寒橋 山本周五郎 ⑥

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職人の時三と妻のお孝。娘夫婦に対する父親伊兵衛の気遣いとは。
巴旦杏/はたんきょう:スモモの一種。

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問題文

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(いへえがとこばらいをしてから、おたみのようすがどことなくかわってきた。)

伊兵衛がとこばらいをしてから、おたみのようすがどことなく変ってきた。

(いつもうかないかおをしていて、)

いつも浮かない顔をしていて、

(これまでついぞないことだがさらこばちをわったり、)

これまでついぞないことだが皿小鉢をわったり、

(はらぐあいがわるいといってしごにちもだまってねていたり、)

腹ぐあいが悪いといって四五日も黙って寝ていたり、

(またよなかにおかってではこうとして、いやなこえをだしていたりした。)

また夜中にお勝手ではこうとして、いやな声をだしていたりした。

(そうしておたみはじゅうがつのすえになって、からだのちょうしがわるいからと、)

そうしておたみは十月の末になって、躯の調子が悪いからと、

(きゅうにひまをもらいたいといいだし、)

急にひまを貰いたいと云いだし、

(ひきとめるてをふりきるようなぐあいにじっかへかえっていった。)

ひきとめる手を振切るようなぐあいに実家へ帰っていった。

(「どうしたんでしょ、しちねんもいていえのものもどうようにくらしてきたのに、)

「どうしたんでしょ、七年もいて家の者も同様にくらして来たのに、

(なにがきにさわってあんなふうにでていったのかしら」)

なにが気に障ってあんなふうに出ていったのかしら」

(「きゅうによめのはなしでもあったんだろう」ときぞうはこういっていた。)

「急に嫁のはなしでもあったんだろう」時三はこう云っていた。

(「どうせしぬまでいるものじゃなし、いつかはでてゆくんだから、)

「どうせ死ぬまでいる者じゃなし、いつかは出てゆくんだから、

(わたしのびょうきもおちついたところだしいいじゃないか」)

私の病気もおちついたところだしいいじゃないか」

(いへえもこういうだけだった。おこうはたしょうにくらしいとおもったが、)

伊兵衛もこう云うだけだった。お孝は多少にくらしいと思ったが、

(そのままにしておけないので、よめにゆくゆかぬはともかく、)

そのままにしておけないので、嫁にゆくゆかぬはともかく、

(かねてよさんしていただけのしなものをかいそろえ、)

かねて予算していただけの品物を買い揃え、

(それそうとうのかねもつつんで、みなみせんじゅのじっかというのへとどけてやった。)

それ相当の金も包んで、南千住の実家というのへ届けてやった。

(はんつきばかりしてじょちゅうのはなしがでたが、こどもでもうまれるまではようもないので、)

半月ばかりして女中のはなしが出たが、子供でも生れるまでは用もないので、

(おこうはじぶんでやってゆくことにきめた。)

お孝は自分でやってゆくことにきめた。

(「それにしてもへんねえ、あたしあかちゃんができないからだなのかしら」)

「それにしてもへんねえ、あたし赤ちゃんが出来ない躯なのかしら」

など

(「こどもなんかいそぐことはないよ」)

「子供なんか急ぐことはないよ」

(「だっていやなのよ、ともだちにあうときまってからかわれるんですもの、)

「だっていやなのよ、友達に会うときまってからかわれるんですもの、

(あんまりなかがよすぎるんだとか、おむかえがはげしすぎるんだとかって、)

あんまり仲がよすぎるんだとか、お迎えが激しすぎるんだとかって、

(ねえ、ほんとうにそんなことってあるのかしら、なかがよすぎると、)

ねえ、本当にそんなことってあるのかしら、仲がよすぎると、

(あらいやだ、へんなこといいだしちゃって、あたしどうかしてるわ」)

あらいやだ、へんなこと云いだしちゃって、あたしどうかしてるわ」

(「ひとりではしゃいでひとりであかくなってりゃあせわあねえや」)

