詩人 石垣りん ①

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(しじん、いしがきりんのし「わたしはわたしのもついっさいをなげうって/おおぞらにてをのべる) 詩人、石垣りんの詩「私は私の持つ一切をなげうって/大空に手をのべる (これがわたしのいし、これがわたしのねがいのすべて」) これが私の意志、これが私の願いのすべて」 (「いえのうえにあるもの/てんくうのあおさではなく/ちのいろのこさである」) 「家の上にあるもの/天空の青さではなく/血の色の濃さである」 (「おえという/このやねのおもみに/おんな、わたしのはるがくれる/とおくとおくひがしずむ」) 「負えという/この屋根の重みに/女、私の春が暮れる/遠く遠く日が沈む」 (こうとうしょうがっこうをそつぎょうし、14さいでにほんこうぎょうぎんこうにしゅうしょくしたが、) 高等小学校を卒業し、14歳で日本興業銀行に就職したが、 (せんそうをへて、ときのながれはいしがきりんをいっか6にんのだいこくばしらにしてしまい、) 戦争を経て、時の流れは石垣りんを一家6人の大黒柱にしてしまい、 (ひくにひけないたちばでていねんまではたらきとおした。かぞくやしごとをつづったしは、) 引くに引けない立場で定年まで働き通した。家族や仕事を綴った詩は、 (いきることのきびしさ、かなしさ、さびしさであふれているが、しをかくことにより、) 生きることの厳しさ、哀しさ、寂しさで溢れているが、詩を書くことにより、 (それをじょうかしのりこえようとするさくしゃのつよいいしをよみとることができる。) それを浄化し乗り越えようとする作者の強い意志を読み取ることが出来る。 (だい1ししゅうは39さい「わたしのまえにあるなべとおかまともえるひと」) 第1詩集は39歳「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」 (つぎに48さい「ひょうさつなど」、59さい「りゃくれき」、) 次に48歳「表札など」、59歳「略歴」、 (63さい「やさしいことば」。だいひょうてきなしは、しろいものが、いえ、げっきゅうぶくろ) 63歳「優しい言葉」。代表的な詩は、白いものが、家、月給袋、 (そのよる、しじみ、ひょうさつ、くらし、りょじょう、がけ、きせき、など。) その夜、シジミ、表札、くらし、旅情、崖、鬼籍、など。 (しょきのししゅうはずしりとおもい。「ひょうさつなど」から、だんだんほのかな) 初期の詩集はずしりと重い。「表札など」から、だんだんほのかな (あかるさ、あわいゆーもあがでてくる。さくひんのぴーくは「ひょうさつなど」だが) 明るさ、淡いユーモアがでてくる。作品のピークは「表札など」だが (それいぜんのくるしくもにげずにたちむかったひびのせいかつやしさくがあればこそだ。) それ以前の苦しくも逃げずに立ち向かった日々の生活や詩作があればこそだ。 (いしがきりんのしのとくちょうにはんせんのしがある。「がけ」は、さいぱんとうのだんがいからみを) 石垣りんの詩の特徴に反戦の詩がある。「崖」は、サイパン島の断崖から身を (なげたおんなたちそれがだれひとりとしてうみにとどかないのだとうたう。うまくしにきれずに) 投げた女達それが誰一人として海にとどかないのだと詠う。うまく死にきれずに (そのたましいはいまだにさまよっているという。だいのしんゆうであったいばらきのりこは、) その魂はいまだに彷徨っているという。大の親友であった茨木のり子は、 (せんごしのなかでいちばんしょうげきをうけたしのひとつにあげている。) 戦後詩の中で一番衝撃を受けた詩の一つに挙げている。
など
(こんなしもある。「しろいぬのじがしろくほしあがるよろこび/これはながいせんそうのあとに) こんな詩もある。「白い布地が白く干し上がるよろこび/これは長い戦争の後に (やっとかかげえたもの/こんごふたたびおかすものにわたしはていこうする。) やっとかかげ得たもの/今後ふたたびおかすものに私は抵抗する。 (こころのよごれをおとすのにも/やはりいるものがある) こころのよごれを落とすのにも/やはり要るものがある (にちじょうになくてはならなぬものがないと/あるはずのものまできえてしまう) 日常になくてはならなぬものがないと/あるはずのものまで消えてしまう (たとえばやさしいじょうあいやれいせつ/わたしはせっけんのあるよろこびをふかくおもう/これがないひが) たとえば優しい情愛や礼節/私は石鹸のある喜びを深く思う/これがない日が (あった/そのとき/しろいものがしろくこのよにあることはできなかった」) あった/その時/白いものが白くこの世に在ることは出来なかった」 (し「しろいものが」は、せんごせっけんをつかえるようになったよろこびをうたっている。) 