風立ちぬ 堀辰雄 ⑱

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投稿者投稿者ヒマヒマ マヒマヒいいね3お気に入り登録
プレイ回数1186難易度(4.5) 4311打 長文
ジブリの「風立ちぬ」作成に当たり、参考とされた小説です。

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問題文

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(「どうしたんだい?」わたしはかのじょのそばにかけつけて、いきをはずませながらきいた。)

「どうしたんだい?」私は彼女の側に駈けつけて、息をはずませながら訊いた。

(「ここであなたをおまちしていたの」)

「此処であなたをお待ちしていたの」

(かのじょはかおをすこしあかくしてわらいながらこたえた。)

彼女は顔を少しあかくして笑いながら答えた。

(「そんならんぼうなことをしてもよいのかなあ」わたしはかのじょのかおをよこからみた。)

「そんな乱暴な事をしても好いのかなあ」私は彼女の顔を横から見た。

(「いっぺんくらいならかまわないわ。)

「一遍くらいなら構わないわ。

(ーーそれにきょうはとてもきぶんがよいのですもの」)

ーーそれにきょうはとても気分が好いのですもの」

(つとめてかいかつなこえをだしてそういいながら、)

つとめて快活な声を出してそう言いながら、

(かのじょはなおもじっとわたしのかえってきたさんろくのほうをみていた。)

彼女はなおもじっと私の帰って来た山麓の方を見ていた。

(「あなたのいらっしゃるのが、ずっととおくからみえていたわ」)

「あなたのいらっしゃるのが、ずっと遠くから見えていたわ」

(わたしはなにもいわずに、かのじょのそばにならんで、おなじほうがくをみつめた。)

私は何も言わずに、彼女の側に並んで、同じ方角を見つめた。

(かのじょがふたたびかいかつそうにいった。)

彼女が再び快活そうに言った。

(「ここまででると、やつがたけがすっかりみえるのね」)

「此処まで出ると、八ヶ岳がすっかり見えるのね」

(「うん」とわたしはきのなさそうなへんじをしたきりだったが、)

「うん」と私は気のなさそうな返事をしたきりだったが、

(そのままそうやってかのじょとかたをならべてそのやまをみつめているうちに、)

そのままそうやって彼女と肩を並べてその山を見つめているうちに、

(ふいとなんだかふしぎにこんがらかったようなきがしてきた。)

ふいと何んだか不思議に混んがらかったような気がして来た。

(「こうやっておまえとあのやまをみているのはきょうがはじめてだったね。)

「こうやってお前とあの山を見ているのはきょうが始めてだったね。

(だが、おれにはどうもこれまでになんべんもこうやって)

だが、おれにはどうもこれまでに何遍もこうやって

(あれをみていたことがあるようなきがするんだよ」)

あれを見ていた事があるような気がするんだよ」

(「そんなはずはないじゃないの?」)

「そんな筈はないじゃあないの?」

(「いや、そうだーーおれはいまようやくやっときがついた)

「いや、そうだーーおれはいま漸やっと気がついた

など

(ーーおれたちはね、ずっとまえにこのやまをちょうどむこうがわから、)

ーーおれ達はね、ずっと前にこの山を丁度向う側から、

(こうやっていっしょにみていたことがあるのだ。)

こうやって一しょに見ていたことがあるのだ。

(いや、おまえとそれをみていたなつのじぶんはいつもくもにさまたげられて)

いや、お前とそれを見ていた夏の時分はいつも雲に妨げられて

(ほとんどなにもみえやしなかったのさ。)

殆ど何も見えやしなかったのさ。

(ーーしかしあきになってから、ひとりでおれがそこへいってみたら、)

ーーしかし秋になってから、一人でおれが其処へ行って見たら、

(ずっとむこうのちへいせんのはてに、このやまがいまとははんたいのがわからみえたのだ。)

ずっと向うの地平線の果てに、この山が今とは反対の側から見えたのだ。

(あのとおくにみえた、どこのやまだかちっともしらずにいたのが、)

