有島武郎 或る女97
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問題文
(みせのものがあわててへやにはいってきたときには、ようこはしおらしいようすをして、)
店のものがあわてて部屋にはいって来た時には、葉子はしおらしい様子をして、
(たんじゅうをとこのしたにかくしてしまって、しくしくとほんとうにないていた。)
短銃を床の下に隠してしまって、しくしくとほんとうに泣いていた。
(ばんとうはやむをえず、てれかくしに、「ゆめでもごらんになりましたか、たいそうな)
番頭はやむを得ず、照れ隠しに、「夢でも御覧になりましたか、たいそうな
(おこえだったものですから、ついごあんないもいたさずとびこんでしまいまして」)
お声だったものですから、つい御案内もいたさず飛び込んでしまいまして」
(といった。ようこは、「ええゆめをみました。あのくろいががわるいんです。)
といった。葉子は、「ええ夢を見ました。あの黒い蛾が悪いんです。
(はやくおいだしてください」そんなわけのわからないことをいって、ようやく)
早く追い出してください」そんなわけのわからない事をいって、ようやく
(なみだをおしぬぐった。)
涙を押しぬぐった。
(こういうほっさをくりかえすたびごとに、ようこのかおはくらくばかりなっていった。)
こういう発作を繰り返すたびごとに、葉子の顔は暗くばかりなって行った。
(ようこには、いままでじぶんがかんがえていたせいかつのほかに、もうひとつふかしぎなせかいが)
葉子には、今まで自分が考えていた生活のほかに、もう一つ不可思議な世界が
(あるようにおもわれてきた。そうしてややともすればそのりょうほうのせかいに)
あるように思われて来た。そうしてややともすればその両方の世界に
(でたりはいったりするじぶんをみいだすのだった。ふたりのいもうとたちはただ)
出たり入ったりする自分を見いだすのだった。二人の妹たちはただ
(はらはらしてあねのきょうぼうなふるまいをみまもるほかはなかった。くらちはあいこに)
はらはらして姉の狂暴な振る舞いを見守るほかはなかった。倉地は愛子に
(はものなどにちゅういしろといったりした。)
刃物などに注意しろといったりした。
(おかのきたときだけは、ようこのきげんはしずむようなことはあっても)
岡の来た時だけは、葉子のきげんは沈むような事はあっても
(きょうぼうになることはたえてなかったので、おかはいもうとたちのことばにさして)
狂暴になる事は絶えてなかったので、岡は妹たちの言葉にさして
(おもきをおいていないようにみえた。)
重きを置いていないように見えた。
(よんじゅうろくがつのあるゆうがただった。もうたそがれどきで、でんとうがともって、)
【四〇】 六月のある夕方だった。もうたそがれ時で、電灯がともって、
(そのしゅういにおびただしくすぎもりのなかからちいさなはむしがあつまってうるさくとびまわり、)
その周囲におびただしく杉森の中から小さな羽虫が集まってうるさく飛び回り、
(やぶかがすさまじくなきたててのきさきにかばしらをたてているころだった。)
やぶ蚊がすさまじく鳴きたてて軒先に蚊柱を立てているころだった。
(しばらくめできたくらちが、はりだしのようこのへやでさけをのんでいた。ようこは)
しばらく目で来た倉地が、張り出しの葉子の部屋で酒を飲んでいた。葉子は
(やせほそったかたをひとえもののしたにとがらして、しんけいてきにえりをぐっと)
やせ細った肩を単衣物(ひとえもの)の下にとがらして、神経的に襟をぐっと
(かきあわせて、きちんとぜんのそばにすわって、きゃしゃなうちわでさけのかに)
かき合わせて、きちんと膳のそばにすわって、華奢な団扇で酒の香(か)に
(よりたかってくるかをおいはらっていた。ふたりのあいだにはもうもとのように)
寄りたかって来る蚊を追い払っていた。二人の間にはもう元のように
(こんこんといずみのごとくわきでるわだいはなかった。たまにはなしがすこしはずんだとおもうと、)
滾々と泉のごとくわき出る話題はなかった。たまに話が少しはずんだと思うと、
(どちらかにさしさわるようなことばがとびだして、ぷつんとかいわを)
どちらかに差し障るような言葉が飛び出して、ぷつんと会話を
(とだやしてしまった。)
杜絶(とだ)やしてしまった。
(「さあちゃんやっぱりだだをこねるか」ひとくちさけをのんで、)
「貞(さあ)ちゃんやっぱり駄々をこねるか」一口酒を飲んで、
(ためいきをつくようににわのほうにむいてきをはいたくらちは、じぶんできぶんを)
ため息をつくように庭のほうに向いて気を吐いた倉地は、自分で気分を
