寒橋 山本周五郎 ⑧
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問題文
(そのひはあさからみなみかぜがふいて、きもちのわるいほどあたたかかったが、)
その日は朝から南風が吹いて、気持の悪いほど暖かかったが、
(かぜがおちてからもきおんがたかく、はなでもさきそうなようきだった。)
風がおちてからも気温が高く、花でも咲きそうな陽気だった。
(このところまたいのちょうしがいけないらしく、)
このところまた胃の調子がいけないらしく、
(しずんだかおいろをしていたちちが、そのよるはきぶんがいいとみえて、)
沈んだ顔色をしていた父が、その夜は気分がいいとみえて、
(ゆうしょくのときにはひさしぶりにつりのはなしなどした。)
夕食のときには久しぶりに釣りの話などした。
(「こんなばんはあなごがくうんだがな、しかしうみばかりやってきたから、)
「こんな晩はあなごがくうんだがな、しかし海ばかりやって来たから、
(ことしはひとつふなをやってみようかとおもう、まきちょうじゃあたしか)
今年はひとつ鮒をやってみようかと思う、槇町じゃあたしか
(そのほうのてんぐだったな」「おやじのはくちばかりですよ、)
そのほうの天狗だったな」「親父のは口ばかりですよ、
(つりにゆくんじゃなくってさけをのみにゆくんですから」)
釣りにゆくんじゃなくって酒を飲みにゆくんですから」
(「いやつったものをそこでつくってのむのがつりのほんあじだというくらいなんだ、)
「いや釣ったものをそこで作って飲むのが釣りの本味だというくらいなんだ、
(わたしはのめないからだめだが」)
私は飲めないからだめだが」
(おこうはふたりのはなしをききながら、さむさばしのよるのかしをおもいだしていた。)
お孝は二人の話を聞きながら、寒橋の夜の河岸を思いだしていた。
(ちちがねて、おっとがねてから、しばらくときものをしていたおこうは、)
父が寝て、良人が寝てから、暫く解き物をしていたお孝は、
(ふいとだれかによばれるようなきもちで、ひざのものをおしやってたち、)
ふいと誰かに呼ばれるような気持で、膝の物を押しやって立ち、
(おとをしのばせてうらぐちからそとへぬけだした。)
音を忍ばせて裏口から外へぬけだした。
(じゅういちじごろだろう、きんじょはとをしめてねていたが、)
十一時ごろだろう、近所は戸を閉めて寝ていたが、
(ところどころともしがもれ、たのしそうなはなしごえのきこえるいえもあった。)
ところどころ灯がもれ、楽しそうな話し声の聞える家もあった。
(まっすぐにかしへぬけ、さむさばしの、いつもちちのすわるくずれたいしがきのところへ)
まっすぐに河岸へぬけ、寒橋の、いつも父の坐る崩れた石垣のところへ
(いってたたずんだ。かわかみのつくだじまのほうに、ふねでもすひがぼっとかすんで、)
いって佇んだ。川上の佃島のほうに、舟で燃す火がぼっと霞んで、
(てんてんといつつむつみえた。しらうおあみだろう、そのあたりからすいめんをつたって、)
点々と五つ六つ見えた。白魚網だろう、そのあたりから水面を伝って、
(ひとのこえがとぎれとぎれにきこえてくる。)
人の声がとぎれとぎれに聞えて来る。
(「おっかさん」おこうはそっとよんだ。ちちおやがそこにつりいとをたれている、)
「おっ母さん」お孝はそっと呼んだ。父親がそこに釣糸を垂れている、
(ははがじょちゅうにちゃやべんとうをもたせてきて、ちちのそばへいってかがむ。)
母が女中に茶や弁当を持たせて来て、父のそばへいってかがむ。
(こなくってもいいのに、かぜでもひいたらこまるじゃないか。)
来なくってもいいのに、風邪でもひいたら困るじゃないか。
(でもさびしくって、ねられなかったからきてみたのよ、おちゃをあがったら。)
でも寂しくって、寝られなかったから来てみたのよ、お茶をあがったら。
(すまないな、ちょうどほしいところだった、おまえそうしているなら)
済まないな、ちょうど欲しいところだった、おまえそうしているなら
(これをちょっとひっかけているがいい。あらいいのよ、)
これをちょっとひっかけているがいい。あらいいのよ、
(それじゃああんたがさむいわ。ちちとははとのこんなかいわが、)
それじゃああんたが寒いわ。父と母とのこんな会話が、
(げんにそこでとりかわされているように、ありありときこえるきがした。)
現にそこでとり交わされているように、ありありと聞える気がした。
(ちちとははとのおだやかな、まじりけのないあたたかなあいじょう、)
父と母との穏やかな、まじりけのない温かな愛情、
(おたがいにいたわりあいあいてにせいじつであったあいじょう、)
お互いにいたわりあい相手に誠実であった愛情、
(それがそのまま、さむさばしのきしのそのいしのところに、)
それがそのまま、寒橋の岸のその石のところに、
