ちくしょう谷 ②
そこには兄の仇の西沢半四郎がいた。
関連タイピング
-
プレイ回数10万歌詞200打
-
プレイ回数4275かな314打
-
プレイ回数96万長文かな1008打
-
プレイ回数3.2万歌詞1030打
-
プレイ回数25長文かな1546打
-
プレイ回数2370歌詞かな1185打
-
プレイ回数1.8万長文かな102打
-
プレイ回数4.8万長文かな316打
問題文
(しょういちろうはごさいになる。からだつきはちいさいが、りこうで、)
小一郎は五歳になる。躯つきは小さいが、りこうで、
(たいへんなあばれんぼうだった。そのてんはちちのおりべよりも、)
たいへんな暴れん坊だった。その点は父の織部よりも、
(はやとのようじににているらしい、ちじんからよくむかしのはやとにそっくりだといわれた。)
隼人の幼時に似ているらしい、知人からよく昔の隼人にそっくりだと云われた。
(じゅうがつになってから、はやとはうめはらけへたずねてゆき、)
十月になってから、隼人は梅原家へ訪ねてゆき、
(ないだんのあったこんやくをかいしょうしてもらった。うめはらたのもは)
内談のあった婚約を解消してもらった。梅原頼母は
(ごひゃくさんじゅっこくのよりあいやくきもいりで、こいけたてわきのうわやくにあたるが、)
五百三十石の寄合役肝入で、小池帯刀の上役に当るが、
(はやとのこうじょうにはいちおうはんたいし、こちらはまってもよいといった。)
隼人の口上にはいちおう反対し、こちらは待ってもよいと云った。
(はやとはしょういちろうがじゅうごさいになるまでけっこんはしないつもりであるし、)
隼人は小一郎が十五歳になるまで結婚はしないつもりであるし、
(じゅうねんもまってもらうのはじぶんとしてたえられないからといい、)
十年も待ってもらうのは自分として耐えられないからと云い、
(うめはらでもようやくしょうちした。そのすぐあとのことである。)
梅原でもようやく承知した。そのすぐあとのことである。
(けいこがおわってどうじょうからかえるとちゅう、さいとうまたべえによびとめられた。)
稽古が終って道場から帰る途中、斎藤又兵衛に呼びとめられた。
(それまでつきあいもなく、もちろんくちをきいたこともなかったが、)
それまでつきあいもなく、もちろん口をきいたこともなかったが、
(かおだけはしっていたので、またべえだということはすぐにわかった。)
顔だけは知っていたので、又兵衛だということはすぐにわかった。
(「しっています」あいてがなのるのをきいてから、)
「知っています」相手がなのるのを聞いてから、
(はやとはいった、「なにかようですか」はやとのめには、)
隼人は云った、「なにか用ですか」隼人の眼には、
(りょうしんのないちのみごをみるような、やさしくふかいいろがたたえられた。)
両親のない乳呑み子を見るような、やさしく深い色がたたえられた。
(「あるきながらはなしましょう」とさいとうはいった、)
「歩きながら話しましょう」と斎藤は云った、
(「きたのばばまでいってくれませんか」「いや」とはやとはおだやかにこばんだ、)
「北の馬場までいってくれませんか」「いや」と隼人は穏やかに拒んだ、
(「わたしはかえっておいのべんきょうをみなければなりません、はなしがあるなら)
「私は帰って甥の勉強をみなければなりません、話があるなら
(ここでききましょう」「あるいてください」とさいとうがいった、)
ここで聞きましょう」「歩いて下さい」と斎藤が云った、
(「じつはあなたがたずねていらっしゃるだろうとおもって、まっていたのです」)
「じつは貴方が訪ねていらっしゃるだろうと思って、待っていたのです」
(はやとはあるいてゆきながら、しょうめんをみたまま「どうして」とはんもんした。)
隼人は歩いてゆきながら、正面を見たまま「どうして」と反問した。
(「あのはたしあいのことで」とさいとうがくちごもりながらいった、)
「あのはたしあいのことで」と斎藤が口ごもりながら云った、
(「わたしになにかききたいことがあるのじゃあありませんか」)
「私になにか訊きたいことがあるのじゃあありませんか」
(はやとはさんぽほどあるいてからいった、「あのことははっきり)
