風立ちぬ 堀辰雄 ①

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投稿者投稿者ヒマヒマ マヒマヒいいね9お気に入り登録1
プレイ回数1万難易度(4.5) 5173打 長文
ジブリの「風立ちぬ」作成に当たり、参考とされた小説です。

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問題文

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(<じょきょく>それらのなつのひび、いちめんにすすきのおいしげったそうげんのなかで、)

(序曲) それらの夏の日々、一面に薄の生い茂った草原の中で、

(おまえがたったままねっしんにえをかいていると、わたしはいつもそのかたわらの)

お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍らの

(いっぽんのしらかばのこかげにみをよこたえていたものだった。そうしてゆうがたになって、)

一本の白樺の木蔭に身を横たえていたものだった。そうして夕方になって、

(おまえがしごとをすませてわたしのそばにくると、それからしばらくわたしたちは)

お前が仕事をすませて私のそばに来ると、それからしばらく私達は

(かたにてをかけあったまま、はるかかなたの、ふちだけあかねいろをおびたにゅうどうぐもの)

肩に手をかけ合ったまま、遥か彼方の、縁だけ茜色を帯びた入道雲の

(むくむくしたかたまりにおおわれているちへいせんのほうをながめやっていたものだった。)

むくむくした塊りに覆われている地平線の方を眺めやっていたものだった。

(ようやくくれようとしかけているそのちへいせんから、)

ようやく暮れようとしかけているその地平線から、

(はんたいになにものかがうまれてきつつあるかのように・・・)

反対に何物かが生れて来つつあるかのように・・・

(そんなひのあるごご、(それはもうあきちかいひだった)わたしたちはおまえの)

そんな日の或る午後、(それはもう秋近い日だった)私達はお前の

(かきかけのえをがかにたてかけたまま、そのしらかばのこかげにねそべって)

描きかけの絵を画架に立てかけたまま、その白樺の木蔭に寝そべって

(くだものをかじっていた。すなのようなくもがそらをさらさらとながれていた。)

果物を齧っていた。砂のような雲が空をさらさらと流れていた。

(そのときふいに、どこからともなくかぜがたった。わたしたちのあたまのうえでは、)

そのとき不意に、何処からともなく風が立った。私達の頭の上では、

(きのはのあいだからちらっとのぞいているあいいろがのびたりちぢんだりした。)

木の葉の間からちらっと覗いている藍色が伸びたり縮んだりした。

(それとほとんどどうじに、くさむらのなかになにかがばったりとたおれるものおとを)

それと殆んど同時に、草むらの中に何かがばったりと倒れる物音を

(わたしたちはみみにした。それはわたしたちがそこにおきっぱなしにしてあったえが、)

私達は耳にした。それは私達がそこに置きっぱなしにしてあった絵が、

(がかとともに、たおれたおとらしかった。すぐたちあがっていこうとするおまえを、)

画架と共に、倒れた音らしかった。すぐ立ち上って行こうとするお前を、

(わたしは、いまのいっしゅんのなにものをもうしなうまいとするかのようにむりにひきとめて、)

私は、いまの一瞬の何物をも失うまいとするかのように無理に引き留めて、

(わたしのそばからはなさないでいた。おまえはわたしのするがままにさせていた。)

私のそばから離さないでいた。お前は私のするがままにさせていた。

(ーかぜたちぬ、いざいきめやも。ー)

ー風立ちぬ、いざ生きめやも。ー

(ふとくちをついてでてきたそんなしくを、わたしはわたしにもたれているおまえのかたに)

ふと口を衝いて出て来たそんな詩句を、私は私にもたれているお前の肩に

など

(てをかけながら、くちのうちでくりかえしていた。)

手をかけながら、口の裡で繰り返していた。

(それからやっとおまえはわたしをふりほどいてたちあがっていった。)

それからやっとお前は私を振りほどいて立ち上って行った。

(まだよくかわいてはいなかったかんばすは、そのあいだに、いちめんにくさのはを)

まだよく乾いてはいなかったカンバスは、その間に、一めんに草の葉を

(こびつかせてしまっていた。それをふたたびがかにたてなおし、)

こびつかせてしまっていた。それを再び画架に立て直し、

(ぱれっと・ないふでそんなくさのはをとりにくそうにしながら、)

パレット・ナイフでそんな草の葉をとりにくそうにしながら、

(「まあ!こんなところを、もしおとうさまにでもみつかったらーー」)

「まあ! こんなところを、もしお父様にでも見つかったらーー」

(おまえはわたしのほうをふりむいて、なんだかあいまいなほほえみをした。)

お前は私の方をふり向いて、なんだか曖昧な微笑をした。

(「もうにさんにちしたらおとうさまがいらっしゃるわ」)