「独りではしゃいで独りで赤くなってりゃあ世話あねえや」

(「いいじゃないの、おたみがいなくなってから)

「いいじゃないの、おたみがいなくなってから

(はじめてしみじみしたきもちになれたんですもの、)

初めてしみじみした気持になれたんですもの、

(はじめてふうふさしむかいってきもちなんですもの、)

初めて夫婦さし向いって気持なんですもの、

(これではやくあかちゃんができればもうしぶんないんだけれど、)

これで早く赤ちゃんが出来れば申し分ないんだけれど、

(あたしどこかしんじんしてみようかしら」)

あたしどこか信心してみようかしら」

(としがあけてしょうがつのはつかに、ときわづのししょうのそうざらいがあった。)

年があけて正月の二十日に、常磐津の師匠の総ざらいがあった。

(まいとしのれいで、さんじゅっけんぼりの「はんかつ」というかしせきでやる。)

毎年の例で、三十間堀の「半勝」という貸席でやる。

(とうじつはふるいでしもみんなあつまってけいきをつけるのだが、)

当日は古い弟子もみんな集まって景気をつけるのだが、

(そこではごくたまにしかあえないひとにあい、いろいろじょうほうもきけるので、)

そこではごくたまにしか会えない人に会い、いろいろ情報も聞けるので、

(ふるがおはいっしゅのしんぼくかいのようにこころえていた。)

古顔は一種の親睦会のように心得ていた。

(ここでもけいざいてきないみばかりでなく、)

ここでも経済的な意味ばかりでなく、

(せいらいのせわやきずきでおふみがさいはいをふり、)

性来の世話やき好きでお文が采配を振り、

(ぞうざらいがおわるなりししょうをらっしてきて、)

総ざらいが終るなり師匠を拉っして来て、

(「さあこれからおししょうさんのとこあげいわいよ」などときせいをあげた。)

「さあこれからお師匠さんのとこあげ祝いよ」などと気勢をあげた。

(でしたちのいえからもいわいのおじゅうやひろぶたがたくさんとどいている。)

弟子たちの家からも祝いのお重や広蓋がたくさん届いている。

(そのうえきんじょのしだしやからしゅこうをとって、)

そのうえ近所の仕出し屋から酒肴を取って、

(きょねんのびょうきみまいどころではない、はなやかでおおがかりなえんかいがはじまった。)

去年の病気みまいどころではない、華やかで大掛りな宴会が始まった。

(こんどはおとこもかなりまじっているので、おんなたちのさわぎにはげんどがあったが、)

こんどは男もかなりまじっているので、女たちの騒ぎには限度があったが、

(それだけどことなくいろっぽいくうきがただよい、)

それだけどことなく色っぽい空気がただよい、

(いいとしのおかみさんふうのひとまでがきどってわらいごえをたてたりした。)

いい年のおかみさんふうの人までが気取って笑い声をたてたりした。

(「おこうさん、ちょっと」さかずきがまわりだしてからまもなく、)

「お孝さん、ちょっと」盃がまわりだしてからまもなく、

(おふみがきてすわって、うすわらいをしながらこっちをみた。)

お文が来て坐って、うす笑いをしながらこっちを見た。

(「どうした、あんたのだんつく、このごろはおとなしくしている」)

「どうした、あんたの旦つく、この頃はおとなしくしている」

(おふみはわざとそういうくちをきく、)

お文はわざとそういう口をきく、

(ふんとうしたあとでさけがはいって、よってもいるらしい、)

奮闘したあとで酒がはいって、酔ってもいるらしい、

(おしろいのはげたほおがはたんきょうのようにあかくひかっていた。)

白粉の剥げた頬が巴旦杏のように赤く光っていた。

(「このごろっていったって、うちじゃあいつもおなじことよ、)

「この頃っていったって、うちじゃあいつも同じことよ、

(たいしたこともなしだわ」「そんなこといっているからいけないんだ、)

たいしたこともなしだわ」「そんなこと云ってるからいけないんだ、

(あんたはだんつくにほれちゃってるんだから、ねえいいこと、)

