寒橋 山本周五郎 ④
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問題文
(いちねんとたちにねんとたった。)
一年と経ち二年と経った。
(ときぞうがきてまるにねんめのごがつ、ちちのいへえがとつぜんとけつしてたおれた。)
時三が来てまる二年めの五月、父の伊兵衛がとつぜん吐血して倒れた。
(いしゃはいにかいようができたというみたてで、)
医者は胃に潰瘍が出来たという診たてで、
(そのままくがつまでねとおした。)
そのまま九月まで寝とおした。
(このきかんずっと、いへえのせわはじょちゅうのおたみがひとりじめでやった。)
この期間ずっと、伊兵衛の世話は女中のおたみが独り占めでやった。
(まずたべものをつくるのがてまとじかんをくうし、)
まず喰べ物を作るのが手間と時間をくうし、
(おんじゃくをあてるとかいぶをひやすとか、)
温石を当てるとか胃部を冷やすとか、
(くすりをせんじるとかべんきのめんどうをみるとか、)
薬を煎じるとか便器のめんどうをみるとか、
(うごくことをきんじられているびょうにんなので、)
動くことを禁じられている病人なので、
(かんごにはたいへんてかずとどりょくがひつようだった。)
看護にはたいへん手数と努力が必要だった。
(おこうもぼうかんしていたわけではない、つとめてせわをしようとするのだが、)
お孝も傍観していたわけではない、つとめて世話をしようとするのだが、
(おたみがさきへさきへとほんそうするし、とうのびょうにんからしておたみにかかりたがった。)
おたみが先へ先へと奔走するし、当の病人からしておたみにかかりたがった。
(「それはおたみにさせるからいい、おまえはそっちにすることがあるんだろう、)
「それはおたみにさせるからいい、おまえはそっちにすることがあるんだろう、
(かまわないからそっちのことをしてくれ」)
構わないからそっちのことをして呉れ」
(こんなふうにいって、なるべくおこうのてをさけようとした。)
こんなふうに云って、なるべくお孝の手を避けようとした。
(「へんねえ、なんだかへんだわ、まさかとおもうけれど・・・どうしたのかしら」)
「へんねえ、なんだかへんだわ、まさかと思うけれど・・・どうしたのかしら」
(「へんなことはないさ、おまえはわたしのこともしなくちゃあならないし、)
「へんなことはないさ、おまえは私のこともしなくちゃあならないし、
(おたみならかかりっきりになれるからさ、)
おたみならかかりっきりになれるからさ、
(うごけないびょうにんにはかんびょうのてのかわることがいちばんいやなものらしいよ」)
動けない病人には看病の手の替ることがいちばんいやなものらしいよ」
(「それはそうかもしれないけれど、でも・・・」)
「それはそうかもしれないけれど、でも・・・」
(おこうはおっととそんなことをはなしながら、ひとつあたまにひっかかるものがあった。)
お孝は良人とそんなことを話しながら、ひとつ頭にひっかかるものがあった。
(それはきょねんおたみにえんだんがあって、)
それは去年おたみに縁談があって、
(またとないくらいりょうえんだったのをおたみがことわった。)
又とないくらい良縁だったのをおたみが断わった。
(おたみはみなみせんじゅにいえがあり、じゅうごのとしからほうこうにきている。)
おたみは南千住に家があり、十五の年から奉公に来ている。
(おこうよりひとつしたで、きはしもきくしきりょうもわるくない、)
お孝より一つ下で、気はしもきくし縹緻も悪くない、
(いわゆるおかめがたのぽっちゃりした、)
いわゆるおかめ型のぽっちゃりした、
(からだつきもこがらなあいきょうのあるむすめだった。)
躯つきも小柄な愛嬌のある娘だった。
(それまでにもいくたびかえんだんがあったが、)
それまでにも幾たびか縁談があったが、
(いつもまだとしがわかいからとくびをふっていた。)
いつもまだ年が若いからと首を振っていた。
(あたしいっしょうおこうさんのそばにいたいんです、)
あたし一生お孝さんのそばにいたいんです、
(およめにゆくのなんかいやなこってすわ。)
お嫁にゆくのなんかいやなこってすわ。
(こういいはっていた。しかしきょねんのときはもうはたちにもなるし、)
こう云い張っていた。しかし去年のときはもう二十にもなるし、
(ことわるりゆうがどうにもわからなかったのである。)
断わる理由がどうにもわからなかったのである。
(おこうはじょうだんのように、あんたがすきだからよ。)
お孝は冗談のように、あんたが好きだからよ。
(などとおっとにいったことがある。それにはときぞうがむこにきてから、)
などと良人に云ったことがある。それには時三が婿に来てから、
(おたみのようすがどことなくなまめかしくなり、)
おたみのようすがどことなくなまめかしくなり、
(ときぞうになにかいわれたりするとふとかおをあかくしたり、)
時三になにか云われたりするとふと顔を赤くしたり、
(またしおのあるめつきでじっとみたりした。)
またしおのある眼つきでじっと見たりした。
(いつかろっけんぼりへきくみにいったとき、おもわずそのことをおっとにいって、)
