風立ちぬ 堀辰雄 ⑲

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投稿者投稿者ヒマヒマ マヒマヒいいね1お気に入り登録
プレイ回数920難易度(4.5) 3891打 長文
ジブリの「風立ちぬ」制作にあたり、参考とされた小説。

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問題文

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(ーーよるのあけかかるころ、わたしはまだそのすこしびょうしんなむすめのねむっているあいだに)

ーー夜の明けかかる頃、私はまだその少し病身な娘の眠っている間に

(そっとおきて、やまごやからゆきのなかへげんきよくとびだしていく。)

そっと起きて、山小屋から雪の中へ元気よく飛び出して行く。

(あたりのやまやまは、あけぼののひかりをあびながら、ばらいろにかがやいている。)

あたりの山々は、曙の光を浴びながら、薔薇色にかがやいている。

(わたしはとなりののうかからしぼりたてのやぎのちちをもらって、)

私は隣りの農家からしぼり立ての山羊の乳を貰って、

(すっかりこごえそうになりながらもどってくる。)

すっかり凍えそうになりながら戻ってくる。

(それからじぶんでだんろにたきぎをくべる。)

それから自分で煖炉に焚木をくべる。

(やがてそれがぱちぱちとかっぱつなおとをたててもえだし、)

やがてそれがぱちぱちと活溌な音を立てて燃え出し、

(そのおとでやっとそのむすめがめをさますじぶんには、もうわたしはかじかんだてをして、)

その音で漸っとその娘が目を覚ます時分には、もう私はかじかんだ手をして、

(しかし、さもたのしそうに、いまじぶんたちがそうやってくらしているやまのせいかつを)

しかし、さも愉しそうに、いま自分達がそうやって暮している山の生活を

(そっくりそのままかきとっているーー)

そっくりそのまま書き取っているーー

(けさ、わたしはそういうじぶんのすうねんまえのゆめをおもいだし、)

今朝、私はそういう自分の数年前の夢を思い出し、

(そんなどこにだってありそうもないはんがじみた)

そんな何処にだってありそうもない版画じみた

(ふゆげしきをまのあたりにうかべながら、)

冬景色を目のあたりに浮べながら、

(そのまるきづくりのこやのなかのさまざまなかぐのいちをかえたり、)

その丸木造りの小屋の中のさまざまな家具の位置を換えたり、

(それについてわたしじしんとそうだんしあったりしていた。)

それに就いて私自身と相談し合ったりしていた。

(それからついにそんなはいけいはばらばらになり、ぼやけてきえていきながら、)

それから遂にそんな背景はばらばらになり、ぼやけて消えて行きながら、

(ただわたしのめのまえには、そのゆめからそれだけがげんじつにはみだしでもしたように、)

ただ私の目の前には、その夢からそれだけが現実にはみ出しでもしたように、

(ほんのすこしばかりゆきのつもったやまやまと、はだかになったこだちと、)

ほんの少しばかり雪の積った山々と、裸になった木立と、

(つめたいくうきとだけがのこっていた。)

冷たい空気とだけが残っていた。

(ひとりでさきにしょくじをすませてしまってから、)

一人で先きに食事をすませてしまってから、

など

(まどぎわにいすをずらしてそんなおもいでにふけっていたわたしは、)

窓ぎわに椅子をずらしてそんな思い出に耽っていた私は、

(そのとききゅうに、いまやっとしょくじをおえ、そのままべっどのうえにおきながら、)

そのとき急に、いまやっと食事をおえ、そのままベッドの上に起きながら、

(なんとなくつかれをおびたようなぼんやりしためつきで)

なんとなく疲れを帯びたようなぼんやりした目つきで

(やまのほうをみつめているせつこのほうをふりむいて、)

山の方を見つめている節子の方をふり向いて、

(そのかみのけのすこしほつれているやつれたようなかおを)

その髪の毛の少しほつれているやつれたような顔を

(いつになくいたいたしげにみつめだした。)

いつになく痛々しげに見つめ出した。

(「このおれのゆめがこんなところまでおまえを)

「このおれの夢がこんなところまでお前を

(つれてきたようなものなのだろうかしら?」とわたしはなにかくいにちかいようなきもちで)

連れて来たようなものなのだろうかしら?」と私は何か悔いに近いような気持で

(いっぱいになりながら、くちにはださずに、びょうにんにむかってはなしかけた。)

一ぱいになりながら、口には出さずに、病人に向って話しかけた。

(「それだというのに、このごろのおれはじぶんのしごとにばかりこころをうばわれている。)

「それだというのに、この頃のおれは自分の仕事にばかり心を奪われている。

(そうしてこんなふうにおまえのそばにいるときだって、)

そうしてこんな風にお前の側にいる時だって、

(おれはげんざいのおまえのことなんぞちっともかんがえてやりはしないのだ。)

おれは現在のお前の事なんぞちっとも考えてやりはしないのだ。

(それでいて、おれはしごとをしながらおまえのことを)

それでいて、おれは仕事をしながらお前のことを

(もっともっとかんがえているのだと、)

もっともっと考えているのだと、

(おまえにも、それからじぶんじしんにもいってきかせてある。)

