死屍を食う男 葉山嘉樹 ③

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学生の安岡はある夜、同部屋の深谷の怪しい気配を察知し息を潜めた。
学校は静かな山の中にあり、生徒数は年々減っている。
近くの湖では毎年生徒が溺死していた。

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問題文

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(やがて、よよぎのれんぺいじょうほどもひろいぐらうんどにでた。これにはやすおかはこまった。)

やがて、代々木の練兵場ほども広いグラウンドに出た。これには安岡は困った。

(ぐらうんどにはめをさえぎるなにものもない。くもっていて)

グラウンドには眼をさえぎる何物もない。曇っていて

(いまにもふりだしそうなそらではあったが、そのあついそらのそこにはつきがあった。)

今にも降り出しそうな空ではあったが、その厚い空の底には月があった。

(ぐらうんどをおっかければ、はっけんされるのはきまりきったことであった。)

グラウンドを追っかければ、発見されるのは決まりきったことであった。

(が、かぜのようにはやいふかやをみうしなわないためには、はらばってなぞいけなかった。)

が、風のように早い深谷を見失わないためには、腹這ってなぞ行けなかった。

(で、かれはとっさのあいだに、ぐらうんどにそうてもくさくによってしきられている)

で、彼はとっさの間に、グラウンドに沿うて木柵によって仕切られている

(かいどうまではらばいになってすすんだ。)

街道まで腹這いになって進んだ。

(かいどうにでると、かれはもくさくをたてにして、ぐらうんどのはいいろのけしきをながめた。)

街道に出ると、彼は木柵を盾にして、グラウンドの灰色の景色をながめた。

(そのときにはもうふかやのすがたはみえなかった。かれはぼうぜんとしてたちつくした。)

その時にはもう深谷の姿は見えなかった。彼は茫然として立ちつくした。

(なぜかならいくらかぜのようにはやいふかやであっても、)

なぜかならいくら風のように速い深谷であっても、

(じんつうりきをもっていないかぎり、そんなにはやくぐらうんどを)

神通力を持っていないかぎり、そんなに早くグラウンドを

(とおりぬけえるはずがなかったから。)

通り抜け得るはずがなかったから。

(「やつもはらばいになって、しょうがいぶつのないところでみはってやがるんだな」)

「奴も腹這いになって、障害物のない所で見張ってやがるんだな」

(やすおかは、じぶんじしんにさえけどられないように、もくさくにそうて、)

安岡は、自分自身にさえ気取られないように、木柵に沿うて、

(ぐらうんどのちりいっぽんさえ、そのうすやみのなかにみうしなうまいとするようにしてすすんだ。)

グラウンドの塵一本さえ、その薄闇の中に見失うまいとするようにして進んだ。

(ややさくのまがったあたりへくると、ぐらうんどではなく、かいどうをかぜのように)

やや柵の曲がった辺へ来ると、グラウンドではなく、街道を風のように

(とんでゆくすがたがみえた。そのかぜのすがたは、いっしゅうかんまえ、せこちゃんが)

飛んでゆく姿が見えた。その風の姿は、一週間前、セコチャンが

(できししたぬまのほうへとんだ。)

溺死した沼のほうへと飛んだ。

(やすおかは、じぶんができししかけてでもいるようなきょうふにとらわれ、せんりつをおぼえた。)

安岡は、自分が溺死しかけてでもいるような恐怖にとらわれ、戦慄を覚えた。

(が、つぎのしゅんかんにはむがむちゅうになって、ふっとんだ。)

が、次の瞬間には無我夢中になって、フッ飛んだ。

など

(みちはぬまにそうて、へびのようにいんうつにうねっていた。そのみちのうえを、)

道は沼に沿うて、蛇のように陰鬱にうねっていた。その道の上を、

(いきたひとだまのようにふたりはとんでいた。ぬまのおもては、くもったそらをうつして)

生きた人魂のように二人は飛んでいた。沼の表は、曇った空を映して

(ふしのひふのように、おもくるしくぶきみにうつってみえた。)

腐屍の皮膚のように、重苦しく無気味に映って見えた。

(やがてみちはぼちのあたりにまで、ふたりのすがたをふくようにみちびいた。)

やがて道は墓地の辺にまで、二人の姿を吹くように導いた。

(ぼちのいりぐちまでせんとうのひとかげがくると、ふきけしたようにきえてしまった。)

墓地の入り口まで先頭の人影が来ると、吹き消したように消えてしまった。

(やすおかはどうじにろめんへたおれた。ぼちのまつばやしのあいだには、しろいはたやちょうちんが、)

安岡は同時に路面へ倒れた。墓地の松林の間には、白い旗や提灯が、

(まかれもしないでぶらっとさがっていた。あたらしいのやちゅうぶるのそとうばなどが、)

