有島武郎 或る女90

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(「わたしあなたとゆっくりおはなしがしてみたいとおもいますが・・・」)

「わたしあなたとゆっくりお話しがしてみたいと思いますが・・・」

(こうようこはしんみりぬすむようにいってみた。きべはすこしもそれにこころを)

こう葉子はしんみりぬすむようにいってみた。木部は少しもそれに心を

(うごかされないようにみえた。「そう・・・それもおもしろいかな。)

動かされないように見えた。「そう・・・それもおもしろいかな。

(・・・わたしはこれでもときおりはあなたのこうふくをいのったりしていますよ、)

・・・わたしはこれでも時おりはあなたの幸福を祈ったりしていますよ、

(おかしなもんですね、はははは(ようこがそのことばにつけいってなにか)

おかしなもんですね、ハハハハ(葉子がその言葉につけ入って何か

(いおうとするのをきべはゆうゆうとおっかぶせて)あれが、あすこにみえるのが)

いおうとするのを木部は悠々とおっかぶせて)あれが、あすこにみえるのが

(おおしまです。ぽつんとひとつくもかなにかのようにみえるでしょうそらにういて・・・)

大島です。ぽつんと一つ雲か何かのように見えるでしょう空に浮いて・・・

(おおしまっていずのさきのはなれじまです、あれがわたしのつりをするところからしょうめんに)

大島って伊豆の先の離れ島です、あれがわたしの釣りをする所から正面に

(みえるんです。あれでいて、ひによっていろがさまざまにかわります。)

見えるんです。あれでいて、日によって色がさまざまに変わります。

(どうかするとふんえんがぽーっとみえることもありますよ」またことばがぽつんと)

どうかすると噴煙がぽーっと見える事もありますよ」また言葉がぽつんと

(きれてちんもくがつづいた。げたのおとのほかになみのおともだんだんとちかくに)

切れて沈黙が続いた。下駄の音のほかに波の音もだんだんと近くに

(きこえだした。ようこはただただむねがせつなくなるのをおぼえた。もういちど)

聞こえ出した。葉子はただただ胸が切なくなるのを覚えた。もう一度

(どうしてもゆっくりきべにあいたいきになっていた。「きべさん・・・)

どうしてもゆっくり木部に会いたい気になっていた。「木部さん・・・

(あなたさぞわたしをうらんでいらっしゃいましょうね。・・・けれどもわたし)

あなたさぞわたしを恨んでいらっしゃいましょうね。・・・けれどもわたし

(あなたにどうしてももうしあげておきたいことがありますの。なんとかしていちど)

あなたにどうしても申し上げておきたい事がありますの。なんとかして一度

(わたしにあってくださいません?そのうちに。わたしのばんちは・・・」)

わたしに会ってくださいません? そのうちに。わたしの番地は・・・」

(「おあいしましょう「そのうちに」・・・そのうちにはいいことばですね・・・)

「お会いしましょう『そのうちに』・・・そのうちにはいい言葉ですね・・・

(そのうちに・・・。はなしがあるからとおんなにいわれたときには、はなしをきたいしないで)

そのうちに・・・。話があるからと女にいわれた時には、話を期待しないで

(ほうようかきょむかをかくごしろってめいげんがありますぜ、ははははは」「それは)

抱擁か虚無かを覚悟しろって名言がありますぜ、ハハハハハ」「それは

(あんまりなおっしゃりかたですわ」ようこはきわめてじょうだんのようにまたきわめて)

あんまりなおっしゃりかたですわ」葉子はきわめて冗談のようにまたきわめて

など

(まじめのようにこういってみた。「あんまりかあんまりでないか・・・)

真面目のようにこういってみた。「あんまりかあんまりでないか・・・

(とにかくめいげんにはそういありますまい、ははははは」きべはまたうつろに)

とにかく名言には相違ありますまい、ハハハハハ」木部はまたうつろに

(わらったが、またいたいところにでもふれたようにとつぜんわらいやんだ。)

笑ったが、また痛い所にでも触れたように突然笑いやんだ。

(くらちはなみうちぎわちかくまできてもわたれそうもないのでとおくからこっちを)

倉地は波打ちぎわ近くまで来ても渡れそうもないので遠くからこっちを

(ふりむいて、むずかしいかおをしてたっていた。「どれおふたりにはしわたしを)

振り向いて、むずかしい顔をして立っていた。「どれお二人に橋渡しを

(してあげましょうかな」そういってきべはかわべのあしをわけてしばらくすがたを)

して上げましょうかな」そういって木部は川辺の葦を分けてしばらく姿を

(かくしていたが、やがてちいさなたぶねにのってさおをさしてあらわれてきた。)

隠していたが、やがて小さな田舟に乗って竿をさして現われて来た。

(そのときようこはきべがつりどうぐをもっていないのにきがついた。「あなた)

その時葉子は木部が釣り道具を持っていないのに気がついた。「あなた

(つりざおは」「つりざおですか・・・つりざおはみずのうえにういてるでしょう。)

