有島武郎 或る女117
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問題文
(ひはたつけれどもくらちからはほんとうになんのしょうそくもなかった。)
日はたつけれども倉地からはほんとうになんの消息もなかった。
(びょうてきにかんかくのこうふんしたようこは、ときどきにくたいてきにくらちをしたうしょうどうに)
病的に感覚の興奮した葉子は、時々肉体的に倉地を慕う衝動に
(かりたてられた。ようこのこころのめには、くらちのにくたいのすべてのぶぶんは)
駆り立てられた。葉子の心の目には、倉地の肉体のすべての部分は
(ふれることができるとおもうほどぐたいてきにそうぞうされた。ようこはじぶんで)
触れる事ができると思うほど具体的に想像された。葉子は自分で
(つくりだしたふしぎなめいきゅうのなかにあって、いしきのしびれきるような)
造り出した不思議な迷宮の中にあって、意識のしびれきるような
(とうすいにひたった。しかしそのよいがさめたあとのくつうは、)
陶酔にひたった。しかしその酔いがさめたあとの苦痛は、
(せいしんのひへいといっしょにはたらいて、ようこをはんしはんしょうのさかいにうちのめした。)
精神の疲弊と一緒に働いて、葉子を半死半生の堺に打ちのめした。
(ようこはじぶんのもうそうにおうとをもよおしながら、くらちといわずすべてのおとこを)
葉子は自分の妄想に嘔吐を催しながら、倉地といわずすべての男を
(のろいにのろった。)
呪いに呪った。
(いよいよようこがしゅじゅつをうけるべきまえのひがきた。ようこはそれを)
いよいよ葉子が手術を受けるべき前の日が来た。葉子はそれを
(さほどおそろしいこととはおもわなかった。しきゅうこうくつしょうとしんだんされたとき、)
さほど恐ろしい事とは思わなかった。子宮後屈症と診断された時、
(かってかえってよんだこうかんないしょによってみても、そのしゅじゅつはわりあいに)
買って帰って読んだ浩瀚な医書によって見ても、その手術は割合に
(かんたんなものであるのをしりぬいていたから、そのことについてはわりあいに)
簡単なものであるのを知り抜いていたから、その事については割合に
(やすやすとしたこころもちでいることができた。ただめいじょうしがたいしょうそうとひあいとは)
安々とした心持ちでいる事ができた。ただ名状し難い焦燥と悲哀とは
(どうかたづけようもなかった。まいにちきていたあいこのあしはふつかおきになり)
どう片づけようもなかった。毎日来ていた愛子の足は二日おきになり
(みっかおきになりだんだんとおざかった。おかなどはまったくすがたを)
三日おきになりだんだん遠ざかった。岡などは全く姿を
(みせなくなってしまった。ようこはいまさらにじぶんのまわりを)
見せなくなってしまった。葉子は今さらに自分のまわりを
(さびしくみまわしてみた。であうかぎりのおとことおんなとがなにがなしに)
さびしく見回してみた。出会うかぎりの男と女とが何がなしに
(ひきつけられて、はなれることができなくなる、そんなじりょくのような)
ひき着けられて、離れる事ができなくなる、そんな磁力のような
(ちからをもっているというじふにきおって、じぶんのしゅういには)
力を持っているという自負に気負って、自分の周囲には
(しるとしらざるとをとわず、いつでもむすうのひとびとのこころがまっているように)
知ると知らざるとを問わず、いつでも無数の人々の心が待っているように
(おもっていたようこは、いまはすべてのひとからわすられはてて、だいじなさだこからも)
思っていた葉子は、今はすべての人から忘られ果てて、大事な定子からも
(くらちからもみはなしみはなされて、にもつのないものおきべやのような)
倉地からも見放し見放されて、荷物のない物置き部屋のような
(まずしいいっしつのすみっこに、やぐにくるまってしょきにむされながら)
貧しい一室のすみっこに、夜具にくるまって暑気に蒸されながら
(くずれかけたごたいをたよりなくよこたえねばならぬのだ。それは)
くずれかけた五体をたよりなく横たえねばならぬのだ。それは
(ようこにとってはあるべきこととはおもわれぬまでだった。しかしそれが)
葉子に取ってはあるべき事とは思われぬまでだった。しかしそれが
(たしかなじじつであるのをどうしよう。)
確かな事実であるのをどうしよう。
