夕靄の中 山本周五郎 ④

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人を刺しに江戸へ戻った男が、娘を亡くした老女と出会う。

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(いつのまにかもやがたって、ぼちはうすいねずみいろにたそがれてきた。)

いつのまにか靄がたって、墓地はうすい鼠色にたそがれてきた。

(かれはろうじょのかたるのをききながら、あたまはやはりあのおとこからはなれない、)

彼は老女の語るのを聞きながら、頭はやはりあの男から放れない、

(みみもめも、たえずそのほうへひきつけられている。)

耳も眼も、絶えずそのほうへひきつけられている。

(「わたくしがいまどんなにうれしいか、とてもわかってはいただけないでしょう」)

「わたくしが今どんなに嬉しいか、とてもわかっては頂けないでしょう」

(ろうじょはめをふきふき、しどろもどろに、こうかきくどいていた。)

老女は眼を拭き拭き、しどろもどろに、こうかきくどいていた。

(「おいねはごぞんじのように、おとなしいきだてのやさしいこでございました、)

「おいねは御存じのように、おとなしい気だてのやさしいこでございました、

(ずいぶんはやくからえんだんもあったのですが、ひとりむすめのうえ、)

ずいぶん早くから縁談もあったのですが、一人娘のうえ、

(ちちおやがあれのじゅうしちのとしからちゅうぶうでねついて、)

父親があれの十七の年から中風で寝ついて、

(くらしのくるしいことをしっていたのでしょう、)

暮しの苦しいことを知っていたのでしょう、

(むこにくるようなひとはきらいだ、といいまして、)

婿に来るような人は嫌いだ、と云いまして、

(じぶんからさっさと、えちごやのおみせへほうこうにあがったのでございます」)

自分からさっさと、越後屋のおみせへ奉公にあがったのでございます」

(ちちおやはおいねのにじゅうしのとしにしんだ。)

父親はおいねの二十四の年に死んだ。

(ははおやはいえへかえってむこをとるようにすすめたが、おいねはわらってくびをふった。)

母親は家へ帰って婿を取るようにすすめたが、おいねは笑って首を振った。

(こんなとしになっては、よめにゆくにしてもあいてはしれている。)

こんな年になっては、嫁にゆくにしても相手は知れている。

(じぶんはいっしょうどくしんでとおすことにきめた。)

自分は一生独身でとおすことにきめた。

(もうすこしおみせではたらいて、なにかこあきないでもするだけためたら、)

もう少しおみせで働いて、なにか小あきないでもするだけ貯めたら、

(おっかさんとふたりできがるにくらしたい、というのであった。)

おっ母さんと二人で気軽に暮したい、と云うのであった。

(「わたくしはこうおもいました」とろうじょはむせびあげた、)

「わたくしはこう思いました」と老女は咽びあげた、

(「わたくしがいなければ、あのこひとりなら、)

「わたくしがいなければ、あのこ独りなら、

(まとまるえんだんがあったのです、)

まとまる縁談があったのです、

など

(わたしがいるために、まとまるはなしもまとまらず、)

わたしがいるために、まとまるはなしもまとまらず、

(やがてあんなびょうきになって・・・しんでしまいました」)

やがてあんな病気になって・・・死んでしまいました」

(ろうじょはおもてをおおってないた。)

老女は面を掩って泣いた。

(「びんぼうにんのこにうまれて、くろうのたえなかったことは、)

「貧乏人の子に生れて、苦労の絶えなかったことは、

(うんふうんとあきらめてもらえます、けれどもにじゅうろくというとしまで、)

運不運と諦めて貰えます、けれども二十六という年まで、

(はなやいだことも、うわきめいたこともなく、)

華やいだことも、浮気めいたこともなく、

(とうとう、ふうふのあじもしらせずにしまったかとおもうと、)

とうとう、夫婦の味も知らせずにしまったかと思うと、

(かわいそうで、かわいそうで、それだけはあきらめがつきませんでした、)

可哀そうで、可哀そうで、それだけは諦めがつきませんでした、

(どうかんがえてもそのことだけが・・・」)

どう考えてもそのことだけが・・・」

(かのじょはまたはげしくないた。)

彼女はまた激しく泣いた。

(そして、おえつによろめくこえで、)

そして、嗚咽によろめく声で、

(じぶんじしんをなっとくさせるかのように、つづけた。)

自分自身を納得させるかのように、続けた。

(「でもいまはもう、いくらかあきらめがつきます、)

「でも今はもう、幾らか諦めがつきます、

(あなたにここでおめにかかって、あのこにもあなたのようなかたがあった、)

貴方に此処でお眼にかかって、あのこにも貴方のような方があった、

(たとえふうふにはなれなかったにしても、)

たとえ夫婦にはなれなかったにしても、

(あなたというかたがいてくだすったとおもうと、うれしくって、うれしくって」)

貴方という方がいて下すったと思うと、嬉しくって、嬉しくって」

(「もうやめてください、どうかもう」かれはつぶやくようにいった、)

「もうやめて下さい、どうかもう」彼は呟くように云った、

(「あのひとが、はずかしいでしょうから、おいねさんが、)

「あの人が、恥ずかしいでしょうから、おいねさんが、

(あのひとはいつも、はずかしがりやでしたからね」)

