寒橋 山本周五郎 ⑩(終)

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職人の時三と妻のお孝。娘夫婦に対する父親伊兵衛の気遣いとは。

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(るすばんのものもかえし、ふたりだけになって、ほっといきをついてかおをみあわせたとき、)

留守番の者もかえし、二人だけになって、ほっと息をついて顔を見合せたとき、

(おこうはこびのあるめでおっとにほほえんだ。)

お孝は媚びのある眼で良人に頬笑んだ。

(「たいへんだったわね、つかれたでしょ、なにもかもあんたひとりに)

「たいへんだったわね、疲れたでしょ、なにもかもあんた一人に

(してもらって、ほんとうにわるかったわ、ごめんなさいね」)

して貰って、本当に悪かったわ、ごめんなさいね」

(「じぶんのおやのことじゃないか、おまえにれいをいわれることはないさ」)

「自分の親のことじゃないか、おまえに礼を云われることはないさ」

(「おとっつぁんうれしかったとおもうわ、なんにもこころのこりはないし、)

「お父つぁんうれしかったと思うわ、なんにも心残りはないし、

(こんなにしてもらって、うみのこにだってできないことをしてもらって、)

こんなにして貰って、生みの子にだって出来ないことをして貰って、

(ほんとうにあんらくにしねたとおもうの」「そんなことがあるもんか」)

本当に安楽に死ねたと思うの」「そんなことがあるもんか」

(おこったようにこういって、ときぞうはふとわきへめをそらした。)

怒ったようにこう云って、時三はふと脇へ眼をそらした。

(はつかあまりのしんろうがでたものだろう、ほおがすこしこけてかおいろもわるい。)

二十日あまりの心労が出たものだろう、頬が少しこけて顔色も悪い。

(かれはいったんわきへそらしためをふせ、しめったようなひくいこえでつぶやいた。)

彼はいったん脇へそらした眼を伏せ、湿ったような低い声で呟いた。

(「わたしはしんぱいのかけっぱなしだった、これからすこしはこうこうのまねごとも)

「私は心配のかけっ放しだった、これから少しは孝行のまねごとも

(しようとおもっていたんだ、いましなれちゃあどうしたってきもちがすまない、)

しようと思っていたんだ、いま死なれちゃあどうしたって気持が済まない、

(おれはあきらめきれないんだ」)

おれは諦めきれないんだ」

(「いいえそうじゃない、あたしみんなしってるの、)

「いいえそうじゃない、あたしみんな知ってるの、

(おとっつぁんはあんたにおれいをいってるわ、)

お父つぁんはあんたにお礼を云ってるわ、

(あたしだってどんなにうれしいかわからない、)

あたしだってどんなにうれしいかわからない、

(うれしくって、どうおれいをいっていいかわからないわ」)

うれしくって、どうお礼を云っていいかわからないわ」

(おこうはじゅばんのそででそっとめをおさえた。)

お孝は襦袢の袖でそっと眼を押えた。

(ときぞうはふしんそうにこっちをみて、まるできずぐちにでもふれるようにいった。)

時三は不審そうにこっちを見て、まるで傷口にでも触れるように云った。

など

(「みんなしってるって、いったい、なにをしってるんだ」)

「みんな知ってるって、いったい、なにを知ってるんだ」

(「おたみのうむこがだれのこだかっていうこと、)

「おたみの産む子が誰の子だかっていうこと、

(あのばんあんたがおいしゃへいったあとですっかりはなしてくれたの、)

あの晩あんたがお医者へいったあとですっかり話して呉れたの、

(あんたがおとっつぁんのはじをみにきて、)

あんたがお父つぁんの恥を身に衣て、

(じぶんのまちがいのようにとりつくろって、)

自分のまちがいのようにとりつくろって、

(おたみにまでそういいふくめてくれたということをよ、)

おたみにまでそう云い含めて呉れたということをよ、

(あたしばかだから、そうとはきがつかずにあんたをうらんだわ、)

あたしばかだから、そうとは気がつかずにあんたを怨んだわ、

(くるしくってかなしくって、いきているのがつらかったわ、)

苦しくって悲しくって、生きているのが辛かったわ、

(だからうれしかった、うれしくって、あんまりうれしくって、)

だからうれしかった、うれしくって、あんまりうれしくって、

(もういつしんでもいいとおもったわ」)

もういつ死んでもいいと思ったわ」

(「おとっつぁんが、そういったのか、おとっつぁんが、)

「お父つぁんが、そう云ったのか、お父つぁんが、

(おたみのうむこは、おとっつぁんのこだって」)

おたみの産む子は、お父つぁんの子だって」

(「あんた、かんにんして」おこうはおっとのむねにしがみついて、)

「あんた、堪忍して」お孝は良人の胸にしがみついて、

(ふるえながらほおをおっとのむねにすりつけた。)