「もう二三日したらお父様がいらっしゃるわ」

(あるあさのこと、わたしたちがもりのなかをさまよっているとき、)

或る朝のこと、私達が森の中をさまよっているとき、

(とつぜんおまえがそういいだした。わたしはなんだかふまんそうにだまっていた。)

突然お前がそう言い出した。私はなんだか不満そうに黙っていた。

(するとおまえは、そういうわたしのほうをみながら、)

するとお前は、そういう私の方を見ながら、

(すこししゃがれたようなこえでふたたびくちをきいた。)

すこししゃがれたような声で再び口をきいた。

(「そうしたらもう、こんなさんぽもできなくなるわね」)

「そうしたらもう、こんな散歩も出来なくなるわね」

(「どんなさんぽだって、しようとおもえばできるさ」)

「どんな散歩だって、しようと思えば出来るさ」

(わたしはまだふまんらしく、おまえのいくぶんきづかわしそうなしせんを)

私はまだ不満らしく、お前のいくぶん気づかわしそうな視線を

(じぶんのうえにかんじながら、しかしそれよりももっと、わたしたちのずじょうのこずえが)

自分の上に感じながら、しかしそれよりももっと、私達の頭上の梢が

(なんとはなしにざわめいているのにきをとられているようなようすをしていた。)

何んとはなしにざわめいているのに気をとられているような様子をしていた。

(「おとうさまがなかなかわたしをはなしてくださらないわ」)

「お父様がなかなか私を離して下さらないわ」

(わたしはとうとうじれったいとでもいうようなめつきで、おまえのほうをみかえした。)

私はとうとう焦れったいとでも云うような目つきで、お前の方を見返した。

(「じゃあ、ぼくたちはもうこれでおわかれだというのかい?」)

「じゃあ、僕達はもうこれでお別れだと云うのかい?」

(「だってしかたがないじゃないの」)

「だって仕方がないじゃないの」

(そういっておまえはいかにもあきらめきったように、わたしにつとめて)

そう言ってお前はいかにも諦め切ったように、私につとめて

(ほほえんでみせようとした。ああ、そのときのおまえのかおいろの、)

微笑んで見せようとした。ああ、そのときのお前の顔色の、

(そしてそのくちびるのいろまでも、なんとあおざめていたことったら!)

そしてその唇の色までも、何んと蒼ざめていたことったら!

(「どうしてこんなにかわっちゃったんだろうなあ。あんなにわたしに)

「どうしてこんなに変っちゃったんだろうなあ。あんなに私に

(なにもかもまかせきっていたようにみえたのにーー」と)

何もかも任せ切っていたように見えたのにーー」と

(わたしはかんがえあぐねたようなかっこうで、だんだんはだかねのごろごろしだしてきた)

私は考えあぐねたような恰好で、だんだん裸根のごろごろし出して来た

(せまいやまみちを、おまえをすこしさきにやりながら、)

狭い山径を、お前をすこし先きにやりながら、

(いかにもあるきにくそうにあるいていった。)

いかにも歩きにくそうに歩いて行った。

(そこいらはもうだいぶこだちがふかいとみえ、くうきはひえびえとしていた。)

そこいらはもうだいぶ木立が深いと見え、空気はひえびえとしていた。

(ところどころにちいさなさわがくいこんだりしていた。)

ところどころに小さな沢が食いこんだりしていた。

(とつぜん、わたしのあたまのなかにこんなかんがえがひらめいた。おまえはこのなつ、)

突然、私の頭の中にこんな考えが閃いた。お前はこの夏、

(ぐうぜんであったわたしのようなものにもあんなにじゅうじゅんだったように、)

偶然出逢った私のような者にもあんなに従順だったように、

(いや、もっともっと、おまえのちちや、それからまたそういうちちをも)

いや、もっともっと、お前の父や、それからまたそういう父をも

(かずにいれたおまえのすべてをたえずしはいしているものに、)

数に入れたお前のすべてを絶えず支配しているものに、

(すなおにみをまかせきっているのではないだろうか?)

素直に身を任せ切っているのではないだろうか?