釣り竿は」「釣り竿ですか・・・釣り竿は水の上に浮いてるでしょう。

(いまにここまでながれてくるか・・・こないか・・・」そうこたえてあんがいじょうずに)

いまにここまで流れて来るか・・・来ないか・・・」そう応えて案外上手に

(ふねをこいだ。くらちはいきすぎただけをいそいでとってかえしてきた。そして)

舟を漕いだ。倉地は行き過ぎただけを急いで取って返して来た。そして

(さんにんはあぶなかしくたったままふねにのった。くらちはきべのまえもかまわず)

三人はあぶなかしく立ったまま舟に乗った。倉地は木部の前も構わず

(わきのしたにてをいれてようこをかかえた。きべはれいぜんとしてさおをとった。)

わきの下に手を入れて葉子をかかえた。木部は冷然として竿を取った。

(みつきほどでたわいなくふねはむこうぎしについた。くらちがいちはやくきしに)

三突きほどでたわいなく舟は向こう岸に着いた。倉地がいち早く岸に

(とびあがって、てをのばしてようこをたすけようとしたとき、きべがようこに)

飛び上がって、手を延ばして葉子を助けようとした時、木部が葉子に

(てをかしていたので、ようこはすぐにそれをつかんだ。おもいきりちからをこめたためか、)

手を貸していたので、葉子はすぐにそれを掴んだ。思いきり力をこめたためか、

(きべのてがふねをこいだためだったか、とにかくふたりのてはにぎりあわされたまま)

木部の手が舟を漕いだためだったか、とにかく二人の手は握り合わされたまま

(こきざみにはげしくふるえた。「やっ、どうもありがとう」くらちはようこのじょうりくを)

小刻みにはげしく震えた。「やっ、どうもありがとう」倉地は葉子の上陸を

(たすけてくれたきべにこうれいをいった。)

助けてくれた木部にこう礼をいった。

(きべはふねからはあがらなかった。そしてつばひろのぼうしをとって、「それじゃ)

木部は舟からは上がらなかった。そして鍔広の帽子を取って、「それじゃ

(これでおわかれします」といった。「くらくなりましたから、おふたりとも)

これでお別れします」といった。「暗くなりましたから、お二人とも

(あしもとにきをおつけなさい。さようなら」とつけくわえた。)

足もとに気をおつけなさい。さようなら」と付け加えた。

(さんにんはそうとうのあいさつをとりかわしてわかれた。いっちょうほどきてからきゅうにゆくてが)

三人は相当の挨拶を取りかわして別れた。一町ほど来てから急に行く手が

(あかるくなったので、みるとこうみょうじうらのやまのはに、ゆうづきがこいくもの)

明るくなったので、みると光明寺裏の山の端(は)に、夕月が濃い雲の

(きれめからすがたをみせたのだった。ようこはうしろをふりかえってみた。)

切れ目から姿を見せたのだった。葉子は後ろを振り返って見た。

(むらさきいろにくれたすなのうえにきべがふねをあしまにこぎかえしていくすがたがかげえのように)

紫色に暮れた砂の上に木部が舟を葦間に漕ぎ返して行く姿が影絵のように

(くろくながめられた。ようこはしろこはくのぱらそるをぱっとひらいて、くらちには)

黒くながめられた。葉子は白琥珀のパラソルをぱっと開いて、倉地には

(いたずらにみえるようにふりうごかした。)

いたずらに見えるように振り動かした。

(さんよんちょうきてからくらちがこんどはうしろをふりかえった。もうそこにはきべのすがたは)

三四町来てから倉地が今度は後ろを振り返った。もうそこには木部の姿は

(なかった。ようこはぱらそるをたたもうとしておもわずなみだぐんでしまっていた。)

なかった。葉子はパラソルを畳もうとして思わず涙ぐんでしまっていた。

(「あれはいったいだれだ」「だれだっていいじゃありませんか」)

「あれはいったいだれだ」「だれだっていいじゃありませんか」

(くらさにまぎれてくらちになみだはみせなかったが、ようこのことばはいたましく)

暗さにまぎれて倉地に涙は見せなかったが、葉子の言葉は痛ましく

(かんばしっていた。「ろーまんすのたくさんあるおんなはちがったものだな」)

疳走っていた。「ローマンスのたくさんある女はちがったものだな」

(「ええ、そのとおり・・・あんなこじきみたいなみっともないこいびとをもった)

「ええ、そのとおり・・・あんな乞食みたいな見っともない恋人を持った

(ことがあるのよ」「さすがはおまえだよ」「だからあいそがつきたでしょう」)

事があるのよ」「さすがはお前だよ」「だから愛想が尽きたでしょう」

(とつじょとしてまたいいようのないさびしさ、かなしさ、くやしさが)

突如としてまたいいようのないさびしさ、哀しさ、くやしさが

(ぼうふうのようにおそってきた。またきたとおもってもそれはもうおそかった。)

