有島武郎 或る女86

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(あるあさようこはよそおいをこらしてくらちのげしゅくにでかけた。くらちはねごみを)

ある朝葉子は装いを凝らして倉地の下宿に出かけた。倉地は寝ごみを

(おそわれてめをさました。ざしきのすみにはよるをふかしてたのしんだらしい)

襲われて目をさました。座敷のすみには夜をふかして楽しんだらしい

(しゅこうののこりがすえたようにかためておいてあった。れいのしなかばんだけは)

酒肴の残りがすえたようにかためて置いてあった。例のシナ鞄だけは

(ちゃんとじょうがおりてとこのまのすみにかたづけられていた。ようこはいつものとおり)

ちゃんと錠がおりて床の間のすみに片づけられていた。葉子はいつものとおり

(しらんふりをしながら、そこらにちらばっているてがみのさしだしにんのなまえに)

知らんふりをしながら、そこらに散らばっている手紙の差し出し人の名前に

(するどいかんさつをあたえるのだった。くらちはしゅくすいをふかいがってあたまを)

鋭い観察を与えるのだった。倉地は宿酔(しゅくすい)を不快がって頭を

(たたきながらねどこからはんしんをおこすと、「なんでけさはまたそんなに)

たたきながら寝床から半身を起こすと、「なんでけさはまたそんなに

(しゃれこんではやくからやってきおったんだ」とそっぽにむいて、あくびでも)

しゃれ込んで早くからやって来おったんだ」とそっぽに向いて、あくびでも

(しながらのようにいった。これがいっかげつまえだったら、すくなくとも)

しながらのようにいった。これが一か月前だったら、少なくとも

(さんかげつまえだったら、いちやのあんみんに、あのたくましいせいりょくのぜんぶをかいふくした)

三か月前だったら、一夜の安眠に、あのたくましい精力の全部を回復した

(くらちは、いきなりねどこのなかからとびだしてきて、そうはさせまいとするようこを)

倉地は、いきなり寝床の中から飛び出して来て、そうはさせまいとする葉子を

(いやおうなしにとこのうえにねじふせていたにちがいないのだ。ようこはわきめにも)

否応なしに床の上にねじ伏せていたに違いないのだ。葉子はわき目にも

(こせこせとうるさくみえるようなすばしこさでそのへんに)

こせこせとうるさく見えるような敏捷(すばしこ)さでそのへんに

(ちらばっているものを、てがみはてがみ、かいちゅうものはかいちゅうもの、さどうぐはさどうぐと)

散らばっている物を、手紙は手紙、懐中物は懐中物、茶道具は茶道具と

(どんどんかたづけながら、くらちのほうもみずに、「きのうのやくそくじゃ)

どんどん片づけながら、倉地のほうも見ずに、「きのうの約束じゃ

(ありませんか」とぶあいそうにつぶやいた。くらちはそのことばではじめてなにかいったのを)

ありませんか」と無愛想につぶやいた。倉地はその言葉で始めて何かいったのを

(かすかにおもいだしたふうで、「なにしろおれはきょうはいそがしいでだめだよ」)

かすかに思い出したふうで、「何しろおれはきょうは忙しいでだめだよ」

(といって、ようやくのびをしながらたちあがった。ようこはもうはらに)

といって、ようやく伸びをしながら立ち上がった。葉子はもう腹に

(すえかねるほどいかりをはっしていた。「おこってしまってはいけない。これが)

据えかねるほど怒りを発していた。「怒ってしまってはいけない。これが

(くらちをれいたんにさせるのだ」ーーそうこころのなかにはおもいながらも、ようこのこころには)

倉地を冷淡にさせるのだ」ーーそう心の中には思いながらも、葉子の心には

など

(どうしてもそのいうことをきかぬいたずらずきなこあくまがいるようだった。)

どうしてもそのいう事を聞かぬいたずら好きな小悪魔がいるようだった。

(そくざにそのばをひとりだけでとびだしてしまいたいしょうどうと、もっとたくみな)

即座にその場を一人だけで飛び出してしまいたい衝動と、もっと巧みな

(てくだでどうしてもくらちをおびきださなければいけないという)

手練(てくだ)でどうしても倉地をおびき出さなければいけないという

(れいせいなしりょとがはげしくたたかいあった。ようこはしばらくのあとにかろうじて)