あんたは旦つくに惚れちゃってるんだから、ねえいいこと、

(ふうふであろうとなんであろうと、おとことおんなのあいだじゃ)

夫婦であろうとなんであろうと、男と女のあいだじゃ

(ほれたほうがまけよ、むこうにほれさせなきゃだめよ、)

惚れたほうが負けよ、向うに惚れさせなきゃだめよ、

(そりゃあときさんはいいおとこでしょ、あたしだってちょいと)

そりゃあ時さんはいい男でしょ、あたしだってちょいと

(うわきがしてみたくなるくらいだけど、だからよけいよわみを)

浮気がしてみたくなるくらいだけど、だからよけい弱味を

(みせちゃいけないの、それをあんたはあけっぱなしなんだから、)

見せちゃいけないの、それをあんたはあけっ放しなんだから、

(あけっぱなしでほれきってるからあんなことになるんだ、)

あけっ放しで惚れきってるからあんな事になるんだ、

(なによ、あいてがよしわらなかとかやなぎばしあたりで、だれそれといわれる)

なによ、相手が吉原なかとか柳橋あたりで、だれそれといわれる

(ねえさんならともかく、じょちゅうにていしゅをとられるなんておんなのはじじゃないの」)

姐さんならともかく、女中に亭主をとられるなんて女の恥じゃないの」

(おこうはあっけにとられた。おふみがそんなによっているのかと、)

お孝はあっけにとられた。お文がそんなに酔っているのかと、

(ついわらいながらかおをみなおした。おふみはそれをどうとったものか、)

つい笑いながら顔を見なおした。お文はそれをどう取ったものか、

(ひどくいきごんでいいつづけた。「おまけにおこうさんときたら、)

ひどくいきごんで云い続けた。「おまけにお孝さんときたら、

(あとからきものや、こだんすなんぞかって、おかねまでつけて)

あとから着物や、小箪笥なんぞ買って、お金まで付けて

(やったというじゃないの、いまにあかんぼがうまれたら)

やったというじゃないの、いまに赤んぼが生れたら

(ひきとってそだてるなんていうんでしょ、あたしだったらおたみなんかびりびりに)

引取って育てるなんて云うんでしょ、あたしだったらおたみなんかびりびりに

(ひっちゃぶいてやるわ、しっかりしなさいよおこうさん」)

ひっちゃぶいてやるわ、しっかりしなさいよお孝さん」

(「おたみって、おたみがなにか・・・」)

「おたみって、おたみがなにか・・・」

(「あたしにかくしてどうするの、おたみをせわしたのはあたしじゃないの、)

「あたしに隠してどうするの、おたみを世話したのはあたしじゃないの、

(あたしおこうさんにもうしわけがなくって、だからよけいはらがたって、)

あたしお孝さんに申しわけがなくって、だからよけい肚が立って、

(みなみせんじゅまでいってそいってやったわ、もうけっしてわかだんなにはあいません、)

南千住までいってそ云ってやったわ、もう決して若旦那には会いません、

(あかちゃんをうんだらいなかへひっこんでくらしますって、)

赤ちゃんを産んだら田舎へひっこんでくらしますって、

(しんみょうなかおでないてたけど、こころのなかでなにをかんがえてるかしれたもんじゃないわ、)

神妙な顔で泣いてたけど、心のなかでなにを考えてるか知れたもんじゃないわ、

(いつもいってるでしょ、だんつくにはがっちりくつわをかませて、)

いつも云ってるでしょ、旦つくにはがっちりくつわを噛ませて、

(たづなをぎゅうぎゅうしめていなければいけないって、あんたはあまいから」)

手綱をぎゅうぎゅう緊めていなければいけないって、あんたは甘いから」

(おこうはもうきいてはいなかった。からだがぐらぐらして、)

お孝はもう聞いてはいなかった。躯がぐらぐらして、

(たおれそうなきもちで、やがてはげしいはきけにおそわれてざをたった。)

倒れそうな気持で、やがて激しいはきけにおそわれて座を立った。

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