竹柏記 山本周五郎 ㉛(終)

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投稿者投稿者ヒマヒマ マヒマヒいいね2お気に入り登録1
プレイ回数1354難易度(4.3) 4020打 長文
不信な男に恋をしている娘に、強引な結婚を申し込むが・・・
不信な男に恋をしている友人の妹を守りたい一心で、心通わずとも求婚をする勘定奉行の主人公。

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問題文

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(こうのすけはちょっとことばをきった。)

孝之助はちょっと言葉を切った。

(くちにだしてみると、じぶんのしょうしんさやじみちなかんがえがはっきりして、)

口に出してみると、自分の小心さやじみちな考えがはっきりして、

(われながらあわれに、かなしくなったのである。)

われながら哀れに、悲しくなったのである。

(「だがわたしはまちがっていた」とかれはつづけた、)

「だが私は間違っていた」と彼は続けた、

(「やつかはしっぱいをしたが、それはわかげのあやまちにすぎなかった、)

「八束は失敗をしたが、それは若気のあやまちにすぎなかった、

(かれはわたしのようなしょうしんものにはわからない、)

彼は私のような小心者にはわからない、

(おおきなそしつをもっていたのだ、かれはきれいにしっぱいをつぐない、)

大きな素質をもっていたのだ、彼はきれいに失敗を償い、

(もっているさいのうをみごとにはっきした、かれはいまおそばようにんになった、)

もっている才能をみごとに発揮した、彼はいま御側用人になった、

(やがてはせひょうどおり、こくろうにもなるだろう)

やがては世評どおり、国老にもなるだろう

(じゅうねんまえに、もしわたしがあんなむりなことをしなければ、)

十年まえに、もし私があんな無理なことをしなければ、

(おまえはやつかのつまになり、こんやのさかんなうたげにもそばようにんのつまとして、)

おまえは八束の妻になり、今夜の盛んな宴にも側用人の妻として、

(あのきゃくたちのそんけいをうけることができたのだ、)

あの客たちの尊敬を受けることができたのだ、

(あのさいじょのせきは、そのままおまえのものになったのだ」)

あの妻女の席は、そのままおまえのものになったのだ」

(「もうけっこうでございます、それいじょうはおっしゃらないでくださいまし」)

「もう結構でございます、それ以上は仰しゃらないで下さいまし」

(すぎのはこうさえぎって、めをあげておっとをみた。)

杉乃はこう遮って、眼をあげて良人を見た。

(こうのすけはだまった。つまのこえはふるえ、そのめはぬれたひかりを)

孝之助は黙った。妻の声はふるえ、その眼は濡れた光りを

(おびていた。「おわびをもうさなければならないのは、)

帯びていた。「お詫びを申さなければならないのは、

(わたくしでございます」すぎのはいった、)

わたくしでございます」杉乃は云った、

(「でもおわびはもうしあげません、どのようにことばをつくしても、)

「でもお詫びは申上げません、どのように言葉を尽しても、

(それでわびのかなうことではございませんから、)

それで詫びのかなうことではございませんから、

など

(すぎのはおろかで、かたくなで、こころのあさいおんなでございました。)

杉乃は愚かで、頑なで、心の浅い女でございました。

(それがじぶんでわかっていながら、どうにもなおすことの)

それが自分でわかっていながら、どうにも直すことの

(できないほどおろかで、かたくなな・・・ただひとつ、わたくしのこころが)

できないほど愚かで、頑なな・・・ただひとつ、わたくしの心が

(いまでもあなたのほかにあるとか、このいえのせいかつにふまんを)

今でもあなたのほかにあるとか、この家の生活に不満を

(もっている、というふうにおかんがえなさることだけは、)

もっている、というふうにお考えなさることだけは、

(それだけはどうぞおやめくださいまし、それはあんまり)

それだけはどうぞおやめ下さいまし、それはあんまり

(かなしゅうございます」「わたしはおまえをせめているのではない、)

悲しゅうございます」「私はおまえを責めているのではない、

(わたしはじぶんがあやまっていたことを」「いいえちがいます、あやまっていたのは)

私は自分が誤っていたことを」「いいえ違います、誤っていたのは

(わたくしでございます。それだけはわかっていただきとうございます」)

わたくしでございます。それだけはわかって頂きとうございます」

(すぎののかおはあおざめた。くちびるはかわき、ひざのうえでてが)

杉乃の顔は蒼ざめた。唇は乾き、膝の上で手が

(みじめにふるえた。「しちねんまえ、かさいであなたのおはなしをうかがい、)

みじめにふるえた。「七年まえ、笠井であなたのお話をうかがい、

(あにからいえへもどれとしかられましたとき、わたくしははじめて)

兄から家へ戻れと叱られましたとき、わたくしは初めて

(あなたのおきもちがわかりました、わたくしをかなしみや)

あなたのお気持がわかりました、わたくしを悲しみや

(ふこうからまもってくださるばかりでなく、わたくしのこころを)

不幸から護って下さるばかりでなく、わたくしの心を

(きずつけないために、あのかたの、あのようにひどい、)

傷つけないために、あの方の、あのようにひどい、

(いやしいなされかたをもかくしていらしった、どんなに・・・)

卑しいなされ方をも隠していらしった、どんなに・・・

(わたくしがどんなにうれしかったか、もうしわけないとおもいながら)

わたくしがどんなに嬉しかったか、申し訳ないと思いながら

(どんなに、うれしかったか、あなたにわかっていただけるでしょうか」)

どんなに、嬉しかったか、あなたにわかって頂けるでしょうか」

(こうのすけはいきをのんだ。すぎのはつづけた。)

孝之助は息をのんだ。杉乃は続けた。

(「あのときからきょうまで、ひるもよるも、いつもあなたに)