冷静な思慮とが激しく戦い合った。葉子はしばらくの後にかろうじて

(そのふたつのこころもちをまぜあわせることができた。「それではだめね・・・)

その二つの心持ちをまぜ合わせる事ができた。「それではだめね・・・

(またにしましょうか。でもくやしいわ、このいいおてんきに・・・)

またにしましょうか。でもくやしいわ、このいいお天気に・・・

(いけない、あなたのいそがしいはうそですわ。いそがしいいそがしいっていっときながら)

いけない、あなたの忙しいは嘘ですわ。忙しい忙しいっていっときながら

(おさけばかりのんでいらっしゃるんだもの。ね、いきましょうよ。)

お酒ばかり飲んでいらっしゃるんだもの。ね、行きましょうよ。

(こらみてちょうだい」そういいながらようこはたちあがって、りょうてをさゆうに)

こら見てちょうだい」そういいながら葉子は立上がって、両手を左右に

(ひろくひらいて、たもとがのびたままりょううでからすらりとたれるようにして、)

広く開いて、袂が延びたまま両腕からすらりとたれるようにして、

(ややけんをもったわらいをわらいながらくらちのほうにちかよっていった。くらちも)

やや剣を持った笑いを笑いながら倉地のほうに近寄って行った。倉地も

(さすがに、いまさらそのうつくしさにみとれるようにようこをみやった。てんさいが)

さすがに、今さらその美しさに見惚れるように葉子を見やった。天才が

(もつとしょうされるあのあおいろをさえおびたにゅうはくしょくのひふ、それがややあさぐろく)

持つと称されるあの青色をさえ帯びた乳白色の皮膚、それがやや浅黒く

(なって、めのふちにうれいのくもをかけたようなうすむらさきのかさ、かすんでみえるだけに)

なって、目の縁に憂いの雲をかけたような薄紫の暈、霞んで見えるだけに

(そっとはいたおしろい、きわだってあかくいろどられたくちびる、くろいほのおをあげて)

そっと刷いた白粉、きわ立って赤くいろどられた口びる、黒い焔を上げて

(もえるようなひとみ、うしろにさばいてたばねられたこくしつのかみ、おおきな)

燃えるようなひとみ、後ろにさばいて束ねられた黒漆の髪、大きな

(すぺいんふうのたいまいのかざりぐし、くっきりとしろくほそいのどをせめるように)

スペイン風の玳瑁の飾り櫛、くっきりと白く細い喉を攻めるように

(きりっとかさねあわされたふじいろのえり、むねのくぼみにちょっとのぞかせた、)

きりっと重ね合わされた藤色の襟、胸のくぼみにちょっとのぞかせた、

(もえるようなひのおびあげのほかは、ぬれたかとばかりからだにそぐって)

燃えるような緋の帯上げのほかは、ぬれたかとばかりからだにそぐって

(そこびかりのするしこんいろのあわせ、そのしたにつつましくひそんできえるほどうすい)

底光りのする紫紺色の袷、その下につつましく潜んで消えるほど薄い

(むらさきいろのたび(こういういろたびはようこがくふうしだしたあたらしいこころみの)

紫色の足袋(こういう色足袋は葉子がくふうし出した新しい試みの

(ひとつだった)そういうものがたがいたがいにとけあって、のどやかなあさのくうきの)

一つだった)そういうものが互い互いに溶け合って、のどやかな朝の空気の

(なかにぽっかりと、ようこというよにもまれなほどせいえんなひとつのそんざいを)

中にぽっかりと、葉子という世にもまれなほど悽艶な一つの存在を

(うきださしていた。そのそんざいのなかからくろいほのおをあげてもえるようなふたつの)

浮き出さしていた。その存在の中から黒い焔を上げて燃えるような二つの

(ひとみがいきてうごいてくらちをじっとみやっていた。)

ひとみが生きて動いて倉地をじっと見やっていた。

(くらちがものをいうか、みをうごかすか、とにかくつぎのどうさにうつろうとする)

倉地が物をいうか、身を動かすか、とにかく次の動作に移ろうとする

(そのまえに、ようこはきみのわるいほどなめらかなあしどりで、くらちのめのさきに)