ふるえながら頬を良人の胸にすりつけた。

(「あたしじぶんのことしかかんがえなかった。かわいがられることばかりおもって、)

「あたし自分のことしか考えなかった。可愛がられることばかり思って、

(あんたのみになってみるきがなかったの、おとっつぁんがそいったわ、)

あんたの身になってみる気がなかったの、お父つぁんがそ云ったわ、

(にんげんはよわいもんだって、ふうふはおたがいにゆるしあい、)

人間は弱いもんだって、夫婦はお互いに許しあい、

(いたわりたすけあってゆくもんだって、)

いたわり助けあってゆくもんだって、

(あたしようやくおとなになったようなきがするの、)

あたしようやく大人になったような気がするの、

(おたみのことがもしあんたのまちがいだったとしても、)

おたみのことがもしあんたのまちがいだったとしても、

(こんどは、そのはんぶんはあたしのせきにんだとおもうことができるわ、)

こんどは、その半分はあたしの責任だと思うことができるわ、

(ねえ、あたしこれからいいつまになってよ、だからかんにんして、)

ねえ、あたしこれからいい妻になってよ、だから堪忍して、

(これまでのことはかんにんしてちょうだい」)

これまでのことは堪忍して頂戴」

(そうしてあまくむせびあげるおこうを、ときぞうはだまってだきしめ、)

そうして甘くむせびあげるお孝を、時三は黙って抱き緊め、

(そのほおへじぶんのほおをおしつけた。)

その頬へ自分の頬を押しつけた。

(なみだにぬれてひのようにあついほおである、ときぞうはめをつむり、)

涙に濡れて火のように熱い頬である、時三は眼をつむり、

(だいたつまのからだを、こどもでもあやすように、しずかにゆすった。)

抱いた妻の躯を、子供でもあやすように、静かに揺すった。

(「おたみがこをうんだら、うちへひきとってそだてさせてね、)

「おたみが子を産んだら、うちへ引取って育てさせてね、

(あんたにはすまないけれど、あんたのこにして、)

あんたには済まないけれど、あんたの子にして、

(そうすれば、もらいごをすれば、こどもができるというから、)

そうすれば、貰い子をすれば、子供が出来るというから、

(あたしにもあかちゃんができるかもしれないわ」)

あたしにも赤ちゃんが出来るかもしれないわ」

(「もしおたみがはなしたらな」)

「もしおたみが放したらな」

(「おたみはこれからよめにゆくからだですもの、わけをいえばはなすわよ・・・ふふ」)

「おたみはこれから嫁にゆく躯ですもの、わけを云えば放すわよ・・・ふふ」

(おこうはなきごえでふくみわらいをした。)

お孝は泣き声で含み笑いをした。

(「おふみちゃんがむくれるわね、いつかいってたとおりになるんだもの、)

「お文ちゃんがむくれるわね、いつか云ってたとおりになるんだもの、

(あんたはいまにそのあかんぼもひきとるっていうんでしょって、)

あんたはいまにその赤んぼも引取るっていうんでしょって、

(これだけはほんとうのこといえないんだから、)

これだけは本当のこと云えないんだから、

(あのひときっとまっかになっておこるわよ」)

あのひときっとまっ赤になって怒るわよ」

(そのばんはたえてひさしく、そしてふたりがいっしょになってからはじめて、)

その晩は絶えて久しく、そして二人がいっしょになってから初めて、

(やぐはひとつしかしかれなかった。)

夜具は一つしか敷かれなかった。

(もものせっくもちかいというのに、しゅんかんというのだろう、)

桃の節旬も近いというのに、春寒というのだろう、

(めずらしくひえるよるで、ひのばんのきのおとがとおくさえてきこえた。)

珍しく冷える夜で、火の番の柝の音が遠く冴えて聞えた。

(やはんをずっとすぎてから、ときぞうがそっとおきてきて、)

夜半をずっと過ぎてから、時三がそっと起きて来て、

(ものおとをしのばせてぶつだんのまえへゆき、そこへきちんとすわって、あたまをたれた。)

物音を忍ばせて仏壇の前へゆき、そこへきちんと坐って、頭を垂れた。

(「ありがとう、おとっつぁん」かれはひくいこえでこうささやいた。)

「有難う、お父つぁん」彼は低い声でこう囁いた。

(「もうこれっきりです、けっしてもうあんなことはしません、)

「もうこれっきりです、決してもうあんなことはしません、

(みていてください、わたしはきっとおこうをしあわせにします」)

見ていて下さい、私はきっとお孝を仕合せにします」

(かれはうででめをおおった。むせびなきのこえがかれののどをついてもれた。)

彼は腕で眼をおおった。咽び泣きの声が彼の喉をついてもれた。

(ずっととおくで、ひのばんのきのおとがさえてきこえた。)

ずっと遠くで、火の番の柝の音が冴えて聞えた。

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