ちゃん 山本周五郎 ⑥

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重吉は腕の良い火鉢職人。時世の流れで仕事が減ってきている。
今夜も酒を飲んで帰宅する重吉を妻と子が迎える。
すでに独立した仲間の職人が相談に乗ろうとするが・・・

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問題文

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(しげきちははぜのつくだにととうふじるでさけをのみ、よしきちはめしをたべた。)

重吉ははぜの佃煮と豆腐汁で酒を飲み、良吉は飯をたべた。

(かれはどじょうじるのおかわりをし、たっしゃにたべながら、やすみなしにはなした。)

彼は泥鰌汁のお代りをし、たっしゃにたべながら、休みなしに話した。

(ちちおやにおごっていることよりも、ちちおやとふたりで、つまりおとこどうしで)

父親におごっていることよりも、父親と二人で、つまり男同志で

(そうしていることに、ほこりとまんぞくをかんじているようであった。)

そうしていることに、誇りと満足を感じているようであった。

(かれはやがてじぶんのやるしだしさかなやについてかたり、あわじやのだんなについてかたり、)

彼はやがて自分のやる仕出し魚屋について語り、淡路屋の旦那について語り、

(うおまさのおやかたについてかたった。どっちもしげきちにはしらないなだったが、)

魚政の親方について語った。どっちも重吉には知らない名だったが、

(とにかくあわじやのだんなはよしきちがひいきで、かれがみせをもつときには)

とにかく淡路屋の旦那は良吉が贔屓で、彼が店を持つときには

(しきんをかす、というやくそくになっているというし、うおまさのおやかたは)

資金を貸す、という約束になっているというし、魚政の親方は

(しだしりょうりのこつをおしえてくれるそうであった。)

仕出し料理のこつを教えてくれるそうであった。

(「いまにらくをさせるぜ、ちゃん」とよしきちはかおをあかくしていった、)

「いまに楽をさせるぜ、ちゃん」と良吉は顔を赤くして云った、

(「もうご、ろくねんのしんぼうだ、もうちっとのまだ、いまにおれがみせをもったら)

「もう五、六年の辛抱だ、もうちっとのまだ、いまにおれが店を持ったら

(らくをさせるよ、ほんとだぜ、ちゃん」)

楽をさせるよ、ほんとだぜ、ちゃん」

(しげきちはうれしそうにびしょうし、うん、うんとうなずいていた。)

重吉はうれしそうに微笑し、うん、うんとうなずいていた。

(それがさんがつはじめのことで、まもなくじゅうよっかがきた。そのゆうがたおそく、)

それが三月はじめのことで、まもなく十四日が来た。その夕方おそく、

(もうともしがついてからしげきちはおちょうのみせにあらわれ、ほんのにほんだけのんで、)

もう灯がついてから重吉はお蝶の店にあらわれ、ほんの二本だけ飲んで、

(たまっているかりのぶんにいくらかはらい、それから「げんぺい」へよった。)

溜まっている借の分に幾らか払い、それから「源平」へ寄った。

(おちょうへゆくまえに、かれはもうのんでいたのだ。おみせでうけとったかんじょうが、)

お蝶へゆくまえに、彼はもう飲んでいたのだ。お店で受取った勘定が、

(よていのはんぶんたらずだった。あるじはいいわけをいったが、)

予定の半分たらずだった。主人は云い訳を云ったが、

(ようするにごとうひばちではもうからない、ということであり、)

要するに五桐火鉢では儲からない、ということであり、

(うれただけのぶばらいということであった。くそくらえ、としげきちはおもった。)

売れただけの分払いということであった。くそくらえ、と重吉は思った。

など

(かってにしゃあがれ、そっちがそうでるなら、こっちもこっちだ。)

勝手にしゃあがれ、そっちがそう出るなら、こっちもこっちだ。

(こうなったら、どろぼうにでもなんでもなってやる、おしこみにだってなってやる、)

こうなったら、泥棒にでもなんでもなってやる、押込みにだってなってやる、

(みていやあがれとおもい、「ごとう」のみせをでるなり、みかけるさかやへよって)

みていやあがれと思い、「五桐」の店を出るなり、見かける酒屋へ寄って

(たちのみをした。さんけんでれいしゅのぐいのみをし、おちょうのところに)

立ち飲みをした。三軒で冷酒のぐい飲みをし、お蝶のところに

(さっときりあげたが、「げんぺい」へいってからよいがでた。)

