有島武郎 或る女73

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(さんじゅうにそれはにがつしょしゅんのあるひるごろだった。からっとはれたあさのてんきに)

【三二】 それは二月初春のある昼ごろだった。からっと晴れた朝の天気に

(ひきかえて、あさひがしばらくひがしむきのまどにさすまもなく、そらはうすぐもりにくもって)

引きかえて、朝日がしばらく東向きの窓にさす間もなく、空は薄曇りに曇って

(にしかぜがごうごうとすぎもりにあたってものすごいおとをたてはじめた。どこにかはるを)

西風がゴウゴウと杉森にあたって物すごい音を立て始めた。どこにか春を

(ほのめかすようなひがきたりしたあとなので、ことさらよのなかがあんたんとみえた。)

ほのめかすような日が来たりしたあとなので、ことさら世の中が暗澹と見えた。

(ゆきでもまくしかけてきそうにそこびえがするので、ようこはちゃのまにおきごたつを)

雪でもまくしかけて来そうに底冷えがするので、葉子は茶の間に置きごたつを

(もちだして、くらちのきがえをそれにかけたりした。どようだからいもうとたちは)

持ち出して、倉地の着がえをそれにかけたりした。土曜だから妹たちは

(はやびけだとしりつつもくらちはものぐさそうにがいしゅつのしたくにかからないで、)

早びけだと知りつつも倉地はものぐさそうに外出のしたくにかからないで、

(どてらをひっかけたままひばちのそばにうずくまっていた。ようこはしょっきを)

どてらを引っかけたまま火鉢のそばにうずくまっていた。葉子は食器を

(だいどころのほうにはこびながら、きたりいったりするついでにくらちとものをいった。)

台所のほうに運びながら、来たり行ったりするついでに倉地と物をいった。

(だいどころにいったようこにちゃのまからおおきなこえでくらちがいいかけた。)

台所に行った葉子に茶の間から大きな声で倉地がいいかけた。

(「おいおよう(くらちはいつのまにかようこをこうよぶようになっていた)おれは)

「おいお葉(倉地はいつのまにか葉子をこう呼ぶようになっていた)おれは

(きょうはふたりにたいめんして、これからかってにではいりのできるようにするぞ」)

きょうは二人に対面して、これから勝手に出はいりのできるようにするぞ」

(ようこはふきんをもってだいどころのほうからいそいそとちゃのまにかえってきた。)

葉子は布巾を持って台所のほうからいそいそと茶の間に帰って来た。

(「なんだってまたきょう・・・」そういってつきひざをしながらちゃぶだいを)

「なんだってまたきょう・・・」そういってつき膝をしながらちゃぶ台を

(ぬぐった。「いつまでもこうしているがきづまりでようないからよ」)

ぬぐった。「いつまでもこうしているが気づまりでようないからよ」

(「そうねえ」ようこはそのままそこにすわりこんでふきんをちゃぶだいに)

「そうねえ」葉子はそのままそこにすわり込んで布巾をちゃぶ台に

(あてがったままかんがえた。ほんとうはこれはとうにようこのほうからいいだすべきこと)

あてがったまま考えた。ほんとうはこれはとうに葉子のほうからいい出すべき事

(だったのだ。いもうとたちのいないすきか、ねてからのひまをうかがって、くらちと)

だったのだ。妹たちのいないすきか、寝てからの暇をうかがって、倉地と

(あうのは、はじめのうちこそあいびきのようなきょうみをおこさせないでもないと)

会うのは、始めのうちこそあいびきのような興味を起こさせないでもないと

(おもったのと、ようこはじぶんのとおってきたようなみちはどうしてもいもうとたちには)

思ったのと、葉子は自分の通って来たような道はどうしても妹たちには

など

(とおらせたくないところから、じぶんのうらめんをうかがわせまいというこころもちとで、)

通らせたくないところから、自分の裏面をうかがわせまいという心持ちとで、

(いままでついずるずるにいもうとたちをくらちにちかづかせないでおいたのだったが、)

今までついずるずるに妹たちを倉地に近づかせないで置いたのだったが、

(くらちのことばをきいてみると、そうしておくのがすこしのびすぎたときがついた。)

