坊ちゃん⑹
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問題文
(きゅうしゅうへたつふつかまえあにがげしゅくへきてかねをろっぴゃくえんだして)
九州へ立つ二日前兄が下宿へ来て金を六百円出して
(これをしほんにしてしょうばいをするなり、がくしにしてべんきょうをするなり、)
これを資本にして商買をするなり、学資にして勉強をするなり、
(どうでもずいいにつかうがいい、そのかわりあとはかまわないといった。)
どうでも随意に使うがいい、その代りあとは構わないと云った。
(あににしてはかんしんなやりかただ、なにのろっぴゃくえんぐらいもらわんでもこまりはせんとおもったが)
兄にしては感心なやり方だ、何の六百円ぐらい貰わんでも困りはせんと思ったが
(れいににぬたんぱくなしょちがきにいったから、れいをいってもらっておいた。)
例に似ぬ淡泊な処置が気に入ったから、礼を云って貰っておいた。
(あにはそれからごじゅうえんだしてこれをついでにきよにわたしてくれといったから、)
兄はそれから五十円出してこれをついでに清に渡してくれと云ったから、
(いぎなくひきうけた。)
異議なく引き受けた。
(ふつかたってしんばしのていしゃじょうでわかれたぎりあににはそのあといっぺんもあわない。)
二日立って新橋の停車場で分れたぎり兄にはその後一遍も逢わない。
(おれはろっぴゃくえんのしようほうについてねながらかんがえた。)
おれは六百円の使用法について寝ながら考えた。
(しょうばいをしたってめんどうくさくってうまくできるものじゃなし、)
商買をしたって面倒くさくって旨く出来るものじゃなし、
(ことにろっぴゃくえんのかねでしょうばいらしいしょうばいがやれるわけでもなかろう。)
ことに六百円の金で商買らしい商買がやれる訳でもなかろう。
(よしやれるとしても、いまのようじゃひとのまえへでてきょういくをうけたといばれないから)
よしやれるとしても、今のようじゃ人の前へ出て教育を受けたと威張れないから
(つまりそんになるばかりだ。)
つまり損になるばかりだ。
(しほんなどはどうでもいいから、これをがくしにしてべんきょうしてやろう。)
資本などはどうでもいいから、これを学資にして勉強してやろう。
(ろっぴゃくえんをさんにわっていちねんににひゃくえんずつつかえばさんねんかんはべんきょうができる。)
六百円を三に割って一年に二百円ずつ使えば三年間は勉強が出来る。
(さんねんかんいっしょうけんめいにやればなにかできる。)
三年間一生懸命にやれば何か出来る。
(それからどこのがっこうへはいろうとかんがえたが、)
それからどこの学校へはいろうと考えたが、
(がくもんはしょうらいどれもこれもすきでない。)
学問は生来どれもこれも好きでない。
(ことにごがくとかぶんがくとかいうものはまっぴらごめんだ。)
ことに語学とか文学とか云うものは真平ご免だ。
(しんたいしなどときてはにじゅうぎょうあるうちでいちぎょうもわからない。)
新体詩などと来ては二十行あるうちで一行も分らない。
(どうせきらいなものならなにをやってもおなじことだとおもったが、)
どうせ嫌いなものなら何をやっても同じ事だと思ったが、
(さいわいぶつりがっこうのまえをとおりかかったらせいとぼしゅうのこうこくがでていたから、)
幸い物理学校の前を通り掛ったら生徒募集の広告が出ていたから、
(なにもえんだとおもってきそくしょをもらってすぐにゅうがくのてつづきをしてしまった。)
何も縁だと思って規則書をもらってすぐ入学の手続きをしてしまった。
(いまかんがえるとこれもおやゆずりのむてっぽうからたったしっさくだ。)
今考えるとこれも親譲りの無鉄砲から起った失策だ。
(さんねんかんまあひとなみにべんきょうはしたがべつだんたちのいいほうでもないから、)
三年間まあ人並に勉強はしたが別段たちのいい方でもないから、
(せきじゅんはいつでもしたからかんじょうするほうがべんりであった。)
席順はいつでも下から勘定する方が便利であった。
(しかしふしぎなもので、さんねんたったらとうとうそつぎょうしてしまった。)
しかし不思議なもので、三年立ったらとうとう卒業してしまった。
(じぶんでもおかしいとおもったがくじょうをいうわけもないからおとなしくそつぎょうしておいた。)
自分でも可笑しいと思ったが苦情を云う訳もないから大人しく卒業しておいた。
(そつぎょうしてからようかめにこうちょうがよびにきたから、)
卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、
(なにかようだろうとおもって、でかけていったら、)
何か用だろうと思って、出掛けて行ったら、
(しこくへんのあるちゅうがっこうですうがくのきょうしがはいる。)
四国辺のある中学校で数学の教師が入る。
(げっきゅうはよんじゅうえんだが、いってはどうだというそうだんである。)
月給は四十円だが、行ってはどうだという相談である。
(おれはさんねんかんがくもんはしたがじつをいうときょうしになるきも、)
おれは三年間学問はしたが実を云うと教師になる気も、
(いなかへいくかんがえもなにもなかった。)
田舎へ行く考えも何もなかった。
(もっともきょうしいがいになにをしようというあてもなかったから、)
もっとも教師以外に何をしようと云うあてもなかったから、
(このそうだんをうけたとき、いきましょうとそくせきにへんじをした。)
この相談を受けた時、行きましょうと即席に返事をした。
(これもおやゆずりのむてっぽうがたたったのである。)
これも親譲りの無鉄砲が祟ったのである。
(ひきうけたいじょうはふにんせねばならぬ。)
引き受けた以上は赴任せねばならぬ。
(このさんねんかんはよじょうはんにちっきょしてこごとはただのいちどもきいたことがない。)
この三年間は四畳半に蟄居して小言はただの一度も聞いた事がない。
(けんかもせずにすんだ。おれのしょうがいのうちではひかくてきのんきなじせつであった。)
喧嘩もせずに済んだ。おれの生涯のうちでは比較的呑気な時節であった。
(しかしこうなるとよじょうはんもひきはらわなければならん。)
しかしこうなると四畳半も引き払わなければならん。
(うまれてからとうきょういがいにふみだしたのは、)
生れてから東京以外に踏み出したのは、
(どうきゅうせいといっしょにかまくらへえんそくしたときばかりである。)
同級生と一所に鎌倉へ遠足した時ばかりである。
(こんどはかまくらどころではない。たいへんなとおくへいかねばならぬ。)
今度は鎌倉どころではない。大変な遠くへ行かねばならぬ。
(ちずでみるとかいひんではりのさきほどちいさくみえる。どうせろくなところではあるまい。)
地図で見ると海浜で針の先ほど小さく見える。どうせ碌な所ではあるまい。
(どんなまちで、どんなひとがすんでるかわからん。)
どんな町で、どんな人が住んでるか分らん。
(わからんでもこまらない。しんぱいにはならぬ。ただいくばかりである。)
分らんでも困らない。心配にはならぬ。ただ行くばかりである。
(もっともしょうしょうめんどうくさい。)
もっとも少々面倒臭い。