巻かれもしないでブラッと下がっていた。新しいのや中古の卒塔婆などが、

(ながいびょうにんのりんじゅうをおもわせるようにやせたぎょうそうで、たちならんでいた。)

長い病人の臨終を思わせるように瘠せた形相で、立ち並んでいた。

(まつのしげったはとはとのあいだから、くもったそらがひとだまのように)

松の茂った葉と葉との間から、曇った空が人魂のように

(まるいくうかんをのぞかせていた。)

丸い空間をのぞかせていた。

(やすおかははうようにしてすすんだ。かれのめをもしそのときだれかがみたなら、)

安岡は這うようにして進んだ。彼の眼をもしその時だれかが見たなら、

(そのひとはきっととびあがってさけんだであろう。それほどかれはねつに)

その人はきっと飛び上がって叫んだであろう。それほど彼は熱に

(うかされたような、いわばせんすいふくのあたまについているのとおなじめをしていた。)

浮かされたような、いわば潜水服の頭についているのと同じ眼をしていた。

(そして、そのめはおそるべきじょうけいをみた。)

そして、その眼は恐るべき情景を見た。

(それはひっしにあらわしえないしゅるいのものであった。)

それは筆紙に表わし得ない種類のものであった。

(ふかやは、いっしゅうかんまえにできししたせこちゃんのしんぼとけのかくないにいた!)

深谷は、一週間前に溺死したセコチャンの新仏の廓内にいた!

(かれのどこにそんなちからがあったのであろう。やきゅうのちゃんがふたりでようやく)

彼のどこにそんな力があったのであろう。野球のチャンが二人でようやく

(のっけることができた、かりのぼせきを、ふかやのひょろひょろなてが)

載っけることができた、仮の墓石を、深谷のヒョロヒョロな手が

(かるがるともちあげた。そのいしをそばへとりのけると、かれはかきねのいけがきのあいだから、)

軽々と持ち上げた。その石をそばへ取り除けると、彼は垣根の生け垣の間から、

(くわとのこぎりとをとりだした。くわはおとをたてないように、しかしめまぐるしく、)

鍬と鋸とを取り出した。鍬は音を立てないように、しかしめまぐるしく、

(まだかたまりきらないはかつちをはねかえした。)

まだ固まり切らない墓土を撥ね返した。

(やすおかのくうなめはこれをみていた。かれはいつのまにかりくからきりはなされた、)

安岡の空な眼はこれを見ていた。彼はいつの間にか陸から切り離された、

(りゅうひょうのうえにいるようにかんじた。ふかやはなにをするのだろう?)

流氷の上にいるように感じた。深谷は何をするのだろう?

(そんなにせこちゃんとしんみつではなかった。)

そんなにセコチャンと親密ではなかった。

(どうせいあいなどとはおもいもよらないなかであった。)

同性愛などとは思いもよらない仲であった。

(ほとんどいちどもくちさえきいたことはなかった!)

ほとんど一度も口さえ利いたことはなかった!

(やわらかいはかつちはそばにたかくはねられた。そしてひつぎのうえはだんだんひくくなった。)

軟らかい墓土はそばに高く撥ねられた。そして棺の上はだんだん低くなった。

(ふかやのこしからしたはつちのかげにかくれた。)

深谷の腰から下は土の陰に隠れた。

(きー、きー、ばりっ、とくぎのぬけるおとがした。)

キー、キー、バリッ、と釘の抜ける音がした。

(くわで、ひつぎのふたをこじあけたらしかった。)

鍬で、棺の蓋をこじ開けたらしかった。

(ふかやのすがたは、あなのなかにかがみこんでみえなかった。)

深谷の姿は、穴の中にかがみ込んで見えなかった。

(が、のこぎりが、たしかにほねをひいているひびきが、)

が、鋸が、確かに骨を引いている響きが、

(なにひとつものおとのない、かすかないきのひびきさえ)

何一つ物音のない、かすかな息の響きさえ

(きこえそうなせきりょうを、にぶくつんざいていた。)

聞こえそうな寂寥を、鈍くつんざいていた。

(やすおかは、みみだけになっていた。)

安岡は、耳だけになっていた。

(ぷつっ!と、のこぎりのはがなにかやわらかいものにぶっつかるおとがした。)

プツッ!と、鋸の刃が何か柔らかいものにぶっつかる音がした。

(ふしのにおいが、やすおかのはなをするどくついた。)

腐屍の臭が、安岡の鼻を鋭く衝ついた。

(いけがきのそとから、はらばいになってめをこらしているやすおかのまえに、)

生け垣の外から、腹這になって目を凝らしている安岡の前に、

(おもむろにふかやがせをのばした。)

おもむろに深谷が背を伸ばした。

(かれはしがいのうでをもっていた。そしてまわりをみまわした。)

