日本婦道記 春三たび 山本周五郎 ⑧(終)
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問題文
(ふいにさっと、このいえのうちをめにみえぬせんりつがはしりすぎたようだった、)
ふいにさっと、この家の内を眼にみえぬ戦慄がはしりすぎたようだった、
(すぎじょもいおもひざのうえでてをぶるぶるとふるわせ、)
すぎ女も伊緒も膝の上で手をぶるぶると震わせ、
(となりのへやからわっといくのすけのなきだすこえがきこえた。)
隣りの部屋からわっと郁之助の泣きだす声が聞えた。
(げんばはつづけていった。)
玄蕃はつづけて云った。
(「またにじゅうしちにちのほうえには、ごぼだいじにおいて)
「また二十七日の法会には、御菩提寺において
(かぞくにおめみえのおゆるしがある、とうじつはあんないがあるとおもうが、)
家族におめみえのおゆるしがある、当日は案内があると思うが、
(ごろうぼにもそのつもりでしたくをしておかれるがよい」)
御老母にもそのつもりで支度をして置かれるがよい」
(「かたじけのうぞんじます・・・」)
「かたじけのう存じます・・・」
(そういうのがようやくのことで、すぎじょもついにりょうてでおもてをおおった。)
そう云うのがようやくのことで、すぎ女もついに両手で面を掩った。
(いおはなかなかった、はじめくらくらとめまいをかんじたが、)
伊緒は泣かなかった、はじめくらくらとめまいを感じたが、
(それがしずまるとたっていって、とぶくろのなかからおっとのいはいをとりだし、)
それが鎮まると立っていって、戸袋の中から良人の位牌をとりだし、
(まさしくぶつだんにあんちしてとうみょうとこうをあげた。)
まさしく仏壇に安置して燈明と香をあげた。
(そしてそのまえへしずかにてをつき、)
そしてその前へしずかに手をつき、
(いきているひとにでもいうようにはっきりといった。)
生きている人にでも云うようにはっきりと云った。
(「だんなさま、おききのとおりでございます、)
「旦那さま、お聞きのとおりでございます、
(おうちじにということがきまり、ぐんかんにもしるされましたと)
お討死ということがきまり、軍鑑にも記されましたと
(これでごじょうぶつあそばしましょう、わたくしもうれしゅうぞんじます」)
これで御成仏あそばしましょう、わたくしもうれしゅう存じます」
(ながいあいだとぶくろのくらがりにあって、)
ながいあいだ戸袋の暗がりにあって、
(ひそかにこうげのたむけをしてきたいはいだった、)
ひそかに香華の手向けをしてきた位牌だった、
(それがいまくらがりからでるときがきたのだ、)
それがいま暗がりから出るときが来たのだ、
(いまこそよのひかりをあびることができるのだ。)
今こそ世の光をあびることができるのだ。
(げんばもそっとめをおしぬぐっていたが、やがてすぎじょにむかっていいだした。)
玄蕃もそっと眼を押しぬぐっていたが、やがてすぎ女にむかって云いだした。
(「うちあけてもうすが、これはいおどののおてがらです、)
「うちあけて申すが、これは伊緒どののお手柄です、
(さきごろおかみのぎょいでこうずいのひがいのおとりしらべがあった、)
さきごろお上の御意で洪水の被害のおとりしらべがあった、
(とくにひんこんのものにはごれんぴんのおさたがあるとのことで、)
特に貧困の者には御憐愍のお沙汰があるとのことで、
(くわしくしらべあげたちょうしょのなかに、このいえのこともかかれてあった、)
くわしくしらべあげた調書のなかに、この家のことも書かれてあった、
(こなたはむろんしるまいが、いおどののひょうばんは、)
こなたはむろん知るまいが、伊緒どのの評判は、
(かねておかみのみみにもたっしていたとみえ、)
かねてお上の耳にも達していたとみえ、
(でんしろうどのうちじにのことをあらためてぎんみせよというおおせがでた、)
伝四郎どの討死のことをあらためて吟味せよという仰せが出た、
(ぐんめつけ、くみがしら、やりぶぎょう、そのほかのごうぎがいくたびとなくくりかえされ、)