お前にも、それから自分自身にも言って聞かせてある。

(そうしておれはいつのまにかよいきになって、おまえのことよりも、)

そうしておれはいつのまにか好い気になって、お前の事よりも、

(おれのつまらないゆめなんぞにこんなにじかんをつぶしだしているのだーー」)

おれの詰まらない夢なんぞにこんなに時間を潰し出しているのだーー」

(そんなわたしのものいいたげなめつきにきがついたのか、びょうにんはべっどのうえから、)

そんな私のもの言いたげな目つきに気がついたのか、病人はベッドの上から、

(にっこりともしないで、まじめにわたしのほうをみかえしていた。)

にっこりともしないで、真面目に私の方を見かえしていた。

(このごろいつのまにか、そんなぐあいに、まえよりかずっとながいあいだ、)

この頃いつのまにか、そんな具合に、前よりかずっと長い間、

(もっともっとおたがいをしめつけあうようにめとめをみあわせているのが、)

もっともっとお互を締めつけ合うように目と目を見合わせているのが、

(わたしたちのしゅうかんになっていた。)

私達の習慣になっていた。

(じゅういちがつじゅうしちにちわたしはもうにさんにちすればわたしののおとをかきおえられるだろう。)

十一月十七日  私はもう二三日すれば私のノオトを書きおえられるだろう。

(それはわたしたちじしんのこうしたせいかつについてかいていればきりがあるまい。)

それは私達自身のこうした生活に就いて書いていれば切りがあるまい。

(それをともかくもいちおうかきおえるためには、)

それをともかくも一応書き終えるためには、

(わたしはなにかけつまつをあたえなければならないのだろうが、)

私は何か結末を与えなければならないのだろうが、

(いまもなおこうしてわたしたちのいきつづけているせいかつには)

今もなおこうして私達の生き続けている生活には

(どんなけつまつだってあたえたくはない。)

どんな結末だって与えたくはない。

(いや、あたえられはしないだろう。)

いや、与えられはしないだろう。

(むしろ、わたしたちのこうしたげんざいのあるがままのすがたで)

むしろ、私達のこうした現在のあるがままの姿で

(それをおわらせるのがいちばんよいだろう。)

それを終らせるのが一番好いだろう。

(げんざいのあるがままのすがた?)

現在のあるがままの姿?

(ーーわたしはいまなにかのものがたりでよんだ「しあわせのおもいでほどしあわせをさまたげるものはない」)

ーー私はいま何かの物語で読んだ「幸福の思い出ほど幸福を妨げるものはない」

(ということばをおもいだしている。)

という言葉を思い出している。

(いま、わたしたちのたがいにあたえあっているものは、かつてわたしたちのたがいに)

いま、私達の互に与え合っているものは、かつて私達の互に

(あたえあっていたしあわせとはまあなんとことなったものになってきているだろう!)

与え合っていた幸福とはまあ何んと異ったものになって来ているだろう!

(それはそういったしあわせににた、しかしそれとはかなりことなった、)

それはそう云った幸福に似た、しかしそれとはかなり異った、

(もっともっとむねがしめつけられるようにせつないものだ。)

もっともっと胸がしめつけられるように切ないものだ。

(こういうほんとうのすがたがまだわたしたちのせいのひょうめんにもかんぜんにあらわれてきていないものを、)

こういう本当の姿がまだ私達の生の表面にも完全に現われて来ていないものを、

(このままわたしはすぐおいつめていって、はたしてそれにわたしたちのしあわせのものがたりに)

このまま私はすぐ追いつめて行って、果してそれに私達の幸福の物語に

(ふさわしいようなけつまつをみいだせるであろうか?)

ふさわしいような結末を見出せるであろうか?

(なぜだかわからないけれど、わたしがまだはっきりさせることのできずにいる)

なぜだか分らないけれど、私がまだはっきりさせることの出来ずにいる

(わたしたちのせいのそくめんには、なんとなくわたしたちのそんなしあわせにてきいを)

私達の生の側面には、何んとなく私達のそんな幸福に敵意を

(もっているようなものがひそんでいるようなきもしてならない。)

もっているようなものが潜んでいるような気もしてならない。

(そんなことをわたしはなにかおちつかないきもちでかんがえながら、あかりをけして、)

そんなことを私は何か落着かない気持で考えながら、明りを消して、

(もうねいっているびょうにんのそばをとおりぬけようとして、)

もう寝入っている病人の側を通り抜けようとして、

(ふとたちどまってくらがりのなかにそれだけがほのじろくういている)

ふと立ち止まって暗がりの中にそれだけがほの白く浮いている

(かのじょのねがおをじっとみまもった。)

彼女の寝顔をじっと見守った。

(そのすこしおちくぼんだめのまわりがときどきぴくぴくとひっつれるようだったが、)

その少し落ち窪んだ目のまわりがときどきぴくぴくとひっつれるようだったが、

(わたしにはそれがなにものかにおどかされてでもいるようにみえてならなかった。)

私にはそれが何物かに脅かされてでもいるように見えてならなかった。

(わたしじしんのいいようもないふあんがそれをただそんなふうに)

私自身の云いようもない不安がそれを唯そんな風に

(かんじさせるにすぎないであろうか?)

感じさせるに過ぎないであろうか?

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