(それでもようこはまだたちあがろうとした。)
それでも葉子はまだ立ち上がろうとした。
(じぶんのびょうきがいえきったそのときをみているがいい。どうしてくらちを)
自分の病気が癒えきったその時を見ているがいい。どうして倉地を
(もういちどじぶんのものにしおおせるか、それをみているがいい。)
もう一度自分のものに仕遂せるか、それを見ているがいい。
(ようこはのうしんにたぐりこまれるようないたみをかんずるりょうがんからあついなみだを)
葉子は脳心にたぐり込まれるような痛みを感ずる両眼から熱い涙を
(ながしながら、つれづれなままにひのようないっしんをくらちのみのうえにあつめた。)
流しながら、徒然なままに火のような一心を倉地の身の上に集めた。
(ようこのかおにはいつでもはんけちがあてがわれていた。それがじゅっぷんも)
葉子の顔にはいつでもハンケチがあてがわれていた。それが十分も
(たたないうちにあつくぬれとおって、つやにあたらしいのとかえさせねばならなかった。)
たたないうちに熱くぬれ通って、つやに新しいのと代えさせねばならなかった。
(よんじゅうしちそのよるろくじすぎ、つやがきてしょうじをひらいてだんだんみちて)
【四七】 その夜六時過ぎ、つやが来て障子を開いてだんだん満ちて
(いこうとするつきがかわらやねのかさなりのうえにぽっかりのぼったのを)
行こうとする月が瓦屋根の重なりの上にぽっかりのぼったのを
(のぞかせてくれているとき、みしらぬかんごふがうつくしいはなたばとおおきなせいようふうとうに)
のぞかせてくれている時、見知らぬ看護婦が美しい花束と大きな西洋封筒に
(いれたてがみとをもってはいってきてつやにわたした。つやはそれをようこの)
入れた手紙とを持ってはいって来てつやに渡した。つやはそれを葉子の
(まくらもとにもってきた。ようこはもうはなもなにもみるきにはなれなかった。)
枕もとに持って来た。葉子はもう花も何も見る気にはなれなかった。
(でんきもまだきていないのでつやにそのてがみをよませてみた。つやは)
電気もまだ来ていないのでつやにその手紙を読ませてみた。つやは
(うすあかりにすかしすかしよみにくそうにもじをひろった。)
薄明りにすかしすかし読みにくそうに文字を拾った。
(「あなたがしゅじゅつのためににゅういんなさったことをおかくんからきかされておどろきました。)
「あなたが手術のために入院なさった事を岡君から聞かされて驚きました。
(で、きょうががいしゅつびであるのをさいわいにおみまいします。)
で、きょうが外出日であるのを幸いにお見舞いします。
(「ぼくはあなたにおめにかかるきにはなりません。ぼくはそれほどへんきょうに)
「僕はあなたにお目にかかる気にはなりません。僕はそれほど偏狭に
(できあがったにんげんです。けれどもぼくはほんとうにあなたをおきのどくにおもいます。)
出来上がった人間です。けれども僕はほんとうにあなたをお気の毒に思います。
(くらちというにんげんがにほんのぐんじじょうのひみつをがいこくにもらすしょうばいにかんけいしたことが)
倉地という人間が日本の軍事上の秘密を外国にもらす商売に関係した事が
(しれるとともに、すがたをかくしたというほうどうをしんぶんでみたとき、ぼくはそんなに)
知れるとともに、姿を隠したという報道を新聞で見た時、僕はそんなに
(おどろきませんでした。しかしくらちにはふたりほどのがいしょうがあるとつけくわえて)
驚きませんでした。しかし倉地には二人ほどの外妾があると付け加えて
(かいてあるのをみて、ほんとうにあなたをおきのどくにおもいました。このてがみを)
書いてあるのを見て、ほんとうにあなたをお気の毒に思いました。この手紙を
(ひにくにとらないでください。ぼくにはひにくはいえません。)
皮肉に取らないでください。僕には皮肉はいえません。
(「ぼくはあなたがしつぼうなさらないようにいのります。ぼくはらいしゅうのげつようびから)
「僕はあなたが失望なさらないように祈ります。僕は来週の月曜日から
(ならしののほうにえんしゅうにいきます。きむらからのたよりでは、かれはきゅうはくの)
習志野のほうに演習に行きます。木村からの便りでは、彼は窮迫の
(ぜっちょうにいるようです。けれどもきむらはそこをつきぬけるでしょう。)
絶頂にいるようです。けれども木村はそこを突き抜けるでしょう。
(「はなをもってきてみました。おだいじに。ことうせい」)