「あのときから今日まで、昼も夜も、いつもあなたに

(もうしわけがない、すまないとおもっておりました、)

申し訳がない、済まないと思っておりました、

(でも、それをくちにだしていうことができない、)

でも、それを口にだして云うことができない、

(くちにだせないなら、だまってすがりついてなけばいい、)

口にだせないなら、黙ってすがりついて泣けばいい、

(あなたはそれだけで、きっとわかってくださるにちがいない、)

あなたはそれだけで、きっとわかって下さるに違いない、

(きょうこそ、こんやこそこうおもっても、そうすることさえ)

今日こそ、今夜こそこう思っても、そうすることさえ

(できなかったのです」おっとのさびしそうなかおをみると、)

できなかったのです」良人の淋しそうな顔を見ると、

(じぶんもむねをさかれるように、さびしくかなしかった。)

自分も胸を裂かれるように、淋しく悲しかった。

(じぶんはおっとがあいしてくれるいじょうに、おっとをあいしていた。)

自分は良人が愛して呉れる以上に、良人を愛していた。

(みをやくほどはげしく、ふかく、おっとをあいしていた。)

身を焼くほど激しく、深く、良人を愛していた。

(しかしそれをつたえることができない。そぶりにもいろにも、)

しかしそれを伝えることができない。そぶりにも色にも、

(あらわすことができないのである。うまれつきとはいえ、)

あらわすことができないのである。生れつきとはいえ、

(このようにかたくななしょうぶんを、どんなにじぶんはのろいにくんだことだろう。)

このように頑な性分を、どんなに自分は呪い憎んだことだろう。

(すぎのはこういって、りょうてでかたくかおをおおった。)

杉乃はこう云って、両手でかたく顔をおおった。

(「ーーゆめのようだ」こうのすけはほとんどぼうぜんといった。)

「ーー夢のようだ」孝之助は殆んど茫然と云った。

(「わたしにはまるでゆめのようだ」)

「私にはまるで夢のようだ」

(すぎののかたがなみをうち、おおったてのあいだからこえがもれた。)

杉乃の肩が波をうち、おおった手のあいだから声がもれた。

(どんなにはげしいかんじょうをおさえているのか、こえはあわれにもつれ、)

どんなに激しい感情を抑えているのか、声は哀れにもつれ、

(のどにつまり、くつうにたえぬかのように、はんしんがいたたましくねじれた。)

喉に詰り、苦痛に耐えぬかのように、半身がいたましく捻れた。

(こうのすけはめをつむって、りょうのこぶしをつよくにぎりながら、)

孝之助は眼をつむって、両の拳を強く握りながら、

(つまのなくこえをきいていた。そして、そのなきごえが)

妻の泣く声を聞いていた。そして、その泣き声が

(しずまるのをまって、いった。「よくわかった。ありがとうすぎの」)

しずまるのを待って、云った。「よくわかった。有難う杉乃」

(すぎのはたもとでかおをふき、それからたたみにてをついて)

杉乃は袂で顔を拭き、それから畳に手をついて

(だまってあたまをたれた。やはりくちではどういいようもないらしい、)

黙って頭を垂れた。やはり口ではどう云いようもないらしい、

(つみをこうようにじっとあたまをたれてから、なきはらしためをあげた。)

罪を乞うようにじっと頭を垂れてから、泣き腫らした眼をあげた。

(「かんにんしていただいたと、おもってもよろしゅうございましょうか」)

「堪忍して頂いたと、思ってもよろしゅうございましょうか」

(こうのすけはつつむようなめをしてうなずいた。)

孝之助は包むような眼をして頷いた。

(「ありがとうございます」すぎのはもういちどあたまをたれた、「どうぞ)

「有難うございます」杉乃はもういちど頭を垂れた、「どうぞ

(ねまへいらしってくださいまし、おねだりがございますから」)

お寝間へいらしって下さいまし、おねだりがございますから」

(こうのすけはたってねまへいった。そこはいつもとは)

孝之助は立って寝間へいった。そこはいつもとは

(したくがかわっていた。かさねやぐをびょうぶでとりまわし、)

支度が変っていた。重ね夜具を屏風でとりまわし、

(きぬばりのあんどんのわきに、いわいのぜんがおいてある。)

絹張りの行燈の脇に、祝いの膳が置いてある。

(それはおぼえのあるけしきだった。)

それは覚えのあるけしきだった。

(はなやかないろのかさねやぐ、きよらかになまめいたきぬあんどんのひかり、)

華やかな色の重ね夜具、清らかに嬌めいた絹行燈の光り、

(そしていわいのちょうしののっているぜん。)

そして祝いの銚子の載っている膳。

(それはこんれいのよるの、とこさかずきのしたくであった。)

それは婚礼の夜の、床盃の支度であった。

(そうか、あのしろむく・・・あのかみ、あのけしょうは)

そうか、あの白無垢・・・あの髪、あの化粧は

(そういうつもりだったのか。こうのすけはびしょうした。)

そういうつもりだったのか。孝之助は微笑した。

(びしょうしながら、めがぼうとぬれ、あんどんのひかりがかすんだ。)

微笑しながら、眼がぼうと濡れ、行燈の光りが霞んだ。

(「おまえおぼえていたのか、すぎの」かれはそっとつぶやいた。)

「おまえ覚えていたのか、杉乃」 彼はそっと呟いた。

(「あのときとこさかずきをしなかったことを、・・・ずいぶんながい)

「あのとき床盃をしなかったことを、・・・ずいぶんながい

(おあずけだったね」すぎのがはいってきた。)

おあずけだったね」杉乃が入って来た。

(こうのすけはしずかに、ぜんのまえにすわった。)

孝之助は静かに、膳の前に坐った。

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