有島武郎 或る女95

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(くらちのげしゅくちかくなったとき、そのげしゅくからいそぎあしででてくるせたけのひくい)

倉地の下宿近くなった時、その下宿から急ぎ足で出て来る背たけの低い

(まるまげのおんながいた。よるのことではあり、そのへんはがいとうのひかりもくらいので、)

丸髷の女がいた。夜の事ではあり、そのへんは街灯の光も暗いので、

(ようこにはさだかにそれとわからなかったが、どうもそうかくかんのおかみらしくも)

葉子には定かにそれとわからなかったが、どうも双鶴館の女将らしくも

(あった。ようこはかっとなってあしばやにそのあとをつけた。ふたりのあいだは)

あった。葉子はかっとなって足早にそのあとをつけた。二人の間は

(はんちょうとははなれていなかった。だんだんふたりのあいだにきょりがちぢまっていって、)

半町とは離れていなかった。だんだん二人の間に距離がちぢまって行って、

(そのおんなががいとうのしたをとおるときなどにきをつけてみるとどうしてもおもったとおりの)

その女が街灯の下を通る時などに気を付けて見るとどうしても思ったとおりの

(おんならしかった。さてはいままであのおんなをましょうじきにしんじていたじぶんは)

女らしかった。さては今まであの女を真正直に信じていた自分は

(まんまといつわられていたのだったか。くらちのつまにたいしてもぎりがたたない)

まんまと偽られていたのだったか。倉地の妻に対しても義理が立たない

(から、こんやいごようこともくらちのつまともかんけいをたつ。わるくおもわないでくれと)

から、今夜以後葉子とも倉地の妻とも関係を絶つ。悪く思わないでくれと

(たしかにそういった、そのぎきょうらしいくちぐるまにまんまとのせられて、いままで)

確かにそういった、その義侠らしい口車にまんまと乗せられて、今まで

(しゅしょうなおんなだとばかりおもっていたじぶんのおろかさはどうだ。ようこはそうおもうと)

殊勝な女だとばかり思っていた自分の愚かさはどうだ。葉子はそう思うと

(めがまわってそのばにたおれてしまいそうなくやしさおそろしさをかんじた。そして)

目が回ってその場に倒れてしまいそうな悔しさ恐ろしさを感じた。そして

(おんなのかたちをめがけてよろよろとなりながらかけだした。そのときおんなは)

女の形を目がけてよろよろとなりながら駆け出した。その時女は

(そのへんにつじまちをしているくるまにのろうとするところだった。とりにがして)

そのへんに辻待ちをしている車に乗ろうとする所だった。取り逃がして

(なるものかと、ようこはひたはしりにはしろうとした。しかしあしはおもうように)

なるものかと、葉子はひた走りに走ろうとした。しかし足は思うように

(はかどらなかった。さすがにそのしずけさをやぶってこえをたてることも)

はかどらなかった。さすがにその静けさを破って声を立てる事も

(はばかられた。もうじゅっけんというくらいのところまできたときくるまはがらがらと)

はばかられた。もう十間というくらいの所まで来た時車はがらがらと

(おとをたててじゃりみちをうごきはじめた。ようこはいきせききってそれにおいつこうと)

音を立てて砂利道を動きはじめた。葉子は息せき切ってそれに追いつこうと

(あせったが、みるみるそのきょりはとおざかって、ようこはすぎもりでかこまれた)

あせったが、見る見るその距離は遠ざかって、葉子は杉森で囲まれた

(さびしいくらやみのなかにただひとりとりのこされていた。ようこはなんということなく)

さびしい暗闇の中にただ一人取り残されていた。葉子はなんという事なく

など

(そのつじぐるまのいたところまでいってみた。いちだいよりいなかったのでとびのってあとを)

その辻車のいた所まで行って見た。一台よりいなかったので飛び乗ってあとを

(おうべきくるまもなかった。ようこはぼんやりそこにたって、そこにじでも)

追うべき車もなかった。葉子はぼんやりそこに立って、そこに字でも

(かきのこしてあるかのように、くらいじめんをじっとみつめていた。)

書き残してあるかのように、暗い地面をじっと見つめていた。

(たしかにあのおんなにちがいなかった。)

確かにあの女に違いなかった。

(せかっこうといい、まげのかたちといい、こきざみなあるきぶりといい、)

背格好といい、髷の形といい、小刻みな歩きぶりといい、

(・・・あのおんなにちがいなかった。)

・・・あの女に違いなかった。

(りょこうにでるといったくらちはうたがいもなくうそをつかってげしゅくにくすぶっているに)