あの遠くに見えた、どこの山だかちっとも知らずにいたのが、

(たしかにこれらしい。ちょうどそんなほうがくになりそうだ。)

確かにこれらしい。丁度そんな方角になりそうだ。

(ーーおまえ、あのすすきがたんとおいしげっていたはらをおぼえているだろう?」)

ーーお前、あの薄がたんと生い茂っていた原を覚えているだろう?」

(「ええ」「だがじつにみょうだなあ。いま、あのやまのふもとに)

「ええ」「だが実に妙だなあ。いま、あの山の麓に

(こうしてこれまでなにもきがつかずにおまえとくらしていたなんてーー」)

こうしてこれまで何も気がつかずにお前と暮らしていたなんてーー」

(ちょうどにねんまえの、あきのさいごのひ、)

丁度二年前の、秋の最後の日、

(いちめんにおいしげったすすきのあいだからはじめてちへいせんのうえに)

一面に生い茂った薄の間からはじめて地平線の上に

(くっきりとみいだしたこのやまやまをとおくからながめながら、)

くっきりと見出したこの山々を遠くから眺めながら、

(ほとんどかなしいくらいのしあわせなかんじをもって、)

殆ど悲しいくらいの幸福な感じをもって、

(ふたりはいつかはきっといっしょになれるだろうとゆめみていたじぶんじしんのすがたが、)

二人はいつかはきっと一緒になれるだろうと夢見ていた自分自身の姿が、

(いかにもなつかしく、わたしのめにあざやかにうかんできた。)

いかにも懐かしく、私の目に鮮かに浮んで来た。

(わたしたちはちんもくにおちた。)

私達は沈黙に落ちた。

(そのじょうくうをわたりどりのむれらしいのがおともなくすうっとよこぎっていく、)

その上空を渡り鳥の群れらしいのが音もなくすうっと横切って行く、

(そのなみかさなったやまやまをながめながら、わたしたちはそんなさいしょのひびのような)

その並み重った山々を眺めながら、私達はそんな最初の日々のような

(したわしいきもちで、かたをおしつけあったまま、たたずんでいた。)

慕わしい気持で、肩を押しつけ合ったまま、佇んでいた。

(そうしてわたしたちのかげがだんだんながくなりながらくさのうえをはうがままにさせていた。)

そうして私達の影がだんだん長くなりながら草の上を這うがままにさせていた。

(やがてかぜがすこしでたとみえて、わたしたちのはいごのぞうきばやしがきゅうにざわめきたった。)

やがて風が少し出たと見えて、私達の背後の雑木林が急にざわめき立った。

(わたしは「もうそろそろかえろう」とふいとおもいだしたようにかのじょにいった。)

私は「もうそろそろ帰ろう」と不意と思い出したように彼女に言った。

(わたしたちはたえずおちばのしているぞうきばやしのなかへはいっていった。)

私達は絶えず落葉のしている雑木林の中へはいって行った。

(わたしはときどきたちどまって、かのじょをすこしさきにあるかせた。)

私はときどき立ち止まって、彼女を少し先きに歩かせた。

(にねんまえのなつ、ただかのじょをよくみたいばかりに、)

二年前の夏、ただ彼女をよく見たいばかりに、

(わざとわたしのにさんぽさきにかのじょをあるかせながらもりのなかなどをさんぽしたころの)

わざと私の二三歩先きに彼女を歩かせながら森の中などを散歩した頃の

(さまざまなちいさなおもいでが、しんぞうをしめつけられるくらいに、)

さまざまな小さな思い出が、心臓をしめつけられる位に、

(わたしのうちにいっぱいにあふれてきた。)

私の裡に一ぱいに溢れて来た。

(じゅういちがつふつかよる、ひとつのあかりがわたしたちをちかづけあっている。)

十一月二日   夜、一つの明りが私達を近づけ合っている。

(そのあかりのしたで、ものをいいあわないことにもなれて、)

その明りの下で、ものを言い合わないことにも馴れて、

(わたしがせっせとわたしたちのせいのしあわせをしゅだいにしたものがたりをかきつづけていると、)

