有島武郎 或る女87

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問題文

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(ようこのちからはつかいつくされてなきつづけるきりょくさえないようだった。そして)

葉子の力は使い尽くされて泣き続ける気力さえないようだった。そして

(そのままこんこんとしてねむるようにあおむいたままめをとじていた。くらちはかたで)

そのまま昏々として眠るように仰向いたまま目を閉じていた。倉地は肩で

(はげしくいきをつきながらいたましくとりみだしたようこのすがたをまんじりと)

激しく息をつきながら痛ましく取り乱した葉子の姿をまんじりと

(ながめていた。)

ながめていた。

(いちじかんほどのあとにはようこはしかしたったいまひきおこされたらんみゃくさわぎを)

一時間ほどの後には葉子はしかしたった今ひき起こされた乱脈騒ぎを

(けろりとわすれたもののようにかいかつでむじゃきになっていた。そしてふたりは)

けろりと忘れたもののように快活で無邪気になっていた。そして二人は

(たのしげにげしゅくからしんばしえきにくるまをはしらした。ようこがうすぐらいふじんまちあいしつの)

楽しげに下宿から新橋駅に車を走らした。葉子が薄暗い婦人待合室の

(いろのはげたもろっこがわのでぃばんにこしかけて、くらちがきっぷをかってくるのを)

色のはげたモロッコ皮のディバンに腰かけて、倉地が切符を買って来るのを

(まってるあいだ、そこにいあわせたきふじんというようなしごにんのひとたちは、)

待ってる間、そこに居合わせた貴婦人というような四五人の人たちは、

(すぐいままでのはなしをすててしまって、こそこそとようこについてささやき)

すぐ今までの話を捨ててしまって、こそこそと葉子について私語(ささや)き

(かわすらしかった。こうまんというのでもなくけんそんというのでもなく、)

かわすらしかった。高慢というのでもなく謙遜というのでもなく、

(きわめてしぜんにおちついてまっすぐにこしかけたまま、えのながいしろのこはくの)

きわめて自然に落ち着いてまっすぐに腰かけたまま、柄の長い白の琥珀の

(ぱらそるのにぎりにてをのせていながら、ようこにはそのきふじんたちのなかの)

パラソルの握りに手を乗せていながら、葉子にはその貴婦人たちの中の

(ひとりがどうもみしりごしのひとらしくかんぜられた。あるいはじょがっこうにいたときに)

一人がどうも見知り越しの人らしく感ぜられた。あるいは女学校にいた時に

(ようこをすうはいしてそのふうぞくをすらまねたれんちゅうのひとりであるかともおもわれた。)

葉子を崇拝してその風ゾクをすらまねた連中の一人であるかとも思われた。

(ようこがどんなことをうわさされているかは、そのふじんにみみうちされて、)

葉子がどんな事をうわさされているかは、その婦人に耳打ちされて、

(みるようにみないようにようこをぬすみみるほかのふじんたちのめいろでそうぞうされた。)

見るように見ないように葉子をぬすみ見る他の婦人たちの目色で想像された。

(「おまえたちはあきれかえりながらこころのなかのどこかでわたしをうらやんで)

「お前たちはあきれ返りながら心の中のどこかでわたしをうらやんで

(いるのだろう。おまえたちの、そのものおじしながらもかねめをかけたはでづくりな)

いるのだろう。お前たちの、その物おじしながらも金目をかけた派手作りな

(いしょうやけしょうは、しゃかいじょうのいちにはじないだけのつくりなのか、おっとのめにこころよく)

衣装や化粧は、社会上の位置に恥じないだけの作りなのか、良人の目に快く

など

(みえようためなのか。そればかりなのか。おまえたちをみるろぼうのおとこたちのめは)

見えようためなのか。そればかりなのか。お前たちを見る路傍の男たちの目は

(かんじょうにいれていないのか。・・・おくびょうひきょうなぎぜんしゃどもめ!」)

勘定に入れていないのか。・・・臆病卑怯な偽善者どもめ!」

(ようこはそんなにんげんからはいちだんもにだんもたかいところにいるようなきぐらいをかんじた。)

葉子はそんな人間からは一段も二段も高い所にいるような気位を感じた。

(じぶんのいでたちがそのひとたちのどれよりもたちまさっているじしんを)

自分の扮粧(いでたち)がその人たちのどれよりも立ちまさっている自信を

(じゅうにぶんにもっていた。ようこはじょおうのようにほこりのひつようもないという)

十二分に持っていた。葉子は女王のように誇りの必要もないという

(みずからのおうようをみせてすわっていた。)

自らの鷹揚を見せてすわっていた。

(そこにひとりのふじんがはいってきた。たがわふじんーーようこはそのかげをみるか)

そこに一人の夫人がはいって来た。田川夫人ーー葉子はその影を見るか

(みないかにみてとった。しかしかおいろひとつうごかさなかった。(くらちいがいのひとに)

