江戸川乱歩 屋根裏の散歩者①
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問題文
(いち)
一
(たぶんそれはいっしゅのせいしんびょうででもあったのでしょう。)
多分それは一種の精神病ででもあったのでしょう。
(ごうださぶろうは、どんなあそびも、どんなしょくぎょうも、なにをやってみても、)
郷田三郎は、どんな遊びも、どんな職業も、何をやって見ても、
(いっこうこのよがおもしろくないのでした。)
一向この世が面白くないのでした。
(がっこうをでてからーーそのがっこうとてもいちねんになんにちとかんじょうのできるほどしか)
学校を出てからーーその学校とても一年に何日と勘定の出来る程しか
(しゅっせきしなかったのですがーーかれにできそうなしょくぎょうは、かたっぱしから)
出席しなかったのですがーー彼に出来そうな職業は、片っ端から
(やってみたのです、けれど、これこそいっしょうをささげるにたるとおもうようなものには、)
やって見たのです、けれど、これこそ一生を捧げるに足ると思う様なものには、
(まだひとつもでっくわさないのです。おそらく、かれをまんぞくさせるしょくぎょうなどは、)
まだ一つも出っくわさないのです。恐らく、彼を満足させる職業などは、
(このよにそんざいしないのかもしれません。ながくていちねん、みじかいのはひとつきくらいで、)
この世に存在しないのかも知れません。長くて一年、短いのは一月位で、
(かれはしょくぎょうからしょくぎょうへとてんてんしました。そして、とうとうみきりをつけたのか、)
彼は職業から職業へと転々しました。そして、とうとう見切りをつけたのか、
(いまでは、もうつぎのしょくぎょうをさがすでもなく、もじどおりなにもしないで、)
今では、もう次の職業を探すでもなく、文字通り何もしないで、
(おもしろくもないそのひそのひをおくっているのでした。)
面白くもないその日その日を送っているのでした。
(あそびのほうもそのとおりでした。かるた、たまつき、てにす、すいえい、やまのぼり、)
遊びの方もその通りでした。かるた、球突き、テニス、水泳、山登り、
(ご、しょうぎ、さてはかくしゅのとばくにいたるまで、とてもここにはかききれないほどの、)
碁、将棋、さては各種の賭博に至るまで、とてもここには書き切れない程の、
(ゆうぎというゆうぎはひとつのこらず、ごらくひゃっかぜんしょというようなほんまでかいこんで、)
遊戯という遊戯は一つ残らず、娯楽百科全書というような本まで買込んで、
(さがしまわってはこころみたのですが、しょくぎょうどうよう、これはというものもなく、)
探し廻っては試みたのですが、職業同様、これはというものもなく、
(かれはいつもしつぼうさせられていました。)
彼はいつも失望させられていました。
(だが、このよには「おんな」と「さけ」という、どんなにんげんだって)
だが、この世には「女」と「酒」という、どんな人間だって
(いっしょうがいあきることのない、すばらしいかいらくがあるではないか。)
一生涯飽きることのない、すばらしい快楽があるではないか。
(しょくんはきっとそうおっしゃるでしょうね。ところが、わがごうださぶろうは、)
諸君はきっとそう仰有るでしょうね。ところが、我が郷田三郎は、
(ふしぎとそのふたつのものにたいしてもきょうみをかんじないのでした。)
不思議とその二つのものに対しても興味を感じないのでした。
(さけはたいしつにてきしないのか、いってきものめませんし、おんなのほうは、)
酒は体質に適しないのか、一滴も飲めませんし、女の方は、
(むろんそのよくぼうがないわけではなく、そうとうあそびなどもやっているのですが、)
無論その慾望がない訳ではなく、相当遊びなどもやっているのですが、
(そうかといって、これあるがためにいきがいをかんじるというほどには、)
そうかと云って、これあるが為に生き甲斐を感じるという程には、
(どうしてもおもえないのです。)
どうしても思えないのです。
(「こんなおもしろくないよのなかにいきながらえているよりは、いっそ)
「こんな面白くない世の中に生き長らえているよりは、いっそ
(しんでしまったほうがましだ」)
死んでしまった方がましだ」