いつか六間堀へ菊見にいったとき、思わずそのことを良人に云って、
(ふゆかいそうにそっぽをむかれたことがあるが。)
不愉快そうにそっぽを向かれたことがあるが。
(ちちがびょうきになってからのようすをみると、)
父が病気になってからのようすを見ると、
(やはりそこにあたりまえでないものがあるようなかんじでいやだった。)
やはりそこにあたりまえでないものがあるような感じで厭だった。
(「いいじゃないか、おとっつぁんがきにいってるんだから、)
「いいじゃないか、お父つぁんが気にいってるんだから、
(おたみだっていやいやしているんじゃあないし、)
おたみだっていやいやしているんじゃあないし、
(きをもむことはないじゃないか」)
気を揉むことはないじゃないか」
(「あたしってやきもちやきなのかしら」)
「あたしってやきもちやきなのかしら」
(「あっさりしているほうじゃあなさそうだな」)
「あっさりしているほうじゃあなさそうだな」
(「にくらしい、あんたのせいよ」「またそれか、よくあきないものさ」)
「憎らしい、あんたのせいよ」「またそれか、よく飽きないものさ」
(「だってほんとうなんですもの、)
「だって本当なんですもの、
(あんたといっしょになるまえにはゆめにもこんなきもちはしらなかったわ、)
あんたといっしょになるまえには夢にもこんな気持は知らなかったわ、
(こんなきもちって、ほんとうにじぶんでもいやよ」)
こんな気持って、本当に自分でもいやよ」
(あんたのせいよということばはむこんきょではなかった。)
あんたのせいよと云う言葉は無根拠ではなかった。
(ときぞうはにほんばしまきちょうの「まつばや」という、)
時三は日本橋槇町の「松葉屋」という、
(やはりふくろものしょうをしているいえのじなんで、)
やはり袋物商をしている家の二男で、
(おとこぶりもいいししょくにんはだで、きんじょのむすめたちにずいぶんさわがれたというし、)
男ぶりもいいし職人はだで、近所の娘たちにずいぶん騒がれたというし、
(けいこにかよっていたうたざわのわかいおんなししょうとは、)
稽古にかよっていた歌沢の若い女師匠とは、
(かなりふかいつきあいがあったということをきいている。)
かなり深いつきあいがあったということを聞いている。
(もちろんけっこんするまえにきれいにかたがついていたらしいが、)
もちろん結婚するまえにきれいに片がついていたらしいが、
(いっしょにせいかつしてみると、そういうじじつがあったろうということが、)
いっしょに生活してみると、そういう事実があったろうということが、
(おこうにはよくわかった。)
お孝にはよくわかった。
(ときぞうはたむらへきてからも、みせにすわるよりはしごとをするほうをこのんだ。)
時三は田村へ来てからも、店に坐るよりは仕事をするほうを好んだ。
(みせはたきちというばんとうにまかせて、じぶんはいちにちじゅうしごとばにこもっている。)
店は他吉という番頭に任せて、自分は一日じゅう仕事場にこもっている。
(あいそっけはないしくちかずはすくないし、)
あいそっけはないし口数は少ないし、
(いつもむっとしたようなかおをしているが、)
いつもむっとしたような顔をしているが、
(そこにちょっとせつめいのつかないつよいみりょくがあった。)
そこにちょっと説明のつかない強い魅力があった。
(いってにひきうけてせわをしてやりたいとか、)
一手にひきうけて世話をしてやりたいとか、
(おもいっきりいじめてやりたいとか、)
思いっきり虐めてやりたいとか、
(はくじょうなめにあってなかされてみたいとか、)
薄情なめにあって泣かされてみたいとか、
(それそれきしょうによってちがうだろうが、)
それそれ気性によって違うだろうが、
(いずれにせよかれをみているとなにかかまってみたくなる、)
いずれにせよ彼を見ているとなにかかまってみたくなる、
(ようするにほうっておけないきもちになる。)
要するにほうっておけない気持になる。
(これがおんなずきのするっていうかたなんだわ、いちばんあぶないかただわ。)
これがおんな好きのするっていう型なんだわ、いちばん危ない型だわ。
(おこうはじぶんのみにしみてそうおもった。)
お孝は自分の身にしみてそう思った。
(けっこんしてまるにねんもたち、うたがわしいようなことはいちどもなかった。)
結婚してまる二年も経ち、疑わしいようなことはいちどもなかった。
(おっとがせいじつであるということはたしからしい、)
良人が誠実であるということはたしからしい、
(しっとなどするよちはすこしもない。こうあんしんしていながら、)
嫉妬などする余地は少しもない。こう安心していながら、
(いっぽうではそんなはずがないというきもちがぬけず、)
一方ではそんな筈がないという気持がぬけず、
(ついするとおっとをうるさがらせ、)
ついすると良人をうるさがらせ、
(じぶんでもいやになるようなことをいってしまう。)
自分でもいやになるようなことを云ってしまう。
(みんなあんたのせいよ。)
みんなあんたのせいよ。
(おこうとしてはこういうよりほかにたつせがなかったのである。)
お孝としてはこう云うよりほかに立つ瀬がなかったのである。