(ひきたてながらおもいだしたようにようこのほうをむいてこうたずねた。)
引き立てながら思い出したように葉子のほうを向いてこう尋ねた。
(「ええ、しようがなくなっちまいました。このしごにちったら)
「ええ、しようがなくなっちまいました。この四五日ったら
(ことさらひどいんですから」「そうしたじきもあるんだろう。まあ)
ことさらひどいんですから」「そうした時期もあるんだろう。まあ
(たんといびらないでおくがいいよ」「わたしときどきほんとうにしにたく)
たんといびらないで置くがいいよ」「わたし時々ほんとうに死にたく
(なっちまいます」ようこはとてつもなくさだよのうわさとはえんもゆかりもない)
なっちまいます」葉子は途轍もなく貞世のうわさとは縁もゆかりもない
(こんなひょんなことをいった。「そうだおれもそうおもうことがあるて・・・。)
こんなひょんな事をいった。「そうだおれもそう思う事があるて・・・。
(おちめになったらさいご、にんげんはうきあがるがめんどうになる。)
落ち目になったら最後、人間は浮き上がるがめんどうになる。
(ふねでもがしんすいしはじめたららちはあかんからな。・・・したが、おれはまだ)
船でもが浸水し始めたら埒はあかんからな。・・・したが、おれはまだ
(もうひとそりそってみてくれる。しんだきになって、やれんことはひとつも)
もう一反り反ってみてくれる。死んだ気になって、やれん事は一つも
(ないからな」「ほんとうですわ」そういったようこのめはいらいらとかがやいて、)
ないからな」「ほんとうですわ」そういった葉子の目はいらいらと輝いて、
(にらむようにくらちをみた。)
にらむように倉地を見た。
(「まさいのやつがくるそうじゃないか」くらちはまたわだいをてんずるように)
「正井のやつが来るそうじゃないか」倉地はまた話題を転ずるように
(こういった。ようこがそうだとさえいえば、くらちはわりあいにへいきでうけて)
こういった。葉子がそうだとさえいえば、倉地は割合に平気で受けて
(「こまったやつにみこまれたものだが、みこまれたいじょうはしかたがないから、)
「困ったやつに見込まれたものだが、見込まれた以上はしかたがないから、
(ひもじがらないだけのしむけをしてやるがいい」というにちがいない)
空腹(ひもじ)がらないだけの仕向けをしてやるがいい」というに違いない
(ことは、ようこにはよくわかってはいたけれども、いままでひみつにしていたことを)
事は、葉子にはよくわかってはいたけれども、今まで秘密にしていた事を
(なんとかいわれやしないかとのきづかいのためか、それともくらちがひみつを)
何とかいわれやしないかとの気づかいのためか、それとも倉地が秘密を
(もつのならこっちもひみつをもってみせるぞというはらになりたいためか、)
持つのならこっちも秘密を持って見せるぞという腹になりたいためか、
(じぶんにもはっきりとはわからないしょうどうにかられて、なんということなしに、)
自分にもはっきりとはわからない衝動に駆られて、何という事なしに、
(「いいえ」とこたえてしまった。)
「いいえ」と答えてしまった。
(「こない?・・・そりゃおまえいいかげんじゃろう」とくらちはたしなめるような)
「来ない?・・・そりゃお前いいかげんじゃろう」と倉地はたしなめるような
(ちょうしになった。「いいえ」ようこはがんこにいいはってそっぽをむいてしまった。)
調子になった。「いいえ」葉子は頑固にいい張ってそっぽを向いてしまった。
(「おいそのうちわをかしてくれ、あおがずにいてはかでたまらん・・・)
「おいその団扇を貸してくれ、あおがずにいては蚊でたまらん・・・
(こないことがあるものか」「だれからそんなばかなことおききになって?」)
来ない事があるものか」「だれからそんなばかな事お聞きになって?」
(「だれからでもいいわさ」ようこはくらちがまたはにきぬきせたもののいいかたを)
「だれからでもいいわさ」葉子は倉地がまた歯に衣着せた物の言い方を
(するとおもうとかっとはらがたってへんじもしなかった。「ようちゃん。)
すると思うとかっと腹が立って返事もしなかった。「葉ちゃん。
(おれはおんなのきげんをとるためにうまれてきはせんぞ。いいかげんをいって)
おれは女のきげんを取るために生まれて来はせんぞ。いいかげんをいって
(あまくみくびるとよくはないぜ」ようこはそれでもへんじをしなかった。)
甘く見くびるとよくはないぜ」葉子はそれでも返事をしなかった。
(くらちはようこのすねかたにふかいをもよおしたらしかった。「おいようこ!)
倉地は葉子の拗ね方に不快を催したらしかった。「おい葉子!
