたかみのしもべとなりうる)
その罪を悔い改める事によって等しく選ばれた神の僕(しもべ)となりうる
(のです。このみちのほかにはひとのこのせいかつをてんごくにむすびつけるみちは)
のです。この道のほかには人の子の生活を天国に結び付ける道は
(かんがえられません。かみをうやまいひとをあいするこころのなえてしまわないうちにおたがいに)
考えられません。神を敬い人を愛する心の萎えてしまわないうちにお互いに
(ひかりをあおごうではありませんか。)
光を仰ごうではありませんか。
(ようこさん、あなたのこころにくうきょなりおてんなりがあってもどうぞぜつぼうしないで)
葉子さん、あなたの心に空虚なり汚点なりがあってもどうぞ絶望しないで
(くださいよ。あなたをそのままによろこんでうけいれて、ーーくるしみがあれば)
くださいよ。あなたをそのままに喜んで受け入れて、ーー苦しみがあれば
(あなたとともにくるしみ、あなたにかなしみがあればあなたとともにかなしむものが)
あなたと共に苦しみ、あなたに悲しみがあればあなたと共に悲しむものが
(ここにひとりいることをわすれないでください。ぼくはたたかってみせます。どんなに)
ここに一人いる事を忘れないでください。僕は戦って見せます。どんなに
(あなたがきずついていても、ぼくはあなたをかばっていさましくこのじんせいをたたかって)
あなたが傷ついていても、僕はあなたをかばって勇ましくこの人生を戦って
(みせます。ぼくのまえにじぎょうが、そしてうしろにあなたがあれば、ぼくはかみのもっともちいさい)
見せます。僕の前に事業が、そして後ろにあなたがあれば、僕は神の最も小さい
(しもべとしてじんるいのしゅくふくのためにいっしょうをささげます。)
僕(しもべ)として人類の祝福のために一生をささげます。
(ああ、ふでもげんごもついにむえきです。ひとねっするせいいといのりとをこめてぼくはここに)
ああ、筆も言語もついに無益です。火と熱する誠意と祈りとをこめて僕はここに
(このてがみをふうじます。このてがみがくらちしのてからあなたにとどいたら、くらちしにも)
この手紙を封じます。この手紙が倉地氏の手からあなたに届いたら、倉地氏にも
(よろしくつたえてください。くらちしにめいわくをおかけしたきんせんじょうのことについては)
よろしく伝えてください。倉地氏に迷惑をおかけした金銭上の事については
(ぜんびんにかいておきましたからみてくださったとおもいます。ねがわくはかみわれらと)
前便に書いておきましたから見てくださったと思います。願わくは神われらと
(ともにおわしたまわんことを。めいじさんじゅうよねんじゅうにがつじゅうさんにち」)
ともに在(おわ)したまわん事を。 明治三十四年十二月十三日」
(くらちはじぎょうのためにほんそうしているのでそのよるはとしこしにこないとげしゅくから)
倉地は事業のために奔走しているのでその夜は年越しに来ないと下宿から
(しらせてきた。いもうとたちはじょやのかねをきくまではねないなどといっていたが)
知らせて来た。妹たちは除夜の鐘を聞くまでは寝ないなどといっていたが
(いつのまにかねむくなったとみえて、あまりしずかなのでにかいにいってみると、)
いつのまにか眠くなったと見えて、あまり静かなので二階に行って見ると、
(ふたりともねどこにはいっていた。つやにはひまがだしてあった。ようこにないしょで)
二人とも寝床にはいっていた。つやには暇が出してあった。葉子に内所で
(「ほうせいしんぽう」をくらちにとりついだのは、たといようこにむえきなしんぱいをさせないため)
「報正新報」を倉地に取り次いだのは、たとい葉子に無益な心配をさせないため
(だというくらちのちゅういがあったためであるにもせよ、ようこのこころもちをそんじもし)
だという倉地の注意があったためであるにもせよ、葉子の心持ちを損じもし
(ふあんにもした。つやがようこにたいしてもすなおなけいあいのじょうをいだいていたのはようこも)
不安にもした。つやが葉子に対しても素直な敬愛の情をいだいていたのは葉子も
(よくこころえていた。まえにもかいたようにようこはひとめみたときからつやがすきだった。)
よく心得ていた。前にも書いたように葉子は一目見た時からつやが好きだった。
(だいどころなどをさせずに、こまづかいとしててまわりのようじでもさせたらかおかたち)
台所などをさせずに、小間使いとして手回りの用事でもさせたら顔かたち
(といい、せいしつといい、とりまわしといいこれほどりそうてきなしょうじょはいないとおもうほど)
といい、性質といい、取り回しといいこれほど理想的な少女はいないと思うほど
(だった。つやにもようこのこころもちはすぐつうじたらしく、つやはこのいえのために)
だった。つやにも葉子の心持ちはすぐ通じたらしく、つやはこの家のために
