有島武郎 或る女96

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問題文

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(ようこは・・・じぶんのあたまではどうかんがえてみようもなくなって、べるをおして)

葉子は・・・自分の頭ではどう考えてみようもなくなって、ベルを押して

(ばんとうにきてもらった。)

番頭に来てもらった。

(「あのう、あとでこのがをおいだしておいてくださいな・・・それからね、)

「あのう、あとでこの蛾を追い出しておいてくださいな・・・それからね、

(さっき・・・といったところがどれほどまえだかわたしにもはっきり)

さっき・・・といったところがどれほど前だかわたしにもはっきり

(しませんがね、ここにさんじゅうかっこうのまるまげをゆったおんなのひとがみえましたか」)

しませんがね、ここに三十格好の丸髷を結った女の人が見えましたか」

(「こちらさまにはどなたもおみえにはなりませんが・・・」)

「こちら様にはどなたもお見えにはなりませんが・・・」

(ばんとうはけげんなかおをしてこうこたえた。「こちらさまだろうがなんだろうが、)

番頭は怪訝な顔をしてこう答えた。「こちら様だろうがなんだろうが、

(そんなことをきくんじゃないの。このげしゅくやからそんなおんなのひとがでて)

そんな事を聞くんじゃないの。この下宿屋からそんな女の人が出て

(いきましたか」「さよう・・・へ、いちじかんばかりまえならおひとりおかえりに)

行きましたか」「さよう・・・へ、一時間ばかり前ならお一人お帰りに

(なりました」「そうかくかんのおかみさんでしょう」)

なりました」「双鶴館のお内儀(かみ)さんでしょう」

(ずぼしをさされたろうといわんばかりにようこはわざとおうようなたいどをみせて)

図星をさされたろうといわんばかりに葉子はわざと鷹揚な態度を見せて

(こうきいてみた。「いいえそうじゃございません」ばんとうはあんがいにもそう)

こう聞いてみた。「いいえそうじゃございません」番頭は案外にもそう

(きっぱりといいきってしまった。「それじゃだれ」「とにかくほかのおへやに)

きっぱりといい切ってしまった。「それじゃだれ」「とにかく他のお部屋に

(おいでなさったおきゃくさまで、てまえどものしょうばいじょうおなまえまではもうしあげかねますが」)

おいでなさったお客様で、手前どもの商売上お名前までは申し上げ兼ねますが」

(ようこもこのうえのもんどうのむえきなのをしってそのままばんとうをかえしてしまった。)

葉子もこの上の問答の無益なのを知ってそのまま番頭を返してしまった。

(ようこはもうなにものもしんようすることができなかった。ほんとうにそうかくかんのおかみが)

葉子はもう何者も信用する事ができなかった。ほんとうに双鶴館の女将が

(きたのではないらしくもあり、ばんとうまでがくらちとぐるになっていて)

来たのではないらしくもあり、番頭までが倉地とぐるになっていて

(しらじらしいうそをついたようにもあった。)

白々しい虚言(うそ)をついたようにもあった。

(なにごともあてにはならない。なにごともうそからでたまことだ。)

何事も当てにはならない。何事もうそから出た誠だ。

(・・・ようこはほんとうにいきていることがいやになった。)

・・・葉子はほんとうに生きている事がいやになった。

など

(・・・そこまできてようこははじめてじぶんがいえをでてきたほんとうのもくてきが)

・・・そこまで来て葉子は始めて自分が家を出て来たほんとうの目的が

(なんであるかにきづいた。すべてにつまずいて、すべてにみかぎられて、)

なんであるかに気づいた。すべてにつまずいて、すべてに見限られて、

(すべてをみかぎろうとする、くるしみぬいたひとつのたましいが、きょむのせかいの)

すべてを見限ろうとする、苦しみぬいた一つの魂が、虚無の世界の

(まぼろしのなかからきえていくのだ。そこにはなんのみれんもしゅうちゃくもない。)

幻の中から消えて行くのだ。そこには何の未練も執着もない。

(うれしかったことも、かなしかったことも、かなしんだことも、くるしんだことも、)

うれしかった事も、悲しかった事も、悲しんだ事も、苦しんだ事も、

(ひっきょうはみずのうえにういたあわがまたはじけてみずにかえるようなものだ。)

畢竟は水の上に浮いた泡がまたはじけて水に帰るようなものだ。

(くらちが、しがいになったようこをみてなげこうがなげくまいが、そのくらちさえ)

倉地が、死骸になった葉子を見て嘆こうが嘆くまいが、その倉地さえ

(まぼろしのかげではないか。そうかくかんのおかみだとおもったひとが、たにんであったように、)

