ああ玉杯に花うけて 第六部 3
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問題文
(「まってくれ、さかいはやけどをしてるんだ、あやまりにきたものをなぐるって)
「待ってくれ、阪井は火傷をしてるんだ、あやまりにきたものをなぐるって
(ほうがあるか、やけどをしてるものをなぐるってほうがあるか」つるがやむときには)
法があるか、火傷をしてるものを撲るって法があるか」つるが病むときには
(とものつるがつばさをひろげてごたいをあたためてやる、ちょうどそのようにやなぎは)
友のつるが翼をひろげて五体を温めてやる、ちょうどそのように柳は
(どろやつばによごれたさかいのぜんしんをそのむねのしたにつつみ、きっとかおをあげて)
どろやつばによごれた阪井の全身をその胸の下に包み、きっと顔をあげて
(しんいにもゆるすうじゅうのめをみあげた、そのめにはゆうじょうのしせいがかがやき、そのくちもとには)
瞋恚に燃ゆる数十の目を見あげた、その目には友情の至誠が輝き、その口元には
(おかすべからざるゆうきがあふれた。「なぜさかいをなぐるか、なぐったところで)
おかすべからざる勇気があふれた。「なぜ阪井をなぐるか、なぐったところで
(こうちょうがふたたびかえってきやしない、きょうはぼくらがなきたいひなんだ、せんせいに)
校長がふたたび帰ってきやしない、今日はぼくらが泣きたい日なんだ、先生に
(わかれていちにちなくべきひなんだ、ひとをなぐるべきひではない、さかいだって・・・・・・)
わかれて一日泣くべき日なんだ、人をなぐるべき日ではない、阪井だって……
(さかいだって・・・・・・せんせいをみおくりにきたんじゃないか、・・・・・・しょくん、かえってくれたまえ)
阪井だって……先生を見送りにきたんじゃないか、……諸君、帰ってくれたまえ
(なあさかいくんもかえれよ、しょくんかえってくれ、さかいかえれよ、しょくん・・・・・・さかい・・・・・・」)
なあ阪井君も帰れよ、諸君帰ってくれ、阪井帰れよ、諸君……阪井……」
(やなぎはまっさおになってたんがんするようにいちどうにいった。もうだれもてを)
柳はまっさおになって歎願するように一同にいった。もうだれも手を
(くだそうとするものもなかった。かれらはがいかをあげた、そうしてげたを)
くだそうとするものもなかった。かれらは凱歌をあげた、そうしてげたを
(ひきずりひきずりがらがらひきあげた。あとにのこったやなぎは、くつじょくとひふんに)
ひきずりひきずりがらがら引きあげた。あとに残った柳は、屈辱と悲憤に
(むせんでいるさかいのあたまやせなかのどろやつばをふいてやった。「さあいこう」)
むせんでいる阪井の頭や背中のどろやつばをふいてやった。「さあいこう」
(さかいはだまっている。「どこかいたいか、えっ?あるけないか」さかいはやはり)
阪井はだまっている。「どこかいたいか、えっ? 歩けないか」阪井はやはり
(だまっている。「さあいこう、ねえ、みっともないじゃないか、くるまでも)
だまっている。「さあいこう、ねえ、みっともないじゃないか、車でも
(よぼうか」てをとってたすけおこそうとするやなぎのてをぐっとにぎって)
呼ぼうか」手を取ってたすけ起こそうとする柳の手をぐっとにぎって
(さかいはめをかっとあいた。「やなぎ、ゆるしてくれ」「なにをいうんだ、)
阪井は目をかっとあいた。「柳、ゆるしてくれ」「なにをいうんだ、
(かこのことはおたがいにわすれよう」「おれはおまえにわるいことばかりした、)
過去のことはおたがいにわすれよう」「おれはおまえに悪いことばかりした、
(それだのにおまえはにどともおれをすくうてくれた」「そんなことは)
それだのにおまえは二度ともおれを救うてくれた」「そんなことは
(どうでもいいよ、さあいこう」やなぎはさかいをしいてたたした、ふたりはだまって)
どうでもいいよ、さあいこう」柳は阪井を強いて立たした、ふたりはだまって
(うらどおりへでた。「おれはなあやなぎ」さかいはかんがいにたえぬもののごとくいった。)
裏通りへでた。「おれはなあ柳」阪井は感慨に堪えぬもののごとくいった。
(「おれはきょうからうまれかわるんだぞ」「どうしてだ」「おれがいままでよいと)
「おれは今日から生まれかわるんだぞ」「どうしてだ」「おれが今までよいと
(おもっていたことはすべてわるいことなんだ、それがわかったよ」)
思っていたことはすべて悪いことなんだ、それがわかったよ」
(「それはどういうことだ」「どういうことっておまえ、すべてだよ、すべてだ、)
「それはどういうことだ」「どういうことっておまえ、すべてだよ、すべてだ、
(なにもかもおれはわるいことをしてわるいとおもわなかったのだ、おやじはおれに)
なにもかもおれは悪いことをして悪いと思わなかったのだ、親父はおれに
