有島武郎 或る女102

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問題文

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(ことうはおもいいったふうで、あぶらでよごれたてをいくどもまっくろにひにやけた)

古藤は思い入ったふうで、油でよごれた手を幾度もまっ黒に日に焼けた

(めがしらのところにもっていった。かがぶんぶんとせめかけてくるのも)

目がしらの所に持って行った。蚊がぶんぶんと攻めかけて来るのも

(わすれたようだった。ようこはことうのことばをもうそれいじょうはきいていられなかった。)

忘れたようだった。葉子は古藤の言葉をもうそれ以上は聞いていられなかった。

(せっかくそっとしておいたこころのよどみがかきまわされて、みまいとしていた)

せっかくそっとして置いた心のよどみがかき回されて、見まいとしていた

(きたないものがぬらぬらとめのまえにうきでてくるようでもあった。)

きたないものがぬらぬらと目の前に浮き出て来るようでもあった。

(ぬりつぶしぬりつぶししていたこころのかべにひびがはいって、そこからおもても)

塗りつぶし塗りつぶししていた心の壁にひびが入って、そこから面(おもて)も

(むけられないしろいひかりがちらとさすようにもおもった。)

向けられない白い光がちらとさすようにも思った。

(もうしかしそれはすべてあまりおそい。)

もうしかしそれはすべてあまりおそい。

(ようこはそんなものをむししてかかるほかにみちがないとおもった。ごまかしては)

葉子はそんな物を無視してかかるほかに道がないと思った。ごまかしては

(いけないとことうのいったことばはそのしゅんかんにもすぐようこにきびしくこたえた)

いけないと古藤のいった言葉はその瞬間にもすぐ葉子にきびしく答えた

(けれども、ようこはおしきってそんなことばをかなぐりすてないでは)

けれども、葉子は押し切ってそんな言葉をかなぐり捨てないでは

(いられないとじぶんからあきらめた。)

いられないと自分からあきらめた。

(「よくわかりました。あなたのおっしゃることはいつでもわたしには)

「よくわかりました。あなたのおっしゃる事はいつでもわたしには

(よくわかりますわ。そのうちわたしきっときむらのほうにてがみをだすから)

よくわかりますわ。そのうちわたしきっと木村のほうに手紙を出すから

(あんしんしてくださいまし。このごろはあなたのほうがきむらいじょうにしんけいしつに)

安心してくださいまし。このごろはあなたのほうが木村以上に神経質に

(なっていらっしゃるようだけれども、ごしんせつはよくわたしにもわかりますわ。)

なっていらっしゃるようだけれども、御親切はよくわたしにもわかりますわ。

(くらちさんだってあなたのおこころもちはつうじているにちがいないんですけれども、)

倉地さんだってあなたのお心持ちは通じているに違いないんですけれども、

(あなたが・・・なんといったらいいでしょうねえ・・・あなたがあんまり)

あなたが・・・なんといったらいいでしょうねえ・・・あなたがあんまり

(ましょうめんからおっしゃるもんだから、ついむかっぱらをおたてなすったんでしょう。)

真正面からおっしゃるもんだから、つい向っ腹をお立てなすったんでしょう。

(そうでしょう、ね、くらちさん。・・・こんないやなおはなしはこれだけにして)

そうでしょう、ね、倉地さん。・・・こんないやなお話はこれだけにして

など

(いもうとたちでもよんでおもしろいおはなしでもしましょう」)

妹たちでも呼んでおもしろいお話でもしましょう」

(「ぼくがもっとえらいと、いうことがもっとふかくみなさんのこころにはいるんですが、)

「僕がもっと偉いと、いう事がもっと深く皆さんの心に入るんですが、

(ぼくのいうことはほんとうのことだとおもうんだけれどもしかたがありません。)

僕のいう事はほんとうの事だと思うんだけれどもしかたがありません。

(それじゃきっときむらにかいてやってください。ぼくじしんはなにもものずきらしく)

それじゃきっと木村に書いてやってください。僕自身は何も物数奇らしく

(そのないようをしりたいとはおもってるわけじゃないんですから・・・」)

その内容を知りたいとは思ってるわけじゃないんですから・・・」

(ことうがまだなにかいおうとしているときにあいこがせいとんぶろしきのできあがったのを)

古藤がまだ何かいおうとしている時に愛子が整頓風呂敷の出来上ったのを

(もって、にかいからおりてきた。ことうはあいこからそれをうけとると)

持って、二階から降りて来た。古藤は愛子からそれを受け取ると

(おもいだしたようにあわててとけいをみた。ようこはそれにはとんじゃく)

思い出したようにあわてて時計を見た。葉子はそれには頓着(とんじゃく)