彼は屍骸の腕を持っていた。そして周りを見回した。

(ちょうどいぬがするようにすこしあごをもちあげて、)

ちょうど犬がするように少し顎を持ち上げて、

(たかはなをかいだ。めいじょうしがたいひょうじょうがかれのかおをよこぎった。)

高鼻を嗅かいだ。名状しがたい表情が彼の顔を横切った。

(とまるで、こいびとのうでにきっすでもするように、しかばねのうでへくちをもっていった。)

とまるで、恋人の腕にキッスでもするように、屍の腕へ口を持って行った。

(かれは、うまそうにそれをくいはじめた。)

彼は、うまそうにそれを食い始めた。

(もしやすおかがたっているか、うずくまっているかしたらかれは)

もし安岡が立っているか、うずくまっているかしたら彼は

(たおれたにちがいなかった。が、さいわいにしてかれははらばっていたから、)

倒れたに違いなかった。が、幸いにして彼は腹這っていたから、

(それいじょうにたおれることはなかった。)

それ以上に倒れることはなかった。

(が、かれはさけぶまいとして、いきなりじめんにくちをおしつけた。)

が、彼は叫ぶまいとして、いきなり地面に口を押しつけた。

(つちにはまるでそれがふしででもあるように、しゅうきがあるようにかんじた。)

土にはまるでそれが腐屍ででもあるように、臭気があるように感じた。

(かれはどうして、きしゅくしゃにかえったかじぶんでもしらなかった。)

彼はどうして、寄宿舎に帰ったか自分でも知らなかった。

(かれは、くちからほおへかけてどろだらけになってこんこんとしのようにねむった。)

彼は、口から頬へかけて泥だらけになって昏々と死のように眠った。

(あさ、ふかやはしずかにやすおかのおきるのをまっていた。)

朝、深谷は静かに安岡の起きるのを待っていた。

(やすおかはじゅういちじごろになってしのようなねむりからよみがえった。)

安岡は十一時ごろになって死のような眠りからよみがえった。

(ふしぎなことにはふかやも、まだしんしつにいた。)

不思議なことには深谷も、まだ寝室にいた。

(やすおかがめをさましたことをみると、)

安岡が眼を覚ましたことを見ると、

(「きみのけっせきとどけはぼくがだしておいたよ。やすおかくん」と、ふかやがいった。)

「君の欠席届は僕が出しておいたよ。安岡君」と、深谷が言った。

(「ありがと」やすおかはしまいまでいえなかった。)

「ありがと」安岡はしまいまで言えなかった。

(「きみは、さくや、なにかみなかったかい?」と、ふかやがきいた。)

「きみは、昨夜、何か見なかったかい?」と、深谷が聞いた。

(「いいや。なにもみなかった」やすおかのごびはきえた。)

「いいや。何も見なかった」安岡の語尾は消えた。

(「きみのくちのまわりは、まるでししでもくったように、どろだらけだよ。)

「きみの口の周りは、まるで死屍でも食ったように、泥だらけだよ。

(あらったらいいだろう。どうしたんだね」ふかやが、しずかにいった。)

洗ったらいいだろう。どうしたんだね」深谷が、静かに言った。

(が、そのかおには、ききがあふれていた。)

が、その顔には、鬼気があふれていた。

(それっきり、やすおかはびょうきになってしまった。)

それっきり、安岡は病気になってしまった。

(そのご、ろくにちごからしゅうがくりょこうであった。)

その五、六日後から修学旅行であった。

(ふかやはしゅうがくりょこうに、やすおかはこきょうにやまいをやしないにかえった。)

深谷は修学旅行に、安岡は故郷に病を養いに帰った。

(やすおかはこきょうのあらゆるいしのたちあいしんだんでもびょうめいがはんぜんしなかった。)

安岡は故郷のあらゆる医師の立ち会い診断でも病名が判然しなかった。

(りんじゅうのちんとうのしんゆうにかれはいった。「ぼくのびょうげんはぼくだけがしっている」)

臨終の枕頭の親友に彼は言った。「僕の病源は僕だけが知っている」

(こういって、きれぎれなことばでかれはしかばねをくうのをみたいちじょうをものがたった。)

こう言って、切れ切れな言葉で彼は屍を食うのを見た一場を物語った。

(そしていまわしいよにわかれをつげてしまった。)

そして忌まわしい世に別れを告げてしまった。

(そのおなじじこくに、やすおかがさいごのいきをはきだすときに、りょこうさきでふかやが)

その同じ時刻に、安岡が最期の息を吐き出す時に、旅行先で深谷が

(ゆくえふめいになった。すうじつご、ふかやのしがいがなぎさにうちあげられていた。)

行方不明になった。数日後、深谷の屍骸が渚に打ち上げられていた。

(そのしたいは、だいりせきのようにはんとうめいであった。)

その死体は、大理石のように半透明であった。

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