隼人は三歩ほど歩いてから云った、「あの事ははっきり
(しまつがついているとききました、そうではなかったんですか」)
始末がついていると聞きました、そうではなかったんですか」
(「それはそうですが、しかし、」さいとうはおちつかないようすで、せきをした、)
「それはそうですが、しかし、」斎藤はおちつかないようすで、咳をした、
(「そうするとあなたは、あのはたしあいについてぎねんをもってはいないんですね」)
「そうすると貴方は、あのはたしあいについて疑念を持ってはいないんですね」
(はやとはふりむいてあいてをみた。そのめはやはりやさしそうなふかいいろをたたえていた。)
隼人は振向いて相手を見た。その眼はやはりやさしそうな深い色を湛えていた。
(「ぎねんをのこすようなことがあったのですか」とはやとがききかえした。)
「疑念を残すようなことがあったのですか」と隼人が訊き返した。
(「いや、そうではない、そういういみではありませんが」)
「いや、そうではない、そういう意味ではありませんが」
(とさいとうはくちびるをひきしめ、それからつづけた、)
と斎藤は唇をひき緊め、それから続けた、
(「わたしはたちあいにんでしたから、そのせきにんのうえからも、あのときのようすを)
「私は立会い人でしたから、その責任の上からも、あのときのようすを
(はっきりはなしておきたいとおもったのです」)
はっきり話しておきたいと思ったのです」
(「それはよだろうしょくにはなされたのでしょう」)
「それは与田老職に話されたのでしょう」
(「そうです」さいとうのひたいにあせがにじみでた、「しさいをもうしあげたうえ、)
「そうです」斎藤の額に汗がにじみ出た、「仔細を申上げたうえ、
(きたのばばへいってじっちのけんしもしてもらいました、)
北の馬場へいって実地の検視もしてもらいました、
(そうそう、そのときはこいけさんもどうどうされたのです」)
そうそう、そのときは小池さんも同道されたのです」
(「それでもまだ、なにかはなしたいことがあるんですか」)
「それでもまだ、なにか話したいことがあるんですか」
(「いや、そうではありません、わたしはただ」さいとうのひたいからあせがしたたりおちた、)
「いや、そうではありません、私はただ」斎藤の額から汗がしたたり落ちた、
(「もしかしてあなたが、なにかぎねんをもっているのではないかとおもったのです、)
「もしかして貴方が、なにか疑念を持っているのではないかと思ったのです、
(それでいちどあなたにも、そのばのようすをはなしておきたかったものですから」)
それでいちど貴方にも、その場のようすを話しておきたかったものですから」
(「わかりました」とはやとはいった、「ようはそれだけですか」)
「わかりました」と隼人は云った、「用はそれだけですか」
(「それだけですが」とさいとうはくちごもるようにいった、)
「それだけですが」と斎藤は口ごもるように云った、
(「わたしにもなっとくのいかないことは、どうしてはたしあいをしなければ)
「私にも納得のいかないことは、どうしてはたしあいをしなければ
(ならなかったかというてんです、あさださんはなにもおっしゃらなかったし、)
ならなかったかという点です、朝田さんはなにも仰らなかったし、
(にしざわもかたくくちをつぐんでいるものですから」)
西沢も固く口をつぐんでいるものですから」
(はやとはだまっていた。まださいとうのことばがつづくものとおもったのだろう、)
隼人は黙っていた。まだ斎藤の言葉が続くものと思ったのだろう、
(しかしさいとうはまた、はやとがなにかいうのをきたいするようすで、)
しかし斎藤はまた、隼人がなにか云うのを期待するようすで、
(ごくみじかいあいだだったが、ばつのわるいちんもくがはさまり、)
ごく短いあいだだったが、ばつの悪い沈黙がはさまり、
(さいとうまたべえのかおにばつのわるそうなひょうじょうがうかんだ。)
斎藤又兵衛の顔にばつの悪そうな表情がうかんだ。
(「まだなにかありますか」とはやとがきいた。)
「まだなにかありますか」と隼人が訊いた。
(「いや、どうぞ」とさいとうはあわててえしゃくした、「おひまをとらせてしつれいしました」)