(まさいはくるのかこんのか」まさいのくるこないはだいじではないが、)
正井は来るのか来んのか」正井の来る来ないは大事ではないが、
(ようこのきょげんをていせいさせずにはおかないというように、くらちはつめよせて)
葉子の虚言を訂正させずには置かないというように、倉地は詰め寄せて
(きびしくといせまった。ようこはにわのほうにやっていためをかえして)
きびしく問い迫った。葉子は庭のほうにやっていた目を返して
(ふしぎそうにくらちをみた。「いいえといったらいいえとよりいいようは)
不思議そうに倉地を見た。「いいえといったらいいえとよりいいようは
(ありませんわ。あなたの「いいえ」とわたしの「いいえ」は)
ありませんわ。あなたの『いいえ』とわたしの『いいえ』は
(「いいえ」がちがいでもしますかしら」「さけもなにものめるか・・・)
『いいえ』が違いでもしますかしら」「酒も何も飲めるか・・・
(おれがひまをむりにつくってゆっくりくつろごうとおもうてくれば、)
おれが暇を無理に作ってゆっくりくつろごうと思うて来れば、
(いらんことにかどをたてて・・・なんのくすりになるかいそれが」)
いらん事に角を立てて・・・何の薬になるかいそれが」
(ようこはもうむねいっぱいかなしくなっていた。ほんとうはくらちのまえに)
葉子はもう胸いっぱい悲しくなっていた。ほんとうは倉地の前に
(つっぷして、じぶんはびょうきでしじゅうからだがじゆうにならないのがくらちに)
突っ伏して、自分は病気で始終からだが自由にならないのが倉地に
(きのどくだ。けれどもどうかすてないであいしつづけてくれ。からだがだめに)
気の毒だ。けれどもどうか捨てないで愛し続けてくれ。からだがだめに
(なってもこころのつづくかぎりはじぶんはくらちのじょうじんでいたい。そうよりできない。)
なっても心の続く限りは自分は倉地の情人でいたい。そうよりできない。
(そこをあわれんでせめてはこころのまことをささげさしてくれ。もしくらちが)
そこをあわれんでせめては心の誠をささげさしてくれ。もし倉地が
(あからさまにいってくれさえすれば、もとのさいくんをよびむかえてくれてもかまわない。)
明々地にいってくれさえすれば、元の細君を呼び迎えてくれても構わない。
(そしてせめてはじぶんをあわれんでなりあいしてくれ。そうたんがんしたかったのだ。)
そしてせめては自分をあわれんでなり愛してくれ。そう嘆願したかったのだ。
(くらちはそれにかんげきしてくれるかもしれない。おれはおまえもあいするが)
倉地はそれに感激してくれるかもしれない。おれはお前も愛するが
(さったつまもすてるにはしのびない。よくいってくれた。それならおまえの)
去った妻も捨てるには忍びない。よくいってくれた。それならお前の
(ことばにあまえてあわれなつまをよびむかえよう。つまもさぞおまえのおうごんのようなこころには)
言葉に甘えて哀れな妻を呼び迎えよう。妻もさぞお前の黄金のような心には
(かんずるだろう。おれはつまとはかていをもとう。しかしおまえとはこいをもとう。)
感ずるだろう。おれは妻とは家庭を持とう。しかしお前とは恋を持とう。
(そういってなみだぐんでくれるかもしれない。もしそんなばめんがおこりえたら)
そういって涙ぐんでくれるかもしれない。もしそんな場面が起こり得たら
(ようこはどれほどうれしいだろう。ようこはそのしゅんかんに、うまれかわって、)
葉子はどれほどうれしいだろう。葉子はその瞬間に、生まれ変わって、
(ただしいせいかつがひらけてくるのにとおもった。それをかんがえただけでむねのなかからは)
正しい生活が開けてくるのにと思った。それを考えただけで胸の中からは
(うつくしいなみだがにじみだすのだった。けれども、そんなばかをいうものではない、)
美しい涙がにじみ出すのだった。けれども、そんなばかをいうものではない、
(おれのあいしているのはおまえひとりだ。もとのつまなどにおれがみれんをもっていると)
おれの愛しているのはお前一人だ。元の妻などにおれが未練を持っていると
(おもうのがまちがいだ。びょうきがあるのならさっそくびょういんにはいるがいい、ひようは)
思うのが間違いだ。病気があるのならさっそく病院にはいるがいい、費用は
(いくらでもだしてやるから。こうくらちがいわないともかぎらない。それは)
いくらでも出してやるから。こう倉地がいわないとも限らない。それは
(ありそうなことだ。そのときようこはじぶんのこころをたちわってまことをみせたことばが、)
ありそうな事だ。その時葉子は自分の心を立ち割って誠を見せた言葉が、
(なさけもようしゃもおもいやりもなく、ふみにじられけがされてしまうのを)
情けも容赦も思いやりもなく、踏みにじられけがされてしまうのを
(みなければならないのだ。それはじごくのかしゃくよりもようこにはたえがたいことだ。)
見なければならないのだ。それは地獄の呵責よりも葉子には堪えがたい事だ。
(たといくらちがまえのたいどにでてくれるかのうせいがきゅうじゅうくあって、あとのたいどを)
たとい倉地が前の態度に出てくれる可能性が九十九あって、あとの態度を
(とりそうなかのうせいがひとつしかないとしても、ようこにはおもいきってたんがんを)
採りそうな可能性が一つしかないとしても、葉子には思いきって嘆願を
(してみるゆうきがでないのだ。)
してみる勇気が出ないのだ。