(しないように、「あいさんあれをことうさんにおめにかけよう。ことうさん)

しないように、「愛さんあれを古藤さんにお目にかけよう。古藤さん

(ちょっとまっていらしってね。いまおもしろいものをおめにかけるから。)

ちょっと待っていらしってね。今おもしろいものをお目にかけるから。

(さあちゃんはにかい?いないの?どこにいったんだろう・・・)

貞(さあ)ちゃんは二階? いないの? どこにいったんだろう・・・

(さあちゃん!」)

貞ちゃん!」

(こういってようこがよぶとだいどころのほうからさだよがうちしずんだかおをして)

こういって葉子が呼ぶと台所のほうから貞世が打ち沈んだ顔をして

(ないたあとのようにほおをあかくしてはいってきた。やはりじぶんのいった)

泣いたあとのように頬を赤くしてはいって来た。やはり自分のいった

(ことばにしたがってひとりぽっちでだいどころにいってすすぎものをしていたのかとおもうと、)

言葉に従って一人ぽっちで台所に行ってすすぎ物をしていたのかと思うと、

(ようこはもうむねがせまってめのなかがあつくなるのだった。)

葉子はもう胸が逼って目の中が熱くなるのだった。

(「さあふたりでこのあいだがっこうでならってきただんすをしてことうさんとくらちさんとに)

「さあ二人でこの間学校で習って来たダンスをして古藤さんと倉地さんとに

(おめにおかけ。ちょっとこてぃろんのようでまたかわっていますの。さ」)

お目におかけ。ちょっとコティロンのようでまた変わっていますの。さ」

(ふたりはじゅうじょうのざしきのほうにたっていった。くらちはこれをきっかけに)

二人は十畳の座敷のほうに立って行った。倉地はこれをきっかけに

(からっとかいかつになって、いままでのことはわすれたように、ことうにもびしょうを)

からっと快活になって、今までの事は忘れたように、古藤にも微笑を

(あたえながら「それはおもしろかろう」といいつつあとにつづいた。)

与えながら「それはおもしろかろう」といいつつあとに続いた。

(あいこのすがたをみるとことうもつりこまれるふうにみえた。ようこはけっしてそれを)

愛子の姿を見ると古藤も釣り込まれるふうに見えた。葉子は決してそれを

(みのがさなかった。)

見のがさなかった。

(かれんなすがたをしたあねといもうととはじゅうじょうのでんとうのしたにむかいあってたった。)

可憐な姿をした姉と妹とは十畳の電燈の下に向かい合って立った。

(あいこはいつでもそうなようにこんなばあいでもいかにもれいせいだった。)

愛子はいつでもそうなようにこんな場合でもいかにも冷静だった。

(ふつうならばそのとしごろのしょうじょとしては、やりどころもないしゅうちをかんずるはずで)

普通ならばその年ごろの少女としては、やり所もない羞恥を感ずるはずで

(あるのに、あいこはすこしめをふせているほかにはしらじらとしていた。)

あるのに、愛子は少し目を伏せているほかにはしらじらとしていた。

(きゃっきゃっとうれしがったりはずかしがったりするさだよは)

きゃっきゃっとうれしがったり恥ずかしがったりする貞世は

(そのよるはどうしたものかただものうげにそこにしょんぼりとたった。)

その夜はどうしたものかただ物憂げにそこにしょんぼりと立った。

(そのよるのふたりはみょうにむかんじょうないっついのうつくしいおどりてだった。)

その夜の二人は妙に無感情な一対の美しい踊り手だった。

(ようこが「いちにさん」とあいずをすると、ふたりはりょうてをこしぼねのところにおきそえて)

葉子が「一二三」と合図をすると、二人は両手を腰骨の所に置き添えて

(しずかにかいせんしながらまいはじめた。へいえいのなかばかりにいてうつくしいものをまったく)

静かに回旋しながら舞い始めた。兵営の中ばかりにいて美しいものを全く

(みなかったらしいことうは、しばらくはなにごともわすれたようにこうこつとして)

見なかったらしい古藤は、しばらくは何事も忘れたように恍惚として

(ふたりのえがくきょくせんのさまざまにみとれていた。)

二人の描く曲線のさまざまに見とれていた。

(ととつぜんさだよがりょうそでをかおにあてたとおもうと、きゅうにまいのわからそれて、)

と突然貞世が両袖を顔にあてたと思うと、急に舞いの輪からそれて、

(いっさんにげんかんわきのろくじょうにかけこんだ。ろくじょうにたっしないうちにいたましく)

一散に玄関わきの六畳に駆け込んだ。六畳に達しないうちに痛ましく

(すすりなくこえがきこえだした。ことうははっとあわててそっちにいこうとしたが、)