(なんでもがっこうでいちばんつよいにんげんになれというだろう、だからおれはけんかをした、)
なんでも学校で一番強い人間になれというだろう、だからおれは喧嘩をした、
(かつどうをみるとひとをきったりばくちをしたりするのがきょうかくだというひとだ、だから)
活動を見ると人を斬ったり賭博をしたりするのが侠客だという人だ、だから
(おれはそれをまねてみたんだ、だがそれはまちがってるね、わるいことをしてひとより)
おれはそれをまねて見たんだ、だがそれは間違ってるね、悪いことをして人より
(えらくなろうというのはどろぼうしてかねもちになろうとするのとおなじものだね、)
えらくなろうというのは泥棒して金持ちになろうとするのと同じものだね、
(そうおもわないか」「そうだとも」「だからさ・・・・・・」さかいはこういったとき、)
そう思わないか」「そうだとも」「だからさ……」阪井はこういったとき、
(きずがいたむのでまゆをひそめた。「きみのいえまでおくってゆこう」とやなぎはいった。)
傷がいたむので眉をひそめた。「君の家まで送ってゆこう」と柳はいった。
(かまわない、もうすこしあるこう」さかいはふたたびなにかいいつづけようとしたが)
かまわない、もう少し歩こう」阪井はふたたびなにかいいつづけようとしたが
(きゅうにくちをつぐんでかなしそうなかおをした。「くるまにのれよ」「なんでもないよ・・・・・・)
急に口をつぐんで悲しそうな顔をした。「車に乗れよ」「何でもないよ……
(ねえやなぎ、ぼくはおまえにききたいことがあるんだが」「なんだ」)
ねえ柳、ぼくはおまえにききたいことがあるんだが」「なんだ」
(「いちねんのとき、しげもりのかんげんをよんだね」「ああ、ちゅうこうりょうどうのところだろう」)
「一年のとき、重盛の諫言を読んだね」「ああ、忠孝両道のところだろう」
(「うん、きみにちゅうならんとすればおやにこうならず、しげもりはかわいそうだね」)
「うん、君に忠ならんとすれば親に孝ならず、重盛はかわいそうだね」
(「ああ」「きよもりはわるいやつだね」「ああ」「しげもりがいくらいさめても)
「ああ」「清盛は悪いやつだね」「ああ」「重盛がいくらいさめても
(きよもりがかいしんしなかったのだね」「ああ」「それでしげもりはどうしたろう」)
清盛が改心しなかったのだね」「ああ」「それで重盛はどうしたろう」
(「くまののかみさまにしをいのったじゃないか」「そうだ、しをいのった、)
「熊野の神様に死を祈ったじゃないか」「そうだ、死を祈った、
(なぜしのうとしたんだろう」「ちゅうこうりょうどうをまっとうできないからさ」)
なぜ死のうとしたんだろう」「忠孝両道をまっとうできないからさ」
(「こまったからしのうというんだね」「ああ」「ではおまえ」さかいのごきは)
「困ったから死のうというんだね」「ああ」「ではおまえ」阪井の語気は
(あらかった。「こまるときにしんでしまえばいいのかえ」「それがもんだいだよ」)
あらかった。「困るときに死んでしまえばいいのかえ」「それが問題だよ」
(「なにが?」「じぶんだけらくをすればあとはどうなってもかまわないというのは)
「なにが?」「自分だけ楽をすればあとはどうなってもかまわないというのは
(ひきょうだからね」「じゃしげもりはひきょうかえ」「りろんからいうと、そうなるよ、しかし)
卑怯だからね」「じゃ重盛は卑怯かえ」「理論からいうと、そうなるよ、しかし
(しげもりだってよくよくかんがえたろうとおもうよ」「そうかね」さかいはちょうたいそくをした。)
重盛だってよくよく考えたろうと思うよ」「そうかね」阪井は長大息をした。
(かれはだまってあるきつづけた。そうしてやがてしずかにいった。)
かれはだまって歩きつづけた。そうしてやがてしずかにいった。
(「きよもりがかいしんするまでしげもりがいきていなければならなかったね」)
「清盛が改心するまで重盛が生きていなければならなかったね」
(「さあぼくにはわからないが」「ぼくにはわかってるよ、わかってるとも、)
「さあぼくにはわからないが」「ぼくにはわかってるよ、わかってるとも、
(そうでなかったらむせきにんだ」やなぎはさかいをいえまでおくってわがやへかえってくると)
そうでなかったら無責任だ」柳は阪井を家まで送ってわが家へ帰ってくると
(とちゅうでてづかにあった。「やあ、いま、きみのところへいこうとおもってきたんだよ」)
途中で手塚に逢った。「やあ、今、きみの所へいこうと思ってきたんだよ」
(「そうか」やなぎはてづかのこういについてすくなからぬあっかんをもっていたので)
「そうか」柳は手塚の行為について少なからぬ悪感をもっていたので
(きわめてれいたんにこたえた。「せいばんはどうした」「かえったよ」「きゃつ、ぼくの)
きわめて冷淡に答えた。「生蕃はどうした」「帰ったよ」「きゃつ、ぼくの