「花を持って来てみました。お大事に。 古藤生」
(つやはつかえつかえそれだけをよみおわった。しじゅうことうをはるかとししたな)
つやはつかえつかえそれだけを読み終わった。始終古藤をはるか年下な
(こどものようにおもっているようこは、いっしゅぶべつするようなむかんじょうをもって)
子供のように思っている葉子は、一種侮蔑するような無感情をもって
(それをきいた。くらちががいしょうをふたりもってるといううわさははつみみでは)
それを聞いた。倉地が外妾を二人持ってるといううわさは初耳では
(あるけれども、それはしんぶんのきじであってみればあてにはならない。)
あるけれども、それは新聞の記事であってみればあてにはならない。
(そのがいしょうふたりというのが、びじんやしきとひょうばんのあったそこにすむじぶんと)
その外妾二人というのが、美人屋敷と評判のあったそこに住む自分と
(あいこぐらいのことをそうぞうして、きしゃならばいいそうなことだ。)
愛子ぐらいの事を想像して、記者ならばいいそうな事だ。
(ただそうかるくばかりおもってしまった。)
ただそう軽くばかり思ってしまった。
(つやがそのはなたばをがらすびんにいけて、なんにもかざってないとこのうえに)
つやがその花束をガラス瓶にいけて、なんにも飾ってない床の上に
(おいていったあと、ようこはまえどうようにはんけちをかおにあてて、)
置いて行ったあと、葉子は前同様にハンケチを顔にあてて、
(きかいてきにはたらくこころのかげとたたかおうとしていた。)
機械的に働く心の影と戦おうとしていた。
(そのときとつぜんしがーーしのもんだいではなくーーしがはっきりとようこのこころに)
その時突然死がーー死の問題ではなくーー死がはっきりと葉子の心に
(たちあらわれた。もししゅじゅつのけっか、しきゅうていにせんこうができるようになって)
立ち現われた。もし手術の結果、子宮底に穿孔ができるようになって
(ふくまくえんをおこしたら、いのちのたすかるべきみこみはないのだ。そんなことを)
腹膜炎を起こしたら、命の助かるべき見込みはないのだ。そんな事を
(ふとおもいおこした。へやのすがたもじぶんのこころもどこといってとくべつに)
ふと思い起こした。部屋の姿も自分の心もどこといって特別に
(かわったわけではなかったけれども、どことなくようこのしゅういにはたしかに)
変わったわけではなかったけれども、どことなく葉子の周囲には確かに
(しのかげがさまよっているのをしっかりとかんじないではいられなくなった。)
死の影がさまよっているのをしっかりと感じないではいられなくなった。
(それはようこがうまれてからゆめにもけいけんしないことだった。これまでようこが)
それは葉子が生まれてから夢にも経験しない事だった。これまで葉子が
(しのもんだいをかんがえたときには、どうしてしをまねきよせようかということばかりだった。)
死の問題を考えた時には、どうして死を招き寄せようかという事ばかりだった。
(しかしいまはしのほうがそろそろとちかよってきているのだ。)
しかし今は死のほうがそろそろと近寄って来ているのだ。
(つきはだんだんひかりをましていって、でんとうにひもともっていた。)
月はだんだん光を増して行って、電灯に灯もともっていた。
(めのさきにみえるやねのあいだからは、すいえんだか、かやりびだかがうっすらと)
目の先に見える屋根の間からは、炊煙だか、蚊遣り火だかがうっすらと
(みずのようにすみわたったそらにきえていく。はきもの、ばしゃのたぐい、きてきのおと、)
水のように澄みわたった空に消えて行く。履き物、馬車の類、汽笛の音、
(うるさいほどのひとびとのはなしごえ、そういうものはようこのへやを)
うるさいほどの人々の話し声、そういうものは葉子の部屋を
(いつものとおりとりまきながら、そしてへやのなかはとにかくせいとんして)
いつものとおり取り巻きながら、そして部屋の中はとにかく整頓して
(ひがともっていて、すこしのふしぎもないのに、どこともしれず)
灯がともっていて、少しの不思議もないのに、どことも知れず
(そこにはしがはいよってきていた。)
そこには死が這い寄って来ていた。
(ようこはぎょっとして、ちのかわりにしんぞうのなかにこおりのみずをそそぎこまれたように)
葉子はぎょっとして、血の代わりに心臓の中に氷の水を瀉ぎこまれたように
(おもった。)
思った。