「いや、どうぞ」と斎藤は慌てて会釈した、「お暇をとらせて失礼しました」
(ひのたつにしたがって、かちゅうのひとたちははやとのせいかくのかわったことにきづいた。)
日の経つにしたがって、家中の人たちは隼人の性格の変ったことに気づいた。
(かれのしょうねんじだいはたんきなあばれものだったし、にじゅうさんさいでけんじゅつどうじょうの)
彼の少年時代は短気な暴れ者だったし、二十三歳で剣術道場の
(じょきょうになってからも、けいこぶりははげしくようしゃのないやりかたで、)
助教になってからも、稽古ぶりは烈しく容赦のないやりかたで、
(ほんしんからそのみちをまなぼうとするものでないかぎり、)
本心からその道をまなぼうとする者でない限り、
(とうていついてゆけるものではなかった。きょうとうのよこぶちじゅうくろうが)
とうていついてゆけるものではなかった。教頭の横淵十九郎が
(かれをじぶんのこうにんにおし、やぎゅうけでめんきょをとるように、)
彼を自分の後任に推し、柳生家で免許を取るように、
(えどへゆくだんどりをつけたのは、うでのしゅぎょうよりも、)
江戸へゆく段取をつけたのは、腕の修業よりも、
(せいかくのとうやがもくてきであったらしい。もしそうだとすれば、)
性格の陶冶が目的であったらしい。もしそうだとすれば、
(わずかいちねんよじつでそのもくてきはたっせられたといえるし、)
僅か一年余日でその目的は達せられたといえるし、
(むしろよきいじょうだったということができるだろう。)
むしろ予期以上だったということができるだろう。
(あさだはかおつきまでかわった。かちゅうのひとたちはそうひょうしあうようになった。)
朝田は顔つきまで変った。家中の人たちはそう評しあうようになった。
(どうじょうでのけいこぶりもずっとおだやかになり、じょうずなものよりも)
道場での稽古ぶりもずっと穏やかになり、上手な者よりも
(へたなもののほうにじかんをかけ、てをとっておしえるというふうな、)
下手な者のほうに時間をかけ、手を取って教えるというふうな、
(にゅうねんなやりかたにかわった。するとしぜんに、しゅういのじじょうも)
入念なやりかたに変った。するとしぜんに、周囲の事情も
(すこしずつへんかがおこり、いぜんにはけいえんしていたようなひとたちまでが、)
少しずつ変化が起こり、以前には敬遠していたような人たちまでが、
(かれにちかづいてきはじめ、どうじょうのもんじんなどをいれると)
彼に近づいて来はじめ、道場の門人などをいれると
(ごにんからじゅうにんくらいのものが、まいばんのようにはやとのじゅうきょへあつまってきた。)
五人から十人くらいの者が、毎晩のように隼人の住居へ集まって来た。
(さけをのんできえんをあげるとか、けんぽうについてこうわをする)
酒を飲んで気焔をあげるとか、剣法について講話をする
(というわけではない。ちゃをすすりかしをつまみながら、)
というわけではない。茶を啜り菓子をつまみながら、
(はなしたいものはかってにはなすし、ききたいものはきいていればいい、)
話したい者は勝手に話すし、聞きたい者は聞いていればいい、
(ぎろんのはじまることもあるし、それがこうじてけんかになりかかるばあいもある。)
議論の始まることもあるし、それが昂じて喧嘩になりかかる場合もある。
(しかしはやとがひとことなにかいうと、それだけでぎろんにけりがつき、)
しかし隼人がひと言なにか云うと、それだけで議論にけりがつき、
(ざはまたなごやかなくうきにもどる、というぐあいであった。)
座はまたなごやかな空気に戻る、というぐあいであった。
(りょうしんのないちのみごをみるような、やわらかなあたたかみのあるはやとのめをみ、)
両親のない乳呑み子を見るような、やわらかな温かみのある隼人の眼を見、
(くちかずすくなにゆっくりとはなすはやとのこえをきき、しずかなりきかんのあふれた)
口数少なにゆっくりと話す隼人の声を聞き、静かな力感のあふれた
(はやとのからだをみぢかくにかんじていれば、それでかれらは)
隼人の躯を身近くに感じていれば、それでかれらは
(まんぞくするもののようであった。)
満足するもののようであった。