倉地の言葉を聞いてみると、そうしておくのが少し延びすぎたと気がついた。

(またあたらしいきょくめんをふたりのあいだにひらいていくにもこれはわるいことではない。)

また新しい局面を二人の間に開いて行くにもこれは悪い事ではない。

(ようこはけっしんした。「じゃきょうにしましょう。・・・それにしてもきものだけは)

葉子は決心した。「じゃきょうにしましょう。・・・それにしても着物だけは

(きかえていてくださいましな」「よしきた」とくらちはにこにこしながら)

着かえていてくださいましな」「よし来た」と倉地はにこにこしながら

(すぐたちあがった。ようこはくらちのうしろからきものをはおっておいてはがいに)

すぐ立ち上がった。葉子は倉地の後ろから着物を羽織っておいて羽がいに

(いだきながら、いまさらにくらちのがんじょうなおおしいたいかくをじぶんのむねにかんじつつ、)

抱きながら、今さらに倉地の頑丈な雄々しい体格を自分の胸に感じつつ、

(「それはふたりともいいこよ。かわいがってやってくださいましよ。)

「それは二人ともいい子よ。かわいがってやってくださいましよ。

(・・・けれどもね、きむらとのあのことだけはまだないしょよ。いいおりをみつけて、)

・・・けれどもね、木村とのあの事だけはまだ内証よ。いいおりを見つけて、

(わたしからじょうずにいってきかせるまではしらんふりをしてね・・・)

わたしから上手にいって聞かせるまでは知らんふりをしてね・・・

(よくって・・・あなたはうっかりするとあけすけにものをいったりなさるから)

よくって・・・あなたはうっかりするとあけすけに物をいったりなさるから

(・・・こんどだけはようじんしてちょうだい」「ばかだなどうせしれることを」)

・・・今度だけは用心してちょうだい」「ばかだなどうせ知れる事を」

(「でもそれはいけません・・・ぜひ」ようこはうしろからせのびをしてそっとくらちの)

「でもそれはいけません・・・ぜひ」葉子は後ろから背延びをしてそっと倉地の

(うしろくびをすった。そしてふたりはかおをみあわせてほほえみかわした。)

後ろ首を吸った。そして二人は顔を見合わせてほほえみかわした。

(そのしゅんかんにいきおいよくげんかんのこうしどががらっとあいて「おおさむい」という)

その瞬間に勢いよく玄関の格子戸ががらっとあいて「おお寒い」という

(さだよのこえがかんだかくきこえた。じかんでもないのでようこはおもわずぎょっとして)

貞世の声が疳高く聞こえた。時間でもないので葉子は思わずぎょっとして

(くらちからとびはなれた。ついでげんかんぐちのしょうじがあいた。さだよはちゃのまにかけこんで)

倉地から飛び離れた。次いで玄関口の障子があいた。貞世は茶の間に駆け込んで

(くるらしかった。「おねえさまゆきがふってきてよ」そういっていきなりちゃのまの)

来るらしかった。「おねえ様雪が降って来てよ」そういっていきなり茶の間の

(ふすまをあけたのはさだよだった。「おやそう・・・さむかったでしょう」とでもいって)

襖をあけたのは貞世だった。「おやそう・・・寒かったでしょう」とでもいって

(むかえてくれるあねをきたいしていたらしいさだよは、おきごたつにはいってあぐらを)

迎えてくれる姉を期待していたらしい貞世は、置きごたつにはいってあぐらを

(かいているとほうもなくおおきなおとこをあねのほかにみつけたので、おどろいたように)

かいている途方もなく大きな男を姉のほかに見つけたので、驚いたように

(おおきなめをみはったが、そのまますぐにげんかんにとってかえした。「あいねえさん)

大きな目を見張ったが、そのまますぐに玄関に取って返した。「愛ねえさん

(おきゃくさまよ」とこえをつぶすようにいうのがきこえた。くらちとようことはかおを)

お客様よ」と声をつぶすようにいうのが聞こえた。倉地と葉子とは顔を

(みあわしてまたほほえみかわした。「ここにおげたがあるじゃありませんか」)

見合わしてまたほほえみかわした。「ここにお下駄があるじゃありませんか」

(そうおちついていうあいこのこえがきこえて、やがてふたりはしずかにはいってきた。)

