ちくしょう谷 12
そこには兄の仇の西沢半四郎がいた。
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問題文
(はやとはふっとふりかえった。くらのほうで、はとのなくような、)
隼人はふっと振返った。倉のほうで、鳩の鳴くような、
(おんなのふくみわらいがきこえたのである。ついでなにかのものおとがし、)
女の含み笑いが聞えたのである。ついでなにかの物音がし、
(またおなじふくみわらいがきこえた。はやとはそっちへあるいていった。)
また同じ含み笑いが聞えた。隼人はそっちへ歩いていった。
(ながやとははんたいがわにあたる、やくどころのたてもののきたがわを、)
長屋とは反対側に当る、役所の建物の北側を、
(うらのほうへまわってゆくと、わらごやのそとにひとかげがみえた。)
裏のほうへまわってゆくと、藁小屋の外に人影が見えた。
(そのこやはくらのわきにあり、なわやむしろやつななどがおいてある。)
その小屋は倉の脇にあり、繩やむしろや綱などが置いてある。
(ひとかげはひとつにみえたが、それはあおじろいげっこうのなかでだきあっており、)
人影は一つに見えたが、それは青白い月光の中で抱きあっており、
(おとことおんなであることがはやとのめにわかったとき、)
男と女であることが隼人の眼にわかったとき、
(ふたりはだきあったまま、わらごやのなかへはいっていった。)
二人は抱きあったまま、藁小屋の中へはいっていった。
(はやとはしずかにちかよっていった。)
隼人は静かに近よっていった。
(こやのなかから、おんなのふくみわらいがきこえ、それがひそめたさけびごえになり、)
小屋の中から、女の含み笑いが聞え、それがひそめた叫び声になり、
(おとこのふといのどごえがなにかいった。はやとはこやのとぐちのわきにたった。)
男の太い喉声がなにか云った。隼人は小屋の戸口の脇に立った。
(「おれはあさだはやとだ」とかれはひくいこえでよびかけた、)
「おれは朝田隼人だ」と彼は低い声で呼びかけた、
(「きこえるか」こやのなかがしんとなった。)
「聞えるか」小屋の中がしんとなった。
(「わたしはどちらのかおもみていない」とかれはまたいった、)
「私はどちらの顔も見ていない」と彼はまた云った、
(「もちろんだれであるかわからないし、しりたいともおもわない、)
「もちろん誰であるかわからないし、知りたいとも思わない、
(だが、こんごこういうことはかたくきんずる、ふたりともでてゆけ、)
だが、今後こういうことは固く禁ずる、二人とも出てゆけ、
(わたしはおまえたちをみない」はやとはそらをみあげた。)
私はおまえたちを見ない」隼人は空を見あげた。
(こやのなかでものおとがし、すぐにひとがでてきた。ぞうりをはいているのだろう、)
小屋の中で物音がし、すぐに人が出て来た。草履をはいているのだろう、
(あしおとはしなかったが、あらいこきゅうがきこえ、それがすばやく、)
足音はしなかったが、荒い呼吸が聞え、それがすばやく、
(ながやのほうへさっていった。つきをみあげているはやとのかおに、)
長屋のほうへ去っていった。月を見あげている隼人の顔に、
(やがてかいこんのようなひょうじょうがうかび、そのめにはいつものあの、)
やがて悔恨のような表情がうかび、その眼にはいつものあの、
(おやのないえいじをみるような、あたたかくふかいいろがたたえられた。)
親のない嬰児を見るような、温かく深い色が湛えられた。
(あくるひ、はやとはきどのものをぜんぶあつめて、むらのおんなと)
明くる日、隼人は木戸の者をぜんぶ集めて、村の女と
(かかわりをもつことをきんじた。「わたしははんこうのどうじょうでじょきょうをしていた」)
かかわりをもつことを禁じた。「私は藩校の道場で助教をしていた」
(かれはすぐにはなしをかえた、「ほねがかたくなってはいけないから、)