あの人はいつも、恥ずかしがりやでしたからね」

(「ああそうでございます、あのこはいつもそうでございました」)

「ああそうでございます、あのこはいつもそうでございました」

(ろうじょはなみだをふいた、「ちいさいときからそんなふうで、)

老女は涙を拭いた、「小さいときからそんなふうで、

(たまにいいおもちゃでももらったりしますと、)

たまにいい玩具でも貰ったりしますと、

(はずかしがってともだちにもみせられない、)

恥ずかしがって友達にも見せられない、

(よそのこならみせびらかすところを、)

よその子ならみせびらかすところを、

(あのこはかえってかくすというしょうぶんでございました、)

あのこは却って隠すという性分でございました、

(そうでございます、・・・あなたというかたのいることも、)

そうでございます、・・・貴方という方のいることも、

(あのこにはやっぱりはずかしくて、)

あのこにはやっぱり恥ずかしくて、

(わたしにはなすことができなかったのでございましょう」)

わたしに話すことができなかったのでございましょう」

(かれはふと、おいねというむすめのすがたをそうぞうした。)

彼はふと、おいねという娘の姿を想像した。

(えちごやといえばえどいちばんのごふくやで、)

越後屋といえば江戸いちばんの呉服屋で、

(ばんとうてだいだけでなんじゅうにんといるはずだ。)

番頭手代だけで何十人といる筈だ。

(そういうたなにいて、にじゅうろくになるまで、)

そういう店にいて、二十六になるまで、

(ついにけっこんのきかいもなかったとすれば、)

ついに結婚の機会もなかったとすれば、

(あまりきりょうもよくなかったことだろう。)

あまりきりょうもよくなかったことだろう。

(ともだちよりもよいおもちゃをもつと、はずかしくてみせられなかったという、)

友達よりも良い玩具を持つと、恥ずかしくて見せられなかったという、

(うちきでおとなしいむすめ。)

内気でおとなしい娘。

(いつもたにんをたてて、じぶんはひっそりとかげにすわっている。)

いつも他人を立てて、自分はひっそりと蔭に坐っている。

(しげじろうというてだいとはどんなかんけいだったのか、)

繁二郎という手代とはどんな関係だったのか、

(いきをひきとるまで、うわごとになをよんでいたというが、)

息をひきとるまで、うわごとに名を呼んでいたというが、

(しんでもたずねてこないようすからさっすると、かたおもいだったとかんがえられる。)

死んでも訪ねて来ないようすから察すると、片想いだったと考えられる。

(「わたしはおいねさんとふうふやくそくをしていました」)

「私はおいねさんと夫婦約束をしていました」

(かれはしょうどうてきにこういいだした。)

彼は衝動的にこう云いだした。

(いけない、ばかなことをいうなと、おさえるきもちもあったが、)

いけない、ばかなことを云うなと、抑える気持もあったが、

(くちをついてでることばはもうとめようがなかった。)

口をついて出る言葉はもう止めようがなかった。

(「もうすこしまてば、みせをだしてもらえるんです、)

「もう少し待てば、みせを出して貰えるんです、

(ごねんまえからすきあって、すえはふうふとやくそくをしてからも、にねんたちます」)

五年まえから好きあって、末は夫婦と約束をしてからも、二年経ちます」

(「まあ、そんなにまえから」)

「まあ、そんなにまえから」

(「あとはんとし、せいぜいはんとしもすれば、みせがだせる、)

「あと半年、せいぜい半年もすれば、みせが出せる、

(そうしたらおっかさんにうちあけよう、)

そうしたらおっ母さんにうちあけよう、

(わたしにはおやきょうだいがありません、)

私には親きょうだいがありません、

(しゅうげんをしたらおっかさんにもきてもらって、)

祝言をしたらおっ母さんにも来て貰って、

(さんにんいっしょにくらそう、そうはなしあって、たのしみにしていたんです」)

三人いっしょに暮そう、そう話しあって、楽しみにしていたんです」

(「そうでしたか、そんなふうにいってくだすったんですか、)

「そうでしたか、そんなふうに云って下すったんですか、

(わたしまでひきとってくださるって」ろうじょはうなずいた、)

わたしまで引取って下さるって」老女は頷いた、

(「それをうかがえばもうじゅうぶんです、)

「それをうかがえばもう充分です、

(あのこがどんなによろこんでいたかがわかります、)

あのこがどんなに喜んでいたかがわかります、

(わたくしもこんなうれしいことはございません、あなた、ありがとうございました」)

わたくしもこんな嬉しいことはございません、貴方、有難うございました」

(そして、ろうじょははかにむかって、こうささやいた。)

そして、老女は墓に向って、こう囁いた。

(「よかったねえ、おいね、おまえはしあわせだったんだねえ」)

「よかったねえ、おいね、おまえは仕合せだったんだねえ」

(かれもこころのなかで、はかのぬしにいった。)

彼も心のなかで、墓の主に云った。

(うそをいってすまないが、おまえのおっかさんがよろこんでるんだ、)

嘘を云って済まないが、おまえのおっ母さんが喜んでるんだ、

(かんべんしてくれるだろうな、おいねちゃん。)

勘弁して呉れるだろうな、おいねちゃん。

(だがかれはあっといった、とつぜんみぎのうでをつかまれたのである、)

だが彼はあっと云った、とつぜん右の腕を掴まれたのである、

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