そう落ち付いていう愛子の声が聞こえて、やがて二人は静かにはいって来た。

(そしてあいこはしとやかにさだよはぺちゃんとすわって、こえをそろえて)

そして愛子はしとやかに貞世はぺちゃんとすわって、声をそろえて

(「ただいま」といいながらおじぎをした。あいこのとしごろのとき、げんかくなしゅうきょうがっこうで)

「ただいま」といいながらお辞儀をした。愛子の年ごろの時、厳格な宗教学校で

(むりじいにおとこのこのようなむしゅみなふくそうをさせられた、それにふくしゅうするような)

無理じいに男の子のような無趣味な服装をさせられた、それに復讐するような

(きでようこのよそおわしたあいこのみなりはすぐひとのめをひいた。おさげをやめさせて、)

気で葉子の装わした愛子の身なりはすぐ人の目をひいた。お下げをやめさせて、

(そくはつにさせたうなじとたぼのところには、そのころべいこくでのりゅうこうそのままに、)

束髪にさせた項とたぼの所には、そのころ米国での流行そのままに、

(ちょうむすびのおおきなくろいりぼんがとめられていた。こだいむらさきのつむぎじのきものに、)

蝶結びの大きな黒いリボンがとめられていた。古代紫の紬地の着物に、

(かしみやのはかまをすそみじかにはいて、そのはかまはいぜんようこがはつめいしたれいの)

カシミヤの袴を裾みじかにはいて、その袴は以前葉子が発明した例の

(びじょうどめになっていた。さだよのかみはまたおもいきってみじかくおかっぱにきりつめて、)

尾錠どめになっていた。貞世の髪はまた思いきって短くおかっぱに切りつめて、

(よこのほうにしんくのりぼんがむすんであった。それがこのさいはじけたどうじょを、)

横のほうに深紅のリボンが結んであった。それがこの才はじけた童女を、

(ひざまでぐらいな、わざとみじかくしたてたはかまとともにかれんにもいたずらいたずらしく)

膝までぐらいな、わざと短く仕立てた袴と共に可憐にもいたずらいたずらしく

(みせた。ふたりはさむさのためにほおをまっかにして、めをすこしなみだぐましていた。)

見せた。二人は寒さのために頬をまっ紅にして、目を少し涙ぐましていた。

(それがことさらふたりにべつべつなかれんなおもむきをそえていた。)

それがことさら二人に別々な可憐な趣を添えていた。

(ようこはすこしあらたまってふたりをひばちのざからみやりながら、「おかえりなさい。)

葉子は少し改まって二人を火鉢の座から見やりながら、「お帰りなさい。

(きょうはいつもよりはやかったのね。・・・おへやにいっておつつみをおいて)

きょうはいつもより早かったのね。・・・お部屋に行ってお包みをおいて

(はかまをとっていらっしゃい、そのうえでゆっくりおはなしすることがあるから・・・」)

袴を取っていらっしゃい、その上でゆっくりお話しする事があるから・・・」

(ふたりのへやからはさだよがひとりではしゃいでいるこえがしばらくしていたが、)

二人の部屋からは貞世がひとりではしゃいでいる声がしばらくしていたが、

(やがてあいこはひろいおびをふだんぎときかえたうえにしめて、さだよははかまをぬいだだけで)

やがて愛子は広い帯をふだん着と着かえた上にしめて、貞世は袴をぬいだだけで

(かえってきた。「さあここにいらっしゃい。(そういってようこはいもうとたちをじぶんの)

帰って来た。「さあここにいらっしゃい。(そういって葉子は妹たちを自分の

(みぢかにすわらせた)このおかたがいつかそうかくかんでおうわさしたくらちさんなのよ。)

身近にすわらせた)このお方がいつか双鶴館でおうわさした倉地さんなのよ。

(いままででもときどきいらしったんだけれどもついにおめにかかるおりが)

今まででも時々いらしったんだけれどもついにお目にかかるおりが

(なかったわね。これがあいここれがさだよです」そういいながらようこは)

なかったわね。これが愛子これが貞世です」そういいながら葉子は

(くらちのほうをむくともうくすぐったいようなかおつきをせずにはいられなかった。)

倉地のほうを向くともうくすぐったいような顔つきをせずにはいられなかった。

(くらちはしぶいわらいをわらいながらあんがいまじめに、「おはつに(といってちょっとあたまを)

