日本婦道記 梅咲きぬ 山本周五郎 ④

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姑「かな女」は加代の習い事を理由なく辞めるようにすすめるが・・・

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(ははのきしょうがといいかけたまま、ややしばらくだまっていたなおてるは、)

母の気性がと云いかけたまま、ややしばらく黙っていた直輝は、

(やがてつまをはげますようにいった。)

やがて妻をはげますように云った。

(「ほかのこととはちがって、おまえのわかのさいだけはかくべつだ、)

「ほかの事とはちがって、おまえの和歌の才だけはかくべつだ、

(わたしからそれとなくははうえにおはなしもうしてみよう」)

わたしからそれとなく母上におはなし申してみよう」

(「でもそれでは、わたくしがおうったえもうしたようで、わるうございますから」)

「でもそれでは、わたくしがお訴え申したようで、悪うございますから」

(「それほどもののわからぬははではない、のこったそうこうは)

「それほど物のわからぬ母ではない、残った草稿は

(すてずにおくがよいぞ」かよはおっとのあたたかいきもちを)

捨てずに置くがよいぞ」加代は良人の温かい気持を

(むねいっぱいにかんじながら、さきのこしたかこうをつつましくあつめた。)

胸いっぱいに感じながら、裂き残した歌稿をつつましく集めた。

(そのあくるよる、なおてるはいんきょじょをおとずれた。)

その明くる夜、直輝は隠居所をおとずれた。

(すうじつまえからはぎれをつづりぬいしていたははは、)

数日まえから端ぎれを綴り縫いしていた母は、

(ちょうどそれをしあげてひのしをかけているところだった、)

ちょうどそれを仕上げて火熨斗をかけているところだった、

(ざぶとんをほそくちいさくしたようなものである。)

座蒲団を細く小さくしたようなものである。

(なにがおできになりましたときくと、かよにやるかたぶとんだとこたえた。)

なにがお出来になりましたときくと、加代にやる肩蒲団だと答えた。

(「あのねべやはひえますからね、それにあのひとはあまり)

「あの寝部屋は冷えますからね、それにあのひとはあまり

(おじょうぶではないから、これをかたにあててねるといいとおもって」)

お丈夫ではないから、これを肩に当てて寝るといいとおもって」

(「それはさぞちんちょうにぞんじましょう」いいながらなおてるはふとびしょうした。)

「それはさぞ珍重に存じましょう」云いながら直輝はふと微笑した。

(「しかしなんだかはなしがぎゃくでございますね」「どうしてです」)

「しかしなんだか話が逆でございますね」「どうしてです」

(「それはかよからははうえにさしあげるしなのようにおもわれますよ」)

「それは加代から母上にさしあげる品のように思われますよ」

(「でもあたしはじょうぶですから」そういってかなじょもくしょうした。)

「でもあたしは丈夫ですから」そう云ってかな女も苦笑した。

(あいしているものでなければ、そういうこまかいところにきのつくはずはない、)

愛している者でなければ、そういうこまかいところに気のつく筈はない、

など

(はははかよをあいしている、なおてるはいまめのまえにそのあかしをみたとしんじた、)

母は加代を愛している、直輝はいま眼のまえにそのあかしを見たと信じた、

(それでわかのことをはなしだした。)

それで和歌のことを話しだした。

(もうまもなくおうぎのいんかがさがるというところまできているのだし、)

もう間もなく奥義の允可がさがるというところまできているのだし、

(そのさいのうにもめぐまれているようだから、)

その才能にもめぐまれているようだから、

(かせいにさわりのないていどでけいこをつづけさせてやりたい、)

家政に障りのない程度で稽古を続けさせてやりたい、

(そういういみのことを、じぶんからたのむというちょうしで、しずかにはなした。)

そういう意味のことを、自分からたのむという調子で、しずかに話した。

(かなじょはだまってきいていた、なおてるがすっかりはなしおわるまでだまっていたが、)

かな女は黙って聴いていた、直輝がすっかり話し終るまで黙っていたが、

(べつにはんたいはしなかった。「それもいいでしょう」といっただけで、)