さっときりあげたが、「源平」へいってから酔いが出た。

(じぶんではよいがでたとは、きがつかなかった。かんじょうびのゆうがただから)

自分では酔いが出たとは、気がつかなかった。勘定日の夕方だから

(きゃくがこんでいて、そのなかにひとり、しげきちのめをひくおとこがあった。)

客が混んでいて、その中に一人、重吉の眼を惹く男があった。

(としはしじゅうご、ろくだろう、くたびれたしるしはんてんにももひきで、)

年は四十五、六だろう、くたびれた印半纒に股引で、

(すりきれたようなあさうらをはいている。かおもからだつきも、やせて、)

すり切れたような麻裏をはいている。顔も躯つきも、痩せて、

(ひんそうで、つきだしのつまみものだけをさかなに、ちいさくなってのんでいた。)

貧相で、つきだしの摘み物だけを肴に、小さくなって飲んでいた。

(しげきちはむねのおくがきりきりとなった。そのきゃくはこのみせがはじめてらしいし、)

重吉は胸の奥がきりきりとなった。その客はこの店が初めてらしいし、

(じぶんがばちがいだとさとっているらしく、たえずおどおどとさゆうをみながら、)

自分が場違いだと悟っているらしく、絶えずおどおどと左右を見ながら、

(みをすくめるようにしてのんでいた。しげきちはそのおとこがじぶんじしんのようにおもえた。)

身をすくめるようにして飲んでいた。重吉はその男が自分自身のように思えた。

(となりのきゃくにはなしかけるゆうきもなく、ちいさくなって、)

隣りの客に話しかける勇気もなく、小さくなって、

(いっぽんのさけをさもだいじそうになめているかっこうは、そのまま、)

一本の酒をさも大事そうになめている恰好は、そのまま、

(いまのじぶんをうつしてみせられるようなかんじだった。)

いまの自分を写して見せられるような感じだった。

(「おかみさん」とかれはおくにをよんだ、「おくをかりてもいいか」)

「おかみさん」と彼はおくにを呼んだ、「奥を借りてもいいか」

(「ええどうぞ、そうぞしくってごめんなさい」「そうじゃねえ、)

「ええどうぞ、そうぞしくってごめんなさい」「そうじゃねえ、

(あのきゃくとのみてえんだ」としげきちはあごをしゃくった、)

あの客と飲みてえんだ」と重吉はあごをしゃくった、

(「うん、あのきゃくだ、おれはさきにあがってるから、すまねえがよんでくんねえか」)

「うん、あの客だ、おれは先にあがってるから、済まねえが呼んでくんねえか」

(「だってしげさんしらないかおよ」「いいからたのむ」といってかれは)

「だって重さん知らない顔よ」「いいから頼む」と云って彼は

(ふところをおさえた、「きょうはすこしおいてゆくから」おくにはにらんで、)

ふところを押えた、「今日は少し置いてゆくから」おくにはにらんで、

(「そんなことをいうと、うちのがおこるわよ」といった。)

「そんなことを云うと、うちのが怒るわよ」と云った。

(しげきちはおくへあがった。おくにはてばやくさけさかなをはこび、)

重吉は奥へあがった。おくには手早く酒肴をはこび、

(したくができるとおとこをよんだ。おとこはひくつにきょうしゅくしたが、)

支度ができると男を呼んだ。男は卑屈に恐縮したが、

(それでもあがってきてぜんのむこうへすわり、いかにもうれしそうにさかずきをうけた。)

それでもあがって来て膳の向うへ坐り、いかにもうれしそうに盃を受けた。

(そして、よんほんめのさけをあけたとき、しげきちはたまりかねていった。)

そして、四本めの酒をあけたとき、重吉はたまりかねて云った。

(「そのおやかたってのをよしてくれ、おれはしげきちっていうんだ、)

「その親方ってのをよしてくれ、おれは重吉っていうんだ、

(たのむからなまえをよんでくれ、それに」とかれはあいてをみた、)

頼むから名前を呼んでくれ、それに」と彼は相手を見た、

(「そうかしこまってばかりいちゃあさけがまずくなる、もっとざっくばらんに)

「そうかしこまってばかりいちゃあ酒がまずくなる、もっとざっくばらんに

(やってくんな」おとこはあいそわらいをし、あたまをかいた、「すみません、あっしは)