幻の影ではないか。双鶴館の女将だと思った人が、他人であったように、

(たにんだとおもったそのひとが、あんがいそうかくかんのおかみであるかもしれないように、)

他人だと思ったその人が、案外双鶴館の女将であるかもしれないように、

(いきるということがそれじしんげんえいでなくってなんであろう。)

生きるという事がそれ自身幻影でなくってなんであろう。

(ようこはさめきったような、ねむりほけているようないしきのなかでこうおもった。)

葉子は覚めきったような、眠りほけているような意識の中でこう思った。

(しんしんとそこもしらずすみとおったこころがただひとつぎりぎりとしのほうに)

しんしんと底も知らず澄み透った心がただ一つぎりぎりと死のほうに

(はたらいていった。ようこのめにはひとしずくのなみだもやどってはいなかった。)

働いて行った。葉子の目には一しずくの涙も宿ってはいなかった。

(みょうにさえておちつきはらったひとみをしずかにはたらかして、へやのなかをしずかに)

妙に冴えて落ち着き払ったひとみを静かに働かして、部屋の中を静かに

(みまわしていたが、やがてむゆうびょうしゃのようにたちあがって、とだなのなかから)

見回していたが、やがて夢遊病者のように立ち上がって、戸棚の中から

(くらちのしんぐをひきだしてきて、それをへやのまんなかにしいた。そうして)

倉地の寝具を引き出して来て、それを部屋のまん中に敷いた。そうして

(しばらくのあいだそのうえにしずかにすわってめをつぶってみた。それからまた)

しばらくの間その上に静かにすわって目をつぶってみた。それからまた

(たちあがってまったくむかんじょうなかおつきをしながら、もういちどとだなにいって、)

立ち上がって全く無感情な顔つきをしながら、もう一度戸棚に行って、

(くらちがしじゅうみぢかにそなえているぴすとるをあちこちとたずねもとめた。しまいに)

倉地が始終身近に備えているピストルをあちこちと尋ね求めた。しまいに

(それがほんばこのひきだしのなかのいくつうかのてがみと、かきそこねのしょるいと、)

それが本箱の引き出しの中の幾通かの手紙と、書きそこねの書類と、

(しごまいのしゃしんとがごっちゃにしまいこんであるそのなかからあらわれでた。)

四五枚の写真とがごっちゃにしまい込んであるその中から現われ出た。

(ようこはみょうにむかんしんなこころもちでそれをてにとった。そしておそろしいものを)

葉子は妙に無関心な心持ちでそれを手に取った。そして恐ろしいものを

(とりあつかうようにそれをからだからはなしてみぎてにぶらさげてねどこにかえった。)

取り扱うようにそれをからだから離して右手にぶら下げて寝床に帰った。

(そのくせようこはつゆほどもそのきょうきにおそれをいだいているわけでは)

そのくせ葉子は露ほどもその凶器におそれをいだいているわけでは

(なかった。ねどこのまんなかにすわってからぴすとるをひざのうえにおいててを)

なかった。寝床のまん中にすわってからピストルを膝の上に置いて手を

(かけたまましばらくながめていたが、やがてそれをとりあげるとむねのところに)

かけたまましばらくながめていたが、やがてそれを取り上げると胸の所に

(もってきてけいとうをひきあげた。)

持って来て鶏頭を引き上げた。

(きりっとはぎれのいいおとをたててだんとうがすこしかいてんした。)

きりっと歯切れのいい音を立てて弾筒が少し回転した。

(どうじにようこのぜんしんはでんきをかんじたようにびりっとおののいた。)

同時に葉子の全身は電気を感じたようにびりっとおののいた。

(しかしようこのこころはみずがすんだようにゆるがなかった。)

しかし葉子の心は水が澄んだように揺るがなかった。

(ようこはそうしたままたんじゅうをまたひざのうえにおいてじっとながめていた。)

葉子はそうしたまま短銃をまた膝の上に置いてじっとながめていた。

(ふとようこはただひとつのこしたことのあるのにきがついた。それがなんであるかを)

ふと葉子はただ一つ残した事のあるのに気が付いた。それがなんであるかを

(じぶんでもはっきりとはしらずに、いわばなにものかのよぎのないめいれいに)

自分でもはっきりとは知らずに、いわば何者かの余儀のない命令に

(ふくじゅうするように、またねどこからたちあがってとだなのなかのほんばこのまえにいって)

服従するように、また寝床から立ち上がって戸棚の中の本箱の前に行って

(ひきだしをあけた。そしてそこにあったしゃしんをていねいにいちまいずつとりあげて)

