風立ちぬ 堀辰雄 ⑯
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問題文
(わたしはうらのはやしをぬけてさなとりうむにかえった。)
私は裏の林を抜けてサナトリウムに帰った。
(そしてばるこんをうかいしながら、いちばんはずれのびょうしつにちかづいていった。)
そしてバルコンを迂回しながら、一番はずれの病室に近づいて行った。
(わたしにはすこしもきがつかずに、せつこは、べっどのうえで、)
私には少しも気がつかずに、節子は、ベッドの上で、
(いつもしているようにかみのさきをてでいじりながら、)
いつもしているように髪の先きを手でいじりながら、
(いくぶんかなしげなめつきでくうをみつめていた。)
いくぶん悲しげな目つきで空を見つめていた。
(わたしはまどがらすをゆびでたたこうとしたのをふとおもいとどまりながら、)
私は窓硝子を指で叩こうとしたのをふと思い止まりながら、
(そういうかのじょのすがたをじっとみいった。)
そういう彼女の姿をじっと見入った。
(かのじょはなにかにおびやかされているのをようやくやっとこらえているとでもいったようすで、)
彼女は何かに脅かされているのを漸やっとこらえているとでも云った様子で、
(それでいてそんなようすをしていることなどはおそらくかのじょじしんも)
それでいてそんな様子をしていることなどは恐らく彼女自身も
(きがついていないのだろうとおもえるくらい、ぼんやりしているらしかった。)
気がついていないのだろうと思える位、ぼんやりしているらしかった。
(ーーわたしはしんぞうをしめつけられるようなきがしながら、)
ーー私は心臓をしめつけられるような気がしながら、
(そんなみしらないかのじょのすがたをみつめていた。)
そんな見知らない彼女の姿を見つめていた。
(ーーととつぜん、かのじょのかおがあかるくなったようだった。)
ーーと突然、彼女の顔が明るくなったようだった。
(かのじょはかおをもたげて、ほほえみさえしだした。)
彼女は顔をもたげて、微笑さえしだした。
(かのじょはわたしをみとめたのだった。)
彼女は私を認めたのだった。
(わたしはばるこんからはいりながら、かのじょのそばにちかづいていった。)
私はバルコンからはいりながら、彼女の側に近づいて行った。
(「なにをかんがえていたの?」「なんにもーー」)
「何を考えていたの?」「なんにもーー」
(かのじょはなんだかじぶんのでないようなこえでへんじをした。)
彼女はなんだか自分のでないような声で返事をした。
(わたしがそのままなにもいいださずに、すこしきがふさいだようにだまっていると、)
私がそのまま何も言い出さずに、すこし気がふさいだように黙っていると、
(かのじょはやっといつものじぶんにかえったような、しんみつなこえで、)
彼女はやっといつもの自分に返ったような、親密な声で、
(「どこへいっていらしったの?ずいぶんながかったのね」とわたしにきいた。)
「何処へ行っていらしったの? 随分長かったのね」 と私に訊いた。
(「むこうのほうだ」わたしはむぞうさにばるこんのましょうめんにみえるとおいもりのほうをさした。)
「向うの方だ」私は無雑作にバルコンの真正面に見える遠い森の方を指した。
(「まあ、あんなところまでいったの?ーーおしごとはできそう?」)
「まあ、あんなところまで行ったの? ーーお仕事は出来そう?」
(「うん、まあーー」わたしはひどくぶあいそうにこたえたきり、)
「うん、まあーー」私はひどく無愛想に答えたきり、
(しばらくまたもとのようなむごんにかえっていたが、それからだしぬけにわたしは、)
しばらくまた元のような無言に返っていたが、それから出し抜けに私は、
(「おまえ、いまのようなせいかつにまんぞくしているかい?」)
「お前、いまのような生活に満足しているかい?」
(といくらかうわずったようなこえできいた。)
といくらか上ずったような声で訊いた。
(かのじょはそんなとっぴょうしもないしつもんにちょっとたじろいだようすをしていたが、)
彼女はそんな突拍子もない質問にちょっとたじろいだ様子をしていたが、
(それからわたしをじっとみつめかえして、)
それから私をじっと見つめ返して、
(いかにもそれをかくしんしているようにうなずきながら、)
いかにもそれを確信しているように頷きながら、
(「どうしてそんなことをおききになるの?」といぶかしそうにといかえした。)
「どうしてそんなことをお訊きになるの?」といぶかしそうに問い返した。
(「おれはなんだかいまのようなせいかつが)
「おれは何んだかいまのような生活が
(おれのきまぐれなのじゃないかとおもったんだ。)
おれの気まぐれなのじゃないかと思ったんだ。
(そんなものをいかにもだいじなもののようにこうやっておまえにもーー」)
そんなものをいかにも大事なもののようにこうやってお前にもーー」
(「そんなこといっちゃいや」かのじょはきゅうにわたしをさえぎった。)
「そんなこと言っちゃいや」彼女は急に私を遮った。
(「そんなことをおっしゃるのがあなたのきまぐれなの」)
「そんなことを仰るのがあなたの気まぐれなの」
(けれどもわたしはそんなことばにはまだまんぞくしないようなようすをみせていた。)
けれども私はそんな言葉にはまだ満足しないような様子を見せていた。
(かのじょはそういうわたしのしずんだようすをしばらくはもじもじしながらみまもっていたが、)
彼女はそういう私の沈んだ様子をしばらくはもじもじしながら見守っていたが、
(とうとうこらえきれなくなったとでもいうようにいいだした。)
とうとう怺え切れなくなったとでも言うように言い出した。
(「わたしがここでもって、こんなにまんぞくしているのが、)
「私が此処でもって、こんなに満足しているのが、
(あなたにはおわかりにならないの?どんなにからだのわるいときでも、)
あなたにはおわかりにならないの? どんなに体の悪いときでも、
(わたしはいちどだっていえへかえりたいなんぞとおもったことはないわ。)
私は一度だって家へ帰りたいなんぞと思ったことはないわ。
(もしあなたがわたしのそばにいてくださらなかったら、)
もしあなたが私の側に居て下さらなかったら、
(わたしはほんとうにどうなっていたでしょう?)