彼はすぐに話を変えた、「骨が固くなってはいけないから、
(からだがよくなったらくみたちでもやってみたい、よかったら)
躯がよくなったら組み太刀でもやってみたい、よかったら
(おまえたちもやらないか、ひとあせかくとさっぱりするぞ」)
おまえたちもやらないか、一と汗かくとさっぱりするぞ」
(「それはありがたいですが」おのだいくろうというばんしがいった、)
「それは有難いですが」小野大九郎という番士が云った、
(「ここにはどうぐがなにもないんです」)
「ここには道具がなにもないんです」
(「ぼっけんをさんぼんもってきてある」とかれはいった、)
「木剣を三本持って来てある」と彼は云った、
(「くみたちだけならどうぐはいらないが、こんげつからつきびんがあるから、)
「組み太刀だけなら道具は要らないが、今月から月便があるから、
(どうぐをとりよせてけいこをしてもいいな」)
道具を取りよせて稽古をしてもいいな」
(「いいですね」とにしざわはんしろうがのりきをみせていった、)
「いいですね」と西沢半四郎が乗り気をみせて云った、
(「あさださんのきょうじゅならねがってもないことです、ぜひそうしていただきましょう」)
「朝田さんの教授なら願ってもないことです、ぜひそうして頂きましょう」
(はやとはにしざわをみた。いしころかもくへんでもみるようなめつきで、)
隼人は西沢を見た。石ころか木片でも見るような眼つきで、
(それからあしがるたちのほうへふりむき、あしがるもこものたちも)
それから足軽たちのほうへ振向き、足軽も小者たちも
(のぞみがあればいっしょにやれ、といった。)
望みがあればいっしょにやれ、と云った。
(しがつからくがつまで、「つきびん」といって、つきにいちどじょうかとれんらくをとる。)
四月から九月まで、「月便」といって、月にいちど城下と連絡をとる。
(このあいだにしょくりょうやひつようなぶっしをはこびあげるのだが、みちがけわしく、)
このあいだに食糧や必要な物資を運びあげるのだが、道が嶮しく、
(きけんやこんなんがおおいにもかかわらず、ばんしたちはじょうかまちへゆける)
危険や困難が多いにもかかわらず、番士たちは城下町へゆける
(というだけで、いつもこのやくをうばいあうということであった。)
というだけで、いつもこの役を奪いあうということであった。
(しがつじゅうはちにちのあさ、はやとはまたるにんむらへいった。このときもおかむらしちろうべえが)
四月十八日の朝、隼人はまた流人村へいった。このときも岡村七郎兵衛が
(ついてき、それにはおよばないといってもきかなかった。)
ついて来、それには及ばないと云ってもきかなかった。
(「あなたはかれらになれたとおもっているんでしょう」とおかむらはいった、)
「貴方はかれらに馴れたと思っているんでしょう」と岡村は云った、
(「たしかに、しょうないろうじんのところであったれんちゅうはあなたにこういをもったようです、)
「慥かに、正内老人のところで会った連中は貴方に好意をもったようです、
(しかしあれはあのときだけのことで、ながつづきはしやあしません、)
しかしあれはあのときだけのことで、なが続きはしやあしません、
(むらのにんげんはかんがえることもすることもしょうどうてきで、ひとつのかんじょうをじぞくするとか、)
村の人間は考えることもすることも衝動的で、一つの感情を持続するとか、
(あるしごとにうちこむというようなことができないんです、)
或る仕事にうちこむというようなことができないんです、
(きどのものにたいしてはねのふかい、それこそほんのうのようなおそれとぞうおを)
木戸の者に対しては根の深い、それこそ本能のような怖れと憎悪を
(もっていますが、そのためにみんながいっちしてなにかするということもない、)
もっていますが、そのためにみんなが一致してなにかするということもない、
(ひとりひとりがばらばらで、よこのつながりというものがまるでないんです」)