べつに反対はしなかった。「それもいいでしょう」と云っただけで、

(すぐにほかのはなしをはじめた、なんのわだかまりもない)

すぐにほかの話をはじめた、なんのわだかまりもない

(さっぱりとしたちょうしだった、なおてるはあんしんしていんきょじょからでた。)

さっぱりとした調子だった、直輝は安心して隠居所から出た。

(あくるあさだった、なおてるがとじょうするとまもなく、)

あくる朝だった、直輝が登城すると間もなく、

(そうりゅうがみごとにさきはじめたからみにくるようにとよばれて、)

蒼竜がみごとに咲きはじめたから観に来るようにと呼ばれて、

(かよはいんきょじょへいった。あたたかいひがつづいたためであろう、)

加代は隠居所へいった。暖かい日がつづいたためであろう、

(わかえだやこずえのほうにふくらんでいたつぼみが、およそしぶがた、)

若枝や梢のほうにふくらんでいた蕾が、およそ四分がた、

(いっせいにさきだしていた。)

いっせいに咲きだしていた。

(「まあみごとでございますこと」おもわずこえをあげながら、)

「まあみごとでございますこと」思わず声をあげながら、

(ぬれえんにすわろうとするかよを、かなじょはへやへよびいれてあいたいした、)

濡れ縁に坐ろうとする加代を、かな女は部屋へ呼びいれて相対した、

(それでかよははっとした、よばれたのはうめをみるためではない、)

それで加代ははっとした、呼ばれたのは梅を観るためではない、

(しゅうとめのめはいつものやさしいなかにきっとしたひかりがあった。)

姑の眼はいつものやさしいなかに屹っとした光があった。

(わかのおしかりだ。そうちょっかんしたかのじょは、)

和歌のお叱りだ。そう直感した彼女は、

(なにもいわれないまえからもうむねのふさがるかんじだった。)

なにも云われないまえからもう胸の塞がる感じだった。

(「きょうは、わたくしのおもいでばなしをきいていただこうとおもいましてね」)

「きょうは、わたくしの思い出ばなしを聴いていただこうと思いましてね」

(かなじょはしずかにいった。)

かな女はしずかに云った。

(「としよりのぐちばなしです、これまでだれひとりうちあけたことのない、)

「年寄の愚痴ばなしです、これまで誰ひとりうちあけたことのない、

(はずかしいはなしなのです、きいてくれましょうか」)

恥ずかしいはなしなのです、聞いて呉れましょうか」

(「はい、うかがわせていただきます」)

「はい、うかがわせて戴きます」

(「かたくるしくかんがえないで、ひざをらくにしてきいてくださいよ」)

「かた苦しく考えないで、膝をらくにして聴いて下さいよ」

(かすかなこちが、うめのかおりをほのかにおくってくる、)

かすかな東風が、梅のかおりをほのかにおくってくる、

(かなじょはそのかおりをききすますようなしずかさではなしだした。)

かな女はそのかおりをきき澄ますようなしずかさで話しだした。

(「わたくしがたがのいえへとついできたのはじゅうろくさいのときでした、)

「わたくしが多賀の家へとついで来たのは十六歳のときでした、

(じっかのみぶんがひくく、けいこごともおもうままにはならなかったので)

実家の身分が低く、稽古ごとも思うままにはならなかったので

(わたくしはほんとうになにもしらぬおろかなよめでした。)

わたくしは本当になにも知らぬ愚かな嫁でした。

(とついできてからじゅうねんというものは、まるでやみのなかを)

とついで来てから十年というものは、まるで闇のなかを

(てさぐりであるくように、やっとそのひそのひを)

手さぐりであるくように、やっとその日その日を

(おくっていたようなものです、ただおかあさまがおなさけのふかい)

送っていたようなものです、ただおかあさまがお情けのふかい

(よくおきのつくかただったので、このかたおひとりをたよりに)

よくお気のつくかただったので、このかたおひとりを頼りに

(ひとつひとつかせいをおぼえたのでした。)

一つ一つ家政を覚えたのでした。

(そのおかあさまがなくなって、ひとりあるきしなければ)