(「せつこ!そういうおまえであるのなら、わたしはおまえが)

「節子!そういうお前であるのなら、私はお前が

(もっともっとすきになるだろう。)

もっともっと好きになるだろう。

(わたしがもっとしっかりとせいかつのみとおしがつくようになったら、)

私がもっとしっかりと生活の見透しがつくようになったら、

(どうしたっておまえをもらいにいくから、それまではおとうさんのもとに)

どうしたってお前を貰いに行くから、それまではお父さんのもとに

(いまのままのおまえでいるがいい・・・」そんなことをわたしは)

今のままのお前でいるがいい・・・」そんなことを私は

(じぶんじしんにだけいいきかせながら、しかしおまえのどういを)

自分自身にだけ言い聞かせながら、しかしお前の同意を

(もとめでもするかのように、いきなりおまえのてをとった。)

求めでもするかのように、いきなりお前の手をとった。

(おまえはそのてをわたしにとられるがままにさせていた。)

お前はその手を私にとられるがままにさせていた。

(それからわたしたちはそうしててをくんだまま、ひとつのさわのまえにたちどまりながら、)

それから私達はそうして手を組んだまま、一つの沢の前に立ち止まりながら、

(おしだまって、わたしたちのあしもとにふかくくいこんでいるちいさなさわのずっとそこの、)

押し黙って、私達の足許に深く食いこんでいる小さな沢のずっと底の、

(したばえのしだなどのうえまで、ひのひかりがかずしれずえだをさしかわしている)

下生えの羊歯などの上まで、日の光が数知れず枝をさしかわしている

(ひくいかんぼくのすきまをようやくのことでくぐりぬけながら、)

低い灌木の隙間をようやくのことで潜り抜けながら、

(まだらにおちていて、そんなこもれびがそこまでとどくうちに)

斑に落ちていて、そんな木洩れ日がそこまで届くうちに

(ほとんどあるかないかくらいになっているそよかぜにちらちらとゆれうごいているのを、)

殆んどあるかないか位になっている微風にちらちらと揺れ動いているのを、

(なにかせつないようなきもちでみつめていた。)

何か切ないような気持で見つめていた。

(それからにさんにちしたあるゆうがた、わたしはしょくどうで、おまえがおまえをむかえにきたちちと)

それから二三日した或る夕方、私は食堂で、お前がお前を迎えに来た父と

(しょくじをともにしているのをみいだした。)

食事を共にしているのを見出した。

(おまえはわたしのほうにぎこちなさそうにせなかをむけていた。)

お前は私の方にぎこちなさそうに背中を向けていた。

(ちちのそばにいることがおまえにほとんどむいしきてきにとらせているにちがいない)

父の側にいることがお前に殆んど無意識的に取らせているにちがいない

(ようすやどうさは、わたしにはおまえをついぞみかけたこともないような)

様子や動作は、私にはお前をついぞ見かけたこともないような

(わかいむすめのようにかんじさせた。)

若い娘のように感じさせた。

(「たといわたしがそのなをよんだにしたってーー」とわたしはひとりでつぶやいた。)

「たとい私がその名を呼んだにしたってーー」と私は一人でつぶやいた。

(「あいつはへいきでこっちをみむきもしないだろう。)

「あいつは平気でこっちを見向きもしないだろう。

(まるでもうわたしのよんだものではないかのようにーー」)

まるでもう私の呼んだものではないかのようにーー」

(そのばん、わたしはひとりでつまらなそうにでかけていったさんぽから)

その晩、私は一人でつまらなそうに出かけて行った散歩から

(かえってきてからも、しばらくほてるのひとけのないにわのなかをぶらぶらしていた。)

かえって来てからも、しばらくホテルの人けのない庭の中をぶらぶらしていた。

(やまゆりがにおっていた。わたしはほてるのまどがまだふたつみっつあかりをもらしているのを)

山百合が匂っていた。私はホテルの窓がまだ二つ三つあかりを洩らしているのを

(ぼんやりとみつめていた。そのうちすこしきりがかかってきたようだった。)

ぼんやりと見つめていた。そのうちすこし霧がかかって来たようだった。

(それをおそれでもするかのように、まどのあかりはひとつびとつきえていった。)

それを恐れでもするかのように、窓のあかりは一つびとつ消えて行った。

(そしてとうとうほてるじゅうがすっかりまっくらになったかとおもうと、)

そしてとうとうホテル中がすっかり真っ暗になったかと思うと、

(かるいきしりがして、ゆるやかにひとつのまどがあいた。)

軽いきしりがして、ゆるやかに一つの窓が開いた。

(そしてばらいろのねまきらしいものをきた、ひとりのわかいむすめが、)

そして薔薇色のねまきらしいものを着た、一人の若い娘が、

(まどのへりにじっとよりかかりだした。それはおまえだった。)

窓の縁にじっとよりかかり出した。それはお前だった。

(おまえたちがたっていったのち、ひごとひごとずっとわたしのむねをしめつけていた、)

お前達が発って行ったのち、日ごと日ごとずっと私の胸をしめつけていた、

(あのかなしみににたようなこうふくのふんいきを、わたしはいまだにはっきりと)

あの悲しみに似たような幸福の雰囲気を、私はいまだにはっきりと

(よみがえらせることができる。)

蘇らせることが出来る。

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