寒橋 山本周五郎 ⑨
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問題文
(「おとっつぁんどう、くるしい、いまうちでおいしゃへいったからすぐくるわ、)
「お父つぁんどう、苦しい、いまうちでお医者へいったからすぐ来るわ、
(すこしのしんぼうだからしっかりしててね」)
少しの辛抱だからしっかりしててね」
(「だいじょうぶだ、もうくるしくはない」)
「大丈夫だ、もう苦しくはない」
(いへえはめだけをこちらへむけた。)
伊兵衛は眼だけをこちらへ向けた。
(「それよりおこう、おまえにはなしがある、もっとこっちへよってくれ」)
「それよりお孝、おまえに話がある、もっとこっちへ寄って呉れ」
(「だっていまはなしなんかしちゃだめよ、)
「だっていま話なんかしちゃだめよ、
(おいしゃのくるまでしずかにしていなくっちゃ」)
お医者の来るまで静かにしていなくっちゃ」
(「いやきいてくれ、いまはなさなくっちゃあはなすときがないんだ、)
「いや聞いて呉れ、いま話さなくっちゃあ話すときがないんだ、
(わたしは、おこう、おまえにもすまない、ときぞうにもすまない、)
私は、お孝、おまえにも済まない、時三にも済まない、
(いいか、うちあけていうが、おこう、おたみがうむのはわたしのこなんだ、)
いいか、うちあけて云うが、お孝、おたみが産むのは私の子なんだ、
(ときぞうのじゃあない、おたみはこのいへえのこをうむんだ」)
時三のじゃあない、おたみはこの伊兵衛の子を産むんだ」
(ああとおこうはいきをのんだ。)
ああとお孝は息をのんだ。
(「ときぞうはわたしをかばってくれた、おやのはじをみにきてくれたんだ、)
「時三は私を庇って呉れた、親の恥を身に衣て呉れたんだ、
(おたみにもそういいふくめたらしい、おまえにもけっしていうなと、)
おたみにもそう云い含めたらしい、おまえにも決して云うなと、
(あれはわたしにそうやくそくさせた、だからだまっていたんだ、)
あれは私にそう約束させた、だから黙っていたんだ、
(けれど、もうこんどはわたしもいけないというきがする、)
けれど、もうこんどは私もいけないという気がする、
(このままではしねないからうちあけたんだ、おこう、わかったか」)
このままでは死ねないからうちあけたんだ、お孝、わかったか」
(「おとっつぁん」おこうはとつぜんちちのてをにぎり、)
「お父つぁん」お孝はとつぜん父の手を握り、
(そのてにほおずりをしながらなきだした。)
その手に頬ずりをしながら泣きだした。
(「うれしい、おとっつぁん、うれしいわ、あたしうれしい」)
「うれしい、お父つぁん、うれしいわ、あたしうれしい」
(そしてまるでわらうようなこえでえんりょもなくないた。)
そしてまるで笑うような声で遠慮もなく泣いた。
(いへえはめをつぶって、そっとうなずきながらいった。)
伊兵衛は眼をつぶって、そっと頷きながら云った。
(「おまえがくるしんでいることは、わたしはよくしっていた、)
「おまえが苦しんでいることは、私はよく知っていた、
(さぞつらかったろう、みもよもないおもいだったろう、)
さぞ辛かったろう、身も世もない思いだったろう、
(だがじじょうがわかってみれば、わたしのあやまちだということがわかれば、)
だが事情がわかってみれば、私のあやまちだということがわかれば、
(もうそのくるしさもなくなるはずだ」)
もうその苦しさもなくなる筈だ」
(おこうはまだなきながら、じぶんのなみだでぬらしたちちのてのうえでうなずいた。)
お孝はまだ泣きながら、自分の涙で濡らした父の手の上で頷いた。
(「にんげんはよわいもんだ、きをつけていても、ひょっとすきがあれば、)
「人間は弱いもんだ、気をつけていても、ひょっと隙があれば、
(じぶんであきれるようなまちがいをしでかす、だれかれとかぎらない、)
自分で呆れるようなまちがいをしでかす、だれかれと限らない、
(にんげんにはみんなそういうよわいところがあるんだ、)
人間にはみんなそういう弱いところがあるんだ、
(ここをよくおぼえておいてくれ、いいか、そんなこともあるまいが、)