軍目付、組がしら、槍奉行、その他の合議が幾たびとなく繰り返され、
(さいごにおかみのごさいけつをもってうちじにということにきまったのだ、)
さいごにお上の御裁決をもって討死ということにきまったのだ、
(これはいおどののまことがとおったともうすほかはなく、)
これは伊緒どののまことが徹ったと申すほかはなく、
(なこうどやくのそれがしなども、ただただかたみのひろいおもいがいたします」)
なこうど役のそれがしなども、ただただ肩身のひろいおもいが致します」
(そしてさらにつけくわえて、わちけのあとめをきめよというじょういがあったといい、)
そしてさらに附け加えて、和地家の跡目をきめよという上意があったといい、
(でんしろうのうちじにがきまったいじょうは、いおへのむこのはなしを)
伝四郎の討死がきまった以上は、伊緒への婿のはなしを
(かんがえてもよいであろうとすすめた。)
考えてもよいであろうとすすめた。
(しゅうとめがどうこたえたかはきかなかった、いおはそっと)
姑がどう答えたかは聞かなかった、伊緒はそっと
(いくのすけのまくらもとへいってすわった。)
郁之助の枕もとへいって坐った。
(まちかねていたようにかれはあによめをめでむかえ、なきながらわらっていた。)
待ちかねていたようにかれはあによめを眼で迎え、泣きながら笑っていた。
(「これでいくのすけはしねます」そういってかれは、)
「これで郁之助は死ねます」そう云ってかれは、
(つとてをのべていおのてをもとめた、)
つと手をのべて伊緒の手を求めた、
(「みんなあねうえのおかげです、ことばにはいえませんからおれいはもうしあげませんが、)
「みんなあね上のおかげです、言葉には云えませんからお礼は申上げませんが、
(わたしはきょうまでいのちのあったことをうれしいとおもいます、)
わたしは今日まで命のあったことをうれしいと思います、
(あにうえにみやげがもってゆかれますもの、もうこころのこりはありません、)
兄上に土産が持ってゆかれますもの、もう心のこりはありません、
(いつでもしねます、もうすっかりあんしんです、ははとわちのいえをおたのみしますよ」)
いつでも死ねます、もうすっかり安心です、母と和地の家をおたのみしますよ」
(「うんがめぐってきたのですよいくのすけさま、)
「運がめぐって来たのですよ郁之助さま、
(あなたもきっとおなおりなさいます、きっと、きっと。)
あなたもきっとおなおりなさいます、きっと、きっと。
(そうでなければ、きょうまでのわたくしのくろうが、)
そうでなければ、今日までのわたくしの苦労が、
(みずのあわになってしまうではありませんか」)
水の泡になってしまうではありませんか」
(「そうです、なおらなければもうしわけがありません、けれど・・・」)
「そうです、なおらなければ申しわけがありません、けれど・・・」
(「さあげんきをおだしになって」)
「さあ元気をお出しになって」
(といおはぎていのやせほそったてをにぎりしめながらいった、)
と伊緒は義弟の痩せほそった手を握りしめながら云った、
(「これからなにもかもよくなるのです、)
「これからなにもかもよくなるのです、
(わちのいえもわたくしがむこをとることはありません、)
和地の家もわたくしが婿をとることはありません、
(ようしをすればかめいはたちます、あとはいくのすけさまがおじょうぶになるだけですよ、)
養子をすれば家名は立ちます、あとは郁之助さまがお丈夫になるだけですよ、
(それですっかりおさまるんです。いつかのおやくそくをもういちどいたしましょう、)
それですっかり納まるんです。いつかのお約束をもういちど致しましょう、
(つよくなるんです、いしにかじりついても・・・」)
強くなるんです、石にかじりついても・・・」
(「いしにかじりついても、あねうえ」)
「石にかじりついても、あね上」
(げんばがかえったのであろう、ぶつだんのかねをならしながら、)
玄蕃が帰ったのであろう、仏壇の鐘を鳴らしながら、
(しゅうとめのひくくずきょうするこえがきこえてきた。)
姑の低く誦経するこえが聞えてきた。