(そのままげんにのこっている、ふたりのあいじょうはいまでもそこにいきている、)
そのまま現に残っている、二人の愛情は今でもそこに生きている、
(そこに、そのいしのうえに、おこうにはそれがめにみえるようにおもえた。)
そこに、その石の上に、お孝にはそれが眼に見えるように思えた。
(「おっかさん、あたしくるしいの、いきているのがつらいのよ、)
「おっ母さん、あたし苦しいの、生きているのが辛いのよ、
(ねえ、おっかさん、あたしどうしたらいいの」)
ねえ、おっ母さん、あたしどうしたらいいの」
(おこうはくらいみずをのぞきこんでいった。)
お孝は暗い水を覗きこんで云った。
(「こんなにくるしいのに、あのひとがにくめない、にくいんだけれど)
「こんなに苦しいのに、あのひとが憎めない、憎いんだけれど
(はなれられない、まえよりもあのひとがこいしくって、)
離れられない、まえよりもあのひとが恋しくって、
(それでそばへよられるととりはだのたつほどいやで、)
それでそばへ寄られると鳥肌の立つほどいやで、
(ひとりになるとしぬほどくるしくなるの、ねえ、どうしたらいいの、)
独りになると死ぬほど苦しくなるの、ねえ、どうしたらいいの、
(おしえて、おっかさん、ねえ、あたしどうしたらいいの」)
教えて、おっ母さん、ねえ、あたしどうしたらいいの」
(たぷたぷときしをうつなみのなかから、ははのかおがすっとうきあがり、)
たぷたぷと岸を打つ波の中から、母の顔がすっと浮きあがり、
(てまねきをしながらこういった。)
手招きをしながらこう云った。
(「おいで、おこう、こっちへ、おっかさんのほうへおいで」)
「おいで、お孝、こっちへ、おっ母さんのほうへおいで」
(おこうはぞっとそうけだった。あまりにはっきりきこえたからである。)
お孝はぞっと総毛立った。あまりにはっきり聞えたからである。
(そしてうしろへさがろうとおもいながら、ふらふらとぎゃくにあしがまえへでたとき、)
そして後ろへさがろうと思いながら、ふらふらと逆に足が前へ出たとき、
(つよいちからではげしくかたをだきしめられた。)
強い力で激しく肩を抱き緊められた。
(「ばかなまねをするな、おこう」みみもとでこうさけばれ、はっとして、)
「ばかなまねをするな、お孝」耳もとでこう叫ばれ、はっとして、
(みをもがいてそのてをふりはなした。「なによ、なにがばかなことよ」)
身をもがいてその手を振放した。「なによ、なにがばかなことよ」
(おこうはかみへてをやりながらいった。)
お孝は髪へ手をやりながら云った。
(「むしむししてあたまがいたいから、ちょっとかわかぜにあたりにきたんじゃないの」)
「むしむしして頭が痛いから、ちょっと川風に当りに来たんじゃないの」
(「おこう・・・」ときぞうはおおきくあえぎながら、ごくっとつばをのみ、)
「お孝・・・」 時三は大きくあえぎながら、ごくっと唾をのみ、
(かたてをみょうなぐあいにふって、それからしゃがれたようなこえでいった。)
片手を妙なぐあいに振って、それからしゃがれたような声で云った。
(「すぐかえってくれ、おとっつぁんがわるくなったんだ、おれはこれから)
「すぐ帰って呉れ、お父つぁんが悪くなったんだ、おれはこれから
(いしゃへいってくる」「おとっつぁんが、どうしたんですって」)
医者へいって来る」「お父つぁんが、どうしたんですって」
(「またちをはいたんだ、まえよりたくさんはいた、すぐかえって、)
「また血を吐いたんだ、まえよりたくさん吐いた、すぐ帰って、
(ぬれてぬぐいでいのところをひやしていてくれ、いしゃをよんでくるから」)
濡れ手拭で胃のところを冷やしていて呉れ、医者を呼んで来るから」
(「おとっつぁんが」こういいながらおこうはもうかけだしていた。)
「お父つぁんが」こう云いながらお孝はもう駆けだしていた。
(おっとがなにかさけんだようだった。けれどもおこうはなかばむちゅうではしり、)
良人がなにか叫んだようだった。けれどもお孝はなかば夢中で走り、
(いえへつくまでににどもころんで、かたほうのひざをひどくすりむいた。)
家へ着くまでに二度も転んで、片方の膝をひどく擦りむいた。
(ちちはあおむけにねて、むねのしたまでやぐをまくって、まくらからあたまをはずしていた。)
父は仰向けに寝て、胸の下まで夜具をまくって、枕から頭を外していた。
(かおはきみのわるいほどあおく、ほおがこけ、よごれたくちをあけて、)
顔はきみの悪いほど蒼く、頬がこけ、汚れた口をあけて、
(きゅうそくなあさいこきゅうをしている。)
急速な浅い呼吸をしている。
(ふくひまもなかったのだろう、そのあたりはまだよごれたままだった。)
拭くひまもなかったのだろう、そのあたりはまだ汚れたままだった。
(おこうはできるだけおちついたどうさでまくらもとへいった。)
お孝はできるだけおちついた動作で枕もとへいった。