ここをよく覚えておいて呉れ、いいか、そんなこともあるまいが、
(ながいあいだには、ときぞうもうわきぐらいするかもしれない、)
長いあいだには、時三も浮気ぐらいするかもしれない、
(そのときはかんにんしてやれ、ふうふのあいだのまちがいは、)
そのときは堪忍してやれ、夫婦のあいだのまちがいは、
(おたがいにかんにんしあい、おたがいにいたわり、)
お互いに堪忍しあい、お互いにいたわり、
(たすけあってゆかなくちゃならない、それがふうふというものなんだよ」)
助けあってゆかなくちゃならない、それが夫婦というものなんだよ」
(ちちのことばをはっきりききとめようとしながら、)
父の言葉をはっきり聞きとめようとしながら、
(おこうはもうこうふくとよろこびであたまがいっぱいになり、)
お孝はもう幸福とよろこびで頭がいっぱいになり、
(からだがとけるようなおもいでなきつづけた。)
躯が溶けるような思いで泣き続けた。
(「やくそくだから、このはなしは、おまえのむねひとつにしまっておいてくれ、)
「約束だから、この話は、おまえの胸ひとつにしまっておいて呉れ、
(みんながそのつもりでいるんだから、)
みんながそのつもりでいるんだから、
(ときぞうにもいっちゃあいけない、わかったな」)
時三にも云っちゃあいけない、わかったな」
(いへえはこうねんをおしてくちをつぐんだ。)
伊兵衛はこう念を押して口をつぐんだ。
(それからほんのわずかしていしゃがきた。)
それからほんの僅かして医者が来た。
(けれどもてあてにかかるひまもなく、またたいりょうなとけつがあり、)
けれども手当てにかかる暇もなく、また大量な吐血があり、
(こんすいじょうたいになって、にほんばしのほうのらんぽういをよぼうと、)
昏睡状態になって、日本橋のほうの蘭方医を呼ぼうと、
(つかいをだしてまもなく、いへえはこんすいしたままついにいきをひきとった。)
使いを出してまもなく、伊兵衛は昏睡したままついに息をひきとった。
(さんじゅうしちにちがすむまでは、おこうはみもこころもじぶんのもののようではなかった。)
三七日が済むまでは、お孝は身も心も自分のもののようではなかった。
(ときぞうがしんぱいして、すわっていればいい、なにもするなとかばってくれ、)
時三が心配して、坐っていればいい、なにもするなと庇って呉れ、
(じっさいまたそうはたらくこともなかった。)
じっさいまたそう働くこともなかった。
(それでいてたえずおいたてられるように、そわそわとおちつかず、)
それでいて絶えず追いたてられるように、そわそわとおちつかず、
(よるもじゅくすいすることができなかった。)
夜も熟睡することができなかった。
(「そんなことはないよ、ゆうべなんかいびきをかいてねむってたぜ、)
「そんなことはないよ、ゆうべなんか鼾をかいて眠ってたぜ、
(わたしがにどもおきたのをしらないだろう」)
私が二度も起きたのを知らないだろう」
(おっとはそういってわらったが、じぶんではそうはおもえない、)
良人はそう云って笑ったが、自分ではそうは思えない、
(たしかにひとばんじゅうねむれなかったようで、)
たしかに一晩じゅう眠れなかったようで、
(ひるになるとつかれてねむくてしかたがなかった。)
昼になると疲れて眠くてしかたがなかった。
(さんじゆうしちにちにはてらでほうじをしたあと、きんろくちょうの「きくや」できゃくにせったいをした。)
三七日には寺で法事をしたあと、金六町の「菊屋」で客に接待をした。
(みんなでさんじゅうにんばかりだったが、しょじたなうちのものがほんそうするので、)
みんなで三十人ばかりだったが、諸事たなうちの者が奔走するので、
(おこうはすわってあいさつだけしていればよかった。)
お孝は坐って挨拶だけしていればよかった。
(せったいがすんで、いちどみせへより、おだわらちょうへかえるころにはすっかりくれて、)
接待が済んで、いちど店へ寄り、小田原町へ帰る頃にはすっかり昏れて、
(いえにはあかあかとともしがはいっていた。)
家にはあかあかと灯がはいっていた。