やってくんな」男はあいそ笑いをし、頭をかいた、「済みません、あっしは

(きすけってもんです、おきにさわったらかんべんしておくんなさい」)

喜助ってもんです、お気に障ったら勘弁しておくんなさい」

(「それがかしこまるってんだ、もっとらくにやれねえのかい」)

「それがかしこまるってんだ、もっと楽にやれねえのかい」

(そのじぶんはもうよいがでていたのだ。)

そのじぶんはもう酔いが出ていたのだ。

(きすけというおとこはかれを「しげさんのおやかた」とよび、きげんをとるつもりだろう、)

喜助という男は彼を「重さんの親方」と呼び、きげんをとるつもりだろう、

(じぶんのふうんと、せいかつのくるしいことをはなした。しげきちのあれたあたまは)

自分の不運と、生活の苦しいことを話した。重吉の荒れた頭は

(べつのかんがえにとらわれていて、きすけのはなすことはほとんど、)

べつの考えにとらわれていて、喜助の話すことはほとんど、

(うけつけなかったが、こどもがさんにんあること、ひとりはうまれたばかりだし、)

うけつけなかったが、子供が三人あること、一人は生れたばかりだし、

(にょうぼうはさんごのひだちがわるく、まだねたりおきたりしていること、)

女房は産後の肥立ちが悪く、まだ寝たり起きたりしていること、

(かれにはていしょくがなく、そのひそのひのてまどりをしているが、)

彼には定職がなく、その日その日の手間取りをしているが、

(あぶれるひがおおく、こどもたちにいもがゆをくわせることも)

あぶれる日が多く、子供たちに芋粥を食わせることも

(できないようなひがあること、そしてあんがいにとしがわかく、)

できないような日があること、そして案外に年が若く、

(まださんじゅうろくだということなどが、ぼんやりとみみにのこった。)

まだ三十六だということなどが、ぼんやりと耳に残った。

(「こんなことがつづくんなら」ときすけはとりいるようにわらって、いった、)

「こんなことが続くんなら」と喜助はとりいるように笑って、云った、

(「いっそどろぼうでもするか、にょうぼこをころして、てえめもしんじめえてえと)

「いっそ泥棒でもするか、女房子を殺して、てめえも死んじめえてえと

(おもいますよ」「しゃれたことういいなさんな」としげきちはあたまをぐらぐらさせた、)

思いますよ」「しゃれたことう云いなさんな」と重吉は頭をぐらぐらさせた、

(「どろぼうになりてえのはこっちのこった、どろぼう」といって、)

「泥棒になりてえのはこっちのこった、泥棒」と云って、

(しげきちはぐいとかおをあげた、「どろぼうだって、だれがどろぼうだ、どろぼうたあだれのこった」)

重吉はぐいと顔をあげた、「泥棒だって、誰が泥棒だ、泥棒たあ誰のこった」

(「あんたよってるんだ、しげさんのおやかた」「おい、ほんとのことをいおうか」)

「あんた酔ってるんだ、重さんの親方」「おい、ほんとのことを云おうか」

(しげきちはすわりなおした、「ほんとのことをいっていいか」)

重吉は坐り直した、「ほんとのことを云っていいか」

(「よござんすとも」きすけはつばをのんだ、「ほんとのことをいってください、)

「よござんすとも」喜助は唾をのんだ、「ほんとのことを云って下さい、

(うかがいますから」「おれはね、しげきちってえもんだ」)

うかがいますから」「おれはね、重吉ってえもんだ」

(かれはすわりなおしたひざをかたくし、そこへりょうてのこぶしをつっぱっていった、)

彼は坐り直した膝を固くし、そこへ両手の拳をつっぱって云った、

(「りょうがえちょうのごとうのみせで、こがいからそだったしょくにんだ、はばかりながら、)

「両替町の五桐の店で、子飼いから育った職人だ、はばかりながら、

(ごとうひばちをつくらせたら、だれにもひけはとらねえ、おめえ、それをうたがうか」)

五桐火鉢を作らせたら、誰にもひけはとらねえ、おめえ、それを疑うか」

(「とんでもねえ」ときすけはいそいでくびをふった、)

「とんでもねえ」と喜助はいそいで首を振った、

(「そんなことはちゃんとせけんでしってますよ」しげきちはさかずきをとってのんだ。)

「そんなことはちゃんと世間で知ってますよ」重吉は盃を取って飲んだ。

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