一人一人がばらばらで、横のつながりというものがまるでないんです」
(「ずいぶんくわしいじゃないか」「なに、めとみみがあれば)
「ずいぶん詳しいじゃないか」「なに、眼と耳があれば
(だれにだってわかりますよ」そういって、おかむらはちょうしをかえた、)
誰にだってわかりますよ」そう云って、岡村は調子を変えた、
(「このあいだいったことはほんとうにやるつもりですか」「くみたちか」)
「このあいだ云ったことは本当にやるつもりですか」「組み太刀か」
(「いや、むらのおんなについてのことです」)
「いや、村の女についてのことです」
(はやとはしばらくあるいてからこたえた、「やるつもりのないことをきんずるとおもうか」)
隼人は暫く歩いてから答えた、「やるつもりのないことを禁ずると思うか」
(「よくおかんがえになったでしょうね」「ここのせいかつはつらい」とはやとがいった、)
「よくお考えになったでしょうね」「ここの生活は辛い」と隼人が云った、
(「それはよくわかっているが、おれとにしざわのほかはみないちねんでばんがあく、)
「それはよくわかっているが、おれと西沢のほかはみな一年で番があく、
(それでなくとも、きどづめをめいぜられるのは、だいなりしょうなりしっさくのあったもので、)
それでなくとも、木戸詰を命ぜられるのは、大なり小なり失策のあった者で、
(いわばいっしゅのしょばつなんだから、いちねんぐらいのしんぼうができないわけはないはずだ」)
いわば一種の処罰なんだから、一年ぐらいの辛抱ができないわけはない筈だ」
(「りくつはそのとおりですがね、ええ」とおかむらがいった、)
「理屈はそのとおりですがね、ええ」と岡村が云った、
(「こっちはそれでおさえられても、むらのおんなたちのほうがもんだいです、)
「こっちはそれで押えられても、村の女たちのほうが問題です、
(わたしはきょねんのしちがつにきて、ふゆになるまでいろいろなけいけんをしました、)
私は去年の七月に来て、冬になるまでいろいろな経験をしました、
(きどのものにもそうとうなやつがいますが、むらのおんなたちにくらべると)
木戸の者にも相当なやつがいますが、村の女たちに比べると
(まだおとなしいほうです、いや、はなすことはできません、)
まだおとなしいほうです、いや、話すことはできません、
(わたしがはなすまでもなく、もうすぐあさださんじしんのめでみることになりますよ」)
私が話すまでもなく、もうすぐ朝田さん自身の眼で見ることになりますよ」
(「しょうないろうじんのことをなにかしっているか」きゅうにわだいがかわったので、)
「正内老人のことをなにか知っているか」急に話題が変ったので、
(おかむらしちろうべえはきをぬかれたとみえ、すぐにはへんじをしなかった。)
岡村七郎兵衛は気をぬかれたとみえ、すぐには返辞をしなかった。
(「なるほど」とやがておかむらはうなずいた、「ろうじんとはなしあうおつもりですね、)
「なるほど」とやがて岡村は頷いた、「老人と話しあうおつもりですね、
(いいごしあんのようだがそれもだめです、ろうじんはそういうことについて、)
いい御思案のようだがそれもだめです、老人はそういうことについて、
(これまでできるかぎりやってみたようですからね」)
これまでできる限りやってみたようですからね」
(「ろうじんがどういうすじょうのものかときいているんだ」はやとはといかえすような)
「老人がどういう素姓の者かと訊いているんだ」隼人は問い返すような
(おかむらのめに、くびをふっていった、「いや、あのひとのなはにんべつちょうには)
岡村の眼に、首を振って云った、「いや、あの人の名は人別帳には
(のっていないんだ」「すると、どういうことになるんですか」)
のっていないんだ」「すると、どういうことになるんですか」
(「それがしりたいんだ、なにかきいたことはないか」)
「それが知りたいんだ、なにか聞いたことはないか」