その前に、葉子は気味の悪いほどなめらかな足どりで、倉地の目の先に

(たってそのむねのところに、りょうてをかけていた。「もうわたしにあいそがつきたら)

立ってその胸の所に、両手をかけていた。「もうわたしに愛想が尽きたら

(つきたとはっきりいってください、ね。あなたはたしかにれいたんにおなりね。)

尽きたとはっきりいってください、ね。あなたは確かに冷淡におなりね。

(わたしはじぶんがにくうござんす、じぶんにあいそをつかしています。さあ)

わたしは自分が憎うござんす、自分に愛想を尽かしています。さあ

(いってください、・・・いま・・・このばで、はっきり・・・でもしねと)

いってください、・・・今・・・この場で、はっきり・・・でも死ねと

(おっしゃい、ころすとおっしゃい。わたしはよろこんで・・・わたしはどんなに)

おっしゃい、殺すとおっしゃい。わたしは喜んで・・・わたしはどんなに

(うれしいかしれないのに。・・・ようござんすわ、なんでもわたし)

うれしいかしれないのに。・・・ようござんすわ、なんでもわたし

(ほんとうがしりたいんですから。さ、いってください。わたしどんな)

ほんとうが知りたいんですから。さ、いってください。わたしどんな

(きついことばでもかくごしていますから。わるびれなんかはしませんから・・・)

きつい言葉でも覚悟していますから。悪びれなんかはしませんから・・・

(あなたはほんとうにひどい・・・」ようこはそのままくらちのむねにかおをあてた。)

あなたはほんとうにひどい・・・」葉子はそのまま倉地の胸に顔をあてた。

(そしてはじめのうちはしめやかにしめやかにないていたが、きゅうにはげしい)

そして始めのうちはしめやかにしめやかに泣いていたが、急に激しい

(ひすてりーふうなすすりなきにかわって、きたないものにでもふれていた)

ヒステリー風なすすり泣きに変わって、きたないものにでも触れていた

(ようにくらちのねっきのつよいむなもとからとびしざると、ねどこのうえにがばと)

ように倉地の熱気の強い胸もとから飛びしざると、寝床の上にがばと

(つっぷしてはげしくこえをたててなきだした。)

突っ伏して激しく声を立てて泣き出した。

(このとっさのはげしいいきょうに、ちかごろそういうどうさにはなれていたくらち)

このとっさの激しい威脅に、近ごろそういう動作には慣れていた倉地

(だったけれども、あわててようこにちかづいてそのかたにてをかけた。ようこは)

だったけれども、あわてて葉子に近づいてその肩に手をかけた。葉子は

(おびえるようにそのてからとびのいた。そこにはけものにみるような)

おびえるようにその手から飛びのいた。そこには獣に見るような

(やせいのままのとりみだしかたが、うつくしいいしょうにまとわれてえんぜられた。)

野性のままの取り乱し方が、美しい衣装にまとわれて演ぜられた。

(ようこのはもつめもとがってみえた。からだははげしいけいれんにおそわれたように)

葉子の歯も爪もとがって見えた。からだは激しい痙攣に襲われたように

(いたましくふるえおののいていた。ふんぬときょうふとけんおとがもつれあいいがみあって)

痛ましく震えおののいていた。憤怒と恐怖と嫌悪とがもつれ合いいがみ合って

(のたうちまわるようだった。ようこはじぶんのごたいがあおぞらとおくかきさらわれていくのを)

のた打ち回るようだった。葉子は自分の五体が青空遠くかきさらわれて行くのを

(けんめいにくいとめるためにふとんでもたたみでもつめのたちはのたつものに)

懸命に食い止めるためにふとんでも畳でも爪の立ち歯の立つものに

(しがみついた。くらちはなによりもそのはげしいなきごえがとなりきんじょのみみにはいるのを)

しがみついた。倉地は何よりもその激しい泣き声が隣近所の耳にはいるのを

(はじるようにせにてをやってなだめようとしてみたけれども、そのたびごとに)

恥じるように背に手をやってなだめようとしてみたけれども、そのたびごとに

(ようこはさらになきつのってのがれようとばかりあせった。「なにをおもいちがいを)

葉子はさらに泣き募ってのがれようとばかりあせった。「何を思い違いを

(しとる、これ」くらちはのどぶえをあけっぱなしたひくいこえでようこのみみもとにこう)