(ともすれば、かれはそんなことをかんがえました。しかし、そんなかれにも、)
ともすれば、彼はそんなことを考えました。しかし、そんな彼にも、
(いのちをおしむほんのうだけはそなわっていたとみえて、にじゅうごさいのきょうがひまで)
命を惜しむ本能だけは具わっていたと見えて、二十五歳の今日が日まで
(「しぬしぬ」といいながら、ついしにきれずにいきながらえているのでした。)
「死ぬ死ぬ」といいながら、つい死に切れずに生き長らえているのでした。
(おやもとからつきづきいくらかのしおくりをうけることのできるかれは、しょくぎょうをはなれても)
親許から月々いくらかの仕送りを受けることの出来る彼は、職業を離れても
(べつにせいかつにはこまらないのです。ひとつはそういうあんしんが、かれを)
別に生活には困らないのです。一つはそういう安心が、彼を
(こんなきままものにしてしまったのかもしれません。そこでかれは、)
こんな気まま者にしてしまったのかも知れません。そこで彼は、
(そのしおくりきんによって、せめていくらかでもおもしろくくらすことにふしんしました。)
その仕送り金によって、せめていくらかでも面白く暮すことに腐心しました。
(たとえば、しょくぎょうやゆうぎとおなじように、ひんぱんにしゅくしょをかえてあるくことなども)
例えば、職業や遊戯と同じ様に、頻繁に宿所を換えて歩くことなども
(そのひとつでした。かれは、すこしおおげさにいえば、とうきょうじゅうのげしゅくやを、)
その一つでした。彼は、少し大げさに云えば、東京中の下宿屋を、
(いっけんのこらずしっていました。ひとつきかはんつきもいると、すぐにべつのげしゅくやへと)
一軒残らず知っていました。一月か半月もいると、すぐに別の下宿屋へと
(すみかえるのです。むろんそのあいだには、ほうろうしゃのようにたびをしてあるいたことも)
住みかえるのです。無論その間には、放浪者の様に旅をして歩いたことも
(あります。あるいはまた、せんにんのようにやまおくへひっこんでみたこともあります。)
あります。或いは又、仙人の様に山奥へ引っ込んで見たこともあります。
(でも、とかいにすみなれたかれには、とてもさびしいいなかにながくいることは)
でも、都会に住みなれた彼には、とても淋しい田舎に長くいることは
(できません。ちょっとたびにでたかとおもうと、いつのまにか、)
出来ません。ちょっと旅に出たかと思うと、いつのまにか、
(とかいのともしびに、ざっとうに、ひきよせられるように、かれはとうきょうへかえってくるのでした。)
都会の燈火に、雑沓に、引寄せられる様に、彼は東京へ帰ってくるのでした。
(そして、そのたびごとにげしゅくをかえたことはいうまでもありません。)
そして、その度毎に下宿を換えたことは云うまでもありません。
(さて、かれがこんどうつったうちは、とうえいかんという、しんちくしたばかりの、)
さて、彼が今度移ったうちは、東栄館という、新築したばかりの、
(まだかべにしめりけのあるような、まっさらのげしゅくやでしたが、ここで、)
まだ壁に湿り気のある様な、まっさらの下宿屋でしたが、ここで、
(かれはひとつのすばらしいたのしみをはっけんしました。そして、このいっぺんのものがたりは、)
彼は一つのすばらしい楽しみを発見しました。そして、この一篇の物語は、
(そのかれのしんはっけんにかんれんしたあるさつじんじけんをしゅだいとするのです。が、)
その彼の新発見に関聯したある殺人事件を主題とするのです。が、
(おはなしをそのほうにすすめるまえに、しゅじんこうのごうださぶろうが、)
お話をその方に進める前に、主人公の郷田三郎が、
(しろうとたんていのあけちこごろうーーこのなまえはたぶんごしょうちのこととおもいます。ーー)
素人探偵の明智小五郎ーーこの名前は多分御承知の事と思います。ーー
(としりあいになり、いままでいっこうきづかないでいた「はんざい」ということがらに、)
と知り合いになり、今まで一向気附かないでいた「犯罪」という事柄に、
(あたらしいきょうみをおぼえるようになったいきさつについて、すこしばかり)
新しい興味を覚える様になったいきさつについて、少しばかり
(おはなししておかねばなりません。)
お話して置かねばなりません。