(ことをおこっていたろう」「どうだかしらんよ、だがおこっているだろうさ、)
ことをおこっていたろう」「どうだか知らんよ、だがおこっているだろうさ、
(いままできみとさかいとはいちばんしたしかったんだろう、それをきみがみんなと)
いままできみと阪井とは一番親しかったんだろう、それをきみがみんなと
(いっしょになってつばをはきかけたんだからね」「だってあいつはあくとだからさ」)
一緒になってつばをはきかけたんだからね」「だってあいつは悪徒だからさ」
(「きみほどあくとではないよ」やなぎはおもわずこういった。てづかはさっとかおを)
「きみほど悪徒ではないよ」柳は思わずこういった。手塚はさっと顔を
(あからめたがそれはふんがいのためではなかった。かれはやなぎにはらのなかを)
あからめたがそれは憤慨のためではなかった。かれは柳に肚の中を
(みすかされたのがはずかしかったのである。だがこのくらいのぶじょくは)
見すかされたのがはずかしかったのである。だがこのくらいの侮辱は
(かれにとってはみみなれている。かれはぬすむようにやなぎのかおをみやって、)
かれに取っては耳なれている。かれはぬすむように柳の顔を見やって、
(「きみ、かつどうへゆかないか」「いやだ」「くららきんぽーるやんぐすてきだぜ」)
「きみ、活動へゆかないか」「嫌だ」「クララ・キンポールヤングすてきだぜ」
(「それはなんだ、せいようのこじきか」「ははははきみはくらちゃんを)
「それはなんだ、西洋のこじきか」「ははははきみはクラちゃんを
(しらないのかえ」「しらないよ」「はなせねえな、いっぺんみたまえ、)
知らないのかえ」「知らないよ」「話せねえな、一遍見たまえ、
(ぼくがおごるから」「かつどうというものはね、きみのようなやつがみて)
ぼくがおごるから」「活動というものはね、きみのようなやつが見て
(よろこぶものだよ」さすがにてづかはめをぱちくりさせてことばがでなかった。だが)
喜ぶものだよ」さすがに手塚は目をぱちくりさせて言葉がでなかった。だが
(このくらいのことにひるむようなてづかではない。かれはこびるようなめをむけて)
このくらいのことにひるむような手塚ではない。かれはこびるような目をむけて
(いった。「きみ、ぼくのかなりあがこをかえしたからあげようね」)
いった。「きみ、ぼくのカナリアが子をかえしたからあげようね」
(「いらないよ」「じゃね、きみはいぬをすきだろう、ぼくのぽいんたーを)
「いらないよ」「じゃね、きみは犬を好きだろう、ぼくのポインターを
(あげようね」「ぼくのいえにもぽいんたーがいるよ」「そうだね」てづかはひどく)
あげようね」「ぼくの家にもポインターがいるよ」「そうだね」手塚はひどく
(とうわくしてだまったが、もうこらえきれずにいった。「きみはせいばんがすきに)
当惑してだまったが、もうこらえきれずにいった。「きみは生蕃が好きに
(なったのか」「もとからすきだよ」「だってあいつはきみをふしょうさせた)
なったのか」「もとから好きだよ」「だってあいつはきみを負傷させた
(じゃないか」「けんかはおたがいだ、せいばんはおとこらしいところがあるよ」)
じゃないか」「喧嘩はおたがいだ、生蕃は男らしいところがあるよ」
(「じゃしっけい」「しっけい」ふたりはれいぜんとわかれた。こういちにおくられたいわおはいえへ)
「じゃ失敬」「失敬」二人は冷然とわかれた。光一に送られた巌は家へ
(はいるやいなやわがへやへころがりこんだ。いままでこらえこらえた)
はいるやいなやわが室へころがりこんだ。いままでこらえこらえた
(はらだたしさとかなしさとぜんしんのいたみが、きゅうにひしひしとせまってくる。かれは)
腹だたしさと悲しさと全身のいたみが、急にひしひしとせまってくる。かれは
(たたみにころりとたおれたままてんじょうをみつめてふかいかんがえにしずんだ。かれのあたまのなかには)
畳にころりと倒れたまま天井を見つめて深い考えにしずんだ。かれの頭の中には
(ていしゃじょうまえにおいてがくゆうにうたれなぐられつばをはきかけられたこうけいがうかんだ。)
停車場前において学友に打たれなぐられつばをはきかけられた光景が浮かんだ。
(げたでふまれたひたいのこぶがしくしくいたみだす。がかれはそれよりもいたいのは)
げたで踏まれたひたいのこぶがしくしく痛みだす。がかれはそれよりも痛いのは
(むねのそこをさされるようなおおいなるきずであった。ちちのふせい!こうちょうのてんにん!)
胸の底を刺されるような大なる傷であった。父の不正! 校長の転任!
(がくゆうのはんかん!かぞえきたればすべてのひはわれにある。「いわお、どこへいってた)
学友の反感! 数えきたればすべての非はわれにある。「巌、どこへいってた
(の?」はははしんぱいそうにかれのへやをのぞいた。いわおはこたえなかった。)
の?」母は心配そうにかれの室をのぞいた。巌は答えなかった。