しとる、これ」倉地は喉笛をあけっ放した低い声で葉子の耳もとにこう

(いってみたが、ようこはりふじんにもはげしくあたまをふるばかりだった。くらちは)

いってみたが、葉子は理不尽にも激しく頭を振るばかりだった。倉地は

(けっしんしたようにちからまかせにあらがうようこをだきすくめて、そのくちにてをあてた。)

決心したように力任せにあらがう葉子を抱きすくめて、その口に手をあてた。

(「ええ、ころすならころしてください・・・くださいとも」というきょうきじみたこえを)

「ええ、殺すなら殺してください・・・くださいとも」という狂気じみた声を

(しっとせいしながら、そのみみもとにささやこうとすると、ようこはわれながら)

しっと制しながら、その耳もとにささやこうとすると、葉子はわれながら

(むちゅうであてがったくらちのてをほねもくだけよとかんだ。「いたい・・・なにしやがる」)

夢中であてがった倉地の手を骨もくだけよとかんだ。「痛い・・・何しやがる」

(くらちはいきなりいっぽうのてでようこのほそくびをとってじぶんのひざのうえにのせて)

倉地はいきなり一方の手で葉子の細首を取って自分の膝の上に乗せて

(しめつけた。ようこはこきゅうがだんだんくるしくなっていくのをこのきょうらんのなかにも)

締めつけた。葉子は呼吸がだんだん苦しくなって行くのをこの狂乱の中にも

(いしきしてこころよくおもった。くらちのてでしんでいくのだなとおもうとそれがなんとも)

意識して快く思った。倉地の手で死んで行くのだなと思うとそれがなんとも

(いえずうつくしくこころやすかった。ようこのごたいからはひとりでにちからがぬけていって、)

いえず美しく心安かった。葉子の五体からはひとりでに力が抜けて行って、

(ふるえをたててかみあっていたはがゆるんだ。そのしゅんかんをすかさずくらちは)

震えを立ててかみ合っていた歯がゆるんだ。その瞬間をすかさず倉地は

(かまれていたてをふりほどくと、いきなりようこのほおげたをひしひしとごろくど)

かまれていた手を振りほどくと、いきなり葉子の頬げたをひしひしと五六度

(つづけさまにひらてでうった。ようこはそれがまたこころよかった。そのびりびりと)

続けさまに平手で打った。葉子はそれがまた快かった。そのびりびりと

(しんけいのまっしょうにこたえてくるかんかくのためにからだじゅうにいっしゅのとうすいを)

神経の末梢に答えて来る感覚のためにからだじゅうに一種の陶酔を

(かんずるようにさえおもった。「もっとおうちなさい」といってやりたかった)

感ずるようにさえ思った。「もっとお打ちなさい」といってやりたかった

(けれどもこえはでなかった。そのくせようこのてはほんのうてきにじぶんのほおを)

けれども声は出なかった。そのくせ葉子の手は本能的に自分の頬を

(かばうようにくらちのてのくだるのをささえようとしていた。くらちはりょうひじまで)

かばうように倉地の手の下るのをささえようとしていた。倉地は両肘まで

(つかって、ばたばたとすそをけみだしてあばれるりょうあしのほかにはようこをみうごきも)

使って、ばたばたと裾を蹴乱してあばれる両足のほかには葉子を身動きも

(できないようにしてしまった。さけでしんぞうのこうふんしやすくなったくらちのこきゅうは)

できないようにしてしまった。酒で心臓の興奮しやすくなった倉地の呼吸は

(あられのようにせわしくようこのかおにかかった。「ばかが・・・しずかにものをいえば)

霰のようにせわしく葉子の顔にかかった。「ばかが・・・静かに物をいえば

(わかることだに・・・おれがおまえをみすてるかみすてないか・・・しずかに)

わかる事だに・・・おれがお前を見捨てるか見捨てないか・・・静かに

(かんがえてもみろ、ばかが・・・はじさらしなまねをしやがって・・・)

考えてもみろ、ばかが・・・恥さらしなまねをしやがって・・・

(かおをあらってでなおしてこい」そういってくらちはすてるようにようこを)

顔を洗って出直して来い」そういって倉地は捨てるように葉子を

(ねどこのうえにどんとほうりなげた。)

寝床の上にどんとほうり投げた。

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