(かげひなたなくせっせとはたらいたのだった。けれどもしんぶんのちいさなできごとひとつがようこを)
陰日向なくせっせと働いたのだった。けれども新聞の小さな出来事一つが葉子を
(ふあんにしてしまった。くらちがそうかくかんのおかみにたいしてもきのどくがるのをかまわず、)
不安にしてしまった。倉地が双鶴館の女将に対しても気の毒がるのを構わず、
(いもうとたちにはたらかせるのがかえっていいからとのこうじつのもとにひまをやってしまった)
妹たちに働かせるのがかえっていいからとの口実のもとに暇をやってしまった
(のだった。でかってのほうにもひとけはなかった。)
のだった。で勝手のほうにも人気はなかった。
(ようこはなにをげんいんともなくそのころきぶんがいらいらしがちでねつきも)
葉子は何を原因ともなくそのころ気分がいらいらしがちで寝付きも
(わるかったので、ぞくぞくしみこんでくるようなさむさにもかかわらず、ひばちのそばに)
悪かったので、ぞくぞくしみ込んで来るような寒さにも係わらず、火鉢のそばに
(いた。そしてしょざいないままにそのひくらちのげしゅくからとどけてきたきむらのてがみを)
いた。そして所在ないままにその日倉地の下宿から届けて来た木村の手紙を
(よんでみるきになったのだ。)
読んで見る気になったのだ。
(ようこはねこいたにかたひじをもたせながら、ひつようもないほどこうかだとおもわれる)
葉子は猫板に片肘を持たせながら、必要もないほど高価だと思われる
(あついしょせんしにおおきなじでかきつづってあるきむらのてがみをいちまいいちまいよみすすんだ。)
厚い書牋紙に大きな字で書きつづってある木村の手紙を一枚一枚読み進んだ。
(おとなびたようでこどもっぽい、そうかとおもうとかんじょうのこうちょうをしめしたとおもわれるところも)
大人びたようで子供っぽい、そうかと思うと感情の高潮を示したと思われる所も
(みょうにださんてきなところがはなれきらないとようこにおもわせるようなないようだった。ようこは)
妙に打算的な所が離れ切らないと葉子に思わせるような内容だった。葉子は
(いちいちせいどくするのがめんどうなのでぎょうからぎょうにとびこえながらよんでいった。)
一々精読するのがめんどうなので行から行に飛び越えながら読んで行った。
(そしてひづけのところまできてもかくべつなじょうちょをさそわれはしなかった。しかしようこは)
そして日付けの所まで来ても格別な情緒を誘われはしなかった。しかし葉子は
(このいぜんくらちのみているまえでしたようにずたずたにひきさいてすててしまうことは)
この以前倉地の見ている前でしたようにずたずたに引き裂いて捨ててしまう事は
(しなかった。しなかったどころではない。そのなかにはようこをかんがえさせるものが)
しなかった。しなかったどころではない。その中には葉子を考えさせるものが
(ふくまれていた。きむらはとおからずはみるとんとかいうにほんのめいよりょうじをしている)
含まれていた。木村は遠からずハミルトンとかいう日本の名誉領事をしている
(ひとのてから、にほんをさるまえにおもいきってしていったほうしのかいしゅうをしてもらえる)
人の手から、日本を去る前に思いきってして行った放資の回収をしてもらえる
(のだ。ふそくふりのかんけいをやぶらずにわかれたじぶんのやりかたはやはり)
のだ。不即不離の関係を破らずに別れた自分のやりかたはやはり
(ずにあたっていたとおもった。「やどやきめずにわらじをぬぐ」ばかをしないひつようは)
図にあたっていたと思った。「宿屋きめずに草鞋を脱ぐ」ばかをしない必要は
(もうない、くらちのあいはたしかにじぶんのてににぎりえたから。しかしくちにこそだしは)
もうない、倉地の愛は確かに自分の手に握り得たから。しかし口にこそ出しは
(しないが、くらちはかねのうえではかなりにくるしんでいるにちがいない。くらちのじぎょうと)
しないが、倉地は金の上ではかなりに苦しんでいるに違いない。倉地の事業と
(いうのはにほんじゅうのかいこうばにいるみずさきあんないぎょうしゃのくみあいをつくって、そのじっけんを)
いうのは日本じゅうの開港場にいる水先案内業者の組合を作って、その実権を
(じぶんのてににぎろうとするのらしかったが、それがしあがるのはみじかいひづきには)
自分の手に握ろうとするのらしかったが、それが仕上がるのは短い日月には
(できることではなさそうだった。ことにじせつがじせつがらしょうがつにかかっているから、)
できる事ではなさそうだった。ことに時節が時節がら正月にかかっているから、
(そういうもののせつりつにはいちばんふべんなときらしくもおもわれた。)
そういうものの設立にはいちばん不便な時らしくも思われた。
(きむらをりようしてやろう。)
木村を利用してやろう。
(しかしようこのこころのそこにはどこかにいたみをおぼえた。)
しかし葉子の心の底にはどこかに痛みを覚えた。