暴風のように襲って来た。また来たと思ってもそれはもうおそかった。

(すなのうえにつっぷして、いまにもたえいりそうにみもだえするようこを、)

砂の上に突っ伏して、今にも絶え入りそうに身もだえする葉子を、

(くらちはきこえぬていどにしたうちしながらかいほうせねばならなかった。)

倉地は聞こえぬ程度に舌打ちしながら介抱せねばならなかった。

(そのよるりょかんにかえってからもようこはいつまでもねむらなかった。)

その夜旅館に帰ってからも葉子はいつまでも眠らなかった。

(そこにきてはたらくじょちゅうたちをひとりひとりつっけんどんにきびしくたしなめた。)

そこに来て働く女中たちを一人一人つっけんどんに厳しくたしなめた。

(しまいにはひとりとしてよりつくものがなくなってしまうくらい。)

しまいには一人として寄りつくものがなくなってしまうくらい。

(くらちもはじめのうちはしぶしぶつきあっていたが、ついにはかってにするがいいと)

倉地も始めのうちはしぶしぶつき合っていたが、ついには勝手にするがいいと

(いわんばかりにざしきをかえてひとりでねてしまった。)

いわんばかりに座敷を代えてひとりで寝てしまった。

(はるのよるはただ、こともなくしめやかにふけていった。とおくからきこえてくる)

春の夜はただ、事もなくしめやかにふけて行った。遠くから聞こえて来る

(かわずのなきごえのほかには、にっしょうさまのもりあたりでなくらしいふくろうのこえが)

蛙(かわず)の鳴き声のほかには、日勝様の森あたりで鳴くらしい梟の声が

(するばかりだった。ようことはなんのかんけいもないやちょうでありながら、そのこえには)

するばかりだった。葉子とはなんの関係もない夜鳥でありながら、その声には

(ひとをばかにしきったような、それでいてきくにたえないほどさびしいひびきが)

人をばかにしきったような、それでいて聞くに堪えないほどさびしい響きが

(ひそんでいた。ほう、ほう・・・ほう、ほうほうとまどおにたんちょうにおなじきのえだと)

潜んでいた。ほう、ほう・・・ほう、ほうほうと間遠に単調に同じ木の枝と

(おもわしいところからきこえていた。ひとびとがねしずまってみると、ふんぬのじょうは)

思わしい所から聞こえていた。人々が寝しずまってみると、憤怒の情は

(いつかきえはてて、いいようのないせきばくがそのあとにのこった。)

いつか消え果てて、いいようのない寂寞がそのあとに残った。

(ようこのするこということはひとつひとつようこをくらちからひきはなそうとするばかり)

葉子のする事いう事は一つ一つ葉子を倉地から引き離そうとするばかり

(だった。こんやもくらちがようこからまちのぞんでいたものをようこはあきらかに)

だった。今夜も倉地が葉子から待ち望んでいたものを葉子は明らかに

(しっていた。しかもようこはわけのわからないいかりにまかせてじぶんのおもうままに)

知っていた。しかも葉子はわけのわからない怒りに任せて自分の思うままに

(ふるまったけっか、くらちにはふかいきわまるしつぼうをあたえたにちがいない。)

振る舞った結果、倉地には不快きわまる失望を与えたに違いない。

(こうしたままでひがたつにしたがって、くらちはいやおうなしにさらにあたらしい)

こうしたままで日がたつに従って、倉地は否応なしにさらに新しい

(せいてききょうみのたいしょうをもとめるようになるのはもくぜんのことだ。げんにあいこはその)

性的興味の対象を求めるようになるのは目前の事だ。現に愛子はその

(こうほしゃのひとりとしてくらちのめにはうつりはじめているのではないか。ようこは)

候補者の一人として倉地の目には映り始めているのではないか。葉子は

(くらちとのかんけいをはじめからかんがえたどってみるにつれて、どうしても)

倉地との関係を始めから考えたどってみるにつれて、どうしても

(まちがったほうこうにふかいりしたのをくいないではいられなかった。しかし)

間違った方向に深入りしたのを悔いないではいられなかった。しかし

(くらちをてなずけるためにはあのみちをえらぶよりしかたがなかったようにも)

倉地を手なずけるためにはあの道を選ぶよりしかたがなかったようにも

(おもえる。くらちのせいかくにけってんがあるのだ。そうではない。くらちにあいをもとめていった)

思える。倉地の性格に欠点があるのだ。そうではない。倉地に愛を求めて行った

(じぶんのせいかくにけってんがあるのだ。・・・そこまでりくつらしくりくつを)

自分の性格に欠点があるのだ。・・・そこまで理屈らしく理屈を

(たどってきてみると、ようこはじぶんというものがふみにじってもあきたりないほど)

たどって来てみると、葉子は自分というものが踏みにじっても飽き足りないほど

(いやなものにみえた。)

いやなものに見えた。

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