見ないかに見て取った。しかし顔色一つ動かさなかった。(倉地以外の人に

(たいしてはようこはそのときでもかなりすぐれたじせいりょくのもちぬしだった)たがわふじんは)

対しては葉子はその時でもかなりすぐれた自制力の持ち主だった)田川夫人は

(もとよりそこにようこがいようなどとはおもいもかけないので、ようこのほうに)

元よりそこに葉子がいようなどとは思いもかけないので、葉子のほうに

(ちょっとめをやりながらもいっこうにきづかずに、「おまたせいたしまして)

ちょっと目をやりながらもいっこうに気づかずに、「お待たせいたしまして

(すみません」といいながらきふじんらのほうにちかよっていった。たがいの)

すみません」といいながら貴婦人らのほうに近寄って行った。互いの

(あいさつがすむかすまないうちに、いちどうはたがわふじんによりそってひそひそと)

挨拶が済むか済まないうちに、一同は田川夫人に寄り添ってひそひそと

(ささやいた。ようこはしずかにきかいをまっていた。ぎょっとしたふうで、)

私語(ささや)いた。葉子は静かに機会を待っていた。ぎょっとしたふうで、

(ようこにうしろをむけていたたがわふじんは、かたごしにようこのほうをふりかえった。)

葉子に後ろを向けていた田川夫人は、肩越しに葉子のほうを振り返った。

(まちもうけていたようこはいままでしょうめんにむけていたかおをしとやかにむけかえて)

待ち設けていた葉子は今まで正面に向けていた顔をしとやかに向けかえて

(たがわふじんとめをみあわした。ようこのめはにくむようにわらっていた。)

田川夫人と目を見合わした。葉子の目は憎むように笑っていた。

(たがわふじんのめはわらうようににくんでいた。「なまいきな」・・・ようこは)

田川夫人の目は笑うように憎んでいた。「生意気な」・・・葉子は

(たがわふじんがめをそらさないうちに、すっくとたってたがわふじんのほうに)

田川夫人が目をそらさないうちに、すっくと立って田川夫人のほうに

(よっていった。このふいうちにどをうしなったふじんは(あきらかにようこが)

寄って行った。この不意打ちに度を失った夫人は(明らかに葉子が

(まっかになってかおをふせるとばかりおもっていたらしく、いあわせた)

まっ紅になって顔を伏せるとばかり思っていたらしく、居合わせた

(ふじんたちもそのさまをみて、ようぼうでもふくそうでもじぶんらをけおとそうとする)

婦人たちもそのさまを見て、容貌でも服装でも自分らを蹴落とそうとする

(ようこにたいしてりゅういんをおろそうとしているらしかった)すこしいろをうしなって、)

葉子に対して溜飲をおろそうとしているらしかった)少し色を失って、

(そっぽをむこうとしたけれどももうおそかった。ようこはふじんのまえにかるく)

そっぽを向こうとしたけれどももうおそかった。葉子は夫人の前に軽く

(あたまをさげていた。ふじんもやむをえずあいさつのまねをして、たかびしゃにでる)

頭を下げていた。夫人もやむを得ず挨拶のまねをして、高飛車に出る

(つもりらしく、「あなたはどなた?」いかにもおうへいにさきがけて)

つもりらしく、「あなたはどなた?」いかにも横柄にさきがけて

(くちをきった。「さつきようでございます」ようこはたいとうのたいどでわるびれもせず)

口をきった。「早月葉でございます」葉子は対等の態度で悪びれもせず

(こううけた。「えじままるではいろいろおせわさまになってありがとうぞんじました。)

こう受けた。「絵島丸ではいろいろお世話様になってありがとう存じました。

(あのう・・・ほうせいしんぽうもはいけんさせていただきました。(ふじんのかおいろが)

あのう・・・報正新報も拝見させていただきました。(夫人の顔色が

(ようこのことばひとつごとにかわるのをようこはめずらしいものでもみるように)

葉子の言葉一つごとに変わるのを葉子は珍しいものでも見るように

(まじまじとながめながら)たいそうおもしろうございましたこと。よく)

まじまじとながめながら)たいそうおもしろうございました事。よく

(あんなにくわしくごつうしんになりましてねえ、おいそがしくいらっしゃいました)

あんなにくわしく御通信になりましてねえ、お忙しくいらっしゃいました

(ろうに。・・・くらちさんもおりよくここにきあわせていらっしゃいます)

ろうに。・・・倉地さんもおりよくここに来合わせていらっしゃいます

(から・・・いまちょっときっぷをかいに・・・おつれもうしましょうか」)

から・・・今ちょっと切符を買いに・・・お連れ申しましょうか」

(たがわふじんはみるみるまっさおになってしまっていた。おりかえしていうべき)

田川夫人は見る見るまっさおになってしまっていた。折り返していうべき

(ことばにきゅうしてしまって、つたなくも、「わたしはこんなところであなたと)

言葉に窮してしまって、拙くも、「わたしはこんな所であなたと

(おはなしするのはぞんじがけません。ごようでしたらたくへおいでをねがいましょう」)