私がせっせと私達の生の幸福を主題にした物語を書き続けていると、

(そのかさのかげになった、うすぐらいべっどのなかに、)

その笠の陰になった、薄暗いベッドの中に、

(せつこはそこにいるのだかいないのだかわからないほど、ものしずかにねている。)

節子は其処にいるのだかいないのだか分らないほど、物静かに寝ている。

(ときどきわたしがそっちへかおをあげると、さっきからじっとわたしを)

ときどき私がそっちへ顔を上げると、さっきからじっと私を

(みつめつづけていたかのようにわたしをみつめていることがある。)

見つめつづけていたかのように私を見つめていることがある。

(「こうやってあなたのおそばにいさえすれば、わたしはそれでよいの」)

「こうやってあなたのお側に居さえすれば、私はそれで好いの」

(とわたしにさもいいたくってたまらないでいるような、あいじょうをこめためつきである。)

と私にさも言いたくってたまらないでいるような、愛情をこめた目つきである。

(ああ、それがどんなにいまのわたしにじぶんたちのしょゆうしているしあわせをしんじさせ、)

ああ、それがどんなに今の私に自分達の所有している幸福を信じさせ、

(そしてこうやってそれにはっきりしたかたちをあたえることに)

そしてこうやってそれにはっきりした形を与えることに

(どりょくしているわたしをたすけていてくれることか!)

努力している私を助けていて呉れることか!

(じゅういちがつとうかふゆになる。そらはひろがり、やまやまはいよいよちかくなる。)

十一月十日   冬になる。空は拡がり、山々はいよいよ近くなる。

(そのやまやまのじょうほうだけ、ゆきぐもらしいのがいつまでもうごかずに)

その山々の上方だけ、雪雲らしいのがいつまでも動かずに

(じっとしているようなことがある。そんなあさにはやまからゆきにおわれてくるのか、)

じっとしているようなことがある。そんな朝には山から雪に追われて来るのか、

(ばるこんのうえまでがいつもはあんまりみかけたことのないことりでいっぱいになる。)

バルコンの上までがいつもはあんまり見かけたことのない小鳥で一ぱいになる。

(そんなゆきぐものきえさったあとは、)

そんな雪雲の消え去ったあとは、

(いちにちぐらいそのやまやまのじょうほうだけがうすじろくなっていることがある。)

一日ぐらいその山々の上方だけが薄白くなっていることがある。

(そしてこのころはそんないくつかのやまのいただきには)

そしてこの頃はそんないくつかの山の頂きには

(そういうゆきがそのままめだつほどのこっているようになった。)

そういう雪がそのまま目立つほど残っているようになった。

(わたしはすうねんまえ、しばしば、こういうふゆのさびしいさんがくちほうで、)

私は数年前、しばしば、こういう冬の淋しい山岳地方で、

(かわいらしいむすめとふたりきりで、せけんからまったくへだたって、)

可愛らしい娘と二人きりで、世間から全く隔って、

(おたがいがせつなくおもうほどにあいしあいながら)

お互がせつなく思うほどに愛し合いながら

(くらすことをこのんでゆめみていたころのことをおもいだす。)

暮らすことを好んで夢みていた頃のことを思い出す。

(わたしはじぶんのちいさいときからうしなわずにいるかんびなじんせいへのかぎりないゆめを、)

私は自分の小さい時から失わずにいる甘美な人生へのかぎりない夢を、

(そういうひとのこわがるようなかこくなくらいのしぜんのなかに、)

そういう人のこわがるような苛酷なくらいの自然の中に、

(それをそっくりそのまますこしもそこなわずにいかしてみたかったのだ。)

それをそっくりそのまま少しもそこなわずに生かして見たかったのだ。

(そしてそのためにはどうしてもこういうほんとうのふゆ、)

そしてそのためにはどうしてもこういう本当の冬、

(さびしいさんがくちほうのそれでなければいけなかったのだーー)

淋しい山岳地方のそれでなければいけなかったのだーー

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