倉地は渋い笑いを笑いながら案外まじめに、「お初に(といってちょっと頭を

(さげた)ふたりともうつくしいねえ」そういってさだよのかおをちょっとみてから)

下げた)二人とも美しいねえ」そういって貞世の顔をちょっと見てから

(じっとめをあいこにさだめた。あいこはかくべつはじるようすもなくそのにゅうわな)

じっと目を愛子にさだめた。愛子は格別恥じる様子もなくその柔和な

(たこんなめをおおきくみひらいてまんじりとくらちをみやっていた。それは)

多恨な目を大きく見開いてまんじりと倉地を見やっていた。それは

(だんじょのくべつをしらぬむじゃきなめともみえた。せんてんてきにおとこというものを)

男女の区別を知らぬ無邪気な目とも見えた。先天的に男というものを

(しりぬいてそのこころをこころみようとするいんぷのめともみられないことはなかった。)

しりぬいてその心を試みようとするイン婦の目とも見られない事はなかった。

(それほどそのめはきかいなむひょうじょうのひょうじょうをもっていた。)

それほどその目は奇怪な無表情の表情を持っていた。

(「はじめておめにかかるが、あいこさんおいくつ」くらちはなおあいこをみやりながら)

「始めてお目にかかるが、愛子さんおいくつ」倉地はなお愛子を見やりながら

(こうたずねた。「わたしははじめてではございません。・・・いつぞやおめに)

こう尋ねた。「わたしは始めてではございません。・・・いつぞやお目に

(かかりました」あいこはしずかにめをふせてはっきりとむひょうじょうなこえでこういった。)

かかりました」愛子は静かに目を伏せてはっきりと無表情な声でこういった。

(あいこがあのとしごろでおとこのまえにはっきりああうけごたえができるのはようこにも)

愛子があの年ごろで男の前にはっきりああ受け答えができるのは葉子にも

(いがいだった。ようこはおもわずあいこをみた。「はて、どこでね」くらちもいぶかしげに)

意外だった。葉子は思わず愛子を見た。「はて、どこでね」倉地もいぶかしげに

(こうといかえした。あいこはしたをむいたままくちをつぐんでしまった。そこには)

こう問い返した。愛子は下を向いたまま口をつぐんでしまった。そこには

(かすかながらぞうおのかげがひらめいてすぎたようだった。ようこはそれを)

かすかながら憎悪の影がひらめいて過ぎたようだった。葉子はそれを

(みのがさなかった。「ねがおをみせたときにやはりあれはめをさまして)

見のがさなかった。「寝顔を見せた時にやはり彼女(あれ)は目をさまして

(いたのだな。それをいうのかしらん」ともおもった。くらちのかおにもおもいかけず)

いたのだな。それをいうのかしらん」とも思った。倉地の顔にも思いかけず

(ちょっとどぎまぎしたらしいひょうじょうがうかんだのをようこはみた。)

ちょっとどぎまぎしたらしい表情が浮かんだのを葉子は見た。

(「なあに・・・」はげしくようこはじぶんでじぶんをうちけした。さだよはむじゃきにも、)

「なあに・・・」激しく葉子は自分で自分を打ち消した。貞世は無邪気にも、

(このくまのようなおおきなおとこがしたしみやすいあそびあいてとみてとったらしい。)

この熊のような大きな男が親しみやすい遊び相手と見て取ったらしい。

(さだよがそのひがっこうでみききしてきたことなどをれいのとおりのこらずあねに)

貞世がその日学校で見聞きして来た事などを例のとおり残らず姉に

(ほうこくしようと、なんでもかまわず、なんでもかくさず、いってのけるのに)

報告しようと、なんでも構わず、なんでも隠さず、いってのけるのに

(くらちがきょうにいってあいづちをうつので、ここにうつってきてからきゃくのあじをまったく)

倉地が興に入って合槌を打つので、ここに移って来てから客の味を全く

(わすれていたさだよはうれしがってくらちをあいてにしようとした。くらちはさんざん)

忘れていた貞世はうれしがって倉地を相手にしようとした。倉地はさんざん

(さだよとたわむれて、ひるちかくたっていった。)

貞世と戯れて、昼近く立って行った。

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