私は本当にどうなっていたでしょう?
(ーーさっきだって、あなたがおるすのあいだ、)
ーーさっきだって、あなたがお留守の間、
(さいしょのうちはそれでもあなたのおかえりがおそければおそいほど、)
最初のうちはそれでもあなたのお帰りが遅ければ遅いほど、
(おかえりになったときのよろこびがよけいになるばかりだとおもって、)
お帰りになったときの悦びが余計になるばかりだと思って、
(やせがまんしていたんだけれど、)
痩我慢していたんだけれど、
(ーーあなたがもうおかえりになるとわたしのおもいこんでいたじかんを)
ーーあなたがもうお帰りになると私の思い込んでいた時間を
(ずうっとすぎてもおかえりにならないので、)
ずうっと過ぎてもお帰りにならないので、
(しまいにはとてもふあんになってきたの。)
しまいにはとても不安になって来たの。
(そうしたら、いつもあなたといっしょにいるこのへやまでが)
そうしたら、いつもあなたと一緒にいるこの部屋までが
(なんだかみしらないへやのようなきがしてきて、)
なんだか見知らない部屋のような気がしてきて、
(こわくなってへやのなかからとびだしたくなったくらいだったわ。)
こわくなって部屋の中から飛び出したくなった位だったわ。
(ーーでも、それからやっとあなたのいつかおっしゃったおことばをかんがえだしたら、)
ーーでも、それからやっとあなたのいつか仰ったお言葉を考え出したら、
(すこうしきがおちついてきたの。)
すこうし気が落着いて来たの。
(あなたはいつかわたしにこうおっしゃったでしょう、)
あなたはいつか私にこう仰ったでしょう、
(ーーわたしたちのいまのせいかつ、ずっとあとになっておもいだしたら)
ーー私達のいまの生活、ずっとあとになって思い出したら
(どんなにうつくしいだろうってーー」)
どんなに美しいだろうってーー」
(かのじょはだんだんしゃがれたようなこえになりながらそれをいいおえると、)
彼女はだんだんしゃがれたような声になりながらそれを言いおえると、
(いっしゅのほほえみともつかないようなものでくちもとをゆがめながら、わたしをじっとみつめた。)
一種の微笑ともつかないようなもので口元を歪めながら、私をじっと見つめた。
(かのじょのそんなことばをきいているうちに、)
彼女のそんな言葉を聞いているうちに、
(たまらぬほどむねがいっぱいになりだしたわたしは、)
たまらぬほど胸が一ぱいになり出した私は、
(しかし、そういうじぶんのかんどうしたようすを)
しかし、そういう自分の感動した様子を
(かのじょにみられることをおそれでもするように、)
彼女に見られることを恐れでもするように、
(そっとばるこんにでていった。)
そっとバルコンに出て行った。
(そしてそのうえから、かつてわたしたちのしあわせをそこにかんぜんにえがきだしたかともおもえた)
そしてその上から、かつて私達の幸福をそこに完全に描き出したかとも思えた
(あのしょかのゆうがたのそれににたーーしかしそれとはぜんぜんことなったあきのごぜんのひかり、)
あの初夏の夕方のそれに似たーーしかしそれとは全然異った秋の午前の光、
(もっとつめたい、もっとふかみのあるひかりをおびた、)
もっと冷たい、もっと深味のある光を帯びた、
(あたりいったいのふうけいをわたしはしみじみとみいりだしていた。)
あたり一帯の風景を私はしみじみと見入りだしていた。
(あのときのしあわせににた、しかしもっともっとむねのしめつけられるような)
あのときの幸福に似た、しかしもっともっと胸のしめつけられるような
(みしらないかんどうでじぶんがいっぱいになっているのをかんじながらーー)
見知らない感動で自分が一ぱいになっているのを感じながらーー