すすり泣く声が聞こえ出した。古藤ははっとあわててそっちに行こうとしたが、

(あいこがひとりになっても、かおいろもうごかさずにおどりつづけているのをみると)

愛子が一人になっても、顔色も動かさずに踊り続けているのを見ると

(そのままたちどまった。あいこはじぶんのしおおすべきつとめをしおおせることに)

そのまま立ち止まった。愛子は自分のし遂すべき務めをし遂せる事に

(こころをあつめるようすでまいつづけた。)

心を集める様子で舞い続けた。

(「あいさんちょっとおまち」といったようこのこえはひくいながらきぬをさくように)

「愛さんちょっとお待ち」といった葉子の声は低いながら帛を裂くように

(かんぺきらしいちょうしになっていた。べっしつにいもうとのかけこんだのをみむきもしない)

疳癖らしい調子になっていた。別室に妹の駆け込んだのを見向きもしない

(あいこのふにんじょうさをいきどおるいかりと、めいぜられたことをちゅうとはんぱでやめてしまった)

愛子の不人情さを憤る怒りと、命ぜられた事を中途半端でやめてしまった

(さだよをいきどおるいかりとでようこはじせいができないほどふるえていた。)

貞世を憤る怒りとで葉子は自制ができないほど震えていた。

(あいこはしずかにそこにりょうてをこしからおろしてたちどまった。)

愛子は静かにそこに両手を腰からおろして立ち止まった。

(「さあちゃんなんですそのしつれいは。でておいでなさい」)

「貞(さあ)ちゃんなんですその失礼は。出ておいでなさい」

(ようこははげしくりんしつにむかってこうさけんだ。りんしつからさだよのすすりなくこえが)

葉子は激しく隣室に向かってこう叫んだ。隣室から貞世のすすり泣く声が

(あわれにもまざまざときこえてくるだけだった。だきしめてもだきしめても)

哀れにもまざまざと聞こえて来るだけだった。抱きしめても抱きしめても

(あきたらないほどのあいちゃくをそのままうらがえしたようなにくしみが、ようこのこころを)

飽き足らないほどの愛着をそのまま裏返したような憎しみが、葉子の心を

(ひのようにした。ようこはあいこにきびしくいいつけてさだよをろくじょうから)

火のようにした。葉子は愛子にきびしくいいつけて貞世を六畳から

(よびかえさした。)

呼び返さした。

(やがてそのろくじょうからでてきたあいこは、さすがにふあんなおももちをしていた。)

やがてその六畳から出て来た愛子は、さすがに不安な面持ちをしていた。

(くるしくってたまらないというからひたいにてをあててみたらひのようにあついと)

苦しくってたまらないというから額に手を当ててみたら火のように熱いと

(いうのだ。)

いうのだ。

(ようこはおもわずぎょっとした。)

葉子は思わずぎょっとした。

(うまれおちるとからびょうきひとつせずにそだってきたさだよはまえからはつねつしていたのを)

生まれ落ちるとから病気一つせずに育って来た貞世は前から発熱していたのを

(じぶんでしらずにいたにちがいない。きむずかしくなってからいっしゅうかんぐらいに)

自分で知らずにいたに違いない。気むずかしくなってから一週間ぐらいに

(なるから、なにかのねつびょうにかかったとすればびょうきはかなりすすんでいたはずだ。)

なるから、何かの熱病にかかったとすれば病気はかなり進んでいたはずだ。

(ひょっとするとさだよはもうしぬ・・・それをようこはちょっかくしたようにおもった。)

ひょっとすると貞世はもう死ぬ・・・それを葉子は直覚したように思った。

(めのまえでせかいがきゅうにくらくなった。でんとうのひかりもみえないほどにあたまのなかが)

目の前で世界が急に暗くなった。電灯の光も見えないほどに頭の中が

(くらいうずまきでいっぱいになった。)

暗い渦巻きでいっぱいになった。

(ええ、いっそのことしんでくれ。)

ええ、いっその事死んでくれ。

(このちまつりでくらちがじぶんにはっきりつながれてしまわないとだれがいえよう。)

この血祭りで倉地が自分にはっきりつながれてしまわないとだれがいえよう。

(ひとみごくうにしてしまおう。)

人身御供にしてしまおう。

(そうようこはきょうふのぜっちょうにありながらみょうにしんとしたこころもちでおもいめぐらした。)

そう葉子は恐怖の絶頂にありながら妙にしんとした心持ちで思いめぐらした。

(そしてそこにぼんやりしたままつったっていた。)

そしてそこにぼんやりしたまま突っ立っていた。

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