そのおかあさまが亡くなって、ひとりあるきしなければ

(ならなくなったときは、どんなにかなしく、こころぼそかったことでしょう、)

ならなくなったときは、どんなに悲しく、心細かったことでしょう、

(しばらくのあいだはまったくとほうにくれてしまいました。)

しばらくのあいだはまったく途方にくれてしまいました。

(そしてこれではならないとたちなおったとき、)

そしてこれではならないと立直ったとき、

(わたくしはこういうことをかんがえました。)

わたくしはこういうことを考えました。

(それは、ろうしょくのいえのつまとしてはずかしからぬよう、)

それは、老職の家の妻として恥ずかしからぬよう、

(またとかくきょうりょうになりやすいおんなのきもちをひろくするため、)

またとかく狭量になりやすい女の気持をひろくするため、

(なにかひとつきょうようとしてげいをみにつけたいということです、)

なにかひとつ教養として芸を身につけたいということです、

(わたくしはおっとのゆるしをえてちゃのゆをはじめました」)

わたくしは良人のゆるしを得て茶の湯をはじめました」

(かなじょはそこでことばをきった、そしてそっとめをふせ、)

かな女はそこで言葉をきった、そしてそっと眼を伏せ、

(ややながいことなにかおもいだすふうだったが、)

ややながいことなにか思い出す風だったが、

(やがてまたしずかにはなしをつづけた。)

やがてまたしずかに話をつづけた。

(「じぶんのくちからこういっては、さぞさかしらにきこえることでしょうけれど、)

「自分の口からこう云っては、さぞさかしらに聞えることでしょうけれど、

(わたくしはちゃのゆのけいこでたいそうさいをみとめられました、)

わたくしは茶の湯の稽古でたいそう才を認められました、

(ほうばいのうわさにもなりおししょうさまからもおりがみをつけられる)

傍輩の噂にもなりお師匠さまからも折紙をつけられる

(というところまでいったのです。そのとき、わたくしはちゃのゆをやめました」)

というところまでいったのです。そのとき、わたくしは茶の湯をやめました」

(「・・・・・」かよはじっとしゅうとめをみあげた。)

「・・・・・」 加代はじっと姑を見あげた。

(「おっともおしんでくれました、しりびとのたれかれもしきりに)

「良人も惜しんでくれました、しりびとのたれかれもしきりに

(つづけるようにすすめてくれました、けれどもわたくしは)

続けるようにすすめてくれました、けれどもわたくしは

(そのときかぎりやめて、つぎにほうしょうりゅうのふえのおけいこをはじめたのです。)

そのときかぎりやめて、つぎに宝生流の笛のお稽古をはじめたのです。

(ふえのつぎにはつづみをならいました、れんがやしやえなどもおけいこをしました、)

笛のつぎには鼓をならいました、連歌や詩や絵などもお稽古をしました、

(そのなかにはちゃのゆのように、ひとにすぐれたさいをみとめられて、)

そのなかには茶の湯のように、人にすぐれた才を認められて、

(どうかしてすえとげるまでやりぬくようにといわれたものも)

どうかして末遂げるまでやりぬくようにといわれたものも

(ひとつやふたつはありました、でもわたくしはどれにもおくそこまではゆかず、)

一つや二つはありました、でもわたくしはどれにも奥底まではゆかず、

(くぶどおりでやめてしまったのです。せけんでは、わたくしのさいを)

九分どおりでやめてしまったのです。世間では、わたくしの才を

(おしんでくれました、またわたくしがあきやすいといってわらいました、)

惜しんでくれました、またわたくしが飽きやすいと云って笑いました、

(おっとさえもときおりはうつりぎなことだとにがにがしげにおっしゃっていました、)

良人さえも時おりは移り気なことだと苦々しげに仰しゃっていました、

(かよさん、わたくしがげいごとをつぎつぎにかえたのは)

加代さん、わたくしが芸ごとをつぎつぎに変えたのは

(うつりぎからだとおおもいになりますか」)

移り気からだとお思いになりますか」

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