詩「白いものが」は、戦後石鹸を使えるようになった喜びを詠っている。 (つぎに、いわなみぶんこ「いしがきりんししゅう」のなかにある「へんなおるごーる」というし。) 次に、岩波文庫「石垣りん詩集」の中にある「へんなオルゴール」という詩。 (しじんが、みしらぬしんしからさいんをもとめられる。「ひょうさつなど」しじんのだいひょうさく。) 詩人が、見知らぬ紳士からサインを求められる。「表札など」詩人の代表作。 (「さいんせよとはかたじけない」よろこんだしじん。しかしひらいたとびらにいちまいのめいし。) 「サインせよとはかたじけない」喜んだ詩人。しかし開いた扉に一枚の名刺。 (「ひとりのしんしが1さつのほんをひらくと/まるやまかおるさまいしがきりんです。) 「ひとりの紳士が1冊の本をひらくと/丸山薫さま 石垣りんです。 (とあかるいうたがひびきだす/どうしてうらんだりかなしんだりいたしましょう。) と明るいうたがひびき出す/どうしてうらんだりかなしんだりいたしましょう。 (うってくださったのですかむりもないと/それゆえになおわすれがたくなったしじんよ」) 売って下さったのですか無理もないと/それゆえになお忘れ難くなった詩人よ」 (いしがきりん「ひょうさつ」じりつをせんげんするまで。きーわーどは、じりつへのがんぼう、) 石垣りん「表札」自立を宣言するまで。キーワードは、自立への願望、 (なわばりせんげん、けんおかん、いえで、じこじつげん、ことばのちから。しょきのさくひんではうちゅうかん、) ナワバリ宣言、嫌悪感、家出、自己実現、言葉の力。初期の作品では宇宙観、 (じんせいかん、にんげんのじつぞんがひょうしゅつしているとされ、しじんとしてのちほをかためたあと、) 人生観、人間の実存が表出しているとされ、詩人としての地歩を固めた後、 (じょせいのじりつへのしこうをてーまかし、しゃかいてきめっせーじせいののうこうなさくひんもおおい。) 女性の自立への志向をテーマ化し、社会的メッセージ性の濃厚な作品も多い。 (「ひょうさつ」もじょせいのじりつのしとしてよまれてきた。) 「表札」も女性の自立の詩として読まれてきた。 (いしがきりんは1920ねん(たいしょう9ねん/こうしん)2がつ21にちにとうきょうあかさかのしんたんしょうの) 石垣りんは1920年(大正9年/庚申)2月21日に東京赤坂の薪炭商の (だいいっしとしてうまれた。かぞくはちち、はは、おとうとといもうとのほかにそふとそぼがいた。) 第一子として生まれた。家族は父、母、弟と妹の他に祖父と祖母がいた。 (1924ねん(こうし)りん4さいのときに、ははがしきょし、そのあとにそぼがきゅうせいする。) 1924年(甲子)りん4歳の時に、母が死去し、その後に祖母が急逝する。 (1926ねん(へいいん)りん6さい、なかのちょうじんじょうしょうがっこうににゅうがく。) 1926年(丙寅)りん6歳、仲之町尋常小学校に入学。 (1927ねん(ていぼう)7さい、ちちが、りんのははであるなくなったつまのいもうととさいこんする。) 1927年(丁卯)7歳、父が、りんの母である亡くなった妻の妹と再婚する。 (しかし、そのははもよくよくねんの1929ねん(きし)りん9さいのときにしきょする。) しかし、その母も翌々年の1929年(己巳)りん9歳の時に死去する。 (1932ねん(じんしん)、いしがきりんは12さいであかさかこうとうしょうがっこうににゅうがくする。) 1932年(壬申)、石垣りんは12歳で赤坂高等小学校に入学する。 (としょかんでししゅうをよみ、さくぶんのじかんにしをていしゅつしていた。) 図書館で詩集を読み、作文の時間に詩を提出していた。 (1934ねん(こうじゅつ)にそつぎょうし、14さいでぎんこうにじむみならいとしてしゅうしょくする。) 1934年(甲戌)に卒業し、14歳で銀行に事務見習として就職する。 (つとめのよかをとうこうにせんねん。1937ねん(ていちゅう)17さい、ちちは3どめのつまとりこん、) 勤めの余暇を投稿に専念。1937年(丁丑)17歳、父は3度目の妻と離婚、 (ちちが4どめのつまをむかえた1938ねん(ぼいん)りん18さい、ほんかくてきそうさくかつどうかいし、) 父が4度目の妻を迎えた1938年(戊寅)りん18歳、本格的創作活動開始、 (じょせいだけのどうじんし「だんそう」をそうかんする。つづく) 女性だけの同人誌「断層」を創刊する。続く
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