旅行に出るといった倉地は疑いもなくうそを使って下宿にくすぶっているに

(ちがいない。そしてあのおんなをちゅうにんにたててせんさいとのよりを)

違いない。そしてあの女を仲人(ちゅうにん)に立てて先妻とのよりを

(もどそうとしているにきまっている。)

戻そうとしているに決まっている。

(それになんのふしぎがあろう。)

それに何の不思議があろう。

(ながねんつれそったつまではないか。かわいいさんにんのむすめのははではないか。)

長年連れ添った妻ではないか。かわいい三人の娘の母ではないか。

(ようこというものにいちにちいちにちうとくなろうとするくらちではないか。)

葉子というものに一日一日疎くなろうとする倉地ではないか。

(それになんのふしぎがあろう。)

それに何の不思議があろう。

(・・・それにしてもあまりといえばあまりなしうちだ。なぜそれならそうと)

・・・それにしてもあまりといえばあまりな仕打ちだ。なぜそれならそうと

(あきらかにいってはくれないのだ。いってさえくれればじぶんにだって)

明らかにいってはくれないのだ。いってさえくれれば自分にだって

(こいするおとこにたいしてのおんならしいかくごはある。わかれろとならばきれいさっぱり)

恋する男に対しての女らしい覚悟はある。別れろとならばきれいさっぱり

(わかれてもみせる。)

別れても見せる。

(・・・なんというふみつけかただ。なんというはじさらしだ。)

・・・なんという踏みつけかただ。なんという恥さらしだ。

(くらちのつまはおおそれたていじょぶったかおをふるわして、なみだをながしながら、)

倉地の妻はおおそれた貞女ぶった顔を震わして、涙を流しながら、

(「それではおようさんというかたにおきのどくだから、わたしはもうないものと)

「それではお葉さんという方にお気の毒だから、わたしはもう亡いものと

(おもってくださいまし・・・」)

思ってくださいまし・・・」

(・・・みていられぬ、きいていられぬ。)

・・・見ていられぬ、聞いていられぬ。

(・・・ようこというおんなはどんなおんなだか、こんやこそはくらちにしっかり)

・・・葉子という女はどんな女だか、今夜こそは倉地にしっかり

(おもいしらせてやる・・・。)

思い知らせてやる・・・。

(ようこはよったもののようにふらふらしたあしどりでそこからひきかえした。)

葉子は酔ったもののようにふらふらした足どりでそこから引き返した。

(そしてげしゅくやにきついたときには、いきぐるしさのためにこえもでないくらいに)

そして下宿屋に来着いた時には、息苦しさのために声も出ないくらいに

(なっていた。げしゅくのおんなたちはようこをみると「またあのきちがいが)

なっていた。下宿の女たちは葉子を見ると「またあの気狂(きちが)いが

(きた」といわんばかりのかおをして、そのよるのようこのことさらにとりつめた)

来た」といわんばかりの顔をして、その夜の葉子のことさらに取りつめた

(かおいろにはちゅういをはらうひまもなく、そのばをはずしてすがたをかくした。ようこは)

顔色には注意を払う暇もなく、その場をはずして姿を隠した。葉子は

(そんなことにはきもかけずにものすごいえがおでことさららしくちょうばにいるおとこに)

そんな事には気もかけずに物すごい笑顔でことさららしく帳場にいる男に

(ちょっとあたまをさげてみせて、そのままふらふらとはしごだんをのぼっていった。)

ちょっと頭を下げて見せて、そのままふらふらと階子段をのぼって行った。

(ここがくらちのへやだというそのふすまのまえにたったときには、ようこは)

ここが倉地の部屋だというその襖の前に立った時には、葉子は

(なきごえにきがついておどろいたほど、われしらずすすりあげてないていた。)

泣き声に気が付いて驚いたほど、われ知らずすすり上げて泣いていた。

(みのはめつ、こいのはめつはこんやのいま、そうおもってあらあらしくふすまをひらいた。)

身の破滅、恋の破滅は今夜の今、そう思って荒々しく襖を開いた。

(へやのなかにはあんがいにもくらちはいなかった。)

部屋の中には案外にも倉地はいなかった。

(すみからすみまでかたづいていて、くらちのあのきょうれつなはだのにおいも)

すみからすみまで片づいていて、倉地のあの強烈な膚のにおいも

(さらにのこってはいなかった。ようこはおもわずふらふらとよろけて、)

さらに残ってはいなかった。葉子は思わずふらふらとよろけて、

(なきやんで、へやのなかにたおれこみながらあたりをみまわした。)

泣きやんで、部屋の中に倒れこみながらあたりを見回した。

(いるにちがいないとひとりぎめをしたじぶんのもうそうがやぶれたというきは)

いるに違いないとひとり決めをした自分の妄想が破れたという気は

(すこしもおこらないで、たしかにいたものがとつぜんとけてしまうかどうかしたような)

少しも起こらないで、確かにいたものが突然溶けてしまうかどうかしたような

(きみのわるいふしぎさにおそわれた。ようこはすっかりきぬけがして、)

気味の悪い不思議さに襲われた。葉子はすっかり気抜けがして、

(かみもえもんもとりみだしたままよこずわりにすわったきりでぼんやりしていた。)

髪も衣紋も取り乱したまま横ずわりにすわったきりでぼんやりしていた。

(あたりはみやまのようにしーんとしていた。ただようこのめのまえを)

あたりは深山のようにしーんとしていた。ただ葉子の目の前を

(うるさくいったりきたりするくろいかげのようなものがあった。ようこは)

うるさく行ったり来たりする黒い影のようなものがあった。葉子は

(なにものというふんべつもなくはじめはただうるさいとのみおもっていたが、しまいには)

何者という分別もなく始めはただうるさいとのみ思っていたが、しまいには

(こらえかねててをあげてしきりにそれをおいはらってみた。)

こらえかねて手をあげてしきりにそれを追い払ってみた。

(おいはらってもおいはらってもそのうるさいくろいかげはめのまえをたちさろうとは)

追い払っても追い払ってもそのうるさい黒い影は目の前を立ち去ろうとは

(しなかった。・・・しばらくそうしているうちにようこはさむけがするほど)

しなかった。・・・しばらくそうしているうちに葉子は寒気がするほど

(ぞっとおそろしくなってきがはっきりした。)

ぞっとおそろしくなって気がはっきりした。

(きゅうにあたりにはさわがしいげしゅくやらしいざつおんがきこえだした。ようこを)

急にあたりには騒がしい下宿屋らしい雑音が聞こえ出した。葉子を

(うるさがらしたそのくろいかげはみるみるちいさくとおざかって、でんとうのしゅういを)

うるさがらしたその黒い影は見る見る小さく遠ざかって、電燈の周囲を

(きりきりとまいはじめた。よくみるとそれはおおきなくろいよがだった。)

きりきりと舞い始めた。よく見るとそれは大きな黒い夜蛾だった。

(ようこはかみがかりがはなれたようにきょとんとなって、ふしぎそうに)

葉子は神がかりが離れたようにきょとんとなって、不思議そうに

(いずまいをただしてみた。)

居ずまいを正してみた。

(どこまでがしんじつで、どこまでがゆめなんだろう・・・。)

どこまでが真実で、どこまでが夢なんだろう・・・。

(じぶんのいえをでた、それにまちがいはない。とちゅうからとってかえしてふろを)

自分の家を出た、それに間違いはない。途中から取って返して風呂を

(つかった、・・・なんのために?そんなばかなことをするはずがない。)

つかった、・・・なんのために? そんなばかな事をするはずがない。

(でもいもうとたちのてぬぐいがふたすじぬれててぬぐいかけのたけざおにかかっていた、)

でも妹たちの手ぬぐいが二筋ぬれて手ぬぐい掛けの竹竿にかかっていた、

((ようこはそうおもいながらじぶんのかおをなでたり、てのこうをしらべてみたりした。)

(葉子はそう思いながら自分の顔をなでたり、手の甲を調べて見たりした。

(そしてたしかにゆにはいったことをしった。)それならそれでいい。それから)

そして確かに湯にはいった事を知った。)それならそれでいい。それから

(そうかくかんのおかみのあとをつけたのだったが、・・・あのへんからゆめに)

双鶴館の女将のあとをつけたのだったが、・・・あのへんから夢に

(なったのかしらん。あすこにいるがをもやもやしたくろいかげのように)

なったのかしらん。あすこにいる蛾をもやもやした黒い影のように

(おもったりしていたことからかんがえてみると、いまいましさからじぶんはおもわず)

思ったりしていた事から考えてみると、いまいましさから自分は思わず

(せたけのひくいおんなのげんえいをみていたのかもしれない。それにしても)

背たけの低い女の幻影を見ていたのかもしれない。それにしても

(いるはずのくらちがいないというほうはないが・・・)

いるはずの倉地がいないという法はないが・・・

(ようこはどうしてもじぶんのしてきたことにはっきりれんらくをつけてかんがえることが)

葉子はどうしても自分のして来た事にはっきり連絡をつけて考える事が

(できなかった。)

できなかった。

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