お話しするのは存じがけません。御用でしたら宅へおいでを願いましょう」

(といいつついまにもくらちがそこにあらわれてくるかとひたすらそれをおそれる)

といいつつ今にも倉地がそこに現われて来るかとひたすらそれを怖れる

(ふうだった。ようこはわざとふじんのことばをとりちがえたように、「いいえ)

ふうだった。葉子はわざと夫人の言葉を取り違えたように、「いいえ

(どういたしましてわたしこそ・・・ちょっとおまちくださいすぐ)

どういたしましてわたしこそ・・・ちょっとお待ちくださいすぐ

(くらちさんをおよびもうしてまいりますから」そういってどんどんまちあいじょを)

倉地さんをお呼び申して参りますから」そういってどんどん待合所を

(でてしまった。あとにのこったたがわふじんがそのきふじんたちのまえでどんなかおを)

出てしまった。あとに残った田川夫人がその貴婦人たちの前でどんな顔を

(してとうわくしたか、それをようこはめにみるようにそうぞうしながらいたずらもの)

して当惑したか、それを葉子は目に見るように想像しながらいたずら者

(らしくほくそえんだ。ちょうどそこにくらちがきっぷをかってきかかっていた。)

らしくほくそ笑んだ。ちょうどそこに倉地が切符を買って来かかっていた。

(いっとうのきゃくしつにはほかににさんにんのきゃくがいるばかりだった。たがわふじんいかのひとたちは)

一等の客室には他に二三人の客がいるばかりだった。田川夫人以下の人たちは

(だれかのみおくりかでむかえにでもきたのだとみえて、きしゃがでるまでかげも)

だれかの見送りか出迎えにでも来たのだと見えて、汽車が出るまで影も

(みせなかった。ようこはさっそくくらちにことのしじゅうをはなしてきかせた。そして)

見せなかった。葉子はさっそく倉地に事の始終を話して聞かせた。そして

(ふたりはおもいぞんぶんむねをすかしてわらった。「たがわのおくさんかわいそうにまだ)

二人は思い存分胸をすかして笑った。「田川の奥さんかわいそうにまだ

(あすこでいまにもあなたがくるかともじもじしているでしょうよ、ほかの)

あすこで今にもあなたが来るかともじもじしているでしょうよ、ほかの

(ひとたちのてまえああいわれてこそこそとにげだすわけにもいかないし」)

人たちの手前ああいわれてこそこそと逃げ出すわけにも行かないし」

(「おれがひとつかおをだしてみせればまたおもしろかったにな」「きょうは)

「おれが一つ顔を出して見せればまたおもしろかったにな」「きょうは

(みょうなひとにあってしまったからまたきっとだれかにあいますよ。きみょうねえ、)

妙な人にあってしまったからまたきっとだれかにあいますよ。奇妙ねえ、

(おきゃくさまがきたとなるとふしぎにたてつづくし・・・」「ふしあわせなんぞも)

お客様が来たとなると不思議にたて続くし・・・」「不仕合せなんぞも

(きだすとたばになってきくさるて」くらちはなにかこころありげにこういって)

来出すと束になって来くさるて」倉地は何か心ありげにこういって

(しぶいかおをしながらこのわらいばなしをむすんだ。)

渋い顔をしながらこの笑い話を結んだ。

(ようこはけさのほっさのはんどうのように、たがわふじんのことがあってからただなんとなく)

葉子はけさの発作の反動のように、田川夫人の事があってからただ何となく

(こころがうきうきしてしようがなかった。もしそこにきゃくがいなかったら、ようこは)

心が浮き浮きしてしようがなかった。もしそこに客がいなかったら、葉子は

(こどものようにたんじゅんなあいきょうものになって、くらちにしぶいかおばかりはさせて)

子供のように単純な愛嬌者になって、倉地に渋い顔ばかりはさせて

(おかなかったろう。「どうしてよのなかにはどこにでもたにんのじゃまにきましたと)

おかなかったろう。「どうして世の中にはどこにでも他人の邪魔に来ましたと

(いわんばかりにこうたくさんひとがいるんだろう」とおもったりした。それすらが)

いわんばかりにこうたくさん人がいるんだろう」と思ったりした。それすらが

(ようこにはわらいのたねとなった。じぶんたちのむこうざにしかつめらしいかおをして)

葉子には笑いの種となった。自分たちの向こう座にしかつめらしい顔をして

(ろうねんのふうふものがすわっているのを、ようこはしばらくまじまじとみやって)

老年の夫婦者がすわっているのを、葉子はしばらくまじまじと見やって

(いたが、そのひとたちのしかつめらしいのがむしょうにぐろてすくなふしぎな)

いたが、その人たちのしかつめらしいのが無性にグロテスクな不思議な

(ものにみえだして、とうとうがまんがしきれずに、はんけちをくちにあてて)

ものに見え出して、とうとう我慢がしきれずに、ハンケチを口にあてて

(きゅっきゅっとふきだしてしまった。)

きゅっきゅっとふき出してしまった。

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