引き出しをあけた。そしてそこにあった写真を丁寧に一枚ずつ取り上げて

(しずかにながめるのだった。ようこはこころひそかになにをしているんだろうと)

静かにながめるのだった。葉子は心ひそかに何をしているんだろうと

(じぶんのしうちをあやしんでいた。)

自分の動作(しうち)を怪しんでいた。

(ようこはやがてひとりのおんなのしゃしんをみつめているじぶんをみいだした。)

葉子はやがて一人の女の写真を見つめている自分を見いだした。

(ながくながくみつめていた。)

長く長く見つめていた。

(・・・そのうちに、はくちがどうかしてだんだんまにんげんにかえるときは)

・・・そのうちに、ハク痴がどうかしてだんだん真人間にかえる時は

(そうもあろうかとおもわれるように、ようこのこころはしずかにしずかにじぶんで)

そうもあろうかと思われるように、葉子の心は静かに静かに自分で

(はたらくようになっていった。)

働くようになって行った。

(おんなのしゃしんをみてどうするのだろうとおもった。)

女の写真を見てどうするのだろうと思った。

(はやくしななければいけないのだがとおもった。)

早く死ななければいけないのだがと思った。

(いったいそのおんなはだれだろうとおもった。)

いったいその女はだれだろうと思った。

(・・・それはくらちのつまのしゃしんだった。)

・・・それは倉地の妻の写真だった。

(そうだくらちのつまのわかいときのしゃしんだ。なるほどうつくしいおんなだ。くらちはいまでも)

そうだ倉地の妻の若い時の写真だ。なるほど美しい女だ。倉地は今でも

(このおんなにみれんをもっているのだろうか。このつまにはさんにんのかわいいむすめが)

この女に未練を持っているのだろうか。この妻には三人のかわいい娘が

(あるのだ。「いまでもおもいだす」そうくらちのいったことがある。こんなしゃしんが)

あるのだ。「今でも思い出す」そう倉地のいった事がある。こんな写真が

(いったいこのへやなんぞにあってはならないのだが。)

いったいこの部屋なんぞにあってはならないのだが。

(それはほんとうにならないのだ。)

それはほんとうにならないのだ。

(くらちはまだこんなものをだいじにしている。)

倉地はまだこんなものを大事にしている。

(このおんなはいつまでもくらちにかえってこようとまちかまえているのだ。)

この女はいつまでも倉地に帰って来ようと待ち構えているのだ。

(そしてまだこのおんなはいきているのだ。)

そしてまだこの女は生きているのだ。

(それがまぼろしなものか。)

それが幻なものか。

(いきているのだ、いきているのだ。)

生きているのだ、生きているのだ。

(・・・しなれるか、それでしなれるか。)

・・・死なれるか、それで死なれるか。

(なにがまぼろしだ、なにがきょむだ。このとおりこのおんなはいきているではないか・・・)

何が幻だ、何が虚無だ。このとおりこの女は生きているではないか・・・

(あやうく・・・あやうくじぶんはくらちをあんどさせるところだった。そしてこのおんなを)

危うく・・・危うく自分は倉地を安堵させる所だった。そしてこの女を

(・・・このまだしょうのあるこのおんなをよろこばせるところだった。)

・・・このまだ生(しょう)のあるこの女を喜ばせる所だった。

(ようこはいっせつなのちがいでしのさかいからすくいだされたひとのように、)

葉子は一刹那の違いで死の界(さかい)から救い出された人のように、

(きょうきにちかいひょうじょうをかおいちめんにみなぎらしてさけるほどめをみはって、)

驚喜に近い表情を顔いちめんにみなぎらして裂けるほど目を見張って、

(しゃしんをもったままとびあがらんばかりにつったったが、きゅうにおそいかかる)

写真を持ったまま飛び上がらんばかりに突っ立ったが、急に襲いかかる

(やるせないしっとのじょうとふんぬとにおそろしいぎょうそうになって、はがみをしながら、)

やるせない嫉妬の情と憤怒とに恐ろしい形相になって、歯がみをしながら、

(しゃしんのいったんをくわえて、「いい・・・」といいながら、そうしんのちからをこめて)

写真の一端をくわえて、「いい・・・」といいながら、総身の力をこめて

(まっぷたつにさくと、いきなりねどこのうえにどうとたおれて、ものすごいさけびごえを)

まっ二つに裂くと、いきなり寝床の上にどうと倒れて、物すごい叫び声を

(たてながら、なみだもながさずにさけびにさけんだ。